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海ゆかば。或る死に損ないと少女の話。

作者: ぽんのすけ

最早、死ぬ気力すらも失いました。

このご時世、人間50年、80年、100年と長くなるばかり。

初めて、それを意識したのは何時だったか、忘れてしまいました。

生きる気力を失い、首を吊ったり薬を飲んで死のうともしてみましたが、しかしこれが中々、死なせて貰えぬのです。

どうやら今どきのお薬には、簡単に死ねぬよう作られているそうです。

昔はカルモチンなどと呼ばれていたお薬でした。何処ぞの河童を書いた文豪も、愛人と共に玉川上水に飛び込んだ文豪も、また皆、この薬を飲んでいたそうで、そのようなことを後から知りまして、知った時には、これがまた、おかしくって笑いが出てきました。

ふ、ふ、と笑っておりました。

おかしくって仕方がないのです。なぜ故?私は彼らを心から尊敬していたのです。彼らの書いた文が好きでした。そんな文豪の彼らと、はては全く、これまた全く、文の才も、美の才も何も無い、何も無い私が、薬だけは半世紀を越えて同じ薬(と云ってもこのご時世ですので、配分量は違いますが)を飲んでるのです。

全く以て、全く以て滑稽で、惨めではございませんか。

そう思うと、私はどうもおかしくって堪らなくなり、ふ、ふ、と気色の悪い笑みを浮かべて、一人嗤うのです。


カタン、コトンと何処か心地よく、そしてどこか不愉快に感じる様な金属の音を聞きながら、私は海沿いの、これまたどうも古臭い列車に乗っておりました。1両か、2両か、私はこういったものには疎い人間ですので、良くは分からないのですが、とにかく、そういった、短い田舎の列車で旅をしていました。

旅立った理由などは、特にはありません。

ただ、何処と無く、ただ何処と無く、遠くへ往きたかったのでしょう。

或いは、また、死に場所を探し、或いはまた、ただ生きる理由を探していたのかもしれません。

車窓から見えるのは、ただただ、青く、美しく、そして嫌なほど照ら照らと光を反射し、目を細めさせる水面と、また鬱蒼と、それでいでどこか凛と整然に並んで覆い茂る木々と土の香り、普段暮らす、あのコンクリートまみれで、けたたましく、お下品で殊勝な街々とは、てんで似つかぬ場所でした。

失敬、失敬。決してあの街々に好んで住む人々をお下品と云うつもりは、ないのです。

私も、その街々の出でございましたから。

あれはあれで、また便利なものです。

しかしどうも、あの街々で暮らしていると皆、心が冷たくなってゆくような、ただ無機質に歩く亡霊のような、そのような、筆舌にし難い感情を受けるのです。

その街々から離れゆく私の気持ちは、どこかとても清々しく、心地よいものがございました。

まるで、心が原始に還るような、此処こそ、我が愛しの地であるかの様な、その様な感情を全く以て見知らぬ、寂れた土地に感じるのです。

ぎぃ、きぃ、とこれまた不快な音を立てて、列車が止まります。駅長すらも、居るのか居ないのか分からぬ古めかしい木造の駅舎で、海とアスファルトの道路が見え、またその背には、青々とした山の壁がそり立って居るのです。私は、特になんの用も無く、なんの意味もなく、その地で降りました。

