第一話『冥王の地にて、氷は目覚める』【前半】
はじめまして、またはこんにちは。
このたびは『冥王の地にて、氷は目覚める』第一話をお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、極北の静かな村でひっそりと暮らすひとりの魔女・ノアと、彼女が呼び寄せた「使い魔」との出会いから始まる、少し不思議で、少し静かで、時々あたたかな物語です。
この第一話では、ノアの現在の日常と、彼女の過去、そして「旅を始める理由」を丁寧に描いてみました。
氷点下の地で、じんわりと溶けていく感情の物語。そんな空気感が、少しでも伝わっていたら嬉しいです。
それでは、物語の幕開けをお楽しみください。
――ぱしゅん。
朝の帳がまだ空に揺れる時間、澄みきった空気を切り裂くように、小さな破裂音が響いた。
宙を舞った氷の粒が緩やかに弧を描き、銀色の器へぽとりと落ちる。その音は、静寂を破るどころか、むしろこの地にしんとした静けさをいっそう深く刻み込んだ。
「……うん。今日は、ちょっと硬めにできたかも」
屋台の奥でつぶやいた声は、かすかに揺れた風に乗って、誰にも届かずに消えていく。
声の主――ひとりの少女は、手にした木製のアイス杓子をくるりと回すと、柔らかく盛りつけるように、もうひとすくい白いシャーベットを器に重ねた。
粉雪のようにふわりと舞うそれは、まるで魔法のような光景だった。
いや――それは、本物の魔法だった。
用いているのは、氷の魔術。それもただの氷術ではない。水、風、光。三つの属性を同時に重ね合わせた、次元魔術の一種であり、極めて高度な術式。
温度の精密制御。凝固における分子構造の制御。そして、術式内に刻まれた記憶構造による形状の保持。
それら全てを同時に実行し、破綻なく保つには、常人の魔術師ではまず不可能だろう。
だが――
それを使う彼女自身は、そんなことには一切頓着せず、ただ当たり前のように、当たり前の作業として淡々と氷を削っていた。
銀の髪が、朝の冷気に揺れる。瞳は虹を溶かしたような不思議な色を宿し、その奥に微かに紅をにじませる。凛とした面立ちに、まだ幼さが残っていた。
袖からのぞく指先は、氷点の空気を物ともせず、それでいてどこか儚げだった。まるで、氷そのもののように。
この少女こそが――
《冥王星の魔女》と呼ばれる存在、ノアである。
ここはラグネス氷結域。世界最北端に位置する極寒の地であり、地図にも載らぬ小さな村の市外れ。
その片隅に、小さな屋台を構える彼女の姿は、村人たちにとってはもう日常の風景となっていた。
人々は彼女の素性を深くは知らない。ただ、毎朝になると開く屋台と、そこに並ぶ魔法のような氷菓子。その存在を、少し不思議な風習のように受け入れていた。
その日も、ノアは霧に包まれた朝の中、いつも通りの手つきで氷を削っていた。
「えっと……今日は、ベリーとミルクだけ。あ、でも……昨日の残りの柚子、入れてもいいかも」
独り言のように、しかしどこか楽しげに。ノアは屋台の側面から氷晶核を取り出し、手のひらにすっぽりと収まるそれに指をすべらせる。
「《構成・一次元:水/風》……《展開:二次重合》……保存瓶、起動」
術式の起動とともに、空気がぴしりと張りつめる音を立てて震えた。
すぐにノアの手元から、薄氷が花のように広がる。宙に浮かんだ冷蔵空間の中には、整然と素材が並び、その中心に淡く光を灯した柚子の果肉が眠っていた。
ノアはそれをひとつ、そっと手に取った。
そして、ふと顔を上げる。
「……もう、千年かぁ」
誰に語るでもなく、ぽつりと。彼女の声は氷霧の向こうへと溶けていった。
千年前――
魔術研究所で起きた、たった一度の術式の誤差。
それがすべての始まりだった。
仲間だった九人の魔術師たちは、その暴走によって呪術に巻き込まれ、《不老不死》という存在へと変貌を遂げた。
彼女たちは人々から《惑星の魔女》と呼ばれるようになり、半ば神格化され、恐れと敬意を同時に受けることとなる。
ただ一人――ノアを除いて。
彼女は事故の中心にいながら、不死の呪いを“受け損ねた”。
不老ではあるが、不死ではない。
