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獣達の宴・前

 農家の息子はとにかくモテない。


 コンビニすらない田舎。

 汚れるイメージが否めない農作業。

 毎年毎日代わり映えのしないサイクル。

 家族のような付き合いの近隣住民。

 その全てが現代に生きる女の子には受け入れられないんだろう…

 俺だってイモ臭いとは思ってる。

 だからこそ、自転車で30分の高校じゃなくてバスで2時間かかる都会の高校にわざわざ通っているわけで……

 3年も通っていたらいい加減早起きには慣れるけど、都会へ想いを馳せていた俺の期待はあっさりと裏切られた。

 卒業を1週間後に控えた今になっても、彼女の一人さえ出来なかったのだ。

 ここにきて俺はようやく気が付く。

 農家の息子以前に、超平凡な俺だからこそモテないのだと。


 顔も、運動神経も、成績も平凡。

 平均以上なのは177cmある身長と、農業や田舎ならではの風習による様々な家事の知識。

 料理が上手かろうが、洗濯板で洗濯できようが、農作業が完璧にできようが、普通の高校生活を送っていたらまず活かせない。

 身長も平均よりは高い程度だし、俺には自慢できる特技さえなかったんだ。




 いつもの席に座って眺める見慣れた山間の風景。

 窓の外をゆっくりと流れていく風景を眺めていたけど、どんどんと眠気が押し寄せてきた。

 バスの揺れも心地良い。

 3年間乗っていたからバスを運転してるおっさんとも顔見知りだし、眠っていても周りのみんなが知り合いだから起こしてくれる。

 きっと今日も誰かが起こしてくれるだろう。

 そう思って俺は、重たくなってきた瞼に逆らうことなく目を閉じた。




 それが、俺の見た最後の日常になるとは思いもせず―――…




 ***




 不意に肌寒さを感じて目を開けた。

 視界に広がる鬱蒼と繁った木々。

 上を見上げれば、薄暗くなりはじめた黄昏れ色の空が木の間から見えた。

 脳が目覚め切れていないのか、ぼんやりとしたまま自分の置かれている状況を眺めてみる。

 ここはどう見ても森の中だ。

 そして俺は太い幹に背中を預けて、座り込んだ体勢で寝こけていたらしい。

 もしかしたらバスのおっさんが降ろしてくれたんだろうか?

 俺があんまりにも熟睡してたから起こせなかったとか…


「……あれ、針葉樹?」


 よくよく見てみると木の葉っぱが刺々している。

 俺が住んでいる村に面した森は、たしか広葉樹が大多数だったはずだ。

 近くにはバス停どころか道らしいものもない。


 何故俺はこうも状況把握が遅いのだろうか…

 モテない理由にだってそうだし、現状の異常さにだってたった今気付いた。

 俺がこの異様な雰囲気に気付けたのは、さっき挙げた針葉樹だのバス停だののお陰じゃない。


 茂みから現れたデカイ虎のお陰だ。


 姿勢を低くして俺の指なんかよりもよっぽど太い牙を剥き出しにしたまま、足音も立てずに忍び寄ってくる。

 距離にして10mもあるだろうか。

 現代の日本に於いてこんな状況に陥るはずがない。

 余りに異常な状況にリアリティが持てない俺は、一歩一歩確かめるように距離を縮めてくる虎をただジッと見詰めることしかできなかった。


「……何故逃げないんですか」


 凛とした声が聞こえた。

 ちらりと周囲に視線を向けても人がいる気配はしない。

 この空間には俺と虎以外鳥さえもいないみたいだ。

 ということは、答えはひとつしかないだろう。

 目の前の虎が喋った。


「えーっと…正直に言いますと、現状が把握できていないんです」

「……どういうことですか」

「目が覚めたら知らない場所にいて、俺の常識からしたら話すはずのない虎と普通に会話している…という、この状況が全く理解できないんですよね」


 さっきまで牙を剥いていた虎が、呆れたように眉間の皺を和らげて俺を見下ろす。

 落ち着いて見ると、全長が3mくらいあるデカイ虎は普通よりも赤い毛色をしていた。

 それが夕焼け色の木漏れ日に照らされる様は、幻想的なまでの美しさで…


「メチャクチャ綺麗…」


 …と、呟いてしまった俺に罪はないだろう。

 だけど当の虎は、今度こそ心底呆れたといったように大きな溜息を吐き出している。

 だって仕方がないと思う。俺が今までに見た虎は、ダラけきった動物園の虎か、テレビで見る野性的な姿しかなかったんだ。

 目の前に立っている理性的な眼差しをした虎は余りにも綺麗で、浮世離れしていて…


「…確かに、現状が把握できていないようですね」


 どうやら思考の波に飲まれていたらしい、涼しげな声で我に返ると思いの外近くにまで虎が迫っていた。


「私は狩りに来ています。つまり君は獲物ということですね」

「あれ、もしかして俺が今夜のご飯ってこと?」

「呑気なことですね…現状を把握しても怯えることもしないなんて」


 のっしのっしと歩いてきた虎の鼻先が、俺の頭を小突くように押した。

 その仕種が人間のようで、余計に警戒心がなくなっていく。

 自慢じゃないが、俺は見る目はある方だ。

 良い人か悪い人かは大体わかる。

 この虎は俺を食うけど、悪い奴ではない。


「食物連鎖くらい俺だってわかってますよ。たしか虎って、きっちり息の根を止めてから食べるんですよね?」


 生きながらにして食われるのは御免だ。

 だけど、俺だって腐っても農家の息子。

 近所には畜農してるおっさんもいたから、動物を殺して食べることはそこら辺のサラリーマンよりリアルに理解できてる。

 人間は食物連鎖から離れてしまったけど、どうやら俺は太古の昔から連綿と続く連鎖の中で18年の生涯を終えるらしい。


「できれば窒息とかじゃなくて、首の骨をゴキッと一発でお願いします」


 平々凡々な人生の最後にこんな綺麗な生き物を見れて良かった。

 しかも会話まで出来るなんて…

 俺ってラッキーなのかもな。

 もたれ掛かっていた幹が邪魔かもしれないから、俺は木から離れて正座する。

 清廉な空気を吸ってから目を閉じた。


「呆れた子供ですね」


 首筋に虎の息がかかる。

 遂にくるだろう衝撃に身構えると、急激に喉が締め上げられる苦しさに咄嗟に目を見開いてしまった。


「ぐぇっ!」


 痛みはない。

 だけどメチャクチャ苦しい。

 喉にブレザーとカッターシャツとネクタイが食い込んでいる。


「ち、ちょ、待っ! ぐるじぃ、いぎが…」

「あぁ、人化している君にこの運び方は無理がありましたね」


 訳のわからない虎の言葉とともに、解放された喉で懸命に息を吸い込んだ。

 コイツ、猫の子を咥えるみたいに俺のブレザーを噛んで持ち上げたんだな…

 信じらんねぇ、一発でって言ったのに!


「ゲホッ、ごほ…っ!」

「取り合えず私達の村まで来てもらいます。背中に乗って下さい」


 巣に連れ帰ってから食べるのか?

 今だにヒリつく喉を摩りながらも、どうせここが何処かもわからない俺には逃げることができないと大人しく虎に跨がった。

 胸を付けるみたいにして両手足でガッチリとしがみつくと、虎が素晴らしい早さで走り出す。

 だけど、その早さよりも俺は頬を擽る柔らかい毛並みに夢中だった。

 太陽の香りと微かな干し草のような香り。

 ネコ科特有の走り方だから乗り心地は良くなかったけど、目的の場所に着くまでの間俺は思う存分虎の毛並みを堪能した。




 不意に森から抜け出て、開けた場所に辿り着いた。

 次第に傾いていく太陽に照らされた小振りな木造平屋が、規則性もなくポツポツと離れて建っている。


「ここが私達、人虎一族の村です」


 ジンコ…?

 良くわからない単語に首を傾げながらも、降りろとばかりに太い尻尾でお尻を叩かれ渋々虎の背中から降りた。

 塀も門もないから外敵とかはいないんだろうな。

 さっさと歩き出した虎を慌てて追い掛ける。

 ほんの少し俺が住んでいたところに似てるからか、村に入るとちょっと落ち着く。

 擦れ違う人達は全然似てないんだけど。

 行き交う人々は何処か気品を帯びていて、みんながみんなかなり背が高い。

 決して低くない俺よりも頭1、2個分高い身長に否応なしに劣等感が芽生えてくる。

 獣の皮を鞣したような物や植物の繊維を織り上げたような物で作った服を着ていて、靴はどうやら履いていないようだ。


 いや、それよりも早くツッコまなければならないことがある。

 どの人達の頭にも少し丸みを帯びた小振りな猫耳と、太くしなやかな縞模様が目立つ尻尾がズボンからはみ出て揺れている。

 前を向くと先導して歩く虎と、そのお尻に揺れる尻尾。

 ここの村の人達にあるアレはこの虎のモノと酷似しているような…

 というか、擦れ違う猫耳…虎耳?の人達がみんなこの虎に挨拶してるんですけど。

 もしかして虎信仰でもしていて、神に近付くために虎耳や尻尾を付けているのか?

 いやいや、どうみても虎耳も虎尻尾も自在に動いている。

 ヤバイ…

 今、虎の食料として何処かに連れていかれている最中なのに、あの耳や尻尾をメチャクチャ撫でたい!