涼しく、冷房の効いた心地よい車内から出ると、緑の青臭い、生命の息吹きが香ってきます。

青々とした青空が憎たらしいほど、私を照らして、影を作るのです。

青緑の香りに混ざって、今度はひゅう、と風が吹くと、心地よい涼しさと共に潮風が香ります。私は、これはまぁ、何とも。と悪くない気分で、駅舎のホームを下りるのです。

無人の改札を出て、はて、どうしたものかと思います。宛などない旅でございましたから、宿などはありません。

昔から、そう云った旅が好きなのです。

残念なことに、あの喧噪の街々では、通じぬ生き方でございましたが。

案外、こういう土地では、通じるものなのです。

てくてくと、ただひたすらにじっと、自らの影を、灰色のすべすべとした、そして何処か少しずつひび割れたキャンパスに写る自分の影を追って、歩きます。

しばらく、山沿いに歩くとこれまた何処が入口だが分からない、古めかしい民宿を見つけました。

高波を防ぐ為なのでしょうが、やたら無駄に高く感じる石垣と、それに掛かるようにとって付けられた錆びた階段を登ります。

これはそのうち、腐って落ちるのではないのかね、と独り心の中で呟きながらその民宿の戸を叩きます。

「もし、もし、失礼。」

我ながら、精一杯、明るい声でそれでいて怯えを隠した声で言ったつもりですが、しぃんとした返事しかありません。

これはまた、面倒くさいなと憂鬱な気分になりますが、仕方もないので、もう一度。

「もし、失礼。泊まる場所を探して居るのですが。」

そう言うと、奥から七十か、八十そこらの、しかしそれでいて私など捻り潰してしまいそうな生命力に満ち溢れた肌の黒々とした男性が出て来ました。

「なんだい。お客さんかい。」

「はい。」

「別にいいけどね。ちょうど暇をして居たからね。お客さん、何処から来たんだい。」

「東京より、来ました。」

「それはまた、随分遠くからご苦労さまで。まぁ、せっかく来たのだし、ゆっくりしていきなさい。」

老人は、そういって私を中へと上げました。中は、特に代わり映えもしない、普通の民家のような、しかしそれでいて間違いなく、宿か旅館の趣きをした良い建物でした。

「お客さん、何処から来たんだい。」

老人は私を部屋に案内しながら尋ねます。

はて、私は先も答えたはずだが。もしやこのご老人はすでに痴呆でも入っていらっしゃるのかと若干の疑問を思いつつ。

「はい、東京から。」

また、そう答えました。

「そうかい、そうかい。私の孫も、同じくらいでね、元気にしてるかな。良い子でね。」

と、こちらが聞いてもいないことを嬉しそうに、楽しそうに語る老人を、とはいえ一宿一飯のお世話になる方でございますから、作り笑いを浮かべて、ははあ、なるほど、そうですかと、いやに仰々しく応えるのです。

どうも、こういった人々は、お話と珍しい客人がお好きなようでございました。


宿部屋への案内が終わりまして、あれほど長々と話をしていたご主人も、満足したのか、また1階の自分の部屋へと戻り、テレビを見るのに興じて居るようでした。

階下から時々聞こえてくるテレビの雑音を聞きながら、荷解きを終えた私はただぼけっと海をその宿のテラスから、黄昏れるように眺めていました。

こうしていると、何処か自分が、世界で最も孤独で、不幸で、それでいて救われた人間の様に感じるのです。

所謂、自己陶酔、ナルシチズム、とも云ふべきものでしょうか。悪くない気分でした。

ざざん、ざざん、と波の声が聞こえます。

ほら貝だかなんだか、貝殻を耳に当てると海の音が聞こえると云いますが、生憎残念ながら、私はそういったものを聞くことはありませんでした。

やはり、海は、海の声の方が良い。としみじみ思いながら黄昏れるのです。

しかし、どうもそれも飽きてしまったので、ポケットからいつも通りに薬を取り出して加えると、薬を飲み込みます。

元々、鎮静剤として売られているものですから、これを飲んでいる間は案外、気分が楽なのです。

結局、どうしても暇でしたので、そのまま海へ出ることにしました。

ガラガラと建付けの悪い、古臭い宿の引き戸を開けて外へ出て、とぼとぼと、海へ向かって歩きます。

テトラポットがぐるりと囲む岸壁で、黄昏ながらポリポリとラムネ菓子の様に薬を噛みます。決して良い味ではありません、寧ろ不愉快な味でございますが、その不愉快さが案外、悪くはないのです。

海は、ただ変わらず、穏やかにそれで荒々しく波を立てていました。

フナムシが岸壁を気色の悪い動きで這い回り、頼むから私には這い上がってくれるなよ、と願いつつぼけっと海を見ていました。

このまま、海に落ちてみたら死ねるだろうかとも思いましたが、死ぬには何だか汚いし、人の匂いがするなと、微妙な場所でした。そんな事を考えていれば、またこの世界にも飽き飽きして、拗ねた子供の様に寝っ転がって思うのです。

はて、なぜ人は生きるのだろう。私はなぜ産まれてきたのだろう。どうもこの世は便利で、それでいて優しくないのでいけない。とただひたすらに見た事もないシェイクスピアの悲劇の主人公になったような心持ちで、嫌なほど青天の青空を睨み、目を閉じるのです。