傷を負えば血が流れ、疲れもする。命は尽きる可能性を持ったまま。
《惑星の魔女》の中で、唯一“死ぬことができる魔女”。
「……ほんと、私は中途半端だな」
自嘲のような口調でつぶやき、ノアは柚子の果肉を細かく刻み、ミルクのシャーベットに混ぜていく。
その仕草は丁寧で、慎ましく、どこか祈りのようだった。
やがて太陽が昇り始め、氷片に射し込んだ光が、世界を淡く虹色に染める。
銀の髪が微風にそよぎ、ノアの瞳の奥に、かすかに金色の光が宿った。
その瞬間だけは、彼女もまた“ただの少女”に見えた。
氷を照らす朝の光が、ゆっくりと角度を変え始めたころ。
村の坂道の向こうから、軽やかな足音がいくつも響いてきた。
雪を蹴るようにして駆けてくるのは、薄手の防寒具に身を包んだ子どもたち。頬を赤く染めながら、彼らは嬉しそうに声を上げる。
「ノアさーん、今日もアイスあるー?」
「ベリー、三つ! ミルクも二つお願い!」
「柚子! 柚子入り、昨日より多めがいいー!」
喧騒の波が押し寄せるように、屋台のまわりが一気に賑やかになる。
ノアはふと顔を上げ、くすっと小さく笑った。
「おはようございます。はい、順番に並んでくださいね。今日は、特別に柚子入りもありますよ」
「やったー!」
歓声とともに、子どもたちは競うように列を作る。
その様子を見ながら、ノアは再び杓子を手に取った。氷を削る。風を吹き込む。光で凍らせる。動作は流れるように滑らかで、ひとつとして淀みがない。
「ミルクひとつ、はい、どうぞ」
「ベリー、三つ目。次の人、待っててね」
ひとりずつ丁寧に渡される器。その中には、極寒の地で育った素材と、繊細な魔術の融合による、小さな宝石のような氷菓子。
子どもたちは、その一口目に顔をほころばせ、頬を染めて笑う。
「おいしーい!」
「これ、魔法で作ってるんでしょ? ノアさんすごい!」
「ノアさんって、ほんとに魔女なの?」
そう問いかけたのは、小さな女の子だった。
毛糸の帽子をかぶったその子は、背伸びするようにしてカウンターの向こうを覗き込んでいる。
ノアは少しだけ考えるように視線を落とし、微笑んだ。
「……魔女ってほどじゃないけど、ちょっとだけ、魔法は使えます」
「じゃあさ、じゃあさ! 空飛べる?」
「それは……」
ノアは視線を空へと向けた。そこには、どこまでも静かで、どこまでも遠い、白と青の世界。
「――今は、ちょっと無理かな。でも、いつか、きっと」
子どもは満足げにうなずくと、嬉しそうにアイスを両手で抱えた。
その無邪気な笑顔を見ていると、ノアの胸にふと、柔らかな感情が灯る。
ああ、この感覚。どこか懐かしい。けれど、遠すぎて、もう手の届かないもの。
「ねぇ、ノアさん」
ふいに、別の男の子が顔を覗かせる。
「明日も、ここにいる?」
ノアは少しだけ驚いたように目を瞬かせた後、ゆっくりと頷いた。
「うん。たぶん、明日も」
「じゃあさ、明日も来るね!」
「ぼく、いっつもノアさんのアイス楽しみにしてるから!」
ノアは、ほんの少しだけ視線を落とす。そして、うなずいた。
「ありがとう」
その言葉に、子どもたちは一斉に笑顔で答え、手を振って走り去っていった。
あっという間に訪れて、あっという間に去っていく喧騒。
後に残ったのは、雪に薄く刻まれた足跡と、氷の器を並べた屋台、そしてノアの静かな背中だった。
彼女は椅子に腰を下ろし、残った氷をそっと見つめる。
「……こうしていると、なんでもない日々みたいだけど」
けれど本当は、その日々がどれほど尊く、どれほど奇跡に近いものかを、ノアは痛いほど知っている。
千年という時を超えてなお、彼女はまだ“誰か”を探していた。
それは、魔術を完成させるためだけではない。
見届けてくれる誰か。
寄り添ってくれる誰か。
そして、できることなら――いっしょに笑ってくれる、誰かを。
ノアは、遠く雪に沈む地平を見つめた。
次にこの白い地に訪れるものが、“ただの冬”ではないと、どこかで知っているかのように。
夜が降りると、この地は音を失う。
風のうなりも雪の軋みも、まるで世界が息を潜めたように遠のき、ただ冷たい月の光だけが、無言で大地を照らしていた。
