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獣達の宴・後

 朝食を食べ終わってから、早速ナトリさんが離れの途中までお米を取りに行ってくれた。

 オスのナトリさんは中には入れないから、お婆さん達が荷車に乗せてくれたのを一人で引いて来てくれたのだ。

 思ったよりも結構な量のあるお米に、俺のテンションもうなぎ登り。

 何を隠そう、俺は米農家の倅だ。

 といっても、食べるためじゃなくてお酒にするためのお米を作っていたんだけど。

 村で唯一の酒蔵に毎年お米を売ってたから、俺達が作ったホカホカご飯を口にできるのは俺達家族だけだった。


「これだけあれば、麹も作れるし、お酒もたくさんできそうですね!」

「そうなんですか?」


 二人でお米が入った麻袋を台所に運びながら、これから料理のバリエーションが増えると一人口を緩める。

 お酒作りは大変だ。

 だけど成功すれば、料理酒はもちろん、味醂やお酢も作ることができるし、米麹で味噌や醤油も作ることができる。

 まぁ、お酒が2週間くらいでできるのとは違って、醤油や味噌は1年くらいかかるから食べられるのはまだまだ先の話だけど。


「これは湯で煮て食べるんじゃないんですか?」


「うーん…何て説明したらいいんだろ。塩とか蜂蜜みたいに、料理に味を付ける素を作ろうとしてるんですよ」


 清酒の技術はないけど、濁酒で何とか賄えるよな。

 麻袋から取り出したお米は意外なことに、きちんと脱穀されていた。

 これならすぐにでも作業に取り掛かれる。


「米が味を付ける素に?」


 お米自体にはほんのりとした味しかないから、ナトリさんにはピンときてないみたいだ。

 こればっかりは実際に見て、食べてもらわないことには理解されないだろう。


「1年後を楽しみにしていて下さい」

「1年!? そんなに手間隙がかかるんですか?」

「えっと、まぁそうですかね?」

「ヒトとは、そんな膨大な時間をかけて『料理』を作っているんですね。まるで作物を育てるようです」


 感心したようにナトリさんの赤い耳がピンと立つ。

 やっぱりナトリさんは賢いと思う。

 きっと俺が言うことなんて初めて聞くことばかりだと思うのに、すぐに理解してくれる。

 完璧に見えて実は強引で甘いところがあるハギルさんの右腕として、ナトリさんはずっとその頭脳を駆使して働いてきたんだろうな。

 二人は本当に名コンビだ。

 それに、二人ともメチャクチャカッコイイから、並んでいたらかなりの眼福にあずかることができるし。


「あ、そろそろハギルさんが帰ってくるんじゃないですか?」

「もうそんな時間ですか。ユウヤといると驚きの連続で、時が過ぎるのも忘れてしまいますよ」


 言わずもがな、ハギルさんはこの村の中で一番強い人虎だ。

 だから縄張りの確認…ていうか、マーキングっていうのかな?

 木の幹に爪で傷を一人で付けて回るんだけど、いつも朝に行って今頃の時間に戻ってくる。

 その後ハギルさんとナトリさんは合流して、今度は屋敷の奥で執務みたいなことする。

 それがこの1ヶ月ちょっとの間の日常だった。

 だけど…

 ナトリさんと一緒にハギルさんを迎えに行こうと台所を出たら、人虎のみんなが慌てた様子で村の入口に集まっていた。


「コセン、みんなどうしたんだ?」

「俺にもわからないんだ」


 台所の外で玉葱を干していたコセンに聞いても、小さく首を捻るばかりで埒が明かない。

 何だろう、この胸騒ぎは…

 居ても立ってもいられずに、俺は人虎さん達の輪に向かって駆け出していた。

 背中に嫌な汗が流れる。

 口々に呟かれるハギルさんの名前に、込み上げてくる焦りが拭えない。

 背の高いみんなの間を縫って中心に出ると、そこには純白に黒い縞模様の虎と金色の虎がいた。

 正確には、『血塗れで倒れている金色の虎』だ。

 その光景に一気に血の気が引いて力が抜けそうになる。

 立っていられなくなる…

 だけど、ここで動揺するわけにはいかない。

 今にも崩れそうになる膝を叱咤して、輪の外にいるだろうナトリさん達の方を振り返った。


「ナトリさんっ、担架をお願いします! コセンはお湯を沸かして! 足の速い人は爺様に連絡を!」


 目の前にいる白い虎が何者かまで気が回らない。

 とにかくこの金色の虎を、ハギルさんを助けないと。

 肩口から腹にかけての鋭い傷口から、血がドクドクと溢れ出してくる。

 ぐったりと横たわったハギルさんの息は余りに弱々しい。

 俺は慌てて駆け寄り、上着を脱いで傷口に押し当てた。

 ハギルさんの身に何が起こったのかわからない。

 だけど、ここにいるみんなが思ってる。

 祈ってる。

 ハギルさん、お願いだから死なないで…!




 ***




 side:???




 故郷から遠く離れた森に住んでいた。

 たった一匹で生きていくには力がいる。

 俺は人化することもなく獣化のまま5年を過ごした。

 獲物は少なく外敵も多いこの森だが、群れることが何よりも苦痛だった俺には気ままで快適な暮らしだ。


 それは本当に気紛れだった。

 もしかしたら春になって浮かれていたのかも知れない。

 ふと、故郷であるあの村に顔を出してみようと思い立ったのだ。

 日中眠り、夜の間に森を駆け抜けること1ヶ月。

 ようやく人虎族の縄張りに入ったと思った矢先、強い気配を感じた。

 これは……人熊族。

 全ての種族の中で最も大きな肉食動物。

 俺達人虎が唯一適わない種族。

 その獣化した人熊と、何かが対峙している。


 ガアァアアッッ!!


 一瞬だった。

 ドサリとその巨体を地面に叩き付けた人熊は、首筋から夥しい血液を流し事切れていた。

 もしかしたら、人熊同士の縄張り争いなのではと踵を返そうとすると、茂みの中で呻く声が聞こえた。

 良く知っている声…

 まさか―――


「……ハギル?」


 茂みの中を覗き込むと、見知った金色の虎が血を流して横たわっていた。

 流石の長も、人熊相手では無傷では済まなかったんだろう。

 逆によく一匹で倒せたものだ。


「救援を呼びに行っていたら持たない…か」


 獣化したまま気を失ったハギルを運ぶのは一苦労だろうが、コイツを見す見す見殺しにはできない。


「頼むから死ぬなよっ」


 瀕死のアイツを背負って5年振りに見た村は変わっていないように見えた。

 いや、一匹毛色の変わった奴がいたか。

 血塗れのハギルを見て顔を真っ青にしながらも、それでも気丈に周りに指示を出す姿が子供ながらに凛々しく見えた。


 初めは本当に気紛れだった。

 しかしそれが原因で、この俺が不確かな想いに振り回されることになろうとは…神様だって思うまいよ。




 ***




 熱湯消毒した布で傷口を拭い、爺様が湾曲した針で皮膚を縫い合わせていく。

 本当だったら目を逸らしてしまいたくなるような光景だけど、ハギルさんが頑張っている姿をこの目で見なきゃいけない気がして。

 目を逸らしたら死んでしまいそうな気がして、俺は少し離れた板の間に座ってその処置をジッと見詰めていた。

 針で縫われているのに一向に目覚めないハギルさんに不安が過ぎる。

 いつかは見てみたいと思っていた虎の姿を、まさかこんな形で見ることになるなんて…

 毛に覆われた身体には4本の爪痕があったらしい。

 爺様の話によると、これは人熊族に後ろから襲われた時にできた傷みたいで、ハギルさんの性格上恐らく不意打ちを喰らったのだろうとのことだ。


 今、屋敷のこの部屋には目を覚まさないハギルさんと、俺に爺様、そして白い虎がいる。

 ナトリさんは一人で執務に取り掛かっていて、コセンにはスープ作りをお願いしているから今は台所だ。


「爺様…後は俺が看ますから、どうか休んでください」


 かなりの縫合をやり切った爺様は疲れているだろうと、近くの部屋で休んでもらうことにした。

 もしもの時のために、爺様には万全でいてもらわなきゃ困る。

 爺様がいなくなると、部屋には重たい静寂に包まれた。


「あの、何処の誰かは存じませんが、ありがとうございました」


 床に座ったまま虎に向かって頭を下げる。

 きっとこの人も人虎だと思うけど、人化する気配はない。

 多分この村の人じゃないはずだ。

 毎日2回ご飯を配っている俺が知らない人はいないと思うし。

 こんな綺麗な白い毛の人は見たことがない。


「礼には及ばねぇ。俺も元はここの出だし、コイツとは知らない仲じゃねぇしな」


 虎の太い口が開き、低い声が返された。

 繊細そうな見た目と違って、かなり男らしい口調と声だ。


「俺は1ヶ月くらい前からここでお世話になっている佐藤裕也といいます。あの、もし良かったら名前を教えてくれませんか?」


 真っ直ぐ虎を見詰めると、澄んだ青い瞳を細めて虎が笑った気がした。


「俺はラゼア。今年25になる、5年前にこの村を出たただの人虎だ」


 扉の方にいたラゼアさんが立ち上がり、俺の隣に腰を下ろす。

 …見られてる。

 物凄く見られているのですが…

 特に頭とお尻をマジマジと見詰めてくるラゼアさんの視線が居心地悪くて、気を紛らわせるように少し乱れたハギルさんの布団をかけ直してみる。

 傷のせいで発熱しはじめているハギルさんは、虎の姿のまま険しく眉間に皺を寄せていた。

 人化していれば看病の仕方もわかるけど、俺は獣化しているハギルさんのお世話をちゃんとできてるのかな…


「おチビちゃんは、コイツの何なんだ?」

「……居候です」


 元の世界にいたらきっと言われなかっただろう『チビ』という言葉がとても新鮮だ。


「それじゃ、どこの種族だ?」

「一応霊長類ヒト科の人間です」

「ヒト……?」


 あ、マズイかもしれない。

 初めてハギルさんにこれを言った時、メチャクチャ怒ってたことを忘れてた。

 俺を見詰めるデッカイ虎の顔がグッと近くなる。

 今は閉じられてるけど、口を開けばぞろりと鋭い歯が並んでいるんだ。

 あんなので噛まれたら一発で死ぬだろうな。


「……確かに、美味そうな匂いがする」

「人間を食べたことがあるんですか?」

「んなわけねぇだろ。お前どんな育ち方したらそんだけボケれるんだ?」


 明らかに馬鹿にしたように見下ろしてくるラゼアさんに、ちょっとだけ安心した。

 どうやら食べられるわけじゃないみたいだ。


「…なら、多分料理の匂いかな?」

「『料理』? 確かに匂ったことがない匂いだけど…まさか本当にヒトなのか?」

「そうですよ。料理をする代わりに置いてもらってるんです」


 冷たく見える青い瞳を向けられると、何だか心の奥まで見透かされているように感じる。

 ……こんな時に不謹慎だけど、真っ白の毛並みがフカフカで尻尾もちょっと太めだし、かなり触りたい。

 ハギルさんもこんな状態じゃなければ、俺はきっと問答無用で抱き着いてたと思う。

 初めにナトリさんに乗せてもらった時の、あの毛並みを忘れられない。

 村じゃみんな人化してるから、今まで抱き着くこともできなかった。

 その夢にまで見た虎が、目の前にいる。


「もし良ければ、ハギルさんが目を覚ますまでこの村にいてくれませんか?」


 俺の言葉に白い耳がピコンと立つ。

 でもすぐに睨むように口の上に皺を寄せて顔を逸らしてしまった。

 何か気に障ったのかな?

 そもそも村を出たんだから、ここに滞在したくないのかもしれない。


「………俺にハギルの代わりは勤まらねぇ」

「……は?」

「俺は長にゃ向いてねぇんだよ。自分のことで手一杯だ」


 これは、まさか勘違いしてるのかな?

 苛立ってるみたいにさっきから太い尻尾がバシバシ床を叩いている。


「あのー、俺が言いたかったのは、折角ここまで来たんだからハギルさんに会ってって欲しいってことなんですけど」

「は?」

「さっき知らない仲じゃないって言ってましたよね? だったらハギルさんもラゼアさんに会いたいんじゃないかと思うんです。それにハギルさんは律儀だから、今回のお礼も言いたいだろうし。だからそれまではいてくださいよ」


 きょとんと目を丸くする姿はメチャクチャ可愛い。

 やっぱり触りたい。

 触らせてくれないかな…


「…俺はてっきり…、あ、いや…ってか、ただ顔を出しに来ただけ…」

「料理、食べたくないですか?」


 断ろうとしていたラゼアさんの言葉を遮って、俺は勝負に出た。

 俺が唯一できること。

 これで引き止められなかったらもう無理だ。

 潔く諦めよう。


「『料理』…」

「お礼にたくさん食べてってください」

「……食べ放題」


 あ、これは揺れてるな。

 今まで一人で暮らしてたなら、きっと食べられない日だってあったはずだ。

 だけどこの村は食料豊富だし、一人くらい増えたって何とかなる。

 俺や寝込んでいるハギルさんや、天井や囲炉裏やらに視線を彷徨わせていたラゼアさんだったけど、しばらくして床を睨むように俯いた。


「礼はいらねぇ。狩りに行ってやるから、その代わりに料理を食わせろ」


 勝った。

 何だか男前なことを言ってるけど、結局は滞在してくれることに変わりはない。

 これで目を覚ましたハギルさんに会わせてあげられる。

 自然と緩む頬に気付かずに、俺は別の布を取り出してお湯で濡らした。


「そうと決まれば、まずは身体拭きましょうか。背中、血塗れですよ?」


 ハギルさんを背負って来てくれたらしく、真っ白な毛並みに渇いて茶色くなっている血がこびり付いていた。

 人化しないということは、余り人化が好きじゃないんだろう。

 だけど獣化のままじゃ自分で拭けないだろうからと、俺は手に持った布を免罪符にラゼアさんににじり寄る。

 これを口実にちょっと、本のちょっと毛並みを触らせてもらおう。

 そう思っていたのに、いきなりラゼアさんに押し倒されてしまった。


「―――ッ!? ラ、ラゼアさんっ?」


 しかも硬い肉球で目隠しまでされてしまう。

 怒らせた?

 だからって何も押さえ付けなくたって…

 ……

 あれ、これ…

 目を覆っている手の感触が変わっていく。

 もしかして、人化してる?