生きる意味も、死ぬ意味も、そのどちらの気力も失い、ただ漫然と生き恥を晒す惨めな自分。

いつか、優しい聖母マリアのような誰かが私を見付けて、その胸に抱き締め、疲れたでしょう、もう良いのですよと頭を撫でてくれるような気色の悪い妄想をするだけの人生。そんなものは空想にすぎないのです。

故に私は、私の聖母マリアである、この「薬」に縋って生き延びているだけなのです。

そんな事を考えて、数分か、もしくは数時間かもしれませんが、少なくとも私は意識があるつもりで目を瞑っていれば、頭の方から小さな足音が澄んだ思考を乱してきます。

全く、誰だね。人の安らぎを邪魔するなんて地獄の悪鬼も震え上がる所業ぞ、と恨めしい思いをしながら目を開けば、眩しい日差しがカッと一瞬視界を奪って、目を細めると私の顔を覗き込む小さな影がありました。

「生きてる?」

その鈴のような、また黒板を爪で引っ掻く様な不躾な声の持ち主は子供のようでした。

嗚呼、これだから子供は好きでは無いのです。

大人の矜恃というものを、黄昏を理解出来ぬのです。

「おじさん、生きてる?」

なんだこの小僧めは、なんと失礼な。

幾ら私より若いとはいえ、四捨五入すれば私は二十歳だぞと、眉をひそめて不快そうな顔を作った気持ちで、年甲斐もなく言い返すのです。

「キミ、君ね。おじさんではない、お兄さんと言い給えよ。」

「なんだ、生きてるじゃん」

その純新無垢な声は、私の様な、腐りきった、そして汚れた人間の脳みそには、嫌なほど鋭く届くのです。

はぁ、とため息をついて、気だるげに上半身だけ起き上がり、あぐらを組んで声の主を振り返ります。

そこには如何にもな田舎─娘?最初はまだ声変わり前の憎たらしい男の子だと思っていたのですが、どうやら「彼」ではなく「彼女」だった様です。が、きょとんとした顔で立っていました。

何処か中性的な、それでいて整った顔立ちに美しい黒色の髪と、小麦色に焼けた健康的な肌、動きやすそうな服で私を見つめています。

「...」

「...」

私が黙ってその少女を見ていると、少女も黙って、少し不満なそうな顔で見つめるのです。まるで、コイツ、何か言えよとでも言いたげな表情で言うのです。そういう目は見慣れていましたし、大抵そういう人間はめんどくさいので、私はまた、はぁと深くため息を着くのです。

「ちょっと、おにーさん、私の顔見てため息付かないでくれる?失礼すぎない?」

少女が不満そうな顔で眉をしかめて文句を言ってきます。

「失敬。まさかお嬢さんが話し掛けてくるとは思っていなかったのでね。」

「ナニソレ、へんなの。」

「ヒトからすれば、他人などみんな変なものだよ、人類七十億みな違うのだから。」

「あっそう。」

せっかく、人が少しは啓蒙的な発言をしてあげたというのに、子供というのは全く以て無遠慮で、こうでいけない、と肩をすくめるのです。

「なにしてたの。」

「海を見ていた。」

「ウソ、寝てたじゃん。」

私はまたため息を付きたくなる。どうしてこう、すぐ子供というのは揚げ足を取りたがるのか。

「...そうとも言う、海を見て、空を見ていた」

「目ぇ、つぶって見えるの?」

「見えるさ。」

「見えないよ。」

「見える。」

「見えない。」

どうして私はこんな所でこんなしょうもない事を、この少女と言い合わなければならないのかとつぐつぐ嫌に思うのです。私がそうして自分自身に呆れていると、少女は私の隣までてくてくと歩いて、座ります。

