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作者: 通りすがり

会社の資料室は、いつも湿っぽい空気が漂っていた。紙の匂いに混じって、どこか鉄錆のような匂いがするのは気のせいだろうか。

中谷由佳は、今日もそこで一人ファイルを整理していた。理由は簡単。そこなら、人の『声』が少ないからだ。

彼女は他人の心が読める。ただし、読もうとしなくても、他人の強い感情が『声』として頭の中に流れ込んでくるのだ。怒り、恐怖、欲望、絶望。にじり寄るように、這い寄ってくるそれらは、日常生活を生き地獄に変えるには十分すぎた。

だからこそ、彼女は静寂を選ぶ。無感情の空間を。少なくとも、できるだけ。

だが、その日、彼の声が聴こえてしまった。

──(死ぬしかない、もう終わりだ)



声の主は、営業部の田所陽一。由佳が密かに想いを寄せていた男だった。人を惹きつける魅力があり、社内に彼に想いを寄せる女性は他にも多くいた。由佳は彼が他の女性社員と楽しそうに話をする様子に激しい嫉妬を覚えながらも、性格的に何事にも消極的なため、いつも陰から彼を見つめることしかできないでいた。

そのときに聴こえた(死ぬしかない、もう終わりだ)という声は感情が強すぎた。いつもの聴こえる通常の『声』と違い、それははっきりとした言葉となって、彼女の脳に突き刺さった。

彼の爽やかな笑顔の裏に、こんな絶望が潜んでいたなんて――。

その夜、由佳はベッドの中で一人震えていた。彼を助けたい。でも、どうすればいい。「あなたの心の声が聞こえます」などと言えば、気味悪がられるに決まっている。下手をすれば変人扱いされてしまうかもしれない。

次の日、由佳は自然を装いながら田所に声をかけた。

「最近、元気ないですよね。何か、悩んでたりとか……」

田所は一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに笑ってごまかした。

「いや、全然。元気、元気。そう見えたかな」

だめだ、彼は何も話さない。ならば、自分が探るしかない。



数日後、由佳は田所が資料室で一人残業していることを知り、偶然を装って声をかけた。

「お疲れさまです。こんな遅くまでお仕事ですか」

彼はまた笑った。だが、そのとき、由佳の頭に再び声が飛び込んできた。

──(今日こそ終わらせる。もう、限界だ)

由佳の心臓の鼓動が跳ねたように高鳴る。

「ねえ、田所さん……生きてて、楽しいことって、ありますよね」

あきらかに不自然だった。自分でもわかっていた。でも、止められなかった。

田所はふと顔をゆがめ、笑った。

「どうしたの、突然……変なこと言うね」

田所の低く乾いた笑い声は、資料室の静けさを切り裂くように由佳の耳に響いた。背筋がゾッとした。彼の瞳の奥に、今まで見たことのない深い闇が宿っているのを感じたからだ。

「楽しいこと、か……」田所は独り言のように呟いた。「さあ、どうかな。もう、そんな感情、忘れちゃったかもしれない」

由佳は息を呑んだ。彼の心の声が、絶望という名の黒い奔流となって押し寄せてくる。助けなければ。今すぐに。

「あの……何かあったんですか? 私でよければ、話を聞きます」

勇気を絞りだした精一杯の声だった。震えているのが自分でもわかった。

田所はゆっくりと顔を上げた。その表情は、先ほどの歪んだ笑みから一変し、空っぽだった。まるで抜け殻のようだ。

「君に話したところで、どうなる」

その声は、ひどく疲れていた。生気が感じられない。

「少しでも、楽になるかもしれません。一人で抱え込まないで……」

由佳はそう言いながら、一歩、彼に近づいた。その瞬間、由佳の頭の中に、今までで最も強く、そして悲痛な叫びが響き渡った。

──(誰も信じられない。誰も助けてくれない。結局、俺は一人なんだ)

同時に、彼の手に握られたものが、由佳の目に飛び込んできた。それは、光を鈍く反射するナイフだった。

由佳は悲鳴を上げようとしたが、喉が張り付いて声が出ない。

彼の目は、虚ろなまま由佳を見つめている。まるで、そこに由佳が存在しないかのように。

「ごめんね」

掠れた声が、田所の口から漏れた。次の瞬間、彼はナイフを自分の首筋に当てた。

「やめてー」

だが、由佳の声は、もはや田所の耳には届かなかった。

深い赤色が、資料室の中に鮮やかに広がっていく。田所の体は、ゆっくりと床に崩れ落ちた。

由佳は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。田所の最後の心の叫びが、まるで亡霊のように、由佳の頭の中で何度も何度も繰り返される。