 細かくて柔らかそうな毛に覆われた耳がピクピク動く姿が可愛らしい。

 デカイけど美人なお姉さんにも、どんなに武骨なおっさんにも等しく生えている歩く度に左右に揺れる尻尾が愛しい。


 ときめきにも似た気持ちで行き交う人々を眺めていたら、早くついて来いと言わんばかりに虎の尻尾が俺の腹を叩く。

 その太さに見合っただけの重ささえ、今の俺には顔を綻ばせる要因にしか成り得ない。

 嗚呼、きっとこれを撫でたら怒られるんだろうな…

 平らな土の地面を歩いていきながら様々な事柄に思考を奪われていた俺には、好奇や嫌悪、畏怖の眼差しで見られていたことなど全く気付けなかった。

 ま、気付いていても俺の反応は変わらないんだけどね。


 村の丁度中心にある一際大きくて立派な屋敷の引き戸を、虎が大きな手でガラガラッと開けて入っていく。

 本当に人間みたいな仕種をする虎だな…

 開けっ放しになっている扉を潜って、俺も屋敷へと足を踏み入れた。

 中は普通の家みたいに小上がりになった所から板張りの廊下が続いているけど、靴を履く習慣がないらしいから玄関に靴箱はない。

 だからといって脱がない訳にはいかないと、慌てて学校指定のローファーに手をかけた。


「君は、足に何を付けているんですか?」

「あー、何て言ったらいいんだろ…俺達の種族は足の裏が柔らかいから、保護するためにこれを付けてるんです」


 俺の説明は上手く通じたんだろうか返事もなく再度先を歩き出した虎に、急いで靴を脱いで隅っこに置くとその後を追った。

 昔ながらの日本家屋みたいな佇まいだ。

 湿気を防ぐために床が少し上がっているし、壁も土と藁を混ぜた塗り壁だし、屋根も板を何枚も組み合わせたものだった。

 天井を見上げれば太い梁が通っている。

 何だか自分の家にいるみたいだ。

 一歩足を進ませる度に死へと向かっているってわかっていても、俺の心は不思議と穏やかなままだった。

 別に人生を悲観している訳でも、諦めがいい訳でもない。

 ただ、こんな美しい生き物の血肉になって連鎖の中で死んで逝けることは、動物の本来あるべき姿のような気がして全く抵抗がないんだ。

 今までのことでわかったかもしれないけど、俺はよく人から『変わった奴』と言われている。

 勿論きちんと自覚もあるから痛い奴じゃない。


 数珠のような物が沢山下がった暖簾を潜り抜けると、広い板の間が広がっていた。

 上座の方に植物を編んだ茣蓙みたいな敷物が敷いてあって、その上に尋常じゃない存在感の男が胡座を組んでいる。

 腰まで届きそうな金色の髪の毛、鋭い切れ長の目も金色。

 逞しく引き締まった身体は座っているからわからないけど、明らかに2m以上の身長だろう。

 無表情な顔は恐ろしいほどに整っていて、いかにも上に立つ者といった威厳が全身から立ち上っているようだ。

 少し離れたところで虎が腰を下ろす。

 太く長い尻尾が床をバシッと叩く音を聞いて、俺も慌ててその隣に行き床に座った。

 勿論正座で。


「……ナトリ、その者はどうした。お前は狩りに出たはずだろう?」


 低すぎない、けれど腹に響くような静かな声に知らず背筋が伸びる。

 それは隣にいる虎も同じようで、姿勢を正すと小さく頭を下げた。

 …ということは、この虎の名前はナトリさんと言うのか。


「申し訳ありません、ハギル。私もこの者を仕留めて餌にしようと思ったのですが、どうにも様子がおかしかったので連れて参った次第でございます」


 で、この偉いっぽい金色の人がハギルさんか。

 よく見たら金色の耳もあるし、多分お尻にはあの可愛らしい尻尾もあるのだろう。

 見たい!

 今は布をふんだんに使った服のせいで見えないけど、多分この人の尻尾も縞模様に違いない。


「こらっ、挨拶しなさい!」


 まだ見ぬ尻尾に想いを馳せていたら、横の尻尾に膝を叩かれた。

 痛くはないけど、可愛くて困る。


「……佐藤裕也です」

「……」

「……」

「……それだけか?」


 隣から重々しい溜息が聞こえる。

 いや、挨拶って何を言えば良いんだ…


「お前、どこの種族だ。見たところ耳も尾も角も見当たらないが」


 金色の…ハギルさんの美しく整った眉が険しく寄り眉間に皺を作る。

 元が美形過ぎて、凄みも8割り増しです。


「俺には尻尾も角もありません。耳はここにありますけど」


 ちょっと長めの黒髪を指で掻き上げて耳を見せる。

 まさか自分の耳を他人に見せる日が来ようとは…


「これが、耳だと?」

「何と奇怪な形…」


 ハギルさん、人の耳を『これ』扱いは酷くないですか…、そしてナトリさん、奇怪とは失礼でしょ。

 俺はこの耳で18年間生きてきたんだ。

 確かに人間の耳は虎耳に比べて可愛くないし、よくよく見たらグロテスクだけれども…


「ちなみに種族は……霊長類ですかね」

「霊長類? あの下等な猿の一族だと…?」


 ハギルさんが目を丸くして驚いている。

 隣のナトリさんも驚いているみたいだ。


「確かに猿は俺達の祖先ですけど、進化の過程で枝別れしたんです。ハギルさんは虎の親戚か何かですか?」

「猿とは違うんですね」

「俺は人虎一族の長だ。そこにいるのは従兄弟のナトリ。今は獣化しているが、人化すれば顔が似ているからすぐにわかるだろう」


 …わかった。

 ここにきて俺はようやく全てに折り合いがつく答えに辿り着いた。

 これはファンタジーとかでよくある、トリップというものではなかろうか。

 不思議世界に紛れ込んでしまう、アレだ。

 ナトリさんも人の姿になれるし、ハギルさんや外で会った村の人達も虎になれるんだろう。

 思いの外ショックじゃない。

 確かに家族は心配だし、帰れるのかどうかも気にならないことはない。

 だけど、今までの不可思議な事柄に名前がつくと安心するものだ。

 自分のマイペースと適応能力の高さにこれほど感謝したことはないだろう。


「あの、それで俺はどんな料理になるんでしょう」

「同じ人型だと目覚めが悪いですからね、獣化して下さい」


 ハギルさんに対してとは明らかに違う高圧的な響きを持ったナトリさんの声。

 こんな声で命令されたら従いたくなってしまう…

 無理なんだけどね。


「この姿以外になれません。俺達は霊長類のヒト目にあたりますから」

「馬鹿な!」


 急に立ち上がったハギルさんは、やっぱりかなりの高身長だ。

 ざっと220cmくらいはあるだろう。

 何だってこの村の人…人虎はみんなデカイんだ!


「ヒトは我らが祖先と交配を繰り返し進化と繁栄をもたらした、神にも勝る尊き種族だぞ!? それが自分だというのか!」

「何と愚かな…ッ」


 あ…何だかハギルさんが凄く怒ってる。

 牙が伸びてきてるし瞳孔が縦に長くなってきた。


「あの、ごめんなさい。だけど本当のことなので、俺にはどうすることもできませんし、獣化することもできません」

「ならば証拠を見せろ」

「証拠?」

「ヒトは食料を加工して食べていたそうだな」


 食料の加工っていうのは、単純に料理のことだろうか?


「え、みなさんは食料を調理しないんですか?」

「肉くらいなら焼いて食べている。人化すれば雑食になるから、メスが栽培した野菜を口にしたり、冬は蓄えておいた麦を湯で煮たマズイ物を食べる」


 麦のお粥は、確かにマズイだろうな。

 どうやら本当に料理しないらしい。

 村も綺麗だし野菜も麦も栽培しているのに、何故食文化がこうも発達していないんだ…逆に不思議になってくる。


「料理は構いませんけど、俺を食べるって話はどうしたんですか?」

「もし、まかり間違ってお前がヒトであった場合、俺達は神殺しになってしまう。幸い今は春だ、食料には困っていないからな。お前を試す期間くらい設けられる」


 つまりは、料理できるか出来ないかで俺の生き死にが左右される訳だな。

 まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。


「わかりました。取り合えず道具や食料とか下拵えにも時間がかかるんで、今は夜ですから………明日の朝まで待ってください」


 農家の息子を舐めるなよ。




 それからがまた大変だった。

 何せそもそも台所という物がないし、あるのは部屋にある囲炉裏と外にある井戸、かろうじて鍋や包丁やお椀はあるけど箸やスプーンはない。

 調味料らしいものは塩しかないし、材料も春キャベツと玉葱に何かの肉、それに蓄えられている小麦。

 いや、流石にこれは大変だな…


 俺の見張りであるナトリさんを引き連れて、取り合えず町の外を散策した。

 たしかここに来る時に竹林が見えたから、ナトリさんから借りた鉈で竹を伐採して、運よく見付けた筍を死に物狂いで掘り返してゲットした。

 泥だらけになる俺を見てナトリさんが呆れてたけど気にしない。


 すっかり暗くなっているから早く用意しないと朝食に間に合わなくなる。

 井戸で汲んだ水を大鍋に入れて囲炉裏にぶら下げ、沸騰したらキャベツを丸ごと茹でる。

 茹で上がったら笊に取り出して、今度は放置してあった鳥らしきものの骨を洗って鍋に入れた。

 グツグツと煮えている音を聞きながら、今度は草や木の実をすり潰す石の道具を借りて次々と小麦を粉にしていく。

 これに塩と水を混ぜて捏上げたものを、きりたんぽみたいに棒にくっ付けて囲炉裏に刺した。

 この段階ですでに夜が明けそうになっている。

 隣で不思議そうに俺を見ているナトリさんもどこか眠たそうだ。


 包丁で肉をミンチにして微塵切りにした玉葱と塩を合わせて捏るけど、そういえば動物が玉葱を食べても大丈夫なのだろうか?

 獣人は獣じゃないし、雑食とか言ってたから平気なのかも。

 茹でたキャベツにミンチを包み、出汁として煮ていた骨を取り出して代わりに入れ、味を調えるように塩を振る。

 そう、鳥ガラスープのロールキャベツを作っているのだ。

 いやもう、あの材料を見たらロールキャベツしか思い浮かばなかったんだよね、手間がかかるけど俺も食べたかったし。

 ロールキャベツを煮ている合間に、囲炉裏に筍を放り込んで蒸し焼きにしていく。

 笹の焼ける良い香りが部屋に充満する。

 ナトリさんの鼻もその匂いにつられてかヒクリと動く……可愛い!

 伐採してきた竹を鉈で叩き割り、縦に裂いて箸を作っていく。

 箸を持ったことがない人には使いづらいかもしれないけど、スプーンやフォークを作れるほど器用じゃないから勘弁してもらおう。

 熱いから手掴みじゃ無理だし、最悪刺して食べれば良いよな。

 何人が料理を食べるのかわからないから、大鍋に入り切れるだけ作ってるんだけど大丈夫かな…

 舌に合わなかったら俺が全部食べることになるかも……いや、その前に俺が食べられるのか?