 ようやく手を離されたかと思えば、持っていた布を取り上げられてしまった。

 そんなに触られたくなかったんですか、ラゼアさん。

 それならそうと言ってくれればいいのに、床にぶつけた頭と背中がちょっと痛い。

 手をついて上半身を起こしたら、こっちに背中を向けて全裸の人が背中を拭いていた。

 やっぱり、人化したら全裸なんだ…

 すぐに目を逸らしてハギルさんの服を取りに行く。

 たしか洗濯したての服が、物干しにかかっていたはずだ。

 それを手に取ると来た道を足早に戻る。

 チラッとしか見えなかったけど、背中まであるたてがみみたいな白い髪の毛だった。

 そしてきっと、美形に違いない。

 何だって人虎さん達は美形ばっかりなんだ。

 大きくてカッコイイなんて、羨まし過ぎる。

 部屋に戻るとまだ座って身体を拭いているラゼアさんの横に、持って来た服をそっと置く。


「これ、ハギルさんのですけど、良ければ着てください」

「悪いな」


 俺の言葉に振り返ったラゼアさんは、切れ上がった目に少し厚い唇のワイルドな美形だった。

 ワイルドな美形なのに、虎耳があるだけで随分可愛くなるよな。

 俺にも虎耳があったら、少しは愛嬌が出るかもしれないのに。

 服を着はじめたラゼアさんからハギルさんに視線を移して、痛々しく乾いた鼻に湿った布を当てた。

 少しでも落ち着くように。

 早く目を覚まして、ハギルさん。

 みんな待ってるよ。




 夕方、執務を終えたナトリさんに看病を交代してもらって、俺はラゼアさんと台所に向かった。

 そこではもう配給が始まっている。

 手に手にお椀を持って列を成している人虎さん達を見て、ラゼアさんが蒼い目を丸くしている。

 耳もピンと立ってるし多分驚いてるんだろうな。


「……これは、どういうことだ?」

「ここは台所といって、料理を作る場所なんですよ。俺と台所番のみんなが村中の分の料理を作って、朝と夕に配ってるんです」


 中ではコセンをはじめとした台所番のみんなが、差し出されたお椀にスープを注いでいた。

 今日は俺がいなかったけど、キャベツや肉が入った塩スープは出汁が出ていてかなり美味しそうだ。

 みんな腕を上げたんだな…教えた身としては喜ばしいことこの上ない。


「コセンッ、美味しそうに出来てるな! これならスープは任せられそうだ」


 木で出来たおたまでスープを配っていたコセンに声をかけると、俺に気付いて近くの台所番におたまを押し付けて駆け寄ってきた。

 最近コセンが犬に見えて仕方ない。

 キラキラと笑顔を輝かせて嬉しそうにしている姿は孤高の虎っていうより、人懐っこい大型犬みたいだ。


「ありがとな、ユウヤ! だけど、俺はユウヤが作ってくれた『料理』が食べたいから任せないでよ」


 全く口が上手いな。

 俺を持ち上げて面倒事を回避しようとするなんて、無邪気そうな見た目とは違って中々の策士だ…


「…コセン? もしかしてメイルんとこのチビか?」

「は? アンタ誰だよ」

「テメェ、あんだけ可愛がってやったってのに忘れちまったのか?」


 どうやらラゼアさんはコセンのことを知っているらしい。

 だけど、ラゼアさんは5年前に村を出ててその頃はコセンはまだ離れにいたはず。

 …ま、考えてもわからないことを考えるのは無駄か。

 心なしか回りの人虎さん達もざわついてるような気がする。

 みんな口々にラゼアさんの名前を呟いて目を丸くしているような…


「アァーーッ!! ラゼアか!? え、何で…もしかしてハギルをやったのはアンタか!?」


 コセンが耳を伏せて茶色の虎尻尾を膨らませて威嚇しだした。

 途端に回りのざわめきも大きくなる。

 殺気じゃないけど、戸惑いとか疑いとかの眼差しをラゼアさんに向けている。


「いやいや、爺様がハギルさんの傷は人熊族につけられたって言ってたから。俺も見たけどデカイ4本の爪痕で、あんなの人虎族では無理だよ」

「ユウヤ…」

「そうだ、このチビが言う通り俺はハギルを運んだだけだ。この村にも本の少し顔を出そうと思っただけだしな」


 俺とラゼアさんの言葉に申し訳なさそうにコセンの尻尾がヘタリと垂れ下がった。

 回りのみんなもどこか安堵を滲ませて警戒を解いている。


「何だ…俺はてっきりハギルを負かして長になろうとしたのかと…」


 なるほど、より強い者が長になる人虎族の村に於いて、ハギルさんさえ倒したら誰もが長になれるんだ。

 いつの間にか配給の手を止めてコセンとラゼアさんのやり取りを遠巻きに見ていた人虎さん達が、ようやく徐々にだけど動きはじめる。


「んなことするわけねぇだろ。俺は群れるのが嫌で飛び出したんだぜ? それをわざわざ長になろうとするわけねぇだろうが」

「だからって、信じられないよ。前の長なんだろ、アンタ」


 ……ラゼアさんは前の長だったそうですよ、みなさん。

 だから離れにいたはずのコセンとも面識があったんだな…納得納得。


「二度となるか、あんなもん。長なんて面倒臭ぇだけで何の得もありゃしねぇ。俺は成体になりたてのハギルに押し付けたんだ、それを今更どうこうするわけねぇだろ」


 本当にどうでもよさそうなラゼアさんの口調に、ようやくコセンも納得したみたいだ。

 鍋に戻って俺とハギルさんのお椀にスープを注いで持ってきてくれた。

 ラゼアさんの分の食器、どうにかしなきゃな。


「アリガト、コセン。俺達先に食べてるから後はよろしくな。お礼に明日はコセン達が大好きなシチュー作るから」

「ホント!? やった!『しちゅー』だ!!」


 コセンや台所番のみんなもシチューの言葉に嬉しそうに耳を立てる。

 可愛いなぁ、みんな。

 今はお椀を持ってるから撫でられないのが残念だ。

 両手にスープを持っていつもの部屋に向かう。

 後ろをついて来るラゼアさんに、後で撫でさせてもらおう。

 しかも獣化してもらおう。

 うわぁ、楽しみだ!




 いつもはたくさんで囲む食卓も、今日は二人だけ。

 まぁ、食卓っていっても床にお椀置いてるから卓はないんだけどね。

 今朝焼いたパンの残りを切ってラゼアさんに渡す。

 それを不思議そうに受け取り、指先で固さを確かめたりいろんな角度から眺めているラゼアさんがちょっと微笑ましい。


「これはパンっていって、小麦を粉にしたものを特殊な製法で焼き上げたものです。今じゃこの村の主食なんですよ」

「これが、麦? 信じらんねぇ…」


 ラゼアさんが大きな口でパンにかぶりつく。

 前までは小麦粉と天然酵母と塩で作ってたけど、今は毎日取れる牛乳で作ったバターを入れているからより柔らかさが増している。

 自慢のパンをモグモグ食べていたラゼアさんの目が、見る見る内に大きく見開かれていく。

 何だか1ヶ月前のハギルさん達を思い出すな。


「……柔らけぇ。これがあのクソマズイ麦なのか…」


 確かに、麦を煮ただけの物よりは美味しいだろう。

 また大きな口を開けてかぶりつく姿に、やっぱり嬉しくなってしまう。

 それからも和やかに食事が進み、ラゼアさんはパンをスープに浸して食べるのが気に入ったみたいで、大きなパンを全部食べてしまった。

 明日はお箸の使い方を教えてあげなきゃな。


「スゲェ美味かった。この世の物とは思えねぇよ…お前何者だ」

「だから、人間ですって。ここじゃヒトしか料理を作れないんでしょ?」

「あれは、嘘じゃなかったのか…」


 嘘だと思ってたのか…


「今日はコセン達に任せてしまいましたけど、明日からは俺が作ります。だから、ラゼアさんが大きな獲物をとってきてくれるの楽しみにしてますね」


 そう言って笑いかけたら、いきなりラゼアさんが掌で自分の口をガバッと覆ってしまった。

 あれ、これって安請け合いしちゃったことを後悔してるのかな?

 狩りに行きたくないとか…

 そうこうしている間にも、何気にラゼアさんがジリジリと後退しているような…

 俺から距離を取っているような?


「あの、狩りのことなら別に…」

「………ヤベェ、勃った…」

「…何か言いました?」


 口を手で覆ってるから聞き取れないんですけど。

 俺が耳に手を当ててラゼアさんの方に上体を倒す。

 丁度四つん這い…いや、片方は耳に添えてるから三つん這いかな?

 まぁ、そんな風にして話を聞き取ろうと身を乗り出したら、今度は勢いよく部屋の隅まで後退ってしまった。


「あ、あの…?」


 遂にはこっちに背中を向けてしまったラゼアさんに、俺は途方に暮れてしまう。

 そんなに俺に近付いてほしくないのかな。

 群れるのが嫌だって言ってたし、もしかしたらさっきまでは我慢してくれていたのかも…

 うわ、これはマズイな。

 虎バージョンのラゼアさんを撫でさせてもらおう計画が、早くも頓挫してしまいそうだ。


「ラゼアさん、もう近付かないんで安心してくださいよ」

「……あ、あぁ…いや、そうじゃねぇ…けど、まぁ確かにこれ以上近付かれたら…」

「俺、食器を運んだらそのままハギルさんの所に行きますから、ラゼアさんは隣の部屋で…」

「もっ、もう少し…ここにいろ」

「……はぁ」


 二人分のお椀を重ねて立ち上がろうとした、また俺の声を遮ってラゼアさんが引き止めてくる。

 低く唸るような声に反射的に正座してしまったけど、それからラゼアさんは口を開こうとしない。

 沈黙が重い。

 群れたくないけど寂しいのかな?

 この5年間はずっと一人みたいだったし。

 ここはひとつ、俺から話し掛けてみよう。


「あの、何で変身する時目隠ししたんですか?」


 これはずっと気になってた。

 ここに連れて来られた最初の日、ナトリさんも別の部屋に行ってたし。

 裸を見られたくないのかなとは思ったけど、ラゼアさんは全裸でも堂々としていた。


「変化を他者に見られることは下品とされてんだよ。人虎族の矜持にかけて見せられねぇ」


 相変わらず背中を向けたままだけど、きちんと答えてくれた。

 俺が別の種族だからとかじゃなくて、みんなにも見せてなかったんだ。

 ちょっと寂しかったから誤解が解けて良かった。


「ってぇことだからよ、後ろ向いてろ」


 話の流れからすると多分ラゼアさんは獣化しようとしてるんだな。

 それなら願ったり叶ったりだ。

 俺は素直にラゼアさんに背中を向けて座り直す。


「はい、向きましたよ」


 正直変身シーンを見たい好奇心はあるけど、プライドにかけて見られたくないと言われてしまったら振り返ることなんかできない。

 一体俺の後ろではどんなことになってるんだろう…

 ごそごそとラゼアさんが動く音と、囲炉裏で火が弾ける音を聞きながら俺は落ち着きなく指先を動かしていた。

 最後まで振り返らなかったことを誰か褒めて。


「いいぞ」


 ラゼアさんの声にまるでお預けを喰らった犬のように勢いよく振り返った。

 そこには想像通り白くて大きな虎が、伏せの体勢で横になっている。

 隣には脱ぎっぱなしになっているハギルさんの服があった。


「ラゼアさんは虎の姿の方が楽なんですか?」


 さっきみたいにラゼアさんに嫌がられないようそっと近付くと、床に散らばっている服を拾って適度に折り畳んでいく。

 よし、今度は距離をとられないみたいだ。


「あぁ、この5年間1度も人化してねぇからな。前はそうでもなかったけどよ、今じゃ獣化してねぇと不安みたいだな」


 そっか、外の世界は敵だらけだ。

 人の姿より獣の姿の方が5感も鋭くなるって前にナトリさんが教えてくれたっけ。


「綺麗ですよね、白くて。ナトリさんもお腹は白かったけど、ラゼアさんみたいに全身白い虎って珍しいんじゃないですか?」

「虎はどいつもこいつも腹の毛は白いんだよ。それに、俺は北の生まれだから白くて当たり前。ま、ここには俺以外いないけどな」

「はぁ、人虎さん達にもいろいろなんですね」


 知らなかった、というか獣化した姿はナトリさんとハギルさんしか見たことないから仕方がないかもしれないけど。

 ゆっくりとラゼアさんが俺を首だけで振り返る

 1mくらいしか離れていない俺には、その動きでふんわりと波打つちょっと長めの毛並みが丸見えだ。

 北の出身らしいから、さっき見たハギルさんや、前に見て触ったナトリさんの毛よりも大分長い。

 きっとふかふかしているに違いない。

 この身体に顔を埋めて抱き着いたらきっとすぐにでも眠ってしまう。

 いや、もしかしたら余りの触り心地に興奮して眠れないかもしれない。


「おい、どうし…」

「触りたい…」

「は?」


 おっと、願望が口から零れてしまったみたいだ。

 だけどピンチはチャンス!

 触らせてくれたらラッキーだし、断られてももうすぐコセン達が来るから気まずくない。

 よし、当たれば儲けだ。


「あの、触らせてくれませんか? ここの人虎さん達は滅多に虎の姿にならないし、耳や尻尾も全然触らせてくれないんです」

「触らせるわけねぇだろ。耳も尻尾も急所だ、そう簡単に…」

「背中でいいんです! お願いしますっ明日のご飯特別に大盛にしますから!」

「…………まぁ、そこまで言うなら。俺もケチな野郎だとは思われたくねぇしな。ほら、触れよ」

「ありがとうございます!!」


 撫でやすいように差し出された視界一面の背中。

 白い毛に黒い縞模様のコントラストが綺麗な背中に、俺はひとつ生唾を飲み下してそっと手を伸ばした。

 柔らかな猫っ毛が掌を擽り、ゆっくりと沈んでいく様子に俺のテンションは最高潮だ。

 手が暖かな毛に覆われた瞬間、俺は堪らなくなってラゼアさんの背中に抱き着いてしまった。

 腕や頬に感じる柔らかな毛と温もり、太陽の匂いに包まれて俺はもう至福の中だ。


「おっ、おい! 何抱き着いてんだ! 離せッアホ!!」


 横たわったまま身体をよじって振り解こうとするラゼアさんに、俺はがっちりと胴体に手足を巻き付けて離れまいと必死だ。

 もちろんラゼアさんが本気になれば俺なんて簡単に吹っ飛んでしまうんだろうけど、多分手加減してくれているラゼアさんは本当にいい人だ。


「嫌です! もう少しだけお願いしますっ、痛くなんてしませんから」

「そうじゃなくてっ、…とにかく離れろ悪ガキ!」

「ガキじゃありませんッ、俺は18歳です!」


 途端に俺の言葉でラゼアさんが硬直したのと同時に、コセン達台所番のみんながやって来た。

 もちろん、俺達の異様な状況にみんなが目を丸くしていたのは言うまでもないだろう。




 あの後、大騒ぎになった部屋をそっと抜け出して、看病を続けているナトリさんと交代した。

 部屋には俺と金色の虎、ハギルさんの二人きり。

 夕飯の前に見たまま、少しも動いていない体勢で眠り続けているハギルさんに、言いようのない不安が込み上げてくる。

 そっと近寄って傷口から離れたお腹に手を当てると、ゆっくりと上下しているのが伝わってきてちょっとだけ安心した。

 ……ハギルさんの毛も柔らかいな。

 毛並みに添って何度も撫でながら、ハギルさんの呼吸を確かめる。


 ジジッと蝋燭の芯が焼ける音が聞こえるくらい静かな室内。

 さっきまでが騒がしかったから余計に静けさが耳を打つ。

 俺はハギルさんの布団をかけ直して、その上からまたお腹に手を乗せた。

 こうしていないと不安になるから。

 爺様の話によると、人の姿の時よりも虎の姿の方が治癒力が高いらしいから好都合だそうだ。

 5感も身体能力も摂取できる食べ物も、姿が変わったらいろいろと変化するらしい。

 俺はまだまだ人虎のことを知らない。

 もっと知りたい。

 もっと知れば、みんなに少しでも近付ける気がするから。


 前の世界に未練がないと言ったら嘘になる。

 祖父ちゃんと祖母ちゃんと、父さんと母さんと兄ちゃん。

 家族仲は良かったし、村のみんなにも可愛がってもらった。

 そんな人達と会えなくなるのは寂しいし、まだ少しも恩返しなんかできていない。

 心残りは山ほどある。

 だけど、こうやって人虎のみんなに出会えたことを後悔なんてしてない。

 テレビも携帯もコンビニも電気も水道もここにはない。

 それどころか人間すらいない。

 でも、俺はみんなが大好きだ。

 いろいろ教えてくれるナトリさん。

 俺を慕ってくれるコセンや台所番のみんな。

 頼りになる離れの長、ニザンさん。

 ぶっきらぼうだけど多分優しいラゼアさん。

 それに、いつもさりげなく俺を心配してくれているハギルさん。

 心優しい人虎さん達に囲まれて、俺は幸せ者だと思う。

 前にいた世界では得られない物を、この世界はたくさん与えてくれるし、俺もたくさんの物を与えたい。

 もっとみんなのことが知りたい。

 もっとみんなが喜ぶようなことをしたい。

 料理を美味しそうに食べてくれる姿を、いつまでも傍らで見ていたい。

 ねぇ、ハギルさん。

 そこにはハギルさんも含まれてるんだよ?

 ハギルさんがいなくちゃ、足りない。

 一人でもかけたらダメなんだ。

 ダメなんだよ…


「……ハギルさん。明日はラゼアさんのためにシチューを作ろうと思ってるんです。ハギルさんも前に美味しいって言ってくれましたよね? 俺、腕に縒りをかけて頑張ります。だから、……だから…ッ」


 見慣れない虎の姿のハギルさん。

 いつもだったら喜んじゃうのに、今は無性にいつものハギルさんに会いたい。

 頭を撫でてほしい。

 低い声で名前を呼んでほしい。

 優しい金色の瞳を見せてほしい。


「だから目を、覚まして…!」


 布団に乗せていた自分の手に額を押し付ける。

 我慢できない。

 どんなに明るく振る舞ったって、みんなで騒いだって、ハギルさんがいなきゃダメなんだ。

 目頭が熱くなって、手の甲と布団を濡らしていくけど、一度溢れ出したものは止まってくれない。

 初めに血塗れの姿を見た時から、本当は泣いて縋りたかった。

 でも、みんなを不安にさせないように堪えて、ハギルさんを助けたい一心で踏ん張った。

 …けど、もう…泣いてもいいよね。

 ここにはハギルさんしかいないし、我慢、しなくていいよね?


「ヤダ…嫌だ…ッ、ハギルさん、いなくならないで…死なないでっ、俺ができることなら何でもするから…だから!」


 布団を握り締めて呻くように、眠り続けるハギルさんに向かって懇願する。

 顔を埋めた布団は涙を吸って冷たく頬に張り付くけど、そんなことが気にならないほど俺は必死にハギルさんに縋り付いた。

 何でもする。

 俺が持ってるものなら何だってあげる。

 だから神様、いるならどうかハギルさんを助けてください。

 どうか…


「……じゃあ、『しちゅー』には『べーこん』を入れてくれ」

「………へ?」


 あれ?

 今の、幻聴?


「死ななかったら、何でもしてくれるんだろ?」

「ハ、ギル…さん…?」


 恐る恐る顔を上げたら、金色の瞳が俺を見詰めていた。


「不安にさせて、すまなかったな…ユウヤ」

「ハギル、さん! ハギルさんハギルさんっ」


 ハギルさんが目を覚ました。

 虎の姿になっても変わらない、優しい金の瞳で俺を見上げている。


「良かった…っ、ホントに、良かったよぉーっ!」


 余りの驚きに止まった涙が、安心した途端また滝のように溢れ出した。

 今度は床に突っ伏して泣きじゃくりはじめた俺の頭を、ハギルさんが大きな少し平べったい前脚で軽く小突いてくる。

 ちょっと柔らかい肉球の感触と、ハギルさんの優しさに俺はますます涙を止められなくなってしまった。


「どうしましたっ、ユウヤ!?」


 俺の泣き声が屋敷中に響き渡っていたのか、驚きも露にナトリさんが扉を開いて部屋に飛び込んできた。


「チビスケッ、何があった!」


 虎の姿のラゼアさんも後に続く。

 二人ともハギルさんの傍らで泣き崩れている俺を見て一瞬最悪の展開を予想したみたいだけど、すぐにハギルさんがまた俺の頭を慰めるように小突いてくれてようやく事態を飲み込んだみたいだ。


「目を覚ましたんですね、ハギル」

「面倒かけたな、ナトリ」


 俺の隣に腰を下ろしたらしいナトリさんが、しゃくり上げている背中を撫でてくれる。


「私よりもユウヤとラゼアを労ってやってください」

「…ラゼア、だと?」

「ラゼアが貴方を運んで来て下さったんですよ」


 入口の方に座っているラゼアさんを目だけで見遣り、ハギルさんが嫌そうに顔を歪めた。

 誰にでも平等なハギルさんにしては珍しい。

 ナトリさんが撫でてくれたお陰で落ち着いてきた俺は、いつにないハギルさんの様子に首を傾げる。

 仲、悪いのかな?


