隠者
私は寒気を感じた。
季節は秋で、まだそれほど寒さを感じる時期ではない。日中は半袖でも過ごせるほどだ。
風邪を引いたのかもしれないと思った。
魔術の儀式には多大なる集中力を要する。
ここのところずっと先生を手に入れることに神経を使っていたから、気付かないうちに体力を消耗していたのかもしれなかった。
早く寝よう。日曜日の展覧会のは元気な姿で先生に会わなければ。今日が金曜日だから、明日一日ゆっくりしよう。そう思って、その日は早目に眠りについた。
私は夢を見た。暗い森の中をずっと一人で歩いている夢だった。
夢の中で私は一匹の狼になっていた。
歩いてきた時間は、生を受けてからの時間と同じだった。
随分と歩いてから、雌の狼と会った。
雌の狼は妊娠していて、腹を膨らまして横たわっていた。今にも産まれそうだった。
私の仔だろうか?と思ったが、雌の狼は静かに首を振った。
その顔は、私が眠る前に水晶の中に見た顔と同じ顔をしていた。
雌の狼は私に上に乗るように誘った。
私は長い舌で膨らんだお腹を舐めた。汗と埃の入り混じった味がした。
私が舐めたことで、出産が始まった。
赤ん坊の狼が九匹産まれた。どれも私と同じ顔をしていた。
そんな馬鹿なと私は思った。
赤ん坊の狼は赤い服を着たピエロの顔をしていなくてはいけないんだ。
どうして私の顔をしているのだろうと訝しんだが、しばらく見ているとそれは私の顔ではないような気がしてきた。
赤ん坊の狼は次々と母親の狼と交わった。
産まれたばかりなのに、彼等はどうやって交わればいいかをよく知っていた。
母狼の目から、黒い涙が流れた。
その夢を破ったのは、電話のベルの音だった。
私は携帯を枕元に置いてアラームをセットしているから、最初、アラームを解除し忘れたのだと思った。
土曜日の朝は、ずっと寝ていたいから、いつもはアラームを解除してから寝るのだが、昨日は風邪気味だったからそのまま寝てしまったらしい。
私は携帯を呪詛しながら、寝ぼけた頭でアラームを止めようとして、液晶の画面を見た。アラームではなかった。
年上のガールフレンドからだった。いつもは家の電話に掛けてくるのに、携帯に掛けてきていた。
「もしもし」
「ああ、良かった。さっきからずっと掛けていたのよ。あなた、寝てるんじゃないかと思った」
「寝てたよ。君が起こしたんだ。どうしたの?土曜日の朝だっていうのに。君は吐息で起こす趣味だと思ってたけど」
「娘がいなくなっちゃったのよ。家に帰ってきてないの」
切羽詰まった感じが電話の向こう側から伝わる。
「娘っていうと、僕の高校に通ってる君の娘かい。年頃の娘にはよくあることだよ。無断外泊くらい」
それに君の娘なんだぜ、と言いたかったが、それは言わずにおいた。
「そうじゃないのよ。無断外泊くらい今までにも何度かあったわよ。もう一週間帰ってないの。それでも一昨日までは連絡が取れたんだけど、昨日から一切連絡が取れなくなっっちゃったの。電話もメールもSNSも全部駄目なの」
やれやれ、と私は思った。どうして学生というのは平穏に過ごせないのだろう?
「学校はどうしてたの?そんなに何日も行ってなかったの?」
彼女は私の担当するクラスの中にはいない。だから学校に来ていないかどうかは分からなかった。
「だからあなたにこうして朝早くから電話しているのよ。旦那は今海外だし、学校の方には風邪をこじらせたって言ってある。ねえ、だからあなたしか頼れる人がいないのよ」
やれやれ、と私はまた思った。
「同僚に当たってみるよ。大丈夫、大事にはしない」
大事になったら私と年上のガールフレンドとの関係がバレてしまうかもしれない。
「ねえ、私があなたと時々会ってるってあの子知ってるのかしら?だからこういうことする子になっちゃったんだと思う?」
「そのことについてはまた後で考えよう。今すぐ学校に行ってみるから」
そう言って私は電話を切った。
彼女の娘は何度か見たことはある。
あの娘が品行方正だとは口が裂けても言えないが、ずっと学校に来ていないというのは只事ではない。
クラス担任の教師は事なかれ主義のいやらしい奴で顔も合わせたくはないが、確か、美術の先生が授業を担当していたはず。
私は学校に着くと、娘の登校状況を確認した。
やはりこの一週間学校に来ていない。
月曜日からだから、前回、娘の母親と会った日の翌日から来ていないことになる。
それ以外に欠席はない。無断外泊はしても、学校には来ていたようだ。
私は職員名簿から、美術の先生の携帯番号を見つけると、学校の電話を使って電話した。
私たちはまだ連絡先の交換を正式にはしていないのだ。
しかし、なんて言おう?君がクラスを担当している生徒が一人行方不明なんだけど、その母親は私の個人的な知り合いで君のカルチャースクールの生徒で、あまり大っぴらにしないで欲しいとでも言えばいいのだろうか?