そんな静寂の丘の上。ノアはひとり、祭壇の前に立っていた。
凍てついた氷の台座。その周囲には、五つの属性を象徴する魔術具が円を描くように配置されている。
火――紅鉄の結晶。
水――純度の高い氷晶核。
風――羽のない風車の術式機構。
土――霊石。ラグネス山脈の根から削り出した鉱石。
光――月の光を集める魔導反射鏡。
そして、その中心に、ひとつの指輪が置かれていた。
――《冥契の指環》。
かつて、セレイアから託されたもの。
それは、魔女と使い魔の魂を結びつける契約具であり、また“干渉の鍵”でもある。
ノアは深く息を吸い込んだ。吐息は白く、すぐに夜気へと溶けた。
指輪にそっと触れる。冷たい金属の感触に、体の奥が震えるような感覚を覚える。
「……始めよう」
月明かりの下で、ノアは静かに詠唱を始めた。
「《発動:五元素構成》……《次元干渉:次元数、五》……《呼応式、展開》……」
術式が、音もなく動き出す。
足元の魔法陣が淡い光を帯び、五つの属性が応じるようにかすかに震えた。風がざわりと吹き、空気の密度が変わっていく。
「……聞こえますか。どこかにいる、私と契約する魂よ」
ノアの声は、かすかに震えていた。
けれど、目はまっすぐに術式の中心を見据えていた。
「私は――魔女としても、術師としても、未熟で……それでも、誰かを救いたくて、ずっとここに立ってきました」
五つの元素が共鳴し始める。
紅鉄が鈍く光り、氷晶が共鳴し、風車が軋むように回る。霊石からは微かな脈動が、鏡面からは月光の筋が降り注ぐ。
「どうか、来てください。あなたを――私の、使い魔として」
その言葉を最後に、世界が一瞬、沈黙した。
そして。
――爆ぜた。
五つの属性が同時に暴走を始めた。
空気が圧縮され、風が渦を巻く。霜が跳ね、地面がうねり、光がねじれる。空間そのものが、バリバリと裂ける音を立てて軋んでいく。
「……!」
ノアは歯を食いしばり、足元の術式を睨みつけた。
制御限界を超えている。けれど、このまま止めては――届かない。
「いい……来て。あなたに、会わせて」
その瞬間。
視界が、光に満たされた。
白でもなく、金でもなく。全ての色が混ざったような、言葉にできない光。
空間が――開いた。
光の中心に、人影があった。
黒いシャツ。部屋着のズボン。手には湯気の立つカップ。
それはあまりに唐突で、あまりに日常的で――この空間には、あまりに不似合いだった。
「……え?」
ノアの口から、思わず声が漏れる。
その人影――青年は、ゆっくりと目を開けた。
「……え、なんだここ。ラーメン食ってたんだけど……え? ええ?」
現れた青年――名を、拓真という。
彼は混乱した様子で、右手に持っていたインスタントラーメンを見つめ、次にノアを見た。
「誰……? え、えっ、夢? やば、寝落ちた?」
あまりにも想定外の姿に、ノアは一歩だけ後ずさる。
けれど、すぐに小さく頭を下げ、震える声で言った。
「……はじめまして。召喚に、応えてくださって、ありがとうございます」
「召喚……? は? 俺、ただラーメン食ってただけなんだけど……」
「あなたは、私の使い魔……さん、ですよね?」
拓真は、カップを見た。ノアを見た。空を見た。凍った地面を見た。
そして。
「……マジかよ!!!!!!!」
その叫びが、月夜の氷原に響き渡った。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
ノアという少女は、強いようで、でもどこかでずっと「誰かに見つけてほしい」と願っている人です。
彼女にとって、魔術は戦うためのものではなく、誰かと“つながる”ための手段でもあります。
千年を越えてなお、誰かを信じて、待ち続けてきたノア。
その彼女が、ついに手を伸ばした先で、出会ったのは――まさかのラーメン男子。
この落差を、これからどんなふうに交差させていくか。
自分でも楽しみながら、丁寧に描いていきたいと思っています。
物語はこれから、少しずつ動き始めます。
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それではまた、次の話でお会いしましょう。