 カレーにつけるインドのナンみたいに焼き上がった小麦のパンと、ロールキャベツが良い感じに煮詰まった頃、奥から寝起きとは思えないほど凄まじいオーラを纏ったハギルさんがやって来た。

 相変わらずの美形だ。

 羨ましいこと山の如し。


「ナトリ、お前も人化してこい」


 ナトリさんにも料理を食べさせる気なのか、入れ代わりに奥の部屋へナトリさんが入って行った。

 変身シーンが見られないのは残念だけど、もし骨がゴキゴキ鳴るようなグロい変身だったら怖いし逆に良かったのかも…

 竹の節を利用した即席おたまで鍋の中身をぐるぐると掻き回し、大きめのお椀に注ぎ入れる。


「……それが料理というヤツか?」


 囲炉裏の近くに無造作に腰を下ろすハギルさんの前にお椀と箸を置いた。

 湯気が出ているロールキャベツを不思議そうに見下ろす美形。

 その光景はまさにシュールとしか言えないけど、凛々しいハギルさんが僅かに首を傾げている姿はちょっと可愛い。

 虎耳も僅かに伏せてるし、尻尾も落ち着きなく先端が揺れている。

 萌え~とかよくわからなかったけど、これを可愛いっ、抱き締めたいっ、…って思う感情がきっと萌え~なんだろうな。


「毒を入れていないとは限らん。まずはお前が食べろ」


 睨み付けるような眼光にビビりながらも、自分の分をお椀によそっていく。

 確かに時代劇とかでも、偉い人が食べる前に毒味役が料理に手を付けるんだっけ。

 毒なんか入れる隙もなかったけど、それが習慣なら仕方がないか。

 囲炉裏を挟んでハギルさんの向かいに座り、お椀と箸を手に取る。

 いつの間にか音もなく部屋の隅に赤い髪のこれまた美形が座っていた。

 ハギルさんに似た面差しで俺を見てる。

 あれ、もしかしたらナトリさんなのかな?


「何をしている、早く口を付けろ」

「あ、はい。いただきます」


 高圧的なハギルさんの言葉に挨拶もそこそこ、竹でできた箸でロールキャベツを割り一口大に切ると口へと運んだ。

 食べ慣れたコンソメのとは違うけど、鳥ガラの出汁と肉の旨味がよく合っていて中々美味しい。

 そう言えば昨日の夜から何も食べていなかった俺は空腹を思い出し、焼けた小麦の棒にも手を伸ばしてナンのような香ばしいパンを貪り食う。

 小麦の良い匂いに食欲は止まらず、あっという間にお椀によそっていた分を食べ切っていた。

 餓鬼のような食べっぷりに、ハギルさんも恐らくナトリさんと思われる人も目を真ん丸にしている。

 …これは、流石に恥ずかしい…

 顔が熱くなっていくのを止められずに、静かにお椀と箸を置いた。


「あの、すみません…お腹減ってたんでがっついちゃいました」


 あぁ、恥ずかしい!

 自然と俯く体勢になる俺が余程滑稽だったのか、ハギルさんが小さく笑った気がした。

 まぁ、下を向いている俺にはわからないんだけど。


「この棒を使って食べるのか?」

「そ、そうです。箸って言うんですけど…」


 初めて見るであろう箸を手に取るハギルさんに使い方を教えたら、元が器用らしくあっさりと使えるようになってしまった。

 何か悔しいな、もしかしたら俺より上手いかもしれない…

 お椀を手に取り長い指を器用に使って箸でロールキャベツを掴み、小さな牙が見える歯で噛み付く。

 何度か租借して飲み込むと、さっきの比じゃないくらいハギルさんの金色の目が大きく見開かれた。

 慌てた動きで囲炉裏のナンもどきを引っ掴んで口へと運ぶと、また驚いたように目を見開く。


「あの、何か……」


 恐る恐る声をかけようとしたけど、急にガツガツと食べはじめたハギルさんに言葉を飲み込んでしまう。

 まるでついさっきまでの俺みたいに、そりゃ気持ちいいほど大きな口で食べていく。


「ハ、ハギル…?」


 隅に控えていたナトリさんらしき人も驚いているみたいだ。

 お椀のロールキャベツを汁まで飲み切ってようやく落ち着いたのか、ハギルさんが手を止めてフゥッと息を吐く。

 濡れた唇をペロリと舐め上げる仕種に、やっぱりこの人も虎なんだなぁと場違いにも再認識してしまった。


「ナトリ、お前もここに来て食うがいい」

「…え、あ…はい」


 やっぱりナトリさんだったか。

 背も高いし虎の時と同じような赤い髪が肩口までサラリと垂れていて、ハギルさんの言った通り二人はとても似ていた。

 俺の隣に腰を降ろしたナトリさんにも、ロールキャベツをよそって渡す。

 さっきまで見ていたからか、教えてもいないのに器用に箸を使って食べはじめた。


「……これは、美味いです」


 吐息のようにして呟かれた言葉に、純粋に嬉しくなる。

 自分が作ったものを美味しいと食べてもらえるのは、どんな人だって嬉しいに決まってるよな。

 ハギルさんほどではないけど、ナトリさんも勢いよく食べ進めていく。


「あの、ハギルさんもお代わりしますか?」


 俺の言葉に間髪入れず空のお椀を差し出してくるハギルさん。

 あー、ダメだ。

 どうしてもだらし無く緩んでしまう頬を止められない。

 お椀を受け取ると沢山ロールキャベツをよそってハギルさんの前に置く。

 するとまたガツガツと食べはじめる姿に、多分ハギルさんも料理を気に入ってくれたんだろうと思って勝手に顔が笑顔になる。

 一心に食べていく二人に、囲炉裏の中から焼けた筍を取り出し皮を剥いて差し出した。

 暫く首を傾げて不思議そうにしていたけど、恐る恐る箸を付け食べてみればホクホクとした甘い筍の味に気を良くしたのか、瞬く間に無くなっていった。


「……確かに、こんな美味い物はヒト以外に作りえないだろう。お前を食べるのはやめる」


 空になったお椀を置いて床に正座してる俺を見下ろすハギルさんは、はっきりとした口調で言い切った。

 どうやら俺は連鎖の中で生き延びることができるらしい。


「ただし、ただでここに置く訳にはいかない。これからは村の者達に料理なるものを教え、俺に毎食上納しろ。そうすれば衣食住を保証しよう」


 ……それって、ただ単に料理が気に入っただけじゃないのか…?

 隣でいかにも重々しく頷いているナトリさんといい、もしかしたらこの二人は怖い顔に対して性格は存外可愛いのかもしれない。

 俺としても、行く当てなどある訳がないのだしここは一先ず…


「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」


 ハギルさんに頭を下げてお約束の口上を述べた。




 こうして、俺と人虎さん達との生活が始まった。




 ***




 side:ハギル




 堅物で命令を忠実に遂行していたナトリが、狩りを放棄しておかしな身なりの子供を連れて戻ってきた。

 不思議な服装に、不思議な耳。

 あどけない顔に人虎族にはない黒い髪、黒い瞳。

 これから喰われるというのに物怖じしない態度。

 自分をヒトだと言い張るふてぶてしさ。

 どれを取っても面白い。

 ナトリがその場で仕留めなかった理由が、この子供を見ていればわかる。

 ヒトの証を見せろと言えば、この俺に朝まで待てと顔色変えずに言って退けた豪胆さも好感が持てる。

 もし朝になり何もできていなかったとしても、俺の傍に置いてやってもいい。

 いつもは一人きりの屋敷に人の気配を感じながら、おかしな子供を思って眠りに就いた。




 屋敷に立ち込める、食欲をそそる香ばしい匂いで目を覚ます。

 いつものように水で顔を洗い、寝間着から着替えると囲炉裏がある部屋へと向かった。

 たしかあの子供は、火を使って加工すると言っていた。

 部屋に入ると床に散らばった竹の残骸に囲まれるように子供が座っている。

 小さな手で器用に竹を割り削っているようだ。

 囲炉裏を挟んだ向かいに腰を下ろすと、いつもなら湯で煮た小麦を入れる椀に鍋のものを注いで竹の棒とともに寄越してきた。

 鍋の周りには白いものがくっ付いた棒が囲炉裏に刺さっている。

 見張りとしてナトリを置いていたので、下手なことはしていないだろうが用心に越したことはない。


 人化してきたらしいナトリと俺が注目する中、子供に鍋のものを食べさせる。

 一瞬は止まっていたが、一度食べはじめると余程飢えていたのか二本の棒を駆使して汁や焼けている白い何かをどんどん口へ運んでいく。

 暫くして俺達が唖然としていることに気付くと、恥ずかしそうに白い肌を赤らめて俯いてしまった。

 うむ、中々愛らしい生き物だ。

 子供に『箸』なる物の使用法を教えられ、自分の手の中で開いては閉じるそれを感心して見下ろす。

 熱い食べ物は手で掴む訳にはいかないし、煮た小麦のように椀に口を付けて啜れない物を食べるには便利だろう。

 慣れてしまえばこれは普及するかもしれない。


 椀と箸を手に取り湯気を立てる、恐らくキャベツの塊らしきものをかじる。

 舌に触れた瞬間、中に入っていた肉と玉葱の旨味にキャベツの甘味、汁の何とも言えない風味に一瞬我が身に起こったことがわからなかった。

 舌が蕩ける。

 これが太古の昔、ヒトが作っていた料理というものか…

 後はもう夢中だった。

 ナトリも呼んで食べさせ、筍は硬い物のはずが焼いて柔らかくなったそれは堪らなく美味かった。


 初めは面白い生き物だと思っていた。

 獣化しないというのが本当かはわからない。

 ヒトだと信じた訳でもない。

 だが確実に、俺はこの子供を手放せなくなった。

 あの料理を毎日口にしたいと、もっと様々なことを知りたいと…

 あの子供のことを全て知りたいと思ってしまった。




 あれから1ヶ月。

 子供、ユウヤはすっかりこの村に馴染んでいた。

 俺の言った通りに他の人虎達に料理を教え、加治屋に様々な料理のための道具を作らせていた。

 鍋よりも平らで持ち手がある『ふらいぱん』や、煉瓦を積み重ねた陶器を焼く窯に似た物。

 その全てが俺達の生活を一変させた。


 水と果実を入れた壷を何日も火の近くに置き、それを小麦を粉にした物に混ぜて焼いた『ぱん』と言う物は、今ではすっかり人虎達の主食となっている。

 その他に『麹』というものを作り、これからもっと多様な物を作っていくらしい。

 俺達はユウヤに教えられた。

 美味い物を食べると活力が沸く。

 その日働いた分美味い物を食べられると、皆よく働くようになった。

 初めはユウヤの存在に不信感を抱いていた人虎達も、次第に協力するようになり今ではすっかり受け入れている。

 大工が気合いを入れて、俺の屋敷の隣に大きな平屋を建てている。

 人虎達からの熱烈な嘆願により、ユウヤの料理がみんなで食べられる『食堂』と『台所』を建てることになったのだ。

 全く、あの子供には適わない。

 もしかしたら人虎の長である俺よりも余程人気があるかもしれない。

 ユウヤが俺の屋敷に寝泊まりするようになってから、あの堅物なナトリが暇さえあれば訪れるようになったのがいい例だ。

 面白くない。

 ユウヤは面白い。

 だが人虎がユウヤを慕い、ユウヤも他の人虎達を慕う姿が無性に面白くない。

 もやもやとした感情を持て余しているうちに季節は移り変わり、俺達は発情期へと突入していった。




 ***




 人虎さん達と過ごして気付いたことがある。

 元が虎だからか、基本的に自分以外を信じないようだ。

 単独主義。

 最初みんなに紹介された時には、遠巻きに探るような視線が向けられるばかりだった。

 まぁ、今では料理を通していろんな人虎さん達と仲良くなったから良いんだけど。


 あと、ここには子供がいないらしい。

 野性のオスの虎はメスが連れている子供を殺して発情を促したりするらしく、人虎さん達も本能に抗えなくなったらいけないと子供とお母さんは別のところで保護されているそうだ。