「一先ず礼を言っておく、ラゼア。だが、お前は何をしに来たんだ? ことと次第によっては、お前を村に入れることはできない」

「ハ、ハギルさんっ、違うんです! 村に居てくれって頼んだのは俺で、ラゼアさんはただちょっと顔を出そうとしただけだって言ってましたし…ッ」


 尖った口調で問い詰めるハギルさんと全く気にしていないラゼアさんの間に入って、ひとりオロオロとする俺。

 そんな俺の姿が滑稽だったのか、ハギルさんの目が不機嫌そうに眇られた。


「どうしてラゼアを庇う」

「え…どうしてって、本当のことだから…?」


 俺が頼み込んだのも、ラゼアさんが少し顔を出すつもりらしかったのも事実だと思う。

 誤解を解こうとしただけなのに、布団からはみ出したハギルさんの太い尻尾がせわしなく床を叩く。

 それに反して何処となくラゼアさんの機嫌が良くなってる気がする…

 あ、ナトリさんまで床を尻尾で叩きはじめた。

 何コレ。

 何でふたりとも機嫌が悪くなってるんだ?

 折角ハギルさんが目を覚ましたのに、これじゃ素直に喜べないじゃないか。

 俺は涙で濡れたままだった頬を乱暴に拭って、取り合えず隣に座っているナトリさんの赤い尻尾を鷲掴みにした。


「…うわっ!!」


 尻尾を握った瞬間、毛を逆立ててナトリさんの身体がビクッと跳ねた。

 前にコセンにした時と同じ反応だ。

 ラゼアさんも言ってたけど、本当に人虎さん達にとって尻尾は急所なんだな。

 驚いているナトリさんの顔がジワジワと赤くなっていくにつれて、さっきまでの雰囲気が払拭されていくのを感じる。


「ユ、ユウヤ…ッ…これは…、いや、知らないってわかってはいるんですが、流石にこれは理性が…っ」


 何事かをブツブツと言っているナトリさんの尻尾を掴んだまま、もう片方の手を伸ばしてハギルさんの耳をぎゅっと摘む。


「―――ッ!!」


 ハギルさんも驚いたように目を真ん丸にして、全身の毛を逆立てて硬直した。

 耳も本当に急所なんだな、二人とも微かに震えてるみたいだし。


「もう、苛々しないでくださいよ。折角ハギルさんの目が覚めたんだし、ラゼアさんとの久し振りの再会なわけだし、みんな仲良くしましょうよ」


 諭しながらもちょっと強く握りすぎたかもしれないと、ナトリさんの尻尾とハギルさんの耳を軽く指の腹で撫でる。

 相当痛かったのか、二人の震えが大きくなった気がした。


「あ、ゴメンナサイ。そんなに痛かったですか?」

「違うだろ、ドチビ。お前鈍いにも程がある……ここまでくると、可愛いどころか悪魔だな」


 意味がわからないラゼアさんの言葉を右から左に流して、かなり名残惜しかったけどそっと二人から手を離した。

 ハギルさんの尻尾がさっき以上に落ち着きなく床を叩き、ナトリさんは耳を伏せ顔を真っ赤にしている。

 これは、ちょっとやり過ぎたかも…


 ………

 ……

 …

 あれ?

 険悪なムードは無くなったけど、何か凄く沈黙が重い。

 ハギルさんとナトリさんは落ち着きなく尻尾を揺らしてるし、ラゼアさんは我関せずと床に伏せをして目を閉じている。

 この空気…俺に責任があるなら何とかしなくちゃ。

 だけど、この村や人虎さん関係の話をすれば誰かしらの機嫌を損ねることになるかも知れない。

 となれば、残された選択肢はこれしかない。


「……あの、みなさんは俺自身の話とか興味あります?」


 俺自身の話題なら、誰も不快にならないだろう。

 我ながら名案だ。

 そういえば1ヶ月半近く一緒に過ごしてきたのに、一度も俺の話をしていなかった。

 聞かれなかったし、俺自身もそれどころじゃなかったからいい機会かもしれない。


「ユウヤ、自身?」

「確かに、気にはなってましたけど…」

「今日来たばかりの俺が聞いてもいいのか?」


 口々に僅かな戸惑いや遠慮を言ってるけど、聞きたくない訳ではないらしいことはピンと立った3人の耳が物語っている。

 みんなイケメンなのに、正直な耳が可愛すぎる…


「前々から話そうとは思ってたんですけど、それよりも学ぶ方が先決だったから」


 部屋の中央に座ったまま3人の視線を一身に受けて、俺は懐かしむみたいに口を開く。


「俺の家は米を作っていて、祖父母と父母、出来のいい兄の6人家族でした。住んでいたところは田舎で、半分自給自足みたいな生活をしてた」


 囲炉裏でパチパチと火が弾ける音がする。

 村に住んでいた長老の家も、丁度こんな感じだった。


「家族仲は良くて、兄は大学っていうところで農作物の勉強をしてる。俺はあんまり出来が良くなかったから、適当に学校へ行って家の手伝いばっかりしてました。お陰で村のみんなからいろんなことを教えてもらえましたけど」


 みんなが静かに俺の言葉に耳を傾けている。


「俺達の世界には便利な物がたくさんあったけど、俺の村はともかく他の場所は人と人との関係が希薄でした。電気も水道も下水道もないし、調味料どころか料理すらないけど…ここの方がずっと豊かです」


 そう言えば、一番肝心なことを話すのを忘れていた。


「あ、忘れてましたけど俺、この世界とは別の世界から来たんですよ」


 ………

 ……

 …

 あれ?

 沈黙が嫌で話はじめたのに、また沈黙が部屋を支配した。

 今度は険悪な感じじゃなくて、心底驚きすぎて声も出ないって感じだけど。

 金と赤と蒼の瞳が真ん丸に見開いて俺を見詰めている。


「あー…あの、何かまずいことでも言いましたか?」

「ユウヤが……渡り人…」


 渡り人…?

 みんなが渡り人って言葉に更に目を見開く。


「本当に、ユウヤは別の世界から来たんですか?」


 伏せた耳を震わせて、隣に座っていたナトリさんが俺の手を取る。


「まさか…この目で渡り人を見ることが出来るなんて、信じらんねぇ…」


 なんか、感動してる?

 俺の話をしていたはずなのに、何故かのけ者にされてるみたいだ。


「あぁ…ユウヤ、お前が渡り人…」


 布団の中から手を出して、ハギルさんの大きな掌が俺の膝に置かれる。

 平べったくて金色の毛に覆われた虎の手。


「渡り人というのは、遥か昔…別の世界からやって来た人間のことです」

「俺達の祖先だ」


 いつの間にかラゼアさんも俺の隣に寄り添うようにして座っている。


「ユウヤは本当に、俺達の神なんだ」


 この村にはじめてきた日、ハギルさんが言っていた。

 獣達と交配を繰り返し、獣人を産んだ遠い昔の人間。

 その人間達も俺みたいに別の世界から来たんだ…知らなかった。


「神じゃないですよ。話聞いてなかったんですか? 俺は極々普通の男なんですよ」

「いや、お前は神の国からやって来た人間だ。俺達にとって人間は神…この大陸では信仰の対象だ」


 いくらただの人間だといっても、『人間』だというだけで神扱いになるんなら何を言っても無駄かもしれない。

 だけど、恐れるでも崇めるでもなくむしろ喜んでくれてるなら、まぁ神扱いも悪くないかも。




 ***




 side:ナトリ




「こうやって、適量の水で炊くとふっくらでほんのり甘いご飯になるんです」


 ユウヤが離れから運んできた米を何度か洗って、普段湯で煮るよりも少ない水で火にかけはじめた。

 私達はより増えるようにとかなりの水の割合で煮た『粥』と呼ばれるものしか知らなかったけれど、ユウヤはいとも簡単に違う食べ方を提案してくる。

 今作っているものなんか、私には全く想像もつかない。

 米を使って『料理』ではなく、味付けに使う『調味料』なるものを作っているらしい。

 確か『米麹』を作ってそれから『酒』と『味醂』というものを作り、その『酒』で更に『酢』というものを作るそうだ。

 わからない単語だらけで頭が混乱しそうになるが、ユウヤの素晴らしい知識を後世にまで残すために私は作業するユウヤと台所番の隣で書き物をしている。

 この『酒』等は年に一度程度しか作らないそうだから、『ぱん』と違って頻繁にユウヤから学ぶことができない。

 そのため私がこうして細かく文字に書き起こしているわけなのだが、どうしてもただ腐らせているだけにしか見えない。

 米を水に浸けて放置すれば腐るに決まっている。

 しかしユウヤに言わせれば、それは『発酵』と言うらしい。

『ぱん』を作る際に入れる液体も『発酵』させたものだそうだから、本当に人間とは素晴らしく柔軟な思考の生き物だ。


 人熊族との衝突で深手を負って早1週間、ようやく人化することが出来るようになったハギルは早速長としての仕事に就いている。

 流石にあの傷では縄張りを維持することが難しく、この1週間は前の長であるラゼアに見回りを頼んでいた。

 元々群れることが嫌いだったラゼアは、まだ成体になったばかりのハギルに長を押し付けるとさっさと村を出て行ったらしい。

 にも関わらず、今のラゼアは積極的と言っていいほど村のために尽力している。

 見回りに行くと必ず大きな獲物を携えて帰ってくるし、嫌そうな顔をしながらも文句ひとつ言わずに私達と囲炉裏を囲み食事をする。

 何が彼を変えたのかは、その蒼い瞳が追うものを見れば一目瞭然だ。

 ユウヤ。

 彼のおかげでこの村は豊かになった。

 牧場が軌道に乗れば、食料を安全にかつ確実に手に入れることができるようになるだろう。

 彼の作る『料理』で、私達は心まで豊かになった。


 しかし、ユウヤの影響はそれだけではない。

 コセンは初めての発情と重なったからか、以前よりもユウヤに触れようとしている。

 我が道を行くラゼアも、ユウヤのためにせっせと働きながら村に留まっていた。

 長として常に己を律してきたハギルは変わらないように見えて、その実ユウヤを見つめる瞳に優しさが滲んでいることを私は知っている。

 そして何より、私の中で時折込み上げる衝動。

 発情期は終わりを迎えたはずなのに、ユウヤを見ていると触れたい衝撃に駆られる。

 白く柔らかな肌に牙を立てたい。

 艶やかな黒髪に思う存分指を絡めたい。

 呼吸すら奪うほど激しく唇を奪いたい。

 私の全てでユウヤを貪りたい。

 発情期にすら感じたことのない激しい感情が、時折私の身体を支配する。

 それはきっと、私だけじゃないはずだ。


「そうそう、中々上手いじゃないかコセン」

「そう? ユウヤの教え方が上手いからだよ」


 水場で並んで米を洗っている後ろ姿を眺め、不可解な感情に捕われそうになる。

 ユウヤとコセンが仲良くしている光景を目にするだけで、まるで獲物を奪われそうになった時のような怒りや焦りにも似た想いが込み上げてくる。

 仲間に絆が芽生えることはいいことに違いないというのに、私の心が苛立つ。


「……ユウヤ、『酒』作りの詳しい仕組みについて教えてくれませんか?」

「え? あ、そうですね。文字にするならもっときちんと説明しなきゃいけませんよね」


 作業を他の台所番に任せると、作業台に椅子を寄せて座っている私の隣にユウヤが腰を下ろす。

 思惑通りにコセンから離れて私に説明し始めたユウヤを傍に感じ、ようやくざわついていた心が落ち着いていく。

 発情期とも違う。

 家族に対する想いとも違う。

 この感情は何なのだろうか…

 もしその正体に気付く時がきたら、私はどうするのだろう…




 ***




 この1週間、正直言ってシンドかった。

 怪我で長としての仕事ができなかったハギルさんは、いつも以上に無口だし何かを考え込んでいるようで近寄りがたかったからだ。

 爺様が言った通り虎の姿だからか、傷は順調すぎるくらいのスピードで回復している。

 3日ほどですっかり傷口は塞がり、後の3日で内側の筋肉がくっ付いたみたいで早々にハギルさんは人の姿に戻れた。

 それなのに未だにハギルさんの様子はおかしなままで、周りのみんなも口にこそしないけど気付いているみたいだ。

 やっぱり縄張りの見回りをラゼアさんに任せてしまったことに負い目を感じているのかな。

 ハギルさんは人一倍仕事に関して生真面目だし、長としての責任感も十分過ぎるほど持っていると思う。

 だからこそ、1週間も仕事ができず周りに迷惑をかけたとでも思っているんだろう。

 そんなことないのに。


 ラゼアさんから聞いたけど、ハギルさんは獣化した人虎3匹でも勝てるかどうかわからない獣化した人熊族を相手に、深い傷を負ったものの一人で倒してしまったらしい。

 負い目どころか誇らしく思ったっていいのに、ハギルさんは驕ることなく逆に背後を取られたことを恥だと思っている節がある。

 そんな謙虚すぎるハギルさんを歯痒く思っているのは、きっと俺だけじゃないはずだ。

 ナトリさんやコセンも常にハギルさんの心配をしているし、ラゼアさんは何も言わないけどいつも獲物を獲ってきて栄養のあるものを食べさせようとしてくれている。

 獣化したままじゃ肉食になってしまうから、ラゼアさんの気遣いは本当に有り難かった。

 だけど、それさえもハギルさんにとってはプレッシャーだったのかもしれない。

 俺が看病する度に、何処か申し訳なさそうにしていたし…

 多分俺が『渡り人』っていうのもネックになっていたんだと思うけど。


「皆に言っておきたいことがある」


 ようやく傷が癒え執務を滞りなく熟した夜、いつものメンバーで囲炉裏を囲んでいるとみんながご飯を食べ終わったタイミングを見計らい、ハギルさんが重々しい声で口を開いた。

 みんながハギルさんに注目する中、俺も隣にある金色の瞳を見上げる。

 ハギルさんの瞳には決意のようなものが滲んでいるような気がして、まだ話を聞いていないというのに胸騒ぎが止まらない。


「この1週間、ずっと考えていた。俺に長としての資質があるのか、これからもこの村を守っていけるのか」


 10人ほどこの部屋にいるというのに、ハギルさんの声だけが静かに響く。

 恐らくこの後に続く言葉を予想して、俺の頭は真っ白になっていく。


「俺は長の任を下りる」


 室内に息を飲む音がした。

 台所番のみんなは顔を青ざめさせ、コセンも声が出ないのか口を魚のようにパクパクとさせている。


「何を馬鹿なことを言っているんですか! 貴方以外の誰に長が務まるというんですか!?」


 ナトリさんが牙を剥き出しにして怒っている。

 威嚇するように赤い耳を寝かせ、瞳孔が細くなっているいつにないナトリさんの様子に、本当に心の底から怒っていることが伝わってくる。

 長の右腕としてすぐ傍で働いていた分、途中で責任を投げ出そうとしているハギルさんが許せないんだろう。


「ラゼアがいるだろう。元々長だったラゼアなら、俺以上に相応しいはずだ」


 食後だったから人の姿をとっているラゼアさんは、ハギルさんの言葉を聞いた瞬間嫌そうに眉を寄せた。


「ハギル! ラゼアは貴方に長を押し付けて村を出て行った人虎ですよ!? 相応しいはずがないでしょうっ」

「いや、今のラゼアなら村に留まるはずだ。ここには、ユウヤがいる」


 何でここで俺の名前が出るのかは謎だけど、確かにラゼアさんは料理を甚く気に入っているようだったしそのことを言っているのかもしれない。

 だけど、ハギルさんが喋れば喋るほどラゼアさんの機嫌が悪くなっていく。

 入口の近くにいてみんなとは少し離れているけど、それでもはっきりとわかるくらい顔が険しく歪んでいる。

 ハギルさんは気付かないのかな…


「この1週間でお前達もわかっただろう。俺よりもラゼアの方が長たる器を…」

「………おい、ハギル。黙って聞いてりゃ俺に無断でうだうだ言いやがって…! 言っとくがな、俺は長に戻る気は更々ねぇんだよっ」


 遂にラゼアさんが口を開いた。

 それまでオロオロとしていた周りの雰囲気が、ラゼアさんから噴き出す殺気によって一瞬にして凍りつく。

 牙を剥いていたナトリさんでさえ身体を強張らせていた。

 この中で唯一ラゼアさんの殺気が効いていないハギルさんは、相変わらず金色の瞳に決意を浮かべたまま真っ直ぐにラゼアさんを見詰めている。

 もちろん俺もこの緊張感の中口を開くことさえできず、ただただ事の成り行きを見守ることしかできないんだけど。


「ラゼア、いい加減大人になれ。この村に留まる限り、強い人虎であるお前は何らかの役職に就かねばならない。お前は俺よりも優秀で、外で培った豊富な知識もある。お前以上の適任はいない」

「だから勝手に決めてんじゃねぇ! 俺にはこんなデケェ荷物を背負い込むことなんかできやしねぇ。自分のことだけで手一杯で、村のことまで手が回んねぇんだよ」


 一見ハギルさんの方が冷静に話してるみたいだけど、その実ラゼアさんが言っていることの方が的を射ていると俺は思う。

 ラゼアさんは懸命に怒りを押し殺してハギルさんを諭そうとしてるようだけど、殺気が駄々漏れすぎて誰も口を開けないでいる。


「5年前とは違う。お前はこの村に愛着が湧いたはずだ」

「確かにそりゃあ否定しねぇが、俺の本質は今も昔も変わっちゃいねぇ。いつまた全てをほっぽり出すかわかんねぇんだぞ?」

「それでも俺は…」

「あーっうるせぇ! もういい、わかった。俺が出ていきゃ全てが丸く収まるんだろ!」

「そんなことを言っているんじゃない!」


 誰かっ、この二人を止めてくれ!!

