音声収録スタート【Cパート】
「一旦、休憩入れまーす。」
窓野は金魚鉢の中に聞こえるマイクのボタンを押して孫安に伝えた。
「はーい。」
いい声が返ってくる。
区切りの良いタイミングで、おおよそ一時間に十分から十五分程度の休憩時間を設ける。
その間、喫煙所に行く者、静かに本を読む者、スタッフと雑談する者、十人十色だ。
二回目の休憩時間、窓野は孫安が休憩している金魚鉢の中に入って行った。
「どうも、お疲れ様です。」
「あ、どうも。」
孫安はにこやかな表情を浮かべる。
意外と歯並びがガチャ歯だ。
「孫安さん、二枚目からギャグキャラまでやられてますが、アイジャックはどうですか?」
「こないだまでアニメやってたからね、その延長戦みたいな感じですよ。
でも正直、一作目のゲームの印象は俺の中に残ってないんだよね。
何かイメージが違ってたら言ってください。」
「いえいえ、まったく問題ないです。」
「それは良かった。」
「孫安さん、昔、カセットブックの『ワイルドヒーローズ』でマッドマインをやられていましたね。」
窓野は自分がアルパカ電子時代に関わっていた作品の話題を出した。
「またマイナーなものを‥‥あははは。」
孫安は笑いながら言った。
『ワイルドヒーローズ』は結構売れたゲームであったが、完全なる家庭用ゲームではない。
やはり世間一般の認識だとマイナーなのだろう。
「実はマットマインのドット絵、自分が描いていたもので。」
「ええっ、そうなんですか。
いやぁ、仕事が来た時は、何で俺にって感じだったんだよね。
たしか仮面の下は美少年って設定だったけどさ、カセットブックじゃ関係ないじゃん。」
「あはは、そうですね。」
そんな雑談をしながら休憩時間は終わった。
● ● ●
台詞回しの変更、アドリブ、行きのテイク数などを台本にシャープペンシルで記述しながら、キュー出しを続ける窓野。
そして、最後にフリートークを収録し、拘束時間をだいぶ余らせて孫安の仕事は終わった。
「お疲れ様でした。」
尾上と窓野がアイジャックを演じ終えた孫安に挨拶をした。
「ありがとうございました。」
孫安も着帽のまま挨拶を交わす。
「特に何もなければ、俺はこれで上がりますが?」
「特にやり残しとかはありませんよ。
いいお仕事、ありがとうございました。」
窓野はそう言うと深々とお辞儀をした。
「また何かお仕事がありましたらよろしくお願いします。
――それでは失礼します。」
孫安はそう言うと去っていった。
その直後だった。
「右田さん、もう控室に見えてます。」
キャスティング会社、ネムケプランニングの八神翔子が収録スタジオまで呼びに来た。
「えっ、こんな早く?」
尾上が驚く。
収録の三十分前に入り、軽く打ち合わせしてから臨むというのが理想であるが、現実には五分前に現れるという声優も多い。
今日の場合、収録開始までは一時間以上もある。
開始時間でも間違えない限り、あり得ないほど早いインであった。
「お疲れ様です。」
尾上が控室のドアを開けるや否や、攻略対象キャラクターの一人、ナオツグ役の右田晶に声を掛ける。
右田は読んでいた台本を閉じると、すっと椅子から立ち上がった。
「右田晶です。宜しくお願いします。」
やや硬めの挨拶をする右田。
地味目のグレイッシュブラウンの半袖シャツがヨレヨレであるという点を除けば、立派な好青年だ。
「あの、まだ収録にはだいぶ時間がありますが‥‥?」
尾上が問う。
「ああ、ちょっと本を読んでいてわからないニュアンスを先にお訊きしたくて。」
こんな真面目な売れっ子声優、見た事がない。
ちなみに『本』とは台本やシナリオの類を指す。
「では少し早いですが、打ち合わせを始めましょうか。」
窓野が切り出す。
「宜しくお願いします。」
折り目正しく右田が頭を下げると、窓野もつられて頭を下げる。
「私は少し向こう行ってるんで。」
そう言うと尾上は控室から出て行った。
● ● ●
右田は台本を熟読してきたのだろう、リテイクをほとんど出さずに仕事を終えた。
一時間で二百以上の台詞を収録出来たのは、窓野の経験上、初めての事だった。
「すごく真面目な方でしたね。」
窓野が尾上に右田の感想を伝えた。
シンパシーを感じているのは、自分と似ている部分があるからであろう。
「ああいうタイプは苦手ですよ、私は。」
そう言うと、乙女ゲーム嫌いのディレクターは大きなあくびをした。
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