 それに、夫婦とか番とか、決まったパートナーがいない。

 発情期にだけ一時的に一緒にいるけど、妊娠したらすぐにメスは別のところに移るんだって。

 だから愛とか恋とかわからないそうだ。

 それって、寂しくないんだろうか…

 俺なんて彼女が欲しくて欲しくて堪らない3年間を過ごしてきたから、超絶美形なハギルさんやナトリさんに彼女がいないのは勿体ない気がする。

 まさに宝の持ち腐れのような。

 あれ、もしかして俺、ここにいる限り一生彼女できないんじゃないか?

 人虎族は身体が大きいみたいで、女性でも軽く180cm以上はある。

 俺より逞しい女性も嫌いじゃないけど、彼女達の方が俺のことを男として見てくれそうにない。

 周りの人虎達は寄ってたかって俺を子供扱いしてるし。


 いかんいかん、段々と愚痴みたいになってきた…

 とにかく、今は作業に集中しないと。


 俺の一日はパンを焼くことから始まる。

 自家製天然酵母でパンを作ると時間がかかるから、昨日から仕込んでいたパン生地を人虎さん達が早くから熱してくれていた石窯で焼いていく。

 こんなところで母さんの趣味であるパン作りが役に立つなんて思わなかった。

 今焼いてるのはパン・ド・カンパーニュっていうフランスの田舎パンで、直径20cmくらいのそれをみんなで切り分けて食べる。

 人虎さん達もパンが気に入ってくれたみたいで、今じゃ主食になってるみたいだ。

 お箸も普及して、もうみんな自在に扱えている。

 今度は麺を打ってみようかな。


「ユウヤ、こっちの鍋はできたみたいだよ」

「ありがと、コセン。次はこれを切って塩を揉み込んでおいて」

「わかった、『浅漬け』だね!」

「正解」


 人虎さん達の中で希望者を募り、日替わりで料理を習ったり手伝ってくれたりする見習いを見繕ったらしいんだけど、このコセンは何故か毎日来る。

 どうやら手伝いに来てくれる人虎さん達の中で一番若いみたいで、他に仕事がないからだとは言っていたけど俺は信じていない。


「あぁっ! またつまみ食いしただろ!」

「アハハッ、ごめんごめん。だってこの唐揚げ良い匂いなんだもん」


 コセンはかなりの食いしん坊だ。

 仕事がないのは言い訳で、きっとつまみ食いしに来ているに違いない。

 確かに村中の人虎分の料理を作らなきゃいけないから人では多いに越したことないけど、作った端から食べられちゃたまったもんじゃない。

 だけどピコピコ跳ねている茶色の髪と耳は愛嬌があるし、ニコニコと人懐っこく傍にいられたら強くも怒れないし…


「後でちゃんと食べれるんだから、今は我慢しろ」

「はーい!」


 嗚呼…虎耳と縞尻尾が憎い。

 あれがあるだけで何でも許してしまう。

 可愛いものは罪だ。

 可愛いコイツが悪い!

 ってことで尻尾を触らせてもらおう。

 視界の端でゆらゆら揺れる茶色の太く長い尻尾をガシッと握ってみた。


「うわっ!」


 相当驚いたらしく、一気にボンッと尻尾が膨れた。

 しっかりとした骨の感触や柔らかな毛の感触を確かめるように、俺は両手で根本から先端に向かって撫で上げる。


「ヒッ、うわぁあっ! ダメだってば、ユウヤ!」


 余程気持ち悪かったのか、コセンが顔を真っ赤にして俺の手から尻尾を庇うように飛び退いた。

 首まで真っ赤にしてぺたりと耳を寝かせている姿は、俺よりデカイ男だとしても可愛いことこの上ない。

 ごめんごめんと口先だけで謝ってから、コセンの肩を軽く叩いてやる。


「……もう、ただでさえ初めての発情期でシンドイのに…っ」


 コセンの小さな呟きは、毛が付いてしまった手を洗うため外に出た俺に届くことはなかった。




 まるで炊き出しのように、鍋の前に自分のお椀を持った人虎のみなさんが行列を作っている。

 それはハギルさんの屋敷の外まで続いているから、まるでではなくまさに炊き出しだ。

 一日分のパンと朝食分の料理を分けていく、毎朝恒例となった光景だ。

 鍋を掻き回している俺の隣では、コセンが焼きたての大きなパンをみんなに配っている。

 これが終わったら俺達も朝食にありつける。

 コセンを含め食事作りを手伝ってくれた5、6人の人虎さんと、ハギルさんとナトリさんで囲炉裏を囲む。


「いただきます」


 食べ物を前にして、みんなが一緒に手を合わせる。

 初め俺が言った時不思議そうにしていた『いただきます』は、料理を食べる前の儀式だといえば、あっという間に広がった。

『いただきます』をする人虎さん達は堪らなく可愛い。

 どんなおっさんでも、妖艶なお姉さんでもみんなきちんと手を合わせる姿は微笑みを誘う。

 勿論上座に座っているハギルさんも、俺を挟むように座っているナトリさんもコセンも『いただきます』をしているわけで、無性にいい子いい子と撫で繰り回したくなってくる。

 朝食を終えるとこれも恒例で、俺特製の笹茶を飲んでのんびりと寛ぐ。

 怒涛の炊き出しが終わった安心感からか、手伝いの人虎さんやコセンは毛繕いなどをして羽を伸ばしていた。

 思い思いに寛ぐ人虎を尻目に、ハギルさんやナトリさんはこれから忙しくなるからと席を立つ。

 どうやら、週に一度の狩りの打ち合わせがあるらしい。


「あの、ハギルさん」

「どうした、また何か必要なのか」


 俺が話し掛ける時は物を強請る時だとでも思ってるのかな…

 まぁ、今まで沢山強請ってきたから仕方がないか。


「いえ、その狩りについて提案があるんです」


 前々から思ってた。

 狩りは効率が悪いし、他の種族と熾烈な縄張り争いを繰り広げかなり危険らしいのだ。

 この前も、森を縄張りとする種族では最も強い人熊族とぶつかったらしく、若い人虎が大怪我をして運ばれていた。

 そんな危険はできる限り排除したい。

 みんな気高くて優しくて綺麗な人達だから、危険をおかして欲しくないんだ。


「食料にする獲物を、自分達で育てたらどうでしょう」

「獲物を育てる?」


 部屋にいる人虎達が一様に怪訝な顔をした。

 それも仕方ないだろう。

 ここには家畜という概念がないらしいから、生き物を野菜のように食べるためだけに育てるなんて発想ができるはずない。


「自分達で獲物を繁殖させるんですよ。そしたらわざわざ狩りに行かなくても、定期的に肉を食べることができるんです。乳牛や卵を産む鳥がいたら料理にも幅が広がるし、今は春ですから子供を奪ってくれば簡単ですよ」