 このままじゃ喧嘩になりそうな感じなんですけど!

 いつもならハギルさんに食ってかかるコセンも、お説教や小言を言いまくるナトリさんも、今日に限っては全く使い物にならない。

 俺が必死に視線で訴えかけても、みんな小さく首を振るだけで何もしてくれない。

 そうこうしている間にも、言い争いは最早怒鳴り合いにまで発展してしまっている。


「大体ラゼアが村を出て行かなければ、今もお前が長だったんだぞ!? 元の流れに戻るだけだろうっ!」

「んな仮定の話なんかしてんじゃねぇよ! 俺はぜってぇ長になんかならねぇからな!!」

「ふざけるな! そんな子供のようなことが通ると思っているのか!?」

「思ってるぜ? お前がどんだけ俺を長にしようとしたって、この村に俺がいなけりゃ無理だろうが」

「…何を言っているっ」

「こういうこった!!」


 言うが早いか、近くにあった扉を開けてラゼアさんがあっという間に逃げてしまった。

 大きな身体に見合わない恐ろしく俊敏な動きに、ハギルさんも含めて部屋に取り残された一同は目を丸くすることしかできない。

 …ラゼアさんがいなくなった…?


「ハ、ハギルさん! ラゼアさんこのまま村を出て行くんですか!?」


 ラゼアさんが部屋からいなくなったことで殺気の呪縛から解放された俺は、隣で放心しているハギルさんの腕を掴んで揺さ振った。


「今ラゼアを失うわけにはいきません! 捜索に向かいますっ」


 いち早く立ち直ったナトリさんが声を上げると、部屋にいた人虎さん達を引き連れて扉から出て行ってしまった。

 その間もハギルさんは何も言わず、開きっぱなしの扉を見詰めたまま動こうともしない。


「……いきなり長を下りたいだなんて、どうしちゃったんですか?」


 腕を掴んでいた手を離して、俺はハギルさんの正面に回り込んだ。

 邪魔な食器を適当に隅に寄せて、胡座を組むハギルさんを真正面から見詰めると、さっきまで決意を滲ませていた瞳が不安定に揺らぎはじめる。

 やっぱり、怪我をしてから良くないことばかりを考えてたんだ。

 怪我や病気の時には気持ちが弱くなるものだけど、まさかハギルさんがここまで思い詰めていただなんて気付かなかった。

 いや、気付いてあげられなかった。

 きっとSOSサインは出ていたはずなのに、俺は怪我が治ればまた元通りになるだろうって楽観してたんだ。


「ハギルさん、長に必要な資質や器ってなんですか?」


 俺の言葉に丸みを帯びた金色の耳がピクリと跳ねる。

 ハギルさんはさっきから資質とか器とか相応しいとか言ってるけど、それはあくまでハギルさんの物差しで計ったに過ぎない。

 村のみんなも離れの女性達も子供達も、誰もが彼を信頼していることを知っている。

 そんな人虎さん達を守ろうと、ハギルさんが力を尽くしていることを知っている。

 得体の知れない俺にまで気を配ってくれる優しさを知っている。

 この前の怪我だって、みんながハギルさんを心配しながらも誇りに思っていることを知っている。

 この村の誰もが、ハギルさんが長たる器だと認めていることを知っている。

 新参者の俺でさえこれだけ知っているというのに、ハギルさんは全く理解していないのだろうか?


「長たる者、常に村を守らなければならない。そのためには誰よりも、他種族よりも強くなければ。その点、俺はラゼアよりも弱い」

「強いだけが長の仕事じゃないですよね? 俺だってちゃんと知ってるんですよ、ハギルさんの仕事のこと」


 前にナトリさんに聞いたことがある。

 ハギルさんは朝の見回りが終わると、ナトリさんと一緒に村のためにいろいろな仕事をしているらしい。

 それは人虎間の小さな揉め事から、他種族との貿易まで多岐に渡るそうだ。

 特に世界中を飛び回って商いをしている人鷲族とは長年折り合いが悪かったけど、ハギルさんの根気強い説得のおかげでその関係は改善へと向かっているらしい。

 俺をこの村に住まわせてくれた英断によって、自分で言うのもなんだけど生活は確実に豊かになっていると思う。

 全部ハギルさんのおかげだ。


「人虎さんは基本的に個人主義なんですよね? そのみんながハギルさんを信頼してるし、ハギルさんもその信頼に十分応えていると俺は思います」


 自分を向上させるには上を見ることも大切だとは思う。

 だけど、理想ばかりを追い掛けていても切りがないし、それに夢中になってたら大切なものを取り零してしまうかもしれない。


「俺も長はハギルさんしか考えられないし。ラゼアさんに役職が必要なら、新しく作ればいいんですよ。例えば用心棒とか。あ、用心棒は役職じゃないか…」


 ラゼアさんには悪いけど、俺にはラゼアさんが他の種族と話し合いなんかできるとは思えない。

 それはきっと、ラゼアさん自身もわかっていると思う。

 だから逃げ出したんだ。

 わかっていないのはハギルさんだけ。


「……くっ、くく…ッ」

「え?」


 黙って俺の話を聞いてくれていたハギルさんが、何故かいきなり笑い出した。

 さっきまでの思い詰めた雰囲気は和らぎ、優しい暖かさを帯びた眼差しで俺を見下ろしてくる。


「用心棒か、それはいいな」


 ハギルさんの大きな掌が俺の頭をゆっくりと撫でていく。

 久し振りに感じるハギルさんの掌に、俺は不覚にもジンッとしてしまった。

 血塗れで帰ってきたあの日から一週間、ようやく元のハギルさんに会うことができたような気がする。


「…なんか、こうやって頭を撫でてもらうの、久し振りですね」

「ユウヤが泣いていた時は、獣化していたからな」

「……そのことは忘れてください」


 目を覚まさないハギルさんに縋って泣いていたことを思い出し、俺は赤くなっていく顔を見られまいと深く俯いた。

 ハギルさんが言い触らしたりしないことはわかっていたけど、18歳にもなって泣きじゃくっていた事実は余りにも恥ずかし過ぎる。

 できればあの場にいた全員の記憶を消去してしまいたいほどだ。


「ユウヤ、俺は自信がなくなっていたんだ。ラゼアは前の長だし、縄張りを維持しながら狩りさえも一匹で熟すことができる」


 ハギルさんの言葉に口を開こうとしたら、それを遮るようにやんわりと背中に腕が回された。

 軽く抱き寄せられて、合わさった胸からハギルさんの鼓動が伝わってくる。


「だが、お前のおかげで目が覚めた。ユウヤの言う通りだ。いくら村に愛着が湧こうと、ラゼアは力ばかりの無鉄砲だったことを今思い出した」


 ラゼアさん、酷い言われようだな…


「俺は長を続ける。ラゼアには用心棒になってもらうことにしよう」


 どうやら俺の提案が採用されて、話は丸く収まったみたいだ。

 俺は安心してしまい、ハギルさんにくったりともたれ掛かった。

 後はナトリさん達がラゼアさんを捕まえられれば、大団円になるんだけど…




 一夜明けて帰ってきた『ラゼアさん捜索隊』のみんなは一様に暗い顔をしていた。

 その顔だけで結果がわかってしまうくらいの落ち込んだ雰囲気に、俺は『どうだった?』なんてとてもじゃないけど聞けない。

 いつものように朝ご飯をみんなに配っている間も、やっぱり何処となく元気がないみたいだ。

 村を抜けて一人で暮らしていたとはいえ5年前までラゼアさんはこの村の長だったわけだし、最近じゃ狩りの仕方を若者達に教えたりと結構働いていたからいつの間にかみんなに慕われていたんだ。

 きっと本人は気付いていなかっただろうけど、何だかんだでみんなラゼアさんを受け入れていた。

 だからいなくなって寂しいんだ。


「ユウヤ、元気ないね。やっぱりラゼアのことが気になる?」


 隣でパンを切り分けていたコセンが、少し力のない笑みを浮かべて俺を見下ろしてくる。

 いつもは楽しそうに尻尾を立たせてたり揺らしたりしてるのに、今日は地面に向かってだらりと垂れ下がっていた。

 きっとコセンも寂しく思ってるんだな。

 木のおたまを持っていない方の手で、コセンのぴょこぴょこ跳ねた茶色の髪の毛を撫でる。

 流石ネコ科なだけあって、柔らかなネコっ毛だ。


「コセンも寂しいんだろ? でも大丈夫、心配いらないよ」


 わしわしと頭を撫でてやると、コセンの耳が気持ちよさそうに伏せられる。

 人虎だから虎のはずなのに、コセンは何となく犬っぽく見えてしまうのは俺だけかな。


「そうだね。ラゼアは食いしん坊だし、きっとお腹が減ったら帰ってくるよね!」

「ラゼアさんもコセンにだけは食いしん坊だなんて言われたくないと思うよ?」


 いつもの調子を取り戻したコセンを見て、俺もなんだか元気が出てきた。

 きっとラゼアさんは戻ってくる。

 そう信じることが大切なんだ。

 二人で小さく笑い合いながら最後の一人に朝ご飯を配り終えると、今度は台所番とハギルさん達のご飯を装っていく。

 焼きたてのパンにたっぷり野菜のポトフを大きなお盆に乗せて、屋敷と繋がっている扉から囲炉裏の部屋へと運ぶ。

 もうすぐ完成する台所と繋がった大きな食堂があれば、村のみんなと一緒にご飯を食べることができるようになる。

 集会にも使えるし、何よりみんなが食べる顔を見られるなんて楽しみだ。

 板張りの廊下を歩いていくと、囲炉裏の部屋にはすでにハギルさんとナトリさんが座っていた。

 他の人虎さん達のように目に見えて落ち込んではいないけど、やっぱり何処か覇気がないように見える。

 ハギルさんは自分のせいでって思ってるみたいだし、ナトリさんはラゼアさんを捕まえられなかったことに自信がなくなっているのかもしれない。

 だけど、5年もサバイバル生活を送っているラゼアさんに適わないのは仕方がないと思う。


「さ、ご飯にしましょ。今晩は腕に縒りをかけてご馳走にしますから楽しみにしてください。そしたらきっと、ラゼアさんも匂いにつられて帰ってきますよ」


 お盆を床に置いてハギルさんの前に椀を並べていく。

 元気付けようといつもより明るく言いながら笑って見せると、ハギルさんが一瞬耳をピンと立たせて驚いたように目を見開き、すぐに呆れたような大きな溜息を吐き出した。

 あれ、俺ってそんな変なこと言ったかな?


「……あの、」

「ユウヤの言う通りだったようだな」

「…え?」


 ハギルさんの視線が俺から僅かに逸れたのを見て、つられるように後ろを振り返る。

 部屋の入口に立っていたのは、口許を赤く染め上げた白くて大きな虎だった。


 さっきまでラゼアさんを探し回っていたナトリさんも、椀を持ったまま固まっているコセン達も、突然現れた大虎に開いた口が塞がらないみたいだ。

 虎―――ラゼアさんは、蒼い瞳を僅かに泳がせている。


「ち、違うぞ! 最近の習慣でついデカイ牛を狩っちまって、俺一匹じゃ腐らせるのが目に見えてたからそれじゃ獲物に申し訳が立たねぇだろ!?」


 血に濡れた口許からして狩りをしてきたのは本当の話なんだろうけど、何故か早口でまくし立ててくるラゼアさんが、まるで怒られるのが怖くて言い訳をする子供みたいに見えて。


「……ラゼアさんっ」


 気付いたら床を蹴ってラゼアさんの白い巨体に飛びついていた。


「ゆっ、ゆゆユウヤ!」


 他人と触れ合うのが嫌いなラゼアさんはオロオロと戸惑っていたけど、俺は構わず温かくて毛足の長い胴体に顔を埋めてぐりぐりと額を擦り付ける。

 頑張って明るくしなきゃと思っていたけど、本当は心のどこかで不安だった。

 今こうしてしっかりとラゼアさんの存在を確かめれば、段々と心が落ち着いていくのを感じる。


「……戻って来てくれたんですね、ラゼアさん」

「………お前の『料理』は、まぁ気に入ってるしな」


 ラゼアさんは外方を向いて素っ気なく言うけど、俺が抱き着いているのを振り払おうとはしないし、無意識なのか太くて長い尻尾が慰めてくれるみたいに俺の足に触れてくる。

 温かくて夜の匂いがするラゼアさんにギュウギュウとくっ付いていたら、不意に脇に腕を突っ込まれて持ち上げられてしまった。

 簡単にラゼアさんから引き剥がされた俺が振り返ると、困ったような呆れたような複雑な表情を浮かべているナトリさんの顔があった。

 軽々と子供のように俺を持ち上げているのは、珍しくもナトリさんだったみたいだ。


「ユウヤ、ラゼアが帰って来て嬉しいのはわかりますが、些か抱き着き過ぎですよ」


 いつものようにハギルさんの隣に下ろされると、ナトリさんが苦笑を浮かべて頭を優しく撫でてくる。

 確かに嫌がってないように見えたけど、優しいラゼアさんは我慢してくれていたのかもしれない。


「あの…ラゼアさん、我慢させちゃってごめんなさい…」

「いや、まぁ…確かに別の意味で我慢してたけど…」

「別の意味?」


 我慢にもいろいろな意味があるのかな?

 いつの間にかこの中で一番下っ端のコセンが、俺の隣にラゼアさんの分の朝食を準備している。

 首を傾げる俺を余所に、ラゼアさんは人化するためかさっさと別の部屋に言ってしまった。

 いや、慌てて…かな。


「別の意味ってなんでしょうね、ナトリさん。…ナトリさん?」


 ハギルさんの隣に腰を下ろしたナトリさんに視線を移して、俺はようやく部屋の空気がおかしくなっていることに気が付いた。

 さっきまで柔らかな雰囲気だったハギルさんの表情は硬くなってるし、ちょこちょこと働いているコセンの顔も複雑だ。

 もしかしてみんな、俺が子供みたいに抱き着くのを見て引いちゃったのかな…

 人虎さん達はスキンシップも余りしないから、俺の行動が過剰に見えてしまったとしても仕方がないと思う。


「…えっと、はしゃいじゃってごめんなさい」

「………ユウヤ、それ違うから…」


 床に正座して小さく頭を下げるけど、コセンが少し大袈裟な仕種でガックリと肩を落としてしまった。

 違うと言われても何が違うのかわからないと頭を捻っていると、俺の腰にそっと尻尾が触れてきた。

 長く艶やかな金色のそれは、もちろん隣に座っているハギルさんのもので。


「ユウヤが気にすることじゃない。心配しなくとも、ラゼアが戻って来て嬉しいのはお前だけじゃないからな」


 ハギルさんが口を開いたことで、部屋の雰囲気が軽くなったような気がする。

 さっきまでの変な空気は何だったんだろう?