──(一人なんだ……、俺は一人なんだ……)

由佳は、田所の絶望に気づいていたのに、何もできなかった。彼の心に寄り添うことすらできなかった。由佳の特殊な能力は、ただ彼の苦しみを知るだけで、救うことはできなかったのだ。



数日後、田所の葬儀はひっそりと行われた。由佳は、憔悴しきった顔で参列した。葬儀で焼香の列を見ていると、由佳の胸は張り裂けそうだった。

葬儀の後、由佳は一人、あの資料室に戻った。湿っぽい空気と、微かな鉄錆の匂いは、あの日と変わらない。だが、もう、田所の声は聞こえない。永遠に。

由佳は、彼が最後に残した言葉を思い出す。

──(誰も信じられない。誰も助けてくれない。結局、俺は一人なんだ)

その言葉は、まるで呪いのように、由佳の心に深く刻まれた。由佳は、他人の心の声を聞くことができる。だが、その能力は、大切な人の死を防ぐことすらできなかった。

由佳は、資料室の冷たい床に膝をついた。そして、静かに涙を流し始めた。それは、田所の死を悼む涙であり、自分の無力さを嘆く涙であり、そして、これからもずっと、他人の心の声に苦しみ続けなければならない自分の未来を悲しむ涙だった。

由佳にとって、他人の心が読めるという能力は、神の祝福などではなかった。それは、ただただ、恐ろしく、そして悲しい悪魔の呪いだったのだ。愛する人の絶望を知りながら、何もできずに見殺しにするという、残酷な現実を突きつける呪い。

由佳は、いつまでも資料室で泣き続けた。由佳の心には、田所の最後の言葉が、悲しい旋律のように響き渡っていた。そして、その旋律は、由佳の残りの人生の中で、ずっと暗く陰鬱に奏で続けるだろう。恐怖と悲しみと共に。



数日後、由佳は田所の遺品整理を手伝っていた。田所は両親も既に他界していて身寄りが無かったということもあり、せめてもと、会社の同僚で遺品整理をすることになったからだった。

田所の部屋は整然としており、特に変わったものはなかった。しかし、ふと目に留まったのは、机の引き出しの奥にしまわれた一冊の日記だった。

日記を開くと、そこには田所の様々な苦悩が綴られていました。仕事でのプレッシャー、人間関係の悩み、将来への不安。しかし、由佳が心を奪われたのは、日記の最後の方に書かれていた奇妙な記述でした。

「最近、奇妙な声が聞こえるんだ。自分の頭の中に直接響く声、それは冷たく無機質なものだった。最初は気のせいだと思ったんだけど、だんだんとはっきりと聞こえるようになってきた。『お前は一人だ』と、『お前のことは誰も理解できない』と、囁きかけてくる」

「その声が聞こえるようになってから、僕の周りの人の自分に対する態度が変わったようながする。みんな、僕を避けているような……。まるで、僕の存在を迷惑に感じているかのように」

そして、彼の死の直前に書かれた最後の記述は由佳の心臓を凍らせるものだった。

「声が、もっと強く聞こえるようになった。もうこの声からは僕は逃げられないのかもしれない。『お前は一人だ。お前は誰からも必要とされていない』と。その声が、僕にナイフを握らせる。これは自分の意志であって意思じゃない。これは悪意だ。でも、もう、僕には抗えない……」

由佳は、日記を握りしめ、愕然としました。彼の死は、自殺ではなかった。彼は、『何か』に追い込まれたのだ。

その『何か』とは一体何なのか?

由佳はその時、ハッとした。そして、すべてを瞬時に理解した。

由佳は田所に密かに想いを寄せていた。そして彼を自分だけのものにしたかった。そのためには彼には由佳しかいないと思わせたかった。

だからこう心の中で彼に語りかけていた。

「あなたは一人。私以外誰も、本当のあなたを分かってあげられない」

今まで気づいていなかったが、どうやら由佳には、人の心を読むのだけではなく、相手に自分の考えを伝えることができる能力があったようだ。

そう、彼を死にまで追い込んだ悪意を発信したのは由佳自身だったのだ。

由佳は取り返しのつかない事実を前に、呆然とするしかなかった。

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