 かなり残酷なことを言っている自覚はある。

 食べられる為だけに生まれてくる命が可哀相だとも思う。

 だけど、人虎のみんなの命には変えられない。


 ―――……


 シンッと静まった室内に段々と不安になってきた。

 もしかしたら人虎としてのプライドを傷付ける提案だったのかもしれないし、命を冒涜することだと怒っているのかもしれない。

 冷や汗が滲む額を拭って、黙り込んでいるハギルさんを見上げた。

 端正な顔が考え込むように難しい表情を作っているのを見て、もしかしたら今夜の料理には俺が並ぶのかもしれないと焦りが生まれる。


「…あの、やっぱり今のなしで…」

「何故今まで思い付かなかったんだ…」

「……は?」


 俺の小さな声を遮るようにハギルさんが何かを呟いた。


「名案だ。早速今日から取り入れよう。ナトリ、お前は狩りの者達と大工を集めて詳しい方法をユウヤに聞け」

「はっ」

「ユウヤ、夕飯の支度までの間ナトリに付き合ってくれ」

「え、あ…はい」


 さっきまで感じていた俺の不安を余所に、目を輝かせている人虎のみなさんに心底肝が冷えた。

 どうやら俺の提案は受け入れられたらしい。

 となれば、これからはもっと忙しくなるだろう。

 家畜小屋や柵を作らないといけないし、動物も捕獲しないといけない。

 餌の確保やその他諸々を準備しなければならなくなるこれからを思うと、提案したことをちょっと後悔したりして…

 でもそれ以上に、充実した日々への予感に胸が高鳴ってくる。

 都会に憧れた高校生活を送って田舎暮らしを疎んでいたのに、ここでの生活を通して俺も変わってきたのかもしれない。

 後片付けをコセン達に任せて、慌ただしくナトリさんに連れ出される。

 それから日が傾くまで、男衆に囲まれたまま一室に缶詰にされる嵌めになり、やっぱりちょっぴり後悔したのは内緒の話だ。




 ***




 side:ナトリ




 自分で連れて来ておいて何ですが、ユウヤは我が一族に多大な繁栄をもたらす存在になるでしょう。

 あの時ユウヤに感じた言い表すことのできない予感めいた直感は、我ながら冴え渡っていたに違いない。

 会話をすれば少しズレている感は否めないけれど、その膨大な知識にはいつも感服してしまう。

 ハギルもそれを認めているようで、屋敷でもかなり良い部屋を彼に宛がっているし、毎食前には落ち着きなく尻尾を振っている。

 その姿はまさに子供で、人虎の長である威厳などあったものではない。

 そう言う私も、ユウヤの用意する食事を心待ちにしている一人だから文句も言えないのですが。

 ユウヤが作る料理は全て美味しい。

 特に『ぱん』と言うものは柔らかく、まるでユウヤのように優しい味がする。


 そして、今度は『牧場』という獲物を繁殖させる施設まで作ることになった。

 肉は狩りに行かねば手に入らないという概念を打ち破る、斬新かつ画期的な提案にハギルの機嫌もうなぎ登りだ。

 ……と、言いたいところなのですが、今までにないほどその機嫌は悪い。

 その原因は……


「ユウヤ、水汲みは俺がしといてやるから」

「ユウヤ、重いだろ? 俺が運んでおいてやる」

「ユウヤ、今日の肉は俺が狩った鹿なんだぜ」

「ユウヤ、牛の乳は俺が搾っておいたから」

「ユウヤ、今日の夜…星を見に行かないか?」


 ユウヤ、ユウヤ、ユウヤ。

 ユウヤを取り巻く人虎達がこぞって彼に纏わり付きはじめたのだ。

 理由は簡単。

 発情期。


 人虎一族は極端にメスが少ない。

 その数少ないメスの中でも子供を持つ者は離れて過ごしているため、適齢期のメスは更に少なくなる。

 そしてそれらのメスは力の強い者と交尾するのが習わしで、早々に町からメスの姿がなくなったのだ。

 すると、どうなるか…

 発散できない情欲を、同じオスに向け始めるのだ。

 つまり、肌が白く小柄で、到底同じオスには見えないユウヤは格好の対象になるというわけだ。

 皆一様に、自分がより優れたオスであると誇示している。

 それがハギルには堪らなく不快らしい。

 私だって、あんな子供を性の対象にするなど言語道断だとは思う。

 けれども…

 川で水浴びする姿や、眠っている姿を見る度に、不覚にも私の中でほの暗い火が灯るようになった。

 あの白い首筋を甘く噛みたい。

 あの細く華奢な身体を組み敷き、思う存分蹂躙したい。

 今までメスにすら抱かなかった感情に、自分自身戸惑いを隠せない。

 距離を置きたい。

 しかし、他のオスから守ってやりたい。

 相反する想いに挟まれたまま、今日も私はユウヤの護衛に回る。


 まさかこの時、ハギルも同じ想いだったとは知るはずもなく……




 ***




 何だか最近、みんなが優しい。

 前から優しかったけど、ここにきて過保護なほど仕事を手伝ってくれるし遊びにも誘ってくれる。

 今も、


「ユウヤ、この後一緒に水浴び行こうよ!」


 夕食を食べ終わりみんなで囲炉裏を囲んでいる中、隣にやって来たコセンが満面の笑みで誘ってくる。

 仲は良い方だけど、前はこんな風に誘ってこなかったのに…

 だけど、期待に茶色の耳をピクピクと動かしているコセンは可愛い。

 きっと断ったら悲しむんだろうな。


「いいよ」


 夕飯の後の水浴びは日課だったから、今更断ることもないとあっさり頷く。

 すると、囲炉裏を囲んでいた他の人虎達の雰囲気が変わった。


「コセン、お前は明日の仕込みがあるでしょう」


 赤い耳を伏せて威嚇するみたいにナトリさんがコセンを睨む。

 ハギルさんも無言だけど機嫌が悪そうだ。

 きっと仕事を疎かにするのが許せないんだろうな。

 二人とも真面目だし。


「あ、それならもう終わりましたから。俺、ユウヤと水浴びしたくて頑張ったんだ~」


 褒めてと言わんばかりに擦り寄ってくるコセンに、堪らずその短めの髪をワシワシと撫でてやる。

 気持ちよさそうに目を細めクルルッと喉を鳴らす姿は、やっぱり動物みたいでこっちまで癒されてしまう。

 これがアニマルセラピーとかいうヤツか。

 コセンと戯れている間にも雰囲気がどんどん悪くなっていくことに気付かず、俺は柔らかなネコッ毛を存分に堪能した。


「……俺も行く」


 それまで黙っていたハギルさんが唸るように呟いた。

 その有無を言わせない威圧感に反射的に頷くと、俺も俺もと声が上がって結局この場にいるみんなで水浴びに行くことになった。

 いつもは一人で浴びてるから、何だか銭湯に行くみたいで楽しみかも。

 ウキウキと上機嫌な俺とは違ってみんなはピリピリしていたけど、そんなの全く関係ないね!

 仲良くなった人虎さん達がお下がりでくれた服を取りに行き、意気揚々と水浴びへと出発した。




 村の側を流れてる小川じゃなくて、林の中を通ってる川へ人虎さん達を引き連れて行く。

 普通は村の小川で水浴びするらしいんだけど、俺はみんなみたいに尻尾とかないから別の川を使うように言われていた。

 俺が奇異の眼差しで見られないための配慮なんだけど、やっぱり自分だけが仲間外れみたいな気がして内心ヘコんでいたんだ。

 でも今日はみんなが一緒だ。

 逞しい人虎さん達と水浴びするのはかなりコンプレックスを刺激されるけど、今までの寂しさに比べれば些細なことだよな。


 林の中の川に辿り着くと、各々好きなところで服を脱いで行く。

 俺はいつものように茂みに入ると、持ってきた服を置いてポイポイと脱いだ服を小脇に抱える。

 これも日課なんだけど、水浴びしながら洗濯も同時に済ませている。

 軽い汚れくらいなら水洗いでも十分落ちるし、まさに一石二鳥だ。

 俺が脱いだ服で前を隠しながら茂みから出ると、みんなはもう川に入っていた。

 流れは緩やかだけど、中央の深さは背が高い人虎さん達でも腰くらいまであって、俺が入ると胸下にまで迫る。

 だから俺は岸寄りまでしか入れない。


「……う、冷たい…」


 ザブザブと音を立てて川に足を進める。

 この時期は山の雪解け水のせいで、水は刺すように冷たい。

 初めこそその冷たさに半泣きになっていたけど、毎日通っていれば慣れてくるものだ。

 俺が川に入ったことに気付いたのか、みんなが振り返る。

 服を着ていない姿は上半身しか見えないけど、やっぱり貧弱な俺とは比べものにならないくらい逞しい。

 ムキムキマッチョじゃなくて、狩りとかで自然と鍛えられた実用的な筋肉が均整のとれた身体を包んでいる。

 羨ましい…


「今日は月が綺麗で良かったな、コセン」


 月が出ているおかげで、明かりを点さなくても十分明るい。

 近くにいたコセンにそう話しかけるけど、何故か勢いよく顔を逸らされてしまった。

 あれ?

 他のみんなを見ても、俺と目が合う前にバッと逸らされる。

 あれれ?

 中心の一番深いところにいるハギルさんとナトリさんを見ても、口を片手で覆って勢いよく目を逸らされてしまう。

 これは…やっぱり俺の姿が気持ち悪いってことだろうか。

 仲が良いと思っていた人虎さん達にこんな風に拒絶されたら、いくら神経が図太い俺だからといってショックを受けずにはいられない。


「あー…やっぱり俺、気持ち悪いか?」


 込み上げてくる寂しさを誤魔化すように笑う。

 慣れたはずの水の冷たさに、情けなくも震え出してしまいそうだ。

 気味悪がられても、せめて嫌われたくないな。


「は!? いやいや違うから! 気持ち悪いとかじゃなくて、ユウヤが白くて細いから目のやり場が…っ」


 違う…?

 あれ、俺の勘違いだったのか?

 焦ったように俺の肩を両手で掴んで弁解してくるコセンの顔は、月明かりで辛うじてわかるほどに赤くなっていた。

 周りをよく見れば、みんな目は逸らしてるけど嫌悪を感じている訳じゃないとわかる。

 うわ、何か勝手に勘違いして勝手に落ち込むなんて、かなり恥ずかしい。


「…ごめん、俺の気のせいだったんだな」

「いや、わかってもらえれば……うわぁっ!!」


 俺が謝ると安心したように笑ったコセンが、目の前から忽然と消えた。

 代わりに現れたハギルさんは、見るからに不機嫌そうで…


「ぶはっ! は、ハギルッ、いきなり何するんだよ!!」


 どうやらハギルさんによって後ろ向きに引き倒されたらしいコセンが、頭までずぶ濡れにして起き上がる。

 いつもは跳ねている短い茶色の髪が、今はペタンと顔に張り付いてるのが新鮮だ。


「あれはお前が悪いでしょ? いつまでユウヤの肩を掴んでいるんですか」


 いつの間にかコセンの隣に立っていたナトリさんも、コセンが倒れた時の水飛沫で赤い髪が濡れていた。


「えー、あれは不可抗力でしょ?」

「コセン、よもやこんな子供を手にかけようなどと、思っていないだろうな」


 ハギルさんの怒気を含んだ声に、俺が言われた訳じゃないのに肩が竦む。

 それは遠巻きに見ていた他の人虎さん達も同じようで、ばつが悪そうに一様に顔を歪めている。

 何でコセンがハギルさんやナトリさんに怒られてるんだろう…

 みんな裸なのに真剣な顔してるし、かなりシュール過ぎる。

 何だか良くわからない間に良くわからない状況になっているみたいだ。

 俺だけを置き去りに周りの雰囲気がどんどん冷たくなっていく。


「馬鹿にしないで下さいっ、俺だってまだ成体になってもいないユウヤに、手を出すわけないでしょ!」

「それじゃ、何故水浴びに誘ったんです? そこに疚しい気持ちがなかったと言えるんですか?」

「それは…」

「こんな子供相手に、恥を知れ。今度ユウヤに触ってみろ、ただじゃ…」

「あのー」


 ますます悪くなる雰囲気に尻込みしながらも、これだけは言っておかなければと勇気を振り絞って声をかける。

 途端みんなの視線が俺に集中した。

 視線が痛い…


「さっきから子供子供って言ってるけど、俺子供じゃないですから」

「……ユウヤ、確かにお前は精神的に大人びているかもしれません。だけど、肉体的にはまだ子供でしょ?」


 諭すように隣に来たナトリさんが俺の頭を撫でるけど、自慢じゃないが俺はアダルトビデオを借りれるほどには大人だ。

 借りたことはないけど。

 大体、信じがたいことだけど、俺よりもデカくて逞しいコセンはまだ15歳らしい。

 人虎族は15歳で成人と見なされるから、ついこの前まではガキンチョだったということだ。

 そんなコセンにまで子供扱いされるのは堪らない。

 ここは一度、はっきりとさせなければ。


「俺、18歳ですから」


 ―――……

 この光景を何と言えば良いんだろう…

 カッコイイ人虎のみなさんが一様にポカンと口を開いている。

 頭の上にある虎耳はピンッと立ち上がってるから、聞こえてないわけじゃないと思う。

 けど、このリアクションは何だ。

 そんなに俺が18歳なのが信じられないのか、失礼な奴らだ。


「……18、だと?」


 下半身は川に浸かっていて見えないだろうけど、ハギルさんが猫のように瞳孔を真ん丸にして俺を食い入るように見詰めてくる。

 いや、ハギルさんだけじゃなくて他のみんなも穴が開くほど見ている。

 俺、今なら視線だけで死ねる気がするよ…


「……ユウヤが、私と…同じ年…」


 …え?