 ***




 ハギルさんが無事長を続けることになり、ラゼアさんも戻って来て一件落着だと思った矢先、村はかなりの賑わいにごった返すことになった。

 もうすぐ行われる春祭りに先駆けて、離れの人虎さん達が村に戻ってくるらしい。

 俺は知らなかったんだけど、どうやら発情期が終わればみんな一緒に暮らすそうだ。

 ただ、早い者は冬から発情することもあるみたいで、俺がこの村に来た時にはみんな離れに移動した後だったというわけだ。

 昨日、無事にみんなの発情期が終わったとの知らせを受けて、ハギルさんが離れのニザンさんに話をつけに行った。

 そして今日、メスの人虎さんや子供達が村にやって来たんだけど…


「新しい建物が増えてる!」

「ねぇユウヤッ、これが『牧場』!?」

「こんなので『ぱん』ができるの?」

「ボク達今日から『食堂』ってトコでご飯食べるのか?」

「ユウヤ、アタシんちにお泊りして!」

「あっ、ユウヤ! 鶏逃げた!!」


 最早戦争だ。

 子供達が離れにいる間に出来た牧場やら台所やら食堂に、小さな耳をピンッと立たせて興味津々に覗いて回るチビ人虎達。

 台所だけは刃物があるから中に入れなかったけど、牧場での子供達は小さいながらもまさにハンターの顔をしていた。

 子供だろうと立派な人虎らしく、獲物を目の当たりにすると飛び掛かりたくなるみたいで、止めるのにかなりの労力を費やした。

 こんな時に限って頼りになる人達は引っ越しの手伝いをしていたり、春祭りの準備に借り出されて出払ってしまっている。

 つまり、今このちびっ子ハンターを押さえられるのは俺しかいないということだ。

 あぁ、こんなことなら安請け合いするんじゃなかった。

 せめてもう一人くらい人手が欲しい。


「何やってるんだいっ、人虎としての矜持はないのか!?」


 子供達が牧場で逃がしてしまった鶏達を追い掛けていると、不意に後ろから大きな声が響いた。

 鳥小屋から逃げて牧場内に散らばった鶏を追い掛けていた子供達が、その声を聞いて一様に背筋を伸ばす。

 確かに、気が引き締められるような凛とした声だ。


「鶏如きを無傷で捕まえられないなんて情けない!! 悔しかったら騒ぐ前に捕まえるのね! 人虎としての力を見せてみな!!」


 吠えるように叱咤され、顔付きの変わった子供達が再び鶏を捕まえはじめた。

 その姿はさっきまでとは違い闇雲に飛び掛かるのではなく、体勢を低くし背後から気配を断って襲い掛かるという計算された動きになった。


「うわぁ、みんなちっちゃいのに凄いな…」


 あっという間に生け捕りにした子供達が、次々と鶏を鳥小屋に戻していく。

 俺も近所の養鶏場で鶏捕獲を手伝ったことがあったけど、あんな風に鮮やかにはいかなかった。


「子供だからといって侮っては駄目。甘やかすことは生きる能力を奪うことなのよ。小さくても人虎一族の誇りを持つ、立派な戦士達なんだから」


 後ろから隣へと歩いてきた人を僅かに見上げ、その栗色の髪が風に靡く姿に一瞬眩しくて目を細めてしまう。


「そうですね、ニザンさんの言う通りです。みんな俺なんかより余っ程逞しいですよ」


 子供達の顔は何処か誇らしげで、男の子も女の子もみんな立派に見えた。

 こんなに小さくても人虎の血をしっかり受け継いでいるんだと思うと、段々と自分が情けなくなってくる。

 人虎さん達は一人でも生きていけるだけの力を持っているのに、俺はどんなに頑張ったってただの高校生にしか過ぎない。

 狩りはもちろん出来ないし、体力がないから火をつけることすらままならない。

 子供達でさえ出来ることが、俺にとってはかなり難しいだなんて恥ずかし過ぎる。


「何言ってるんだい。ユウヤは人虎じゃないんだよ? 種族が違えば得意なことや出来ることが違ってくるのは当たり前じゃない。アタシ等は人鷲族のように空を飛ぶことは出来ないし、人狼族のように伴侶は持てない。そして人のように『料理』だって出来やしない」


 ニザンさんのすらりと長い指が、俺の頭を宥めるように撫でていく。

『種族の違い』って言うのは俺がこの村に来てからずっとネックになっていた問題なのに、こうもあっさりと当たり前だと言われてしまったら納得せざるを得ないと思う。

 容姿が違う、習慣が違う、習性も違う、食べる物も、環境も、世界すら違う俺達。


「アタシ等はユウヤにたくさん助けられているんだよ。だからユウヤも、もっとアタシ等に助けられな」


 こうやって当たり前に有りのままの俺を受け入れてくれる人虎さん達に、俺はきちんと何かを返せているのかなって心配になる時があるけど。


「それにね、オス共はユウヤに夢中なんだから。アンタはそれに胡座をかいてりゃいいんだよ。あんな自分の欲望すら抑えられないオスなんか、そんな気さえ起こらないほどこき使っておやり」


 きっと俺が思っているよりももっとずっと、恩とか借りとか感じないでいいほど深く、人虎さん達の仲間に……家族になれていたのかも知れない。

 俺の頭を撫でながら眩しいほど力強く笑っているニザンさんに、俺も有りったけの笑みを返した。


「ありがとっ、ニザンさん」


 するとどういうことかニザンさんの栗色の耳と尻尾がピキッと硬直し、片手で自分の口許を覆って顔を逸らしてしまった。

 手と髪の隙間から見える肌が僅かに赤い気もする。


「あ、あの…ニザンさん?」

「嗚呼…オス共はこれにやられたのね。成る程これはかなりの威力だわ…髪の毛も凄く滑らかだし黒い目も潤んでるし、唇なんて桜色でうっすら頬も紅潮させているし、オスじゃなくたってクラッとするわよ。メスのアタシでさえ押し倒したくなったわ。これは発情期明けといえどマズイんじゃないの? こんな可愛らしい子野放しにしてたら、どっかの馬鹿に頭からパックリいかれちゃうわよ」

「……ニザン、さん?」


 口許を手で押さえているから何を言ってるのかまでは聞き取れないけど、次第に伏せられていく耳や落ち着きなく揺れはじめた尻尾に何かただならぬことが起きてるんじゃないかと不安になってくる。

 猫は機嫌が悪いと尻尾を振るから、きっと人虎さんだってそうに違いない。

 俺の何かがニザンさんの機嫌を損ねさせてしまったんだ。

 これ以上悪化させないように、ニザンさんの服の裾を小さく摘んで注意を引くように軽く引っ張る。

 チラリと栗色の目が俺に向いたことを確認して、機嫌を伺うようにジッとニザンさんを見上げた。


「ニザンさん、俺…何か気に障ること言ったんなら、あの…ごめんなさい…」

「―――ッ!! ユウヤ!!」

「はっ、はい!」

「その真っ黒な目をうるうる潤ませるのはお止め! 服の裾を摘むなんて可愛過ぎるでしょ!? しかも上目使いだなんて、人虎なのに庇護欲感じちゃったじゃないのさ! 身の安全のためにもアンタは自分の魅力を自覚なさい!!!!」

「はいぃっ!!」


 さっき子供達を叱咤した時とは比べ物にならないほどの大声に、内容はよく理解できなかったけど反射的に返事をしてしまった。

 子供達ですらニザンさんの剣幕に近寄ることが出来ず遠巻きにこっちを見ている。

 きっとこの子供達もこうやってニザンさんに叱られてきたんだろうな。

 何だかそう思うと擽ったくて、俺はニザンさんの服から離した手を緩む口許を隠すように押し当てた。

 言葉こそ乱暴だったけど励まして叱ってくれたニザンさんのおかげで、一瞬下降した気持ちが再び浮上してきた。

 そこにもって現れたハギルさんに、一気に肩の力が抜けてしまった。

 今まで散々俺を振り回してくれた元気過ぎる子供達が一斉にハギルさんの方へと走っていく姿に、ようやく過酷だった子守りが終了したことを悟ったからだ。


「あーあ、折角ユウヤを独り占めしてたってのに…」


 隣に立つニザンさんが何かを呟いたようだけど、それよりも俺は解放された安堵感でヘナヘナと地面に座り込んでしまいそうになるのを踏み止まることだけで手一杯だった。


「……どうした、ユウヤ。顔色が悪いようだが」


 腰や足に子供を纏わり付かせたハギルさんが、目敏く俺の疲れた様子に気付いて歩み寄ってくる。

 いつも俺のことを見守ってくれているハギルさんには、やっぱりお見通しみたいだ。


「いえ…子供達が元気良すぎて、ちょっと疲れただけですから」

「あぁ、大方ユウヤのことも考えずコイツ等が引っ張り回したんだろう?」


 困ったような笑みを浮かべて労るように俺の頭を撫でるハギルさんの掌に、不思議だけど疲労が吸い込まれていくような気がする。

 さっきまで感じていた疲れが解れていく感覚に、知らず顔まで綻んでしまう。


「あーあー、見せ付けてくれちゃって。子供達のことはもういいから、早くどっかへお行き。教育に悪いわ」

「何を言っている、ニザン」

「無自覚? これだからオスは能無しなんだよ。ほら、ユウヤに用があって来たんでしょ? ここはアタシに任せて、アンタ達は何処へなりとお行きよ」


 俺を挟んで二人が会話しているのを眺めながら、やっぱり双子の姉弟だけあって似ているなぁと改めて感心していた。

 ハギルさんは男らしくて、ニザンさんは女性らしいけど、眼差しの強さとか雰囲気とか威厳とか…とにかく全体的な印象がそっくりだ。

 そんなことを考えていた俺は気付かなかった。

 大人にもなってハギルさんに撫でられている俺を不思議そうに見詰めてくる子供達の視線に。

 そして、人虎族の村に忍び寄る暗雲の気配に、俺だけじゃなくまだ誰も気付いてはいなかった。




 ***




 side:???




 この大陸は西に広大な草原と東に広大な森があり、南には砂漠が広がり北は氷に閉ざされている。

 その中でも、森は様々な種族がひしめき合う激戦区だった。

 常に他種族と縄張り争いを繰り広げ、限られた獲物を奪い合う。

 それがこの森に住む種族の定めだった。

 しかし今、それが変わろうとしている。

 森の中で最大の群れを作っている『人虎族』が、最近何やら様子がおかしいのだ。


 相変わらず縄張りは維持しているものの、徐々にだが狩る獲物の数が減少している。

 偵察に向かわせた仲間の情報によると、村の端にあった広い草原部分を柵で囲みその中に獲物を放しているらしい。

 何故そんなことをするのかはわからないが、とにかくあの柵に入れば労さず簡単に獲物を仕留めることが出来るというわけだ。

 探す手間が省ける上、獲物はその柵から出られないのだから狩りは格段に楽で尚且つ確実に仕留められる。

 しかし、問題は人虎族だ。

 奴らは人熊族に次いで巨大な上、獣化した状態で木にも登れるし水も泳ぐことが出来る。

 我々じゃ到底敵う相手じゃない。


 となれば、答えはひとつだ。

 人虎族の力に拮抗する力を持つ種族と手を組む。

 森で最強の人熊族は基本的に単独で行動しているから、人虎に群れで来られたら流石に敵わない。

 人鷲族は最近人虎族と和睦したらしいし、人鰐族など論外だろう。

 草原最強の人獅族も、森という環境では人虎族には敵わないだろう。

 なら残るのは、人狼族だ。

 個々の力は人虎には到底及ばないが、奴らの強固な結束力は本来単体で生活する習性を持つ人虎族にはないものだ。

 そして森という環境では、その結束力が時に力を凌駕する。

 相手は決まった。

 どう漁夫の利に持ち込むかは我々の腕の見せ所だ。

 さぁて、楽しい春祭りになりそうだ。




 ***




 この村にとっての春祭りとは、神である渡り人に供物を捧げて五穀豊饒を祈る儀式のようなものらしい。

 お祭りと聞いていたのに想像とかなり違っていて俺は少なからずショックを受けていたけど、そもそも料理がないこの世界じゃ夜店で買い食いなんてそもそも有り得ないことに気付いた。

 そうとなれば、俺がそういう風習を作ろう。

 渡り人に捧げられた後の供物を使って、いつもよりたくさんご馳走を作ってみんなで宴を開こう!

 そうしたら儀式としても祭りとしてもオールクリアなんじゃないかな。

 そうと決まれば早速今から準備しないと!!


 …て、気合い入れたまでは良かったんだけど…

 春祭りを前日に控えた今日、俺は明日の宴に向けた準備でてんてこ舞いだった。

 何故なら今、台所にいるのは俺一人だったからだ。

 女性や子供達は祭りの為に織物や衣装を作ったり、花飾りや装飾品を揃えたりと忙しいらしい。

 男性陣も村の見張りや畑仕事、牧場仕事に割り振られていない人達は総出で狩りに出掛けてしまっている。

 つまり、いつもは台所番で分担していた仕事を俺一人で熟さなければならないということで、もう目が回るほどの忙しさだ。

 小麦は粉のストックがあるからまだいいけど、野菜の下拵えが尋常じゃない。

 百人以上いるこの村は1食作るだけでもかなりの量になるというのに、今日明日は普通の食事に加え夜の祭りに向けた準備もある。

 明日の昼にはみんな手伝ってくれるみたいだけど、今日は徹夜覚悟で仕度しなくちゃならない。

 ご馳走を作ると言った時のみんなの嬉しそうな顔を思い出して、眠気と戦いながら包丁を握り直す。

 目の前には未処理の野菜が山を築いてるけど、そんな物みんなの笑顔のためなら苦にならない。

 包丁でじゃがいもの皮を剥いては、釜戸に薪を入れて沸いたお湯に鉈で叩き割った骨を入れていく。

 野菜の皮も一緒に入れて出汁をとりながら、また皮剥きを再開して薪を入れ出汁の具合を見て野菜を切って薪を入れ…

 それを繰り返していたら遂に空が白々と明けはじめ、狩りに出ていた人虎さん達が帰って来てしまった。

 大慌てで作り置きしていたパンと残り物のスープを温め直し、少しでも疲れをとってもらえるようにと肉の上からかけるためのレモンソースを作る。

 同時に捌いておいた鶏肉を鉄板に並べて石窯で焼いていく。


「ユーヤ! 一人で大丈夫?」


 台所に1番にやって来たコセンを振り返ると、一晩中狩りをしていたとは思えないほど元気な笑顔で井戸から水を汲み手を洗っている。


「大変だけど…、フハッ! もう駄目っ、我慢、でき、な…ッ、アハハッ!」


 いつものようにニコニコしてるコセンだけど、茶色の猫っ毛に所々葉っぱがくっ付いているものだから俺はとうとう我慢が出来ずに笑ってしまった。

 まるで鳥の巣のような頭にキョトンとした顔が何とも可愛らしくて更に笑いを誘う。

 こんな頭をしているのに他の人虎さん達は誰も注意してくれなかったのかな?


「え? えっ? 何、どうしたの? 俺なんか変?」


 桶に手を突っ込んだままおろおろとし始めたコセンが可笑しくて、お腹を抱えて笑いながらも片手をその頭に伸ばす。

 柔らかな髪の毛に絡まる葉っぱを摘むと、何故か硬直してしまったコセンにそれを見せる。


「…へぁっ、葉っぱ! うわ、これは違くて、狩りで木に登った時にきっと…って、そんなに笑わなくてもいいじゃんか!」


 俺よりも背の高いコセンが恥ずかしそうに顔を赤くしたかと思えば、今度は拗ねたように唇を尖らせる姿にまた笑いが込み上げてくる。


「ふははっ、ゴメンねコセン、だけど…フフ、可愛くて…」


 ペションと耳を寝かせた姿も愛らしく、続々とやって来た台所番のみんなにもからかわれているコセンを見て、何だか眠気が吹き飛んでしまった。

 それにみんなが並んで手を洗ってる姿もメチャクチャ可愛いし、疲れも癒されていくみたいだ。

 よし、元気が出てきたし、朝食が終わったら朝から行われる儀式を俺も見に行こう!




 台所番の手伝いもあって何とか朝食も終り、片付けも底々にみんなは儀式の最終調整に向かって行った。

 俺はまた一人取り残されたわけなんだけど、ハギルさんが今年の儀式は見物だと誘ってくれたから寂しさを感じることなくそれどころかワクワクしていたりする。

 朝食さえ終わってしまえば残るのは宴用のご馳走作りだけだから、ここまでくれば俺一人でも十分間に合うはずだ。

 人虎さん達は基本的に一日二食で、お昼は滅多なことがない限り食べない。

 普通にお腹が空くと思うんだけど、よくよく考えれば肉食動物は飢えに強いものだから一日二食でも多いくらいなのかも知れない。

 かくいう俺は未だにその生活に慣れなくて、台所を預かっている立場を存分に利用して一人だけ昼食を食べていたりする。

 あ、もちろんハギルさん達の許しは得てるけどね。

 おおよその下拵えが終わり後は仕上げを残すのみという頃になって、儀式開始を告げる太鼓の音が聞こえてきた。

 儀式は村の外れにある小さな祠の前で行われるらしいから、今から急いで行けばまだ間に合うはずだ。

 いや、はずだった。


 人虎さん達の殆どが祠へと集合しているはずなのに、外にたくさんの気配を感じた。

 そこで大人しく様子を伺っていれば良かったのに、危機感の薄い俺は何の疑いもなく扉を開けて外に出てしまった。

 きっと遅れてしまった人虎さん達がいるのだろうと思って。

 しかし、そこにいたのは想像を裏切るものだった。


「………犬? …いや、狼……」


 広場を縦横無人に走り回る複数の影。

 それは灰色をした狼の群れだった。

 俺の存在に気が付いたのか散り散りになっていた狼達が集まり、一定の距離を空けて俺を囲みはじめる。

 想像もしていなかった状況に未だ頭がついていかない俺は、とっさに台所小屋へと戻ることも声を上げることもできずに呆然としていた。

 そんな俺の様子を怪訝に思ったのか、さっきまでは牙を剥き出しにして唸り声を上げていた狼達が徐々に威嚇を解いていく。

 その様子に俺も困惑してしまい、双方が戸惑うという微妙な空気が漂いはじめた。

 すると、不意に狼達が道を空けはじめ奥から優に2.5mはありそうなほどの大きな狼が表れた。

 他の狼とは明らかに違う、静かに歩いているだけなのにビリビリと肌に刺さるような威圧感と、この世界では珍しいはずの真っ黒な毛並みをしている狼に、俺は知らずゴクリと喉を鳴らしてしまう。

 朝日に輝く艶やかな黒の毛並みに、ガッシリとしている虎とは違いスラリとした身体、豊かな尻尾にピンッと尖った大きめの耳。

 俺を真っ直ぐに見詰めてくる瞳は濡れたような黒い色をしていて、見ているだけで吸い込まれてしまいそうだ。


「メチャクチャ綺麗…」


 何処かで口にした言葉だと気付きながらも、貧困な俺のボキャブラリではこの言葉しか思い付かなかった。

 それくらい目の前にまで迫って来ている狼は綺麗だった。


「何と変わった子供じゃ」


 狼が言葉を話した。

 少しは予想していたけど、やっぱりこの狼達も人虎さん達のように人間に変身できるのかも知れない。

 それにしても低く落ち着いた狼の声に、綺麗な動物は声も綺麗なのだと改めて感心してしまう。


「村に奇襲をかけられたというに、怯えることも戦うことも助けを呼ぶこともせんと、儂を綺麗じゃと申すとは」

「あ、いや…え? 奇襲…?」


 もしかしたらとは思っていたけど、この狼達は人虎の村を襲おうとしてるのか?

