節制
先生はそう言うなり、出て行ってしまった。
結局、店は臨時休業にして、ここのママと一緒に色々と当たってみるらしい。
私は自動的にお留守番ということになった。
「名前のないカードさ」
フワフワ浮かびながらピエロが呟いた。
「知ってるよ」
タロットカードの十三番は、ウェイト版の登場以降、死神と呼ばれることが多いが、本来のマルセイユ版では名前が付けられていない。
「勝手に死神などという名前を付けるなよ」
相変わらずニヤニヤしているピエロを無視して、私は年上のガールフレンドに電話を掛けることにした。
日曜日に娘がここに来ていたという事実が分かったのだから、そのことだけでも母親に知らせてやろうと思ったのだ。
自分の携帯から彼女の携帯に掛ける。しかし、呼び出し音が数回鳴っただけで、切れてしまった。留守番電話にもならない。
「おかしいな」
今度は店の電話を使って、彼女の自宅に掛ける。
もし万が一、旦那が帰っていていたとしても、明日の事務連絡ということにしておけばいい。
だが、やはりこちらも呼び出し音が数回鳴っただけで切れた。
「どういうことだ?」
電話自体は生きているようだ。電波の届かないところにいるのでもなさそうだし、留守にしているわけでもなさそうである。
「まあ、落ち着けよ。君はいつだって性急すぎる。何にだって真面目すぎるのさ。人生にはもっとバランスが必要だよ」
そう言って、そいつはテーブルの上に置きっ放しになっていたティーセットからポットとカップを手に取った。
さっき先生たちが飲んでいたものであろうが、その使った形跡のないカップはおそらく私用に用意されたものだったのだろう。
そいつが物体を手に取ることが出来るというのも驚きだったが、もっと驚かされたことには、そいつは下から上へと、ポットの中の紅茶をカップの中へ注ぎ入れたのだ。
液体が下から上に流れていっている。
「何を……!」
「落ち着けって。僕がいる世界ではどんなことでも可能だよ。こんなことでいちいち驚いているなんて、魔術の修行が足らないんじゃないのか」
今や立場が完全に逆転していた。
最初は私がこいつをコントロールしていたのに、今ではこいつは私には持ち得ない力を持っている。
あながち、こいつらが人間をマリオネットにしてたというのも間違いではないかもしれない。私はあることに思い至った。
「知ってるんだろう、君は。娘の居場所を。娘だけでなく、どうして母親とも電話が繋がらないのか。僕と先生との関係がどうなるのか。全部、全部知っているんだろう」
「最初から言ってるだろう。僕は君のことを何でも知っている。君は今、間違った場所にいるよ」
やれやれ、という嘲りの表情を浮かべてピエロが大儀そうに言った。
自分に向けられる表情の中で、同情の次にイライラさせられる表情だ。
「教えてくれ。僕はどうなるはずだったんだ。日曜日にここに来て、先生に会って、年上のガールフレンドに会って、それで、僕等の関係は、どうなる予定だったんだ?先生とはうまくいくのか?こんな目的のためには、魔法を使ってはいけなかったのか?」
私は捲くし立てた。こうなったら、こいつとも決着をつけなくてはいけない。
こいつをこのままにしてはおけない。
もう一度こいつをエーテル世界の中に戻さなくてはいけないし、年上のガールフレンドともずるずると関係を続けてはいけないだろう。
その上で、私が先生を好きだという気持ちは真実だ。そのことを先生に伝えよう。結果がどうなってもいい。
「僕は正しいことしか言っていない。君は全く理解しない。だからヒントしか与えられない。今、君が言ったことで正しいことはたったの一つだ」
そう言うと、ピエロは急速に元いた部屋へ戻っていった。絵が飾ってある、ギャラリースペースだ。
私も急いで後を追った。
正しいことがたった一つだって? 明日の予定の中で、唯一確実なことはここに来ることだ。
だとしたら、ここで先生とも年上のガールフレンドとも会う予定ではなかったということになる。
恋の成就を目的として魔法を使うことはいけないことではない。
あいつは、私が正しく魔法を使わなかったと言った。ということは、どこかで手順を間違えたのか?
あるいは、恋の魔法を使うことは問題がないが、先生を対象としてはいけなかったということなのか?
私はギャラリースペースへと駆け込んだ。
部屋中に、禍々しい妖気のような気が漂っているような感じがした。
私にはいわゆる霊感などというものはないが、先程とは明らかに雰囲気が違っている。
これも間違った時間と場所に私がいるせいなのか?
部屋の中を見渡したが、ピエロはどこにもいなかった。
私の正面に、年上のガールフレンドが描いた絵がある。
ハッと気付いて、私は後ろを振り返った。娘が描いた絵だ。
思った通り、ピエロの部分に顔が戻っている。