 ナトリさんも18歳!?

 俺とナトリさんが同い年だからみんな驚いていたのか!

 そうか、ようやく合点がいった。


「あ、言っておくけど、これでも俺の人種の中じゃ大きい方だからな、俺」


 177cmは決して小柄ではない。

 最近じゃ見上げることが多いけど、元々は見上げられることの方が多かったんだ。


「それじゃあ…ユウヤはもう成体…」


 コセンの呟きに、ゴクリと喉を鳴らす音が聞こえる。


「当たり前だろ? コセンよりも年上なんだからな! とっくに成長も止まったし、心身ともに立派な大人だ」


 その後、ハギルさんの睨みで水浴びは再開されたけど、急によそよそしくなったみんなに俺は首を傾げるばかりだった。




 ***




 side:コセン




 ユウヤが作るものは全部美味しい。

『ぱん』も『唐揚げ』も『すーぷ』も。

 初めて『料理』を口にした時の衝撃を今でも忘れない。

『料理』は元気が沸くし、幸せな気持ちになる。

 そんな『料理』を作れるユウヤは、神様が遣わせた奇跡に違いない。

 成体になってすぐの俺は、まだ仕事を選んでいなかった。

 だから迷わずユウヤの手伝いをする『見習い』になった。

 肉体労働を知らなさそうな白く細い指が、次々に『料理』を作っていく。

 その光景は魔法みたいだった。

 硬い小麦の実が綿のようにふんわかするなんて、誰も思ってなかっただろう。

 ユウヤはいろんな種を絞って油を取り出し、それを使って美味しいものをいっぱい作った。

 幸せの味がするユウヤの『料理』

 俺は夢中になった。

 だけど、いつの間にか俺は『料理』じゃなくてユウヤの方が気になりだした。


 人虎とも、他の種族とも違うユウヤ。

 小さな身体で見上げてくるユウヤ見ると、無条件で守ってあげたくなる。

 人虎の長で厳格なハギルや、堅物で有名なナトリまでユウヤを特別扱いしているから、本当なら守らなくても大丈夫なんだけど。

 何故か他の人虎じゃなくて、俺に守られてほしいと思ってしまう。

 弱者に対する庇護欲とは違う、説明できない感情。

 俺はその感情の名前がわかるまで、ユウヤの傍を離れないと心に決めた。


 人虎の発情期は短い。

 1週間ほどで治まる疼きは、堪えようと思えば堪えられなくもない。

 俺は初めての発情だけど、欲に溺れてオスを追いかけ回したりはしない。

 その程度くらいは自分を律することができる、と、思っていた。


 今思い出しても震えが走る。

 あの魔法を生み出す白い指が、俺の尻尾を根本から先端まで撫で上げた。

 その瞬間、雷に打たれたような衝撃と甘い痺れが背筋を走った。

 誤魔化しようのない、明らかな情欲。

 ユウヤはオスで、しかもまだ子供なのに…

 距離を置かないと自制が効かなくなるのは目に見えていた。

 だけど、まるでマタタビに誘われるかのように、ユウヤに近寄りたい気持ちを押さえ込むことができなかった。


 水浴びに誘えば、ハギルやナトリどころか他の人虎達まで一緒に行くことになった。

 ユウヤとの時間を邪魔されるのは気に食わないけど、俺は内心安堵してもいた。

 少なくとも我を忘れてしまうことはないだろうと。


 月の光りに照らされたユウヤは、本当に綺麗だった。

 白い肌に細い身体。

 夜を映したような真っ黒の髪に少し大きな目。

 一目見ただけで顔が熱くなるのを感じて、慌てて目を逸らす。

 周りのみんなも同じようだった。


「俺、18歳ですから」


 まさかユウヤが俺よりも年上だとは思わなかった。

 ひとつ屋根の下で暮らしているのに、どうやらハギルも知らなかったらしい。

 ユウヤが成体。

 今までは子供だからと辛うじて情欲を我慢できていたのに、その箍がいとも簡単に外れてしまいそうだ。

 意識しはじめると、もう止められない。

 熱くなる一方の身体は、雪解け水の冷たさでさえ醒ますことはできなかった。


 ハギルがユウヤと水浴びすることを禁止にした。

 それは正しい判断だったと思う。

 俺も次にユウヤの肌を見たら、自分を止められる自信がないから。

 守りたいと思っていたユウヤを、俺が傷付けるわけにはいかない。


 もう少しで発情期も終わる。

 そうしたらこの衝動もなくなるのだろうか。

 ユウヤを見るだけで抱き締めたくなる気持ちも。

 匂いを嗅いで尻尾を巻き付けたくなる気持ちも。

 撫でられて無意識に喉が鳴ってしまう気持ちも。

 全部消えてしまうのだろうか。

 それが寂しいと感じてしまうこの気持ちは何だろう?

 ユウヤの『料理』は幸福の味。

 それじゃ、ユウヤ自身はどんな味がするのかな?


 嗚呼、今日も眠れそうにない。




 ***




 今日は人虎さん達がこぞってプレゼントをくれた。

 その中には昨日一緒に水浴びした人もいる。

 まぁ、プレゼントと言っても食材になりそうな物ばかりだから、ただ単に料理してほしかっただけかもしれないけど。

 それにしても、今日はいつになく食材が豊富だ。

 筍、きのこ、野苺、鮎、蕗の薹に卵や蜂蜜まである。

 今夜はご馳走だな。

 限られた材料を駆使して作るのも楽しいけど、やっぱりもっといろんなものみんなに食べさせてあげたい。

 料理を知らなかった人虎さん達は、毎回毎回驚きながらも美味しそうに食べてくれる。

 最近じゃ何がどう美味しかったとか、あれが好きだとか感想まで聞かせてくれるから張り合いも出るってもんだ。


 あっという間に牧場も完成して、段々と動物達も揃ってきた。

 乳牛に、鳥。

 羊や山羊や兎までいる。

 みんな普通の動物だ。

 この世界には不思議なことに、草食動物の獣人はいないらしい。

 流石の俺でも、人化する動物を食べることはできないからかなり安心したのを覚えてる。


「あー、その、なんだ。これ、お前にやる」


 また食材を渡された。

 腕に抱えきれないほどの綺麗な菜の花だ。

 若い人虎さんは俺に菜の花を押し付けると、顔を真っ赤にして走り去って行く。

 まだお礼も言ってないのに…

 だけど、これで今日のメインが決まった。


「コセン~! 菜の花貰ったから、今日は天麩羅だぞー!」


 牧場作りに奮闘していたからまだ食堂はできていないけど、ハギルさんの屋敷に隣接するように台所が作られた。

 昔の日本みたいに土間で、釜戸や野菜を洗うための洗い場が付いている。

 中で他の人虎さん達と石臼で小麦を挽いていたコセンに、たった今受け取った菜の花を見せてやる。


「…いや、それ食料として持ってきたんじゃないと思うけど…」


 何かブツブツと呟いていたコセンに首を傾げながらも、さして気にすることもなく井戸水で菜の花を洗っていく。

 それにしても、天麩羅にパンは合わないよな…

 今みんなが挽いている小麦粉をうどんにしよう!