 だとすれば、俺はとうとう食べられてしまうのかも知れない。

 嗚呼…食物連鎖再び、だ。


「ふむ、そなた…耳と尾が見えぬな。人虎族ではないのか?」

「…へ? は、はい。俺は人虎族じゃありません」

「ならば、何故人虎の村におるのじゃ」

「それは…まぁ、色々ありまして…」


 一から説明すると物凄く長くなってしまいそうだから適当に割愛すると、また深く思案するように黒い狼が目を細めた。


「……左様か。ならば…」

「…はっ!? うっわ!!」


 ぐっと狼が近付いてきたかと思えば、服を噛んであろうことか俺を空中に放り投げた。

 落ちる!と思った瞬間、俯せの状態でもっさりとしたものの上に落ちた俺は、痛みを感じない代わりに盛大に混乱してしまう。

 明らかに目の前にあるのはツヤツヤの黒い毛皮で、それは恐らくさっきの巨大狼の背中のようだ。


「掴まっているが良い」


 低い声が聞こえたかと思えば、次の瞬間には素晴らしいスピードで狼が走り出した。

 恐怖の余り声を上げることもできずに、俺はただただ振り落とされないように必死で狼に抱き着くことしかできなかった。


 薄目を開けるとビュンビュンと流れていく風景が恐ろしくて、走る度に波打つ狼の背中を渾身の力で縋り付く。

 先頭を走る巨大狼の後ろをたくさんの狼がついて来ているのを感じるんだけど…

 ……あれ?

 この狼達は人虎さん達の春祭りを見に来たんじゃなかったのか?

 もしそうじゃないのなら、一体何のために村まで来ていたんだろう…

 僅かに疑問が過ぎったものの、今度は崖を登りはじめた巨大狼にすぐに考える余裕を奪われる。

 ピョンピョンと軽い足取りで登って行く狼達とは打って変わって、俺は最早半泣き状態だ。

 きっとすでにかなりの高さになっているはずだから、恐すぎて目が開けられない。


 うぅっ…ハギルさん、ナトリさん、ラゼアさん、ニザンさんっ、この際コセンでもいいから誰か助けて下さい!

 もう腕の力が限界で、これ以上抱き着くことが出来ない。

 巨大狼に声をかけたくても、リズミカルに跳ねる動きに舌を噛んでしまいそうで口を開く隙もない。

 食べられるのは仕方がないかもしれないけど、死因が転落しなんて絶対に嫌だ。

 だけど、…これは本気でマズイ……


「………うっ、わぁっ!!」


 巨大狼が一際大きく跳躍した後の着地の反動で、遂に俺の手が離れてしまった。

 訳もわからず狼達に連れて来られた揚げ句、人虎さん達に別れも告げずに俺は死んじゃうんだ。

 きっといきなりいなくなって、心優しいみんなは心配しているだろう。

 ごめんね、みんな……ご馳走は、食べさせてあげられそうにないよ…

 と、手が離れてここまでが0.03秒くらいの出来事で、次の瞬間俺は背中に衝撃を受けて身体を硬直させた。


「何をしておる、坊」

「………ん? 俺、死んでない…」

「当然じゃろう。こんな低いところから落ちて死ぬなんぞ、赤子くらいじゃ」


 呆れたような巨大狼の言葉にそろそろと目を開けると、そこは崖の中腹辺りに位置する洞穴の入口だった。


「……はぁーっ、ビックリしたぁ…ッ!」


 死を覚悟したからこそ込み上げてくる大きな安堵感に、俺は腰が抜けてしまって地面に倒れたまま起き上がることができなくなってしまった。

 仕方ないよね、タイミングが少しでもズレてたら今頃俺は…いや、もう考えるのは止めよう。


「掴まるのでさえままならぬとは…成体前だとは思っておったが、よもや十も過ぎておらぬのではないか?」

「セオト、何故このような子供を連れて来たのだ」

「我等はセオトの決定には従うが、理由くらい聞かせてくれ」


 俺が高鳴る鼓動と冷や汗に四苦八苦している内に、後続の狼達が巨大狼を囲んで何か言っている。

 巨大狼が何か言ったのは聞こえなかったけど、他の狼達が口々にセオトセオトって言ってるから、きっとこの巨大狼がセオトさんっていう名前なんだろう。


「お前等はわからぬのか? 人虎一族は今、獲物を村で飼っているそうじゃないか。ということは、この人虎族ではない坊も獲物だということじゃ」


 え、っと…もしかしてもしかすると、物凄く勘違いしてない…?

 洞窟らしき横穴の入口付近で、俺とセオトさんを取り囲むようにしている狼達に何とか誤解を解こうと口を開く、けど…


「あ、あの、俺は別に捕まってた訳じゃ…」

「何て下劣な!!」

「あの…」

「誇り高かった人虎も落ちぶれたものだっ、嘆かわしい!」

「だから…っ」

「人化する動物すら食すなんて、気でも違ったか!」

「聞いて下さ…」

「坊、恐ろしかったじゃろう? 儂等と共におれば人虎とて手出しは出来まいて、安心するが良い」


 この人達はもしかしたらわざと俺に喋らせまいとしているのかと勘繰ってしまいそうになるほど、ことごとく俺の言葉は遮られてしまった。

 困り果ててセオトさんを見ても全くわかっていないようで、慰めるように鼻先で俺の肩をトンッと押してきた。

 気遣ってくれるのは嬉しいけど、このままじゃ人虎さん達に迷惑がかかってしまう。

 諦めずにもう一度声をかけようとした矢先、洞窟の奥から明かりを持った若い女性がやって来た。

 多分人化している狼なんだろう、灰色の髪には人虎さん達とは違う尖った耳と豊かな尻尾が見える。

 服は繊維を編んだようなザックリとした布を身体に巻き付け、獣の皮を鞣したベルトでとめてるワイルドな姿だ。

 しなやかな足が惜し気もなくさらされていて、目のやり場に困った揚げ句咄嗟に目を逸らしてしまった。


「……セオト、人虎の村の調査に行ったのではなかったのか? これは一体何だ?」

「あぁ、人虎に捕われておってな。この者に部屋を与えてやってくれぬか? 儂等はもう一度行ってくるでの」

「……はぁ、セオトが言うのならそうするが…」


 突然の女性の登場とその姿に気を取られている内に、あれよあれよという間に狼達は再び崖を下りて行ってしまった。

 この崖は所々飛び出した岩場があるものの、殆ど直角に切り立っていて恐らく人の姿で下りることは難しいだろう。


「どうしよう……」


 誤解を解くことが出来なかった。

 何が起こっているのかはわからないけど、きっと良くない方向に転がっているのだと思う。


「どうした、子供。我について来い」


 崖下を見たまま動こうとしない俺の腕を掴んだ女性は、そのまま凄い力で引っ張ってくるから何とか足に力を込めて踏み止まろうと足掻いた。

 そんな俺を下から吹き上げてくる風に長い髪を遊ばせている女性は、鋭い灰色の目を眇て不機嫌そうに見下ろしてくる。


「待って、ください…! あの、俺、捕まってた訳じゃないんです! あそこで暮らしてて、人虎さん達に牧場を提案したのも俺なんですっ」


 さっき言えなかった言葉を目の前の女性に必死になって訴えかけると、それまで腕に食い込むほど容赦ない力が入っていた指がゆっくりと解けていく。


「……どういうことだ、『牧場』とは何だ?」


 冷たい印象を与えていた女性の顔が、ここにきて初めて怪訝そうに歪められる。


「牧場っていうのは、みなさんの言う獲物を飼育しているところです。人虎さん達は下劣なんかじゃありません…俺が全部提案したんです。居場所のない俺を、人虎さん達は快く村に住まわせてくれたから、俺は俺の出来る限りの力でお礼をしたかった……それだけなんです」


 俺のせいであの優しい人虎さん達が蔑まれるのはどうしても堪えられない。

 この人に言ったところでさっきの狼達に言わなければ無意味だってことはわかっていたけど、どうしても言わずにはいられなかった。


「………人虎族は、獲物を生きながら嬲り殺し命を弄んでいるのではないのか…?」


 思いも寄らなかった言葉に一瞬頭が真っ白になった。

 嬲り殺す?

 弄ぶ?

 どうしてそんな酷いことを言うのだろうか。


「―――っ、違います! 彼等は決して無意味な殺生はしませんし、命を軽視したりなんかしていません!」


 余りの衝撃に目頭が熱くなるのを懸命に堪えて、目の前の女性に理解してもらえるように俺はきっぱりと否定した。

 すると途端に女性の肩が震えだし、伸びはじめた牙を食いしばる姿はまるで激情を堪えているように見えた。


「謀られたかっ!」

「え……?」

「あの忌ま忌ましい奴め!!」


 ビリビリと肌が痺れるほどの怒気を感じて身体が竦むけど、何か違和感を感じる。

 もしかしたら俺も、この人達を誤解していたのかも知れない。




 ***




 side:ラゼア




 ユウヤが村から消えた。

 今日の祭りを誰よりも楽しみにしていたユウヤを迎えに行った時には、もう何処にもいなかった。

 獣化している俺だからわかる、微かに残った獣の臭い。

 地面に残る俺達人虎のものよりも幾分か小さい、無数の足跡と灰色の毛。

 脳裏を過ぎった考えに納得がいかなかったが、そんなことを思ったって事実は覆らない。

 すぐさま祠に取って返し、ハギル達と共に村中を隈なく捜索した。

 そして、やっぱりユウヤは見付からなかった。

 俺以外の人虎は気付いていないようだが、足跡、灰色の毛、そして恐らく群れで行動する者達にユウヤはさらわれたんだ。


 しかし、アイツ等がこんなことをするはずはない。

 俺が知っているアイツ等は、卑怯なことなど絶対にしない誇り高い一族だ。

 例え仲間を人質に取られようと、自分の生命が危険に曝されようと、その誇りを守るためなら迷うことなく命を投げ出してしまうような不器用な一族……それが人狼族の性。

 人虎族とは縄張りを争う間柄だが、長年に渡りアイツ等と睨み合っていただけにその本質は誰よりも理解している。

 それに、今の族長はあの男のはずだ。

 いけ好かない堅苦しい奴だが、それでも信頼に足る男だ。

 長年争ってきた両種族も、長が俺とあの男になってから無意味ないざこざはなくなった。

 はずだったのだが…


「…ざけんじゃねぇぞっ」


 ユウヤがいなくなったのは紛れも無い事実だ。

 春祭りなど放り出し、村の中央に集まった人虎達は一様に殺気立っている。

 いつもは陽気なコセンも、冷静沈着なナトリも、誰よりも大人びているニザンも、族長であるハギルでさえ動揺を隠せていない。

 このままではマズイ。

 人虎は元来単独行動を好む傾向にある。

 それがここにきて、ユウヤという存在に皆が皆惹かれひとつになってしまっている。

 普通ならそれは団結力となるのだろうが、集団心理ほど怖いものはない。

 それが、俺が群れるのを嫌う理由のひとつでもある。

 集団に常識や道徳など無意味。

 今もしも誰かが人狼の存在に気付いたのなら、コイツ等は総出で人狼狩りに出るかも知れない。

 もしそうなれば、互いに無傷ではいられないだろう。

 最悪共倒れしてしまい、他の種族に付け入る隙を与えてしまいかねない。

 それはコイツ等もわかっているのだろうが、誘拐されたと知って冷静ではいられないほどにユウヤは俺達の奥深くまで入り込んでしまっている。


「ラゼア、お前は冷静なんだな」


 隣で眉間に深く皺を刻んでいるハギルが、恨めしげに俺を見下ろしてくる。


「テメェが冷静になんなら、俺は思う存分怒り狂って暴れまくってやるよ」


 目の前で動揺しているコイツ等がいなければ、俺だってここまで冷静を保っていることは出来ないだろう。

 本当なら今すぐにでも助けに行きたい。

 こうしている間にも、ユウヤがどんな扱いを受けているかわからないんだ。

 しかし、俺が煽って見す見す人虎族を滅ぼすわけにはいかない。


「……済まない。八つ当たりした」

「いや、気にすんな」


 ピクリ。

 この中で唯一獣化していた俺の耳が動いたことで、ハギルも何かに気付いたようだ。

 複数の何かがこちらに向かって走ってくる。

 いや、何かじゃない。

 この足音は紛れも無く…


「やはり、人狼族…」


 小さく呟くハギルに、やっぱりコイツは気付いていたかと溜息が出そうになった。

 人化している奴等にも足音が聞こえはじめると、さっきまでとは違う突き刺すような殺気が辺りから漏れはじめる。

 最早感情が高振りすぎて押さえ込むことすらできないのだろう。

 走り出さないだけ上等なのかも知れない。


「………ラゼア、先頭にいるのは」

「……セオトだ。間違いねぇ」


 森の木々を走り抜ける巨体を、この俺が見間違えるはずがない。

 村の入口で律義に足を止める狼の群れを見て、これから何が起こってしまうのだろうかと俺は自分の足に尾を打ち付けた。




「えぇっ!? それじゃ誤解だったんでふッ!!」

「子供、口を開くと舌を噛むぞ」


 それはもうちょっと早く言ってほしかった…

 余りの驚きに、人狼族のメス…クルルさんの背中に乗っていたことを忘れてしまった。

 痛む舌に若干涙目になりながらも、走るクルルさんに振り落とされないように必死にしがみつく。

 洞窟の入口で途端に怒りをあらわにしたクルルさんが、いきなり目の前で獣化しはじめた時には本当に驚いた。

 きっと人虎族とは違って元から集団で生活している人狼族は、人前で変身することに嫌悪を感じないのかも知れない。

 だからって女性がいきなり、あんな風に変身するだなんて…

 思い出しただけでまた赤くなってしまいそうな顔を慌てて引き締めると、今は1番考えなきゃいけないことに思考を巡らせていく。


 クルルさんの話によると、人狼族は騙されてしまったらしい。

 人虎族が周囲の獲物を片っ端から生け捕りにして、村で生きながらにして残酷に殺していると聞いたそうだ。

 人狼族はわりと奔放な人虎族とは違って様々な厳しい掟があるらしく、日本でいう侍のように己を律し仁義に外れるものは許せないといった性分みたいだ。

 そんな性格であんな嘘を吹き込まれたら、黙って見ていることはできないだろう。

 だけど、いくら何でも酷過ぎる。

 何が目的かはわからないけど、人虎族と人狼族が互いに誤解したまま傷付け合うなんて堪えられない。

 でも、俺とクルルさんの言葉で説得できるのかな?

 例え誤解だとしても、人狼族が人虎族の村に侵入したことは事実だ。

 行って止めるだけじゃ駄目なんだ。

 双方に被害を出さず、しこりを残さず丸く収めるには…この騒動を引き起こした張本人を捕まえるしかない。

 さっきクルルさんはそいつの居場所がわからないと地団駄を踏んで悔しがっていたから、きっと独自の目的のために行動を起こそうとしているはずだ。

 人狼族をけしかけて人虎族と争わせることに何の意味があるんだろう…

 人虎族の注意を向けたかったのかな?