 貰った鮎を出汁にして、熱々のうどんに菜の花や蕗の薹の天麩羅をのせる。

 我ながら涎れが出そうだ。


「コセン、今日の分のパンは明日に回して、その小麦粉でうどんっていうの作るから」

「『うどん』? 今から作って夜までに間に合うの?」

「パンよりも早くできるから大丈夫だ」


 パンは丸1日かかるから、うどんもその一種だって思ってるんだろうな…


「後で離れにも持って行ってくれよな」

「あぁ、婆様達に伝えとくよ」


 離れとは妊婦と母子が暮らしている小さな村だ。

 料理を取りに来ることができないから、毎回お婆さん達が運んでくれている。

 お婆さんと言ってもまだまだ元気で、腰が曲がっている人は一人もいないけどね。

 今日は蜂蜜と卵もあるし、うどんの生地を休ませている間にケーキでも作ろう。

 まだ見たことはないけど、きっと人虎の子供達も甘いものが好きに違いない。

 あぁ、可愛いんだろうなぁ…

 小さな子供に虎耳と尻尾…最強なんじゃないかな。

 この村にいるのは10歳を過ぎて、大人の中で生きていけるようになった子供だけだ。

 身長も俺と同じくらいだし、子供には到底見えない。

 見てみたいな、ちっこい人虎。

 俺に発情期はないんだし、行っても問題ないような気がする。

 今夜ハギルさんにお願いしてみるか。


 台所の真ん中に鎮座している大きなテーブルに粉を広げ、塩と水を加えて捏ていく。

 本当ならビニール袋に入れて踏むといいんだけど、人虎さん達は力が強いから大丈夫だろう。

 ただ小麦を練っただけの塊にみんな不思議そうにしていたけど、いざうどんができてみれば興味津々といった感じで目を輝かせていた。

 ケーキを作り、天麩羅を揚げ終わった頃にはすっかり日が落ちていた。

 台所の入口にお椀を持って列を成している人虎さん達に天麩羅うどんをよそっていき、まだ成人していない子供には切り分けたカステラみたいなケーキも付けてあげる。

 嬉しそうにピコピコと動く耳を見て、俺まで嬉しくなるから不思議だ。




「構わない」


 いつものように屋敷の囲炉裏を囲んでご飯を食べる。

 みんな初めて見るうどんに戸惑っていたけど、一口食べて気に入ったのか器用に啜っていた。

 そして、今夜離れに行ってみたいとハギルさんにお伺いを立てたら、拍子抜けするくらいあっさり頷かれた。


「え、俺オスだけどいいんですか?」

「あぁ、ユウヤならメスをどうこうすることもできないだろうしな」


 かなり失礼なことを言われた気がするけど、そこはなんとか堪えてやろう。

 折角許可を貰ったのに、ハギルさんの機嫌を損ねるのは得策じゃない。


「それに、ここよりも離れの方が安全だ」

「それもそうですね、何なら2、3日離れに泊まったらどうですか?」


 ナトリさんの言葉に周りから不満の声が上がる。


「んー、泊まってみたいのは山々なんですけど、パン作りもありますから」


 甘えてしまいたくなるけど、与えられた仕事はしっかり熟したい。

 俺の言葉にお手伝いの人虎さん達はホッと息を吐いている。

 1ヶ月ちょっと手伝いをしているけど、やっぱり俺がいない調理は不安なんだろうな。


「それなら早く行くぞ。飯を食うと子供はすぐに眠ってしまうからな」

「あれ、ハギルさんも行くんですか?」


 立ち上がるハギルさんを座ったまま見上げる。


「当たり前だ。長は自由に行き来できる」

「私もついて行きたいんですけど、掟ですからね」

「俺だってユウヤをメスの群れになんか行かせたくないよ」


 寂しそうにしているナトリさんや、唇を尖らせているコセンがちょっと可愛い。

 だって耳がぺしょんって伏せられてるし。


「行くぞ」


 俺を促すみたいに、肩を金色の尻尾が叩く。

 虎耳は感情豊かだし、尻尾は便利だし…

 改めてみんなが羨ましくなってきた。




 離れには村の外れから林へと続く小道を歩くらしい。

 明かりも持たずにズンズン進んで行くハギルさんに置いて行かれないよう、足元にだけは気を付けて歩みを早める。

 元々虎は夜行性だから、きっとハギルさん達も夜目が利くんだろう。


「離れにはハギルさんの子供もいるんですか?」


 たしか優先的に強いオスにメスが近寄るって言ってたから、村の長であるハギルさんにはいっぱい子供がいるんじゃないかと俺は睨んでいる。

 特定の相手を持たないのはハーレムと同じだろうから、毎年毎年子供が生まれて実は20人の父親とかあるかもしれない。

 ハギルさん似の子供達を想像して頬が緩んでいく。


「子はいない」

「……え?」


 これは予想外だ。

 ハギルさんは強いし、ナトリさんより2歳年上だって聞いてるからまだ20歳のはずで。

 人虎の長で、メチャクチャ美形で、性格だって冷たく見えるけど凄く優しい。

 そんな優良物件をメスの人虎さん達が逃すわけがない。


「意外です。子沢山だと思ってたから」

「お前…俺を何だと思っているんだ」


 先を歩くハギルさんが俺をチラリと振り返る。


「村の長が発情期なんぞにかまけているわけにはいかないだろ。この時期は他の種族が子を成しているから、普段よりも外での争いが激しいんだ」


 そうか、子供が生まれると他の肉食動物の標的にされやすいから、周りの大人がピリピリするんだ。

 昔近所で生まれた子猫を見に行った時、触ろうとしたらお母さん猫に引っ掻かれたことがある。

 それに食べ物もいっぱい必要だから、いつもより縄張り争いとかも苛烈になるんだろう。

 きっとモテモテなのに、長って大変なんだな。

 いや、きっとハギルさんが真面目なんだ。


「ありがとうございます」

「…いきなりどうした」

「だって、そんな忙しいのにこうやって俺に付き合ってくれてるんですから、お礼くらい言うのは当然ですよ」


 本心からの俺の言葉にハギルさんは素っ気なく前を向いてしまった。

 だけど、目の前の金色尻尾が落ち着きなく揺れている。

 もしかしたら照れてるのかも。

 やっぱり尻尾は正直だ。


「そういえば、今離れにはどれくらいの人虎さんがいるんですか?」


 ハギルさんの反応を揶揄うのは可哀相だから、話を変えてみる。


「子供が32、母親が11、妊婦が3、手伝いの婆様が6だな」


 どこかぶっきらぼうに聞こえる声でハギルさんが応えてくれた。

 照れてしまったのが恥ずかしかったのかな?