 きっと人狼族の襲来で見張りの人虎さん達も借り出されているはずだから、今ならどんなに弱い種族でも簡単に忍び込むことが出来る。

 忍び込んですることなんて、たったひとつしかない。


「ク、クルルさ…あう゛っ!」

「口を利くなと言っただろ」

「牧場、に…っ!」


 痛む舌に堪えながら、今度は余り口を開かないように注意してクルルさんの耳元で話す。


「きっとそいつは、人虎族の目を逸らさせるために人狼族を利用したんです」

「何の為にだ」

「労せず獲物を狩るためです」


 そいつは恐らく、とても賢い。

 騒ぎが本格化するまでは牧場の近くに潜むだけで、きっとまだ行動を起こしていないはずだ。

 今なら間に合う。


「クルルさん、そいつを捕まえるの…手伝ってくれますか?」

「愚問。謀られたのは我らの失態。安心するがいい、我の鼻は奴の匂いを覚えている。近くにいれば例え隠れていようと容易くわかる」


 そうか、犬は鼻が人の1000倍くらい良いって聞いたことがある。

 この世界の狼も例外じゃないんだ。


「子供、牧場とやらは村のどの辺りにある?」

「東側です」

「掴まっていろ、速度を上げる」


 セオトさんよりも小さな身体なのに、クルルさんはまるで俺の重さを感じていないように更に速度を上げていく。

 耳のすぐ傍を掠めていく木の枝が怖くて、俺はクルルさんの背中に顔を埋めて目を閉じた。

 そして必死に祈る。

 どうか間に合いますように。

 まだ誰も傷付いていませんように。




 ***




 side:ハギル




 人虎の村にズラリと立ち並ぶ狼の群れ。

 本来ならば村への侵入を易々と許すことはしないが、この時期に無断で入ってきたということはユウヤを攫ったのは確実に人狼族ということになる。

 しかし、信じられない。

 距離をとって足を止めた狼達の先頭、他の人狼とは明らかに格の違う巨大な狼がこの群れの長である以上こんな暴挙に出るはずはない。

 縄張りを争う仲だが、俺は少なからずこの人狼を信用していた。

 先代の族長であるラゼアと歩み寄りを見せたこの人狼族長は、人虎族長が俺に代わった時もその態度を変えることはなかった。

 高潔で清廉な人格者であるこの人狼が、何の理由もなくユウヤを攫うわけがない。


「この村に無断で入ってくるとは、人狼族はいつから礼節を守れぬ種族になったのだ?」


 人狼族と対峙するように俺が前へと出ると、灰色の狼達が一様に体勢を屈める。

 こちらが少しでも不穏な行動に出ればいつでも飛び掛かるということか。


「礼節じゃと? どの口が申しておる。お主等の行い、儂の目に余るぞ」


 相変わらず年寄りのような言葉遣いの人狼族長・セオトは、臨戦体勢の他の狼達とは違い平時と変わらぬ堂々とした佇まいだ。

 俺の背後にはこの場にいる狼の4倍の人虎が控えているというのに、全く臆することのない姿はいっそ清々しい。

 だが、その言葉の意味を測り兼ね俺は僅かに眉を寄せる。

 チラリと隣にいるラゼアを見下ろすが、不機嫌そうに尻尾を揺らすだけでこちらも測り兼ねているようだ。


「………何のことを言っている? 俺達は何等恥ずべき行いはしていない」

「人虎族の名にかけて、俺達ゃテメェ等の目とやらに余るこたぁしてねぇよ」


 俺の言葉を後押しするようにラゼアが口を開く。

 新旧の族長である俺達の言葉に、一瞬だがセオトの黒い目が揺れた。


「セオト、何故ユウヤを攫った。あれはこの村の一員だぞ」

「………ユウヤ? あの子供はユウヤと申すのか」


 やはり可笑しい。

 まさか人質として連れ去られたのではないかと勘繰ってはみたが、セオトの様子からユウヤに対する負の感情は見受けられない。

 これはまさか、何か誤解しているのではないだろうか。

 人狼族とは元来、正義感が強い種族だ。

 弱い者を盾にとるくらいなら、死を覚悟して向かってくるだろう。


「何を勘違いしているのか知らないが、ユウヤはこの村で皆の食事の世話をしていた俺達の仲間だ」

「セオト、テメェはユウヤの話をちゃんと聞いたのか?」


 ラゼアも可笑しいことに気付いたのか、威嚇するように牙を剥いて問い掛けている。


「………仲間? あれは、獲物ではないと申すか」

「当たり前でしょう。あんな可愛らしいユウヤを食べるなんて、誰がそんな愚かしいことをすると言うのです」


 俺の後ろに控えていたナトリも、耐え切れずに呆れたような声を漏らした。

 ユウヤを獲物呼ばわりしたセオトに対して、人虎族の者達から殺気とは違った怒りが漏れる。

 もちろん俺も憤りを感じているが、問題はそこじゃない。


「何故、その様なことを思ったんだ? 俺達は人化する生き物を食さないことは知っているだろう?」


 人熊族や人鰐族は別として、理性ある種族ならば人化した者を食することは殆どない。

 ユウヤと初めて出会った時に喰うとは言ったが、あれは脅し以外の何物でもなかった。

 それを知っていながら勘違いした人狼族に、酷い違和感を感じる。


「お主等は変わったのではなかったのか? 乱獲した獲物を村の中で飼い、生きながらに嬲り殺し命を弄んでおるのじゃろう?」


 成る程、そういうことか。

 恐らく何者かが人狼族に、偽りに僅かな真実を織り交ぜて吹き込んだのだ。

 そんな話を聞いて黙っている人狼族ではない。

 春祭りに乗じて偵察に来たところ、ユウヤを発見して保護したつもりになっているのだろう。

 人狼族が誤解しているのは理解できた。

 だが、だからといって人虎族の誇りを傷付け、村へと無断で入ってきた人狼族を何もせずに帰したとなっては、他種族に人虎族が軽んじられてしまう。

 ここは、戦うしかないのか…?




 ***




 グングンと加速していくクルルさんから振り落とされないように、灰色の毛に顔を埋めて力いっぱい抱き着くこと十数分。

 そろそろ腕が限界を迎えようかという時、ようやくクルルさんがスピードを緩めはじめた。

 どうやら人虎族の村が近いらしい。

 怖ず怖ずと顔を上げてみれば、鼻をヒクつかせて辺りの匂いを嗅いでいるクルルさんの顔が見えた。

 健康的に湿っている鼻をスンスンといわせている愛らしい姿は、今がこんな状況じゃなかったら悶えていたところだろう。

 目を凝らして辺りをぐるりと見渡してみると、木々の間からほんの少しだけ柵が見えた。

 遠くで牛や鳥の声もするし、どうやら俺の説明でもきちんと牧場の近くまで来ることが出来たみたいだ。

 ということは、きっとこの近くに人狼さん達を騙した奴がいる。


 黒幕を探すべく匂いを辿っているクルルさんの邪魔にならないように、俺はそっと柔らかな毛並みに別れを告げてしなやかな背中から降りた。

 少し振りの地面を確かめるように踏み締めていると、不意にクルルさんが体勢を低くして歩きはじめた。

 慌てつつも音を立てないように後ろからついて行くと、しばらくして前を歩くクルルさんの足が止まる。

 つられるように俺も足を止めると、木の影に身体を隠しながらそっと顔だけを出して覗いてみた。

 灰色の眼差しが真っ直ぐに見詰めているものへと視線を移した瞬間、ゾクッと言い知れない寒気が背筋を走る。

 怖い……というか、気持ち悪い…

 視線の先にいたのは一人の男だった。

 少しウェーブした肩くらいまでの濃緑色の髪に、瞳孔と虹彩の境目がわからないほど真っ黒な目。

 服は腰布だけなのに、骨や石で作ったらしいアクセサリーはジャラジャラとたくさんつけている明らかに怪しい男。

 だけど、それだけじゃない。

 この男から感じる雰囲気というか空気というか、とにかく滲み出ているものが恐ろしいほど冷たくて気持ち悪いほど纏わり付いてきて、俺はこの世界に来て初めて係わり合いになりたくないと思う人物に出会ってしまった。

 本能的な恐怖に硬直している俺を余所に、身体を屈めていたクルルさんが素晴らしい脚力でもってあの気持ち悪い男に飛び掛かる。


「うぐっ!!」


 不意を突かれ仰向けに倒れた男の肩と腹を押さえるように乗り上げたクルルさんは、見るからに鋭そうな牙を白い喉に突き立てている。

 きっと少しでも妙な真似をしたら、そのまま喉笛を噛み千切って殺すつもりなんだろう。

 いや、洞窟での激しい怒り方を思い出せば、見付け様に殺さなかっただけでもマシかも知れない。


「………貴方が、人狼さん達に嘘をついたんですか?」


 男に見られるのは怖いけど、クルルさんの口が塞がっている以上俺が話をしなければならない。

 案の定木の影から現れた俺を見て、口の端をニヤリと吊り上げる男にまた寒気が走った。

 駄目だ駄目だと思っていても、どうしても気持ち悪いと思ってしまう。


「これはこれは、人虎に守られている子供じゃないか。君がここにいるってことは、どうやら僕の策はすっかり読まれてしまってるんだろうね」


 喉をクルルさんの歯が食い込んでいるはずなのに、そんなことを感じさせないくらい飄々としている男に戸惑ってしまう。

 この人は無理だ。

 どんなに俺がモラルに訴えても、そもそもモラルを持たず自分のことしか考えられない罪悪感さえ覚えない系統の人なんだろう。

 こんな人の心を響かせるのは、少なくとも俺には無理だ。


「あーあ、折角楽して狩りができると思ったのに。ついでに人虎と人狼が争ってるのを嘲笑ってやろうと思ってたのになー」


 耳まで裂けていそうなほどの唇を笑みの形に歪める男は、紛れも無く蛇の様相を呈していた。

 これがクルルさんの言っていた、猛毒の牙を持つ種族―――人蛇族なのか。


 人蛇族のことはクルルさんに聞くまで知らなかった。

 滅多に群れることをせず、住家も転々と変えるため遭遇すること自体が稀有らしい。

 人蛇族によってその毒性は変わるらしいけど、今目の前にいる男には猛毒があるそうだ。

 だから頭を動かすことが出来ないように、クルルさんは真っ先に首に噛み付いたのだ。

 病的なまでに白い首筋に僅かに血が滲むのが見えるけど、痛みなんて全く感じていないような男の顔が恐怖を煽る。

 いつ食い殺されるかわからない状態でヘラヘラ笑っていられるのは、何か策があるかはたまた死ぬことが怖くないかのどちらかだ。


「……貴方を拘束させてもらいます」

「君に出来るの? 縛られても蛇になれば抜け出せるんだよ?」


 確かに蛇の自由を奪うには、檻でもない限り無理かもしれない。

 でもそれは、あくまで俺一人だった場合はだ。


「もし逃げるならば、我がその場で食い殺す」


 噛んでいた喉を前足で押さえたクルルさんが、肩を引っ掻くようにして男を俯せして押さえ込む。

 それを合図に俺は上に着ていた服を脱いで、男の腕を後ろ手に纏めて縛り上げた。

 春とはいえ上半身裸はまだまだ寒いけど、これ以外に縛れるような物がないから我慢するしかない。

 ポケットに入れていたハンカチで男の口を塞ぐように覆い、後頭部できつく縛る。

 そこでようやくクルルさんが男の上から下りて、持って来ていたワンピースのような服を首から被った。

 俺はそれに気付いて慌てて目を逸らすと、抵抗することなく温和しく地面に転がっていた男に手を貸してやりながら立たせていく。

 変化するならするで、一声かけて欲しいよ…


「子供、お前の言う通り服を着てから変化したというのに、何を恥ずかしがっているんだ…」


 後ろから声がかかってチラリと振り返れば、そこにはすっかり人化したクルルさんが呆れ顔で立っていた。


「フフフッ」


 押し殺したような笑い声が聞こえて隣を見ると、案の定可笑しそうに目を細めた男がこっちを見ていて、何故かぞわりと背筋が震えた。

 真っ黒過ぎる瞳に見透かされているような気がして、そわそわと落ち着かないような気持ちになってしまう。


「こんな奴にまで笑われては、オスとして情けないぞ。おい、貴様も笑っていないでさっさと歩け」

 クルルさんが男の背中をドンッと突き飛ばすと、少しよろけながらも男は村に向かって足を進めはじめる。


 男の視線が外れたことで、俺はどっと力が抜けてしまった。

 何なんだろう、あの目は。


「子供、奴の目は見るな。蛇は目が良くないが、その分計り知れない力があるように思う」

「目が、見えないんですか?」


 僅か前を歩く男の歩みは淀みもないし、恐らくみんながいるであろう広場の方へと迷いなく進んでいる。

 とてもじゃないけど、目が不自由だとは思えない。


「蛇は熱感知能力に特化している。奴はそれだけじゃなさそうだがな」


 男から視線を外さずにクルルさんが服の裾を翻して歩いて行く。

 俺はその斜め後ろを歩きながら、さっき間近で見た虹彩のない真っ黒の瞳を思い出していた。

 もしかしたらあの瞳で見詰めらて言われたから、人狼族のみんなは騙されてしまったのかも知れない。

 口を塞いでおいて本当に良かった。


「人蛇族って、恐ろしいですね」

「我らを騙したのだ、本来ならばすぐにでも殺してしまいたい」


 食べる目的以外で生き物を殺すのは賛成できないけど、俺も正直こうやって一緒に歩くことすら怖い。

 だけど、この男だけが人虎族と人狼族を平和的に和解させることが出来る。

 俺の耳にはまだ争っている声は聞こえてこない。

 クルルさんの耳もピンと立っているだけで反応していないから、きっとまだ間に合う。

 全てのキーは彼が握っているんだ。




 ***




 side:ナトリ




 拮抗した力を持つが故に長年対立してきた人虎族と人狼族。

 その関係が変わったのはラゼアが族長になってからだ。

 古いしきたりや体面などに捕われない奔放な性格のラゼアと、無意味な争いで双方が傷付くことを良しとはしない人狼族長のセオトの間に歩み寄りが計られたのだ。

 それは革命的なことで、ラゼアが族長を退きハギルの代へと移行してもそれは変わることがなかった。

 しかし、いくら誤解だったからといって人虎の村に無断で入り、剰え仲間であるユウヤを攫われたとなればただで帰すわけにはいかない。

 それ相応の物で購わなければ、人虎族だけではなく人狼族の面子も立たない。


「セオト、何を勘違いしている? 俺達人虎が嘘偽りを口にするわけがないだろう。俺達は人虎の誇りをかけて、道理に背くような行いはしていない」

「何じゃと……ならば、儂等はあの蛇めに謀れたのか!」


 はっきりと言い切るハギルの言葉をようやく信じる気になったのか、セオトが黒い前足で悔しそうに土を掻いた。

 やはり騙されていたのだ。

 誰よりも真っ直ぐな人狼族だからこそ、姑息な蛇に騙されてしまったのだろう。

 人蛇族はずる賢く狡猾だ。

 感情の乗らない瞳は人心を惑わすと言われていて、毒を持つ者ならばそれだけで象をも一撃で仕留めることが出来る。

 しかし、己にどれだけの力があろうと怠惰な性質なのか進んで狩りをすることはまずないらしい。

 そんな輩に騙されたともなれば、人狼族の怒りも一入だろう。


「人虎族よ、詫びてどうなるとも思っておらんが詫びさせてくれ。疑ってしまって、悪かったのぉ。お主達のことは良く知っておるつもりじゃったというのに」

「セオト、謝罪よりも問題はけじめだ」

「はじめに言っとくがよ、お前の命を差し出されたって俺達は納得しねぇからな」


 セオトの謝罪を真っ向から受け止めながらも、ハギルとラゼアが謝罪を受け入れないのは偏にユウヤの存在が大きいのだろう。

 今すぐユウヤを連れて来ない限り、和睦の交渉すら受け入れないつもりのようだ。

 私だとて、心中は穏やかじゃない。

 まさに一触即発のビリビリとした緊張感が漂う中、それを打ち破ったのは余りに予想外の人物だった。


「良かったぁ、間に合ったみたいですよクルルさん」


 何と村の外れからやって来たのは、見知らぬ二人の後ろに隠れ気味になってこそいたが紛れもないユウヤ本人だった。


「「「ユウヤ!!」」」

「坊!?」


 喜び戸惑い安堵する人虎達の反応とは別に、人狼族からも動揺の声が上がった。

 ということは、これは族長の預かり知らぬ事態なのか?

 だとしたら恐らくユウヤの斜め前を歩いている人狼のメスが、独断でユウヤをここまで連れて来たのだろう。


「人虎さん達も人狼さん達もケンカはやめて下さい。黒幕はこの人らしいですから」

「ユウヤッ、それはどうした!?」


 人狼族が群れでやって来ても決して大声を上げることのなかったハギルが、ブワリと尾を膨らませて声を荒げる。

 私とてハギルと全く同じ思いなのだから、きっと赤い尾が総毛立っているに違いない。


「え、っと、この人蛇さんは人狼族のクルルさんが捕まえて…」

「そうではなくて! ユウヤ、上の服はどうしたんですか!?」


 背の高い二人の後ろからひょっこり姿を現したユウヤは、何と上半身に何も着ていなかった。

 惜しげも無く曝されているユウヤの肌を見て、落ち着いていられるような人虎族などいない。


「チビスケッ、お前まさか人狼族に無体なことされたんじゃねぇだろうな!?」


 ラゼアの言葉を聞いた瞬間、ユウヤの登場により緩んだ場の雰囲気がこれまで以上の殺気に満ちる。

 もし人狼族がユウヤに対して何かしらの無体を働いていたのなら、いくら温厚で思慮深いハギルでさえ人狼族殲滅を決断するかも知れない。

 いつの間にかユウヤは、それほどまでに私達にとって大切な存在になっていたのだ。




 ***




 まさか上を着ていないだけで、こんなに怒られるとは思ってもみなかった。

 人虎さん達と違って感覚が鋭敏じゃない俺にも、雰囲気が悪くなっていることくらいわかる。

 わかるけど、でも、だけど…


「かっ、可愛い…!」

「「「「「………は?」」」」」


 俺は込み上げてくる感情を止められなかった。

 人虎さん達のそれぞれに色合いの違う尻尾が、不機嫌さを表すように右へ左へと揺れるのが堪らなく可愛い。

 しかも、いっぱいだ。

 いっぱいの尻尾が揺れている光景を見て、今まで押さえ込んでいたふわふわをわしわししてギューギューしたくなる衝動が沸々と俺の心を沸き立たせる。

 さっきまではみんなの無事ばかりを祈っていたけど、祈りが通じれば今度は本能が顔を覗かせるというわけだ。

 クルルさんの背中には乗ったけど、少し硬いあの毛並みを堪能する余裕はなかった。

 だからこそ、俺は飢えていた。


「………あーっ、もう我慢できない!」


 俺の言葉に驚き耳をピコンと向けてくるみんなが可愛すぎて、俺はとうとう我慢が出来ずに、取り合えず一番近くにいたコセンを餌食にすることにした。


「ユッ、ユウヤ!?」


 ガバッと勢い良く抱き着くと、俺の身体を支えるためにコセンの手が自然と背中へ回る。

 それこそが俺の狙いだ。

 無防備になった茶色の尻尾をすかさず両手で握り、長いふわふわを顔まで持ってきて存分に頬擦りする。


「はふーっ、ふわふわだ…落ち着くー…」

「ユウ、ヤッ、ぁ…っ、駄目だって…!」


 急所を掴まれているからかコセンがビクビク震える度に尻尾も震えて、ふわふわの毛並みに頬を叩かれる感触がまた堪らなく気持ちがいい。

 嗚呼、これが癒しなんだな。

 緊張と不安に疲弊していた心が、アニマルセラピーの効果で和らいでいくのを感じる。

 コセンは年下で俺の弟子のようなものだから、あわあわするばかりで強く拒めないようだ。

 俺はそれを良いことに今までの分を取り戻すかのように存分に尻尾を弄くり回す。


「はっ、マズイ、よ…っ…ユウヤ!」

「…なっ、何をしてるんですか、ユウヤ!」


 コセンの上擦った声が聞こえた瞬間、それまで唖然と見詰めていたナトリさんに無理矢理引き剥がされてしまった。

 余程俺の行動に驚いているのか、ナトリさんの赤い尻尾はブワリと大きく膨らんでしまっている。

 しかし、今の俺にそんな物を見せるのは凄くマズイ。

 案の定膨らんだ尻尾の触り心地が気になってしまった俺は、今度はナトリさんに照準を合わせて手を伸ばした。


「うわっ!」


 もう少しで手が届くというところで、突如後ろから抱え上げられてしまった。

 さらりと頬を擽るのは、金髪の長い髪。


「ユウヤ、コイツ等が困っているだろう?」


 低い声に振り返ると、俺の腹に腕を回して抱えたまま、少し困ったように眉尻を下げているハギルさんがいた。

 そして視界の隅に映る、落ち着きなく揺れている金色の尻尾。


「………!」


 反射的に掴もうと手を伸ばすけど、寸前で逃げられてしまう。

 何度試してもハギルさんは全然尻尾に触れさせてくれない。


「まずは説明が先だ、ユウヤ」

「……ちょっとくらいいいじゃないですか、ハギルさんのけちん坊」

「ケ、ケチ…?」


 俺が拗ねたように口を尖らせると、ハギルさんが益々困ったような顔になってしまう。

 困った顔をさせたかった訳じゃない俺は慌てて表情を崩し、ハギルさんが無事で良かったと口を開こうとした。

 そう、開こうとしたんだけど。


「ブハッ! アハハハハッ!! ひぃーっ、もう堪えらんない! アッハハハハハハハッ!!」


 いつの間にハンカチが解けたのか、縛られたままの人蛇さんが身体を折り曲げて爆笑しはじめた。


「…ふっ、ククッ! 人虎族の族長相手にけちん坊とは、坊、中々に言いよるのぉ」


 人蛇さんにつられたのか、それまで黙り込んでいた人狼族のセオトさんまで笑いはじめてしまった。


「チビスケのせいで、緊張感が吹っ飛んじまったじゃねぇか」


 いつも通り虎の姿で近付いてくるラゼアさんに触りたい衝動が込み上げるけど、これ以上ハギルさんの手を煩わせてはいけないと何とか堪えた。

 さっきまではみんなの耳や尻尾にばかり気を取られていたけど、こうやって周りを見てみれば何だか凄いことになっている。

 爆笑している人蛇さんに、つられ笑いしてるセオトさん。

 そのふたりに呆気に取られている人虎族と人狼族に、顔を真っ赤にしているコセンと不機嫌そうなラゼアさん。

 目を丸くしているナトリさんの後ろでは、ニザンさんが肩を震わせて笑いを噛み殺している。

 人蛇さんを見張ってるクルルさんは相変わらずクールで、俺を抱えたままのハギルさんは何だかショックを受けて固まっているみたいだ。

 凄く、申し訳ないことをしてしまったのかも知れない。

 そういえば人虎族はプライドが高いから人前では変身しないって言ってたくらいだから、俺の言葉は完全にハギルさんの矜持に傷を付けたことになる。

 おまけに人狼族や人蛇族にまで笑われて……最悪だ!


「ごっ、ごめんなさい、ハギルさん! 今のは無しですっ、前言を撤回します!!」


 未だに俺を後ろから抱え上げた体勢で硬直してしまっているハギルさんを振り返って、俺はみんなにも聞こえるくらい大きく声を上げた。

 俺の謝罪をみんなに聞いてもらわなきゃ、ハギルさんの面目が立たない。

 それに何より振り返って見たハギルさんは、金色の耳をぺしょんと伏せて物凄く悲しそうな顔をしていたから…


「ユウヤ、俺はそんなに狭量か?」

「…っ、違います!! ハギルさんはケチなんかじゃありません! だってこんな、明らかに怪しい俺を村に置いてくれて…川の水が冷たいからって温泉まで教えてくれた。いつも俺の料理を美味しいって食べてくれるし、こうやって心配してくれる。そんなハギルさんを狭量だなんて、誰も思いませんよ!」

「ユウヤ…」


 さっきはつい口が滑ってしまったけど、俺はいつだってハギルさんに感謝してる。

 今俺がこうして生きていられるのも、ハギルさんやナトリさんのおかげなんだから。


「……ほう、人虎一族は伴侶を持たぬと聞いておったが、その坊がハギルの番か! これはめでたいのぉ」


 セオトさんは合点がいったとばかりにふさふさの尻尾をブンブンと振りながら、自分のことのように喜びを表している。

 他の人狼さん達も何故か口々にめでたいと言いながら尻尾を振りはじめた。

 か、可愛い…!!

 虎も可愛いけど狼も可愛い。

 まるで大きな犬のようで、しかもたくさんいるから可愛さ倍増だ。


「人虎初の番か、これで人虎族も我ら人狼族の気持ちが少しはわかるであろう」


 あのクールなクルルさんでさえ、灰色の尻尾がゆさゆさと左右に揺れている。

 どうしよう、凄く誤解されてるような気がするけど、凄く可愛い。


「まさか今日も、春祭りではなく祝言じゃったのかのぉ。それは済まないことをした。償いに儂らは祝言の裏方として働かせてもらうことにしよう」


 祝言…って結婚式のことだよね?

 あれ、番とか伴侶とか、もしかして俺とハギルさんが恋人同士って思われてるのか…!?


「な、何を馬鹿な! 人虎は伴侶を持ちませんし、ユウヤはハギルのものではありません!」

「ざけんなよっ、セオト! こんなチビスケ、好き好んで番にする奴なんかいねぇよ!」

「ユウヤは俺達みんなのユウヤだ! ハギルだからって独占させる訳ないよ!!」


 ナトリさんやラゼアさん、コセンまで否定してくれてるけど…ラゼアさん、ちょっと言い過ぎじゃないかな?

 コセンの言葉は嬉しかったけど、ラゼアさんのはちょっぴりショックだ。

 確かに俺は平凡だけど、何もそこまで言わなくたって良くないかな。


「なら、ハギルのその反応は何じゃ?」


 もしかして誤解されて怒ってしまったのかと慌てて振り返れば、そこには首まで真っ赤にしたハギルさんの困惑した顔があった。


「……え、ハギルさん?」


 顔を赤く染め上げペタッと伏せられた耳は良く見たら小刻みに震えている。

 尻尾も先っぽまで硬直しているみたいだし、何より俺を抱え上げている腕が石のようにびくともしない。

 今まで見たことがないハギルさんの様子に、もしかして怒ってしまったのかと不安になってくる。

 ハギルさんは俺の呼び掛けに気付いたのか、まるで錆び付いたロボットみたいな動きでギギギッと俺に視線を向けた。


「―――ッ!!!?」


 途端にボンッと音がするのではないかと思うくらいハギルさんの顔が赤みを増し、それまで固まっていた腕から力が抜けた。

 当然ハギルさんに抱えられていた俺は落ちるわけで、咄嗟に地面に足をついたまでは良かったものの案の定よろけてしまった。


「おっ、とと…ッ…」


 前方に身体が傾くのをスローに感じていると、素早く前に回ってきた柔らかなものに受け止められた。

 ……柔らかな、もの…?


「全く何をやってるんだい、ハギル。こんなか弱いユウヤを放るだなんて」


 僅かに上から聞こえてきた声に、栗色の豊かな髪の毛、柔らかな胸…これは、まさか…


「ニ、ニニ、ニザンさん!!」


 今度は俺の顔が真っ赤になる番だった。

 女性の胸に顔からダイブしてしまうだなんて、今までの人生では考えられないことだ。

 しかも、まるで守るかのように抱き締められ、ギュウギュウと豊満な胸に顔を押し付けられる。

 恥ずかし過ぎる!!

 恥ずかし過ぎるけど、ビックリし過ぎて身体が言うことを聞かない。

 ニザンさんにはそんなつもりがないことくらいわかってはいても、こんなラブコメ漫画みたいな展開に俺の頭は完璧にショートしてしまった。


「ニザンッ、ユウヤを離して下さい! 息ができずに顔が真っ赤になっていますっ」


 どうやら俺の顔の赤さを窒息だと勘違いしたらしいナトリさんが、慌てたように俺とニザンさんを引き剥がそうとしてくれる。


「ホントだっ、ユウヤ大丈夫?」

「ニザン、テメェ自身の馬鹿力くらいちったぁ自覚しやがれ」


 ニザンさんの胸から引き剥がされたのはいいけど、駆け寄ってきたコセンが心配そうに背中を撫で、ラゼアさんに至っては呆れたように説教しながら尻尾をブンッと振っている。

 これじゃ、まるっきりニザンさんが悪者じゃないか。


「あのっ、これは違うん…」

「ぶぁッハッハッハッ!! こっ、これがあの、お高く澄ました人虎族~!? アハハハッ、なぁんだ、スッゴクいいよ! メチャクチャ好感が持てる!!」


 俺って最近、話を遮られてばっかりなような。

 いや…それよりも、何だか人蛇さんが物凄く嬉しそうなんだけど。

 監視のために隣に立っていたクールなクルルさんが引きまくってるくらい、実に嬉しそうに高らかな笑い声を上げている。


「フフフッ、人虎も人狼も気に食わないって思ってたけど、存外中々に面白い種族なんだね。それとも、そこのお姫様の影響かな?」


 真っ黒の瞳を満足げに細めて、人蛇さんが俺に笑いかけてくる。

 どうしてだろう、森の中ではあんなに不気味に感じたのに、今は全然怖くないし気持ちも悪くない。

 人狼族はこの人蛇さんに騙されていたけど、もしかしたら人蛇さんもみんなのことを誤解していただけなのかも知れない。

 誤解があったんなら解けばいい。

 解いた後には仲直りをすればいい。

 きっと今回の騒ぎには明確な悪者なんていなかったんだ。

 みんながちょっとずつ誤解して、擦れ違って、歪みが出来てしまっただけなんだ。


「……貴様っ、よくも我等を欺いておきながら暢気に笑っていられるものだな…!」


 クルルさんがぐぁっと牙を見せて威嚇しているけど、肝心の人蛇さんにも人狼族の長であるセオトさんにも緊張感が見られない。

 セオトさん以外の人狼族は馬鹿にされたと怒っているみたいだけど、人虎族のみんなは何とも言えない顔をしていた。

 人蛇さんの言葉に納得してしまう部分があったのかも知れない。


「まぁまぁ良いではないか、クルル」

「何が良いと言うのだっ、セオト! 我等誇り高き人狼一族を騙したばかりか、あろうことか愚弄したのだぞ!?」

「クルル、皆も良く聞くのじゃ。確かに人蛇は儂等を欺き、嘲笑おうとしておったのじゃろう。だがの、今の言葉に侮蔑は含まれておらなんだ」


 あれだけ熱り立っていた人狼族が、セオトさんの言葉で一瞬にして静まり返った。

 これが人狼族の統率力なんだ。

 元々孤独に生きる人虎族とは違って、狼の時代から集団で生きてきた人狼族はやっぱり上下の関係がはっきりしている。

 いや、それだけじゃない。

 きっとセオトさんの人徳によるものが大きいんだ。

 みんながセオトさんの話に灰色の大きな耳をピンと立たせている。


「騙した人蛇は確かに悪い。じゃがの、騙された儂等にも落ち度があるじゃろう。誇り高いと言うのなら、騙されたことを言い逃れのように使わず己の浅はかさを悔やむが良かろうて」


 さっきまでハギルさんを揶揄っていたとは思えないセオトさんの威厳に、俺はただただ黙って見詰めていた。

 とても口を挟める雰囲気じゃない。

 鈍いと言われがちな俺でさえわかる、ピリッと張り詰めたような良い意味での緊張感に、人蛇さんも口許に笑みこそ浮かべているものの一言も発しようとはしない。

 凄い、ハギルさんも凄いけどセオトさんも凄い。

 黒く光る長い毛をそよがせ凛とした佇まいのセオトさんは、一度目を閉じてからゆっくりと瞼を押し開いた。

 人狼族だけじゃなく、この場にいるみんなが次の言葉を固唾を飲んで待っている。


「それに………折角の人虎族はじまって以来の祝言じゃ。血生臭いことは止そうではないか!」


 って、まだ誤解してる!?

 一気に張り詰めていた空気がぐにゃりと緩み、人虎族はもちろんのこと人狼族でさえげんなりと顔を歪めた。


「……セオト、これは祝言ではない」


 心底呆れたような溜息を吐き出しながら、ようやく平静取り戻したらしいハギルさんが口を開く。

 その顔にはまだ少し赤みが残っているものの、どうやらいつものハギルさんに戻ったみたいだ。

 さっきのはきっと、驚いていたんだろう。

 人虎族は結婚しないとか以前に、俺みたいな男となんて考えたこともなかっただろうし。

 全く、セオトさんの勘違い振りには困ったものだ。


「そうですよ、セオトさん。俺は見ての通り人虎族ではありませんし、男…オスですから結婚だなんて無理です」


 苦笑を浮かべて今度こそはっきりと否定する。

 セオトさんは今回の一件で思い込みが激しいことがわかったから、しっかりと否定しなきゃ誤解されてしまう。

 俺はいいけど、族長であるハギルさんは誤解されることを快く思わないはずだ。

 はず、なんだけど…

 ハギルさんの横顔が一瞬、寂しそうに見えたのは気のせいだったのかな。


「オス同士じゃろうと愛には変わりあるまいに、お主等も大概不器用な種族じゃ」


 狼姿のセオトさんが小さく笑った気がした。

 人虎族のみんなは、やっぱりセオトさんの言葉に複雑な表情を浮かべるばかりで誰ひとり反論はしなかった。




 大きめに作られた食堂に、所狭しと獣人の皆さんがひしめき合っている。

 手が空いた台所番のみんなに手伝ってもらって完成した料理は、テーブルに乗り切れないほどの量になっていた。

 極め付けはお詫びにと人狼さん達が狩ってきてくれた、牛一頭丸々使った牛の姿蒸しはまさに圧巻だ。

 人虎さん以外の人達は初めて見る料理に驚き、子供達は豪華な料理にはしゃいでいる。


「「「「いただきます」」」」


 みんなで一緒に手を合わせると、そこから宴がはじまった。

 箸の使い方がわからない人狼さんにナトリさんが丁寧にレクチャーし、コセンは料理の説明を人狼さん相手に得意げにしている。

 走り回る子供達をクルルさんが窘め、ニザンさんとラゼアさんがセオトさんと競うように牛の肉を貪っていた。

 ハギルさんは人蛇さんの隣で話しながらも、美味しそうに料理を口へと運んでいる。

 凄い。

 今まで人虎さん以外の種族はチラッとしか見たことがなかったのに、今日はこんなにもたくさんの獣人達が目の前にいる。

 しかも、仲良く俺が作った料理を食べてくれている。

 まるでひとつの家族みたいに、そこここでわいわいと騒ぎながら食事を楽しむ光景を目の当たりにして、俺は胸が震えるほど感動していた。

 種族の違いを越えて団欒できるなんて、俺でさえその凄さはわかる。

 きっとこれは歴史に残るほどの偉業に違いない。

 ハギルさんとセオトさんの計らいで、今日の宴は無礼講ってことになった。

 折角訪れた春の喜びをみんなで祝おうとニザンさんが豪快に笑って、なんとあの人蛇さんも普通に宴に参加している。

 勿論後日しっかりと罰は受けてもらうことになるらしいんだけど、それについては人蛇さんも納得しているみたいだ。


 春祭りの際に使った楽器を取り出して人虎さん達が音楽を奏ではじめると、クルルさんを始めとする人狼族の女性達が歌を歌いはじめた。

 不思議な曲。

 それに合わせて人虎族が舞いはじめる。

 子供達は手に手を取って、輪になって踊っていた。

 ハギルさんやラゼアさんも、女性達の歌に合わせるように低く声を紡いでいる。

 人蛇さんも目を細めて歌っているところを見ると、それはこの大陸に生きるものなら誰もが知っている歌らしかった。

 何という光景だろう。

 賑やかで、穏やかで、幸福で、暖かい。

 みんながひとつになった空間に包まれて、俺は鳥肌が立つほどの高揚を感じていた。


「ユウヤも踊ろ!」

「アタシと手、繋ごう!」


 子供達が俺の手を取って輪に入れてくれる。

 小さくなったり大きくなったりする輪に自然と笑みが零れた。

 いつの間にかナトリさんやコセンも輪に加わり、セオトさんがハギルさんを引き擦って俺の隣に割り込ませようとしてくる。

 それを見てラゼアさんは喚き、クルルさんとニザンさんはそんなラゼアさんを見て笑っていた。

 耳が痛いほどの騒ぎの中、不意に隣に立ったハギルさんと目が合えば小さく苦笑を返される。

 俺も困ったような笑みを浮かべるけど、内心では感謝していた。

 この空間に俺がいることを当たり前のように許してくれるみんなに、言葉では表せないくらい感謝の気持ちでいっぱいになる。

 こんな幸せな場所で涙は似合わないから泣くのは必死に堪え、ハギルさんの大きな手を掴んで引っ張った。

 困惑するハギルさんを笑いながらも、またみんなで踊りはじめる。

 俺、みんなが大スキだよ。

 俺のために怒ってくれたみんな。

 俺のために戦おうとしてくれたみんな。

 こんなに大切に思われて幸福じゃない訳がない。

 この世界が大切。

 この世界が愛しい。

 俺はずっと、みんなと一緒にいたいよ。

 これが夢なら覚めないで…




 獣達の宴が終わる頃、小さな人間の姿は幻のように消えていた。

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