 完璧な大人に見えるのに、こんな些細な反応が一々可愛く見える。


「32人も子供がいるんですか? ケーキ足りたかな…」


 今日夕食と一緒に渡したケーキを思い出して、ちょっと不安になってきた。

 貰った卵と蜂蜜を全部使ったけど、村の子供達にあげた分も合わせて大きな器に3個しか作れなかったし…


「何をゴチャゴチャ言っている。ほら、着いたぞ」


 ハギルさんの背中だけを見て歩いていたら、不意に開けたところに出た。

 周りをぐるりと囲む、高くて頑丈そうな木と石でできた壁。

 開放的な大人達の村とは違って、厳重に守られている離れに圧倒されてしまう。

 ここなら安心だって言った意味が今ならわかる。

 でも…子供は村の宝だから仕方ないかもしれないけど、これはちょっと窮屈じゃないのかな。


「おやおや、珍しいお客だこと」


 壁の上で見張りをしていたらしいメスの人虎さんが、ハギルさんを見て妖艶に笑った。

 まさにお姉様と言いたくなるような豊満な身体の人虎さんが、壁の内側に合図している。

 すると、ただの壁だと思っていたところが音を立てて開きはじめた。

 入口がわからないようにカモフラージュしていたらしく、僅かに隙間を作って開かれた門からハギルさんが入って行く。

 俺も続いて離れに入ると、また音を立てて門が閉められた。


「うわ、凄い…」


 外から見たよりも中は広かった。

 真ん中には小川も流れていて、ここでの暮らしは思いの外快適なのかもしれない。


「お久し振りね、ハギル」


 見張りを他の人虎さんと代わったのか、さっきのお姉さんが梯を下りて歩み寄ってきた。

 やっぱり俺よりも背が高かったけど、少し波打った長い栗色の髪の綺麗なお姉さんだ。

 思わず見惚れていると、ハギルさんの腕が肩に回ってグッと引き寄せてくる。


「コイツが離れを見てみたいというから来ただけだ。別にお前に会いに来たわけじゃない」

「わかってるわよ。だけど、子供達はいつも楽しみにしてるのよ? もっと顔出してあげなさい」


 突き放すようなハギルさんの言葉に臆することなく、それどころか説教めいたことまで言い出すお姉さんに驚いてしまう。

 長であるハギルさんに、こんな風に言える人虎さんは村にはいなかった。

 もしかしたらこのお姉さんは、離れのリーダーなのかもしれない。


「貴方がユウヤね。いつも美味しい料理をありがとう」


 ジッと見ていたら、お姉さんが俺を見下ろして艶やかに笑った。

 こんな風に微笑まれたら、どんなオスもイチコロだろう。


「アタシはニザン。離れの長のようなものよ」


 やっぱり。

 存在感のあるオーラがどこかハギルさんに似てると思ったんだ。


「初めまして。俺は佐藤裕也です」

「フフッ、ご丁寧にどうも」


 ハギルさんの腕が肩に回ってるから小さく首だけでお辞儀すると、お姉さん…ニザンさんから可笑しそうに笑われてしまった。

 ちょっと、これは恥ずかしい…


「おい、いつまで立ち話するつもりだ」


 俺が恥ずかしさに顔を熱くさせていると、いつにないほど不機嫌そうなハギルさんがニザンさんを睨む。

 そうだった。

 ただでさえ忙しいのについて来てくれたんだ。

 真面目なハギルさんは、早く村に戻って仕事がしたいに決まってる。


「もう…短気な男ね。さ、ユウヤ。アタシ達の離れを案内するわ」


 ハギルさんの態度を気にすることもなく、ニザンさんが先を歩きはじめた。

 俺はといえば、未だに肩に腕を回されたまま歩くはめになっている。

 久し振りに来たらしいハギルさんに会おうと家から出てきた人虎さん達が、俺達を見て目を丸くしている。

 ……さっきの比じゃないくらい恥ずかしいんですけど…

 だけど、ムスッと口の端を下げているハギルさんに手を離せなんて言えなくて、ニザンさんの案内が終わるまでこの羞恥プレイのような状況は続いたのだった。


 案内してもらって、改めて『離れ』はひとつの村みたいだと思った。

 オスはいないけど、メスのみんなは俺なんかより余程逞しいし、療養所や小さな学校もあるらしい。

 そして、これは一番驚いたんだけど、ここではお米を栽培していた。

 働くということを子供達に学ばせるためでもあるらしいんだけど、見せて貰った少し小さな水田はすでに田植えを終えていた。

 村で取れる麦よりは格段に収穫量が少ないけど、お米があれば料理の幅が広がる。

 倉に納めてあるお米を全部くれるという太っ腹なニザンさんに感謝しながら、俺達は子供達が集まっているという集会所に向かった。

 今日はたまたま、婆様が子供達に物語を聞かせる『小夜の集い』があっていたらしい。

 俺達が集会所を前にした時、丁度帰る頃だった子供達がハギルさんを囲むようにして集まってきた。


「あーっ、ハギルだ!」

「ニザン、ハギル連れて来てくれたの!?」

「ハギルッ、ボク字が書けるようになったよ!」


 …ヤバイ、鼻血が出そう…

 俺よりも小さな可愛らしい子供達が、それはそれは嬉しそうに目を輝かせてハギルさんを見ている。

 小さな耳をピコピコ動かして我先にと話している姿は、最早凶器と言っても過言ではないほどの可愛さだ。


「ハギル、コイツ誰?」

「耳ないぞ!」

「尻尾もだ!」

「足になんかくっ付けてるぞ!」

「髪が真っ黒だ!」


 ハギルさんと会えた興奮のまま、今度は俺に視線が集中する。

 やっぱり奇異に見えるらしい俺の姿に、子供達が僅かに警戒しながらも興味深そうにいろいろと観察してくる。

 ちなみに、俺の足に『くっ付いている』のは、学校指定の黒いローファーだ。


「コイツはユウヤだ」


 未だ俺の肩に腕を回していたハギルさんが、更にぐっと引き寄せてくる。

 だから、恥ずかしいんですけど…

 ほら、子供達も不思議そうにしてるから。


「ユウヤはね、いつもみんなのために『料理』を作ってくれているのよ」


 簡単過ぎるハギルさんの紹介を補うように、ニザンさんが子供に説明してくれる。

 途端に俺を見詰めてきていたたくさんの目がキラキラと輝きだす。


「『料理』大好き!」

「あれ、ユウヤが作ってたのか!?」

「『けーき』ありがとう!」

「いつも『料理』楽しみにしてるよ!」

「俺、『箸』上手になったんだ!」

「『ぱん』って本当に小麦なの?」

「『うどん』も小麦って言ってた!」

「私にも『料理』教えて!」


 これは、どうしたものか。

 俺の腰ほどしかない子供達は嬉しそうに抱き着いてくるし、大きな子供達も興奮したようにまくし立ててくる。

 困ったように隣を見れば、子供達の勢いに圧されたのかいつの間にか離れていたハギルさんが溜息をついている。

 ニザンさんはにこにこしているだけで助けてくれる気はないようだ。


「ありがとうな、みんな。俺が作ったご飯、ちゃんと食べてくれてるんだな」


 小さな頭を虎耳ごとワシワシ撫でていけば、子供達が目を細めて擦り寄ってくる。

 俺も私もと差し出される頭を次々に撫でていき、嬉しそうにしている姿を見て俺まで癒されてくる。


「さぁ、そろそろ家に帰りなさい。お母さんが待ってるわよ?」


 頃合いを見て手を叩きながら声をかけてきたニザンさんに、子供達から『えーっ!』という声が上がる。


「今日はもう遅いから、また今度ケーキ持って昼間に来るよ」


 不満そうな子供達に顔を綻ばせながら言うと、いかにも渋々といった感じで俺から離れていく。

 やっぱり『ケーキ』が効いたんだろうな。

 散り散りになって帰っていく子供達は、その間何度も振り返ってブンブンと手を振ってくる。

 俺もその尻尾が揺れる可愛過ぎる姿に、最後の一人が見えなくなるまで手を振った。


「……安心した」

「どうした、いきなり」

「だって、もっと気持ち悪がられるかと思ってましたから」


 子供は純粋だからこそ残酷だ。

 あんな可愛い生き物に嫌われたら、ショック過ぎて立ち直れない。


「子供達は『料理』が大好きなのよ。今日なんて『けーき』の奪い合いだったわ」


 ニザンさんの嬉しい言葉に、自然と口が笑ってしまう。

 この村は何処もかしこも暖かい。

 今日は思い切ってハギルさんにお願いして良かった。

 ニザンさんや他のメス達に必ずまた遊びに来るよう約束させられて、俺達は離れを後にした。




 来た道とは違う道を、ハギルさんの後ろについて歩く。

 ホー、ホーと何処からか梟の鳴き声が聞こえる。

 離れを出てから暖かいままの気持ちとは違い、いくら春だからといって夜は冷える。

 寒くなってきた腕を擦りながら歩くけど、さっきからハギルさんは無言だ。

 そもそも、ハギルさんはお喋りじゃないから普通といえば普通なんだけど、何だかいつもと様子が違う気がしてならない。

 もしかして、みんなと別れて寂しいのかな?


「ハギルさんとニザンさんは仲が良いですよね」


 二人が互いに気を許していることは最初に気付いてた。

 ハギルさんは煩わしそうにしながらもニザンさんの言葉に怒ってはいなかったし、ニザンさんも嬉しそうだった。


「幼馴染みとかですか?」


 もしかしたら恋人に近い関係なのかも知れない。

 だとしたら、意外とハギルさんは尻に敷かれるタイプなんだな。

 歩く足を止めずに耳だけをピクッと動かして、ハギルさんは大きく溜息をついた。

 そう言えば、俺が子供達に囲まれてた時も溜息ついてたな…


「ニザンとはそういう仲じゃない」


 段々と近付いてくる水音に気を取られていたら、いつの間にか少し開けたところに出ていた。


「アイツは俺の姉だ」

「……え、お姉さん?」

「正確には双子の姉だ。人虎は一度に2~3頭の子供を産むからな」


 お姉さんと言われると納得がいく。

 髪の色こそ違うけどメチャクチャ美形だし、二人の雰囲気とかオーラとか凄く似ていた。


「そうだったんですね。………あれ、ここ何処ですか?」

「お前、気付くの遅いだろ…」


 てっきり村に入ったとばかり思ってたけど、まだ森の中らしい風景に首を傾げる。

 ハギルさんが呆れたように見てくるけど、俺は夜目が利かないから仕方ないと思う。


「昨日…水浴びの時、寒そうにしていただろ? これからはこの泉を使うといい」


 ハギルさんが示した先には、木々に囲まれた小さな泉があった。

 暗くて良くわからないけど、微かに湯気が出ているように見える。


「温泉…ですか?」

「あぁ、たまに他の動物が入っているから害はない。ユウヤは寒さに強い人虎じゃないからな、今まで気付けずにすまなかった」


 うわ、何だろう…凄く嬉しい。

 本当はもう少し早く教えてほしかったけど、昨日の水浴びでそんなことを気にしてくれていたらしいハギルさんの優しさが胸に染みる。

 泉の側で屈みお湯に指先を入れてみたら、熱過ぎず温過ぎず丁度良い湯加減だった。


「ありがとうございます、ハギルさん! それじゃ、早速入りましょうよ」


 日本人は温泉好きだ。

 俺も例に漏れず温泉でまったりするのが大好きだから、居ても立ってもいられずに上着に手をかけた。

 着替えを持ってきていないから洗濯はできないけど、今日くらいは平気だろう。


「……俺は夕飯前に水浴びしたから、お前一人で入っていろ」


 恥ずかしげもなく服を脱ぎ捨てると、突っぱねるように言ってくるハギルさんを振り返った。

 すると、そこにはハギルさんの姿はなく、目を凝らしてみたら離れた木の向こう側から尻尾だけが出ていた。

 気を利かせてくれてるのかな?

 昨日みたいに一緒に入れないのは寂しいけど、裸でいることが限界だったからお言葉に甘えて温泉へと入った。

 冷えていた手足がジンッと痺れる。

 お湯の色まではわからないけど少しトロリとしていた。


「ふぁ~、極楽極楽」


 腰くらいまであるお湯に肩まで浸かると、ついつい定番の台詞が口をついて出てくる。

 ちょっと年寄り臭かったかも…


「……お前は不思議だな」


 離れたところからハギルさんの低い声がする。


「喰われそうになったのに、全く人虎を恐れない。それどころか積極的に関わろうとする」


 お湯に浸かりのんびりと星空を見上げながら、俺はハギルさんの声に耳を傾けた。


「ユウヤの話を聞く限り、ここよりも余程文明の発達したところから来たというのに、お前はいつも楽しそうにしている。水浴びのことだってそうだ。不自由なことだらけだろうに、何の不満も口にしない。ユウヤ…お前と俺達とでは生きてきた環境も違えば、文化も風習も常識も違う。だから言ってくれなければわからない。脅しのように始まったこの村での生活だろうが、俺はお前に出来得る限りのことをしてやりたい」


 あのハギルさんが物凄く話してる。

 今までずっと言いたくても言えなかったのかもしれない。


「……水浴びのことは言わなくてすみませんでした。だけど、俺は脅されてるだなんて最初から思ってませんでしたよ?」


 ここの星空は綺麗だ。

 だけど、元の世界で見てきたものとは違う。


「不思議でもなんでもない、単純な話です。俺はここが好きで、ここに住むみんなが好きで、みんなが喜ぶ顔が好きで…だからここにいるんです。好きなものに囲まれて、俺は今とても充実してます。前よりももっと、幸せです」


 小さく息を飲む音がしたけど、聞こえない振りをした。


「こうして、俺を気遣ってくれる優しい人虎さんもいますからね」


 さっきのハギルさんからの言葉、それだけで十分だと思う。


「……やはり、お前は不思議だ」




 ***




 side:ハギル




 獅子は1頭のオスに対し複数のメスを伴侶とする。

 狼は伴侶を得ると生涯その相手と共に過ごす。

 しかし、俺達虎は自立すれば後は死ぬまで孤独だ。

 今でこそ必要に迫られて村を作っているが、中にはここを抜けて一人で生きていく人虎もいる。

 そんな俺達に、他の種族が抱く『恋愛感情』などはない。

 今村中のオス達がユウヤの気を引こうとしているのも、発散することのできない本能を癒そうとしているに外ならない。

 発情期さえ終われば、まるで夢から覚めたように再び静けさを取り戻すだろう。

 現に早々に発情期を抜けたオスは、以前のようにユウヤとつかず離れずの距離を取りはじめている。

 しかし、俺の胸を焦がす感情は日に日に酷くなるばかりだ。

 この疼きは、発情期だからじゃないのか…?


 いつものように朝食を食べ終わり、獣化して森の縄張りを確認する。

 この森には人虎族以外にも、人狼族、人豹族、人狐族、最強の種である人熊族が縄張りを持っているため、毎日の確認は命懸けだ。

 なのに、昨夜のことばかりを思い出してしまう。


『好きなものに囲まれて、俺は今とても充実してます。前よりももっと、幸せです』


 その中に俺はいるのだろうか。


『こうして、俺を気遣ってくれる優しい人虎さんもいますからね』


 お前の目に俺はどう映っている?

 お前は俺をどう思っている?

 どうしてこんなにも心を揺さ振られる…?


 過去5回経験した発情期。

 そのいずれでもこんな焦躁に駆られたことはない。

 今年の発情が激しいのか、ユウヤのせいなのかはわからない。

 けれど、ユウヤに声をかけるオスが気に入らない。

 オスどころか、ユウヤに見惚れられていたニザンに苛立ち、その身体を抱き締め頭を撫でられていた子供達にさえ面白くないと感じてしまう。

 人虎に恋愛感情はない。

 けれど、もし。

 もしも発情期が終わって、それでもこの感情が消えなかったら…

 俺は恋をした初めての人虎になるだろう。


 その時の俺は柄にもないことで頭がいっぱいで、背後に迫っていた気配に気付くことができなかった。

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