「どうやって見るの?」

私は呆れたように言います。

「キミ、君ね、お父さんから教わらなかったのかい、知らない男に気軽に話し掛けたり、近付いてはいけないよ」

「なんで?」

「男ってのは、危ないからさ」

「別いいもん」

「君が良くても、お父さんやお母さんは良くないんだ、気をつけなさい」

私がそう言えば、少女はいーっと歯を見せて不機嫌そうな表情を見せるのです。

私はそんな少女を眺め、やれやれ、田舎の子供というのは、どうしてこう、距離感が近いのだろうかと首を背けて顔を遠ざけるのです。

「それで、どうやって見るの。」

少女がまた問います。

「...目をつぶってごらん。」

私がそう言うと、少女は何の疑う様子もなく目を瞑るのです。

私もそれにならって、目を瞑ります。

「心落ち着かせて、静かにして、ほら聞こえるでしょう、海の声、波の音が、じっと聞いて、思い浮かべるんだ、その音の様子を。」

少女は黙って、それを実践しているようでした。

潮風に乗って、微かな少女が息を吸う音が聞こえ、少女の髪がふわりと風に撫でられ、彼女の髪の香りが私の鼻腔をくすぐるのです。

「すると、どうだい。ほら、見えるかい。」

「見える、見える!」

少女の嬉しそうな、まるで砂浜でダイヤモンドを見つけたような無邪気な歓声を上げるのです。

私はどうにも、その様子が微笑ましく、思わず、ふっと笑ってしまいました。

「なんで笑うの?」

「いや、いや、可愛らしいなと思っただけだよ。」

私が目を開けて、そう答えると、少女もまた目を開いて怪訝そうに、しかしどこか照れ臭そうに唇を尖らせるのです。

私はその少女の、無垢さ、無邪気さと言うものが、あまりにも眩しく、尊ぶべきもののように思えて、そしてそれに私の様な腐った人間が近づくのが畏れ多いことにように思えて、目を背けました。

「おにーさん、どこから来たの。ここら辺の人じゃないでしょ。」

「そうだけど。どうして分かったんだい。」

「こっちの人は、そんな小綺麗な格好をしていないもの。」

「小綺麗?どこにでもある安服だよ。」

「違う違う、だって、ここの人ならもっと動きやすい格好してるもん、そんな都会っぽい格好してるのは、だいたいお客さん。」

「なるほど。そうだね、私は東京から来たんだ。」

「東京って、どのへん。」

「ここからだと、うんと遠くさ。」

「そんなに遠いの?」

「遠いね。」

「良いとこ?」

私は、少女の、恐らく彼女にとっては何ともない言葉に、思わず言葉が詰まってしまいました。

「...良いところだよ、ただ...」

「ただ?」

「君には、似合わない。」

私が苦虫を噛み潰したようにはにかんだ笑みを浮かべて答えると彼女は拗ねたように、

「なにそれ!私が田舎っぽいってバカにしてる?」

「いや、いや、違うさ。」

「じゃあなによ。」

「君には、海が似合う。」

それが、私の本心でした。

あのコンクリートの街々というのは、不思議なもので、訪れた人間をみな、作り替えてしまうのです。それはきっと、あの眠らない街々の言わば、魔力の様な、呪いの様なものなのでしょう。

あの街々に来た、多くの老若男女が、変わってしまうのです。

純粋無垢だった少女が、あの眠らない、私からすれば眠れない街に憧れ、夜の麻薬的な心地良さと悦楽を知り、変わってゆく様を。

そしてまた、私もその呪いの中に居た人間だからこそ、それを決して悪い事だと決して思いませんし、言うことはないのですが。

かつての私の恋人や、友人達の様に。

ただこの目の前の、純粋無垢で可憐な緑の地で咲く白百合を、あの街々の軒先で切り取られ、生かされる生け花にはしたくなかったのです。

「そうかな?」

私の素直な賛辞の言葉を、彼女は何処か照れ臭そうに、笑うのです。

「そうだとも。」

私は、また正直に答えました。

「おにいさんってなんかひょろひょろしてるよね。」

「それは貶してるのかい?」

「けなす?」

「ばかにするってことさ。」

「バカにしてないよ!そういうの、好きな人にはモテそう。」

「バカ言っちゃいけないよ、こんな男腐るほどいるんだ、モテやしないさ。」

「そうなの?」

「そうさ、それに...」

こんなに腐った人間に、誰も近寄ろうともしないさ。と言いかけた言葉を飲み込みました。自分語りは、つまらないものでしょう。

少女はきょとんと、また、痛いほど真っ直ぐな目で見るのです。

「東京にはね、貰ったラブレターでミルクを沸かした人が居るそうだよ。」

「えー!なにそれ!」

そんな少女の視線が眩しく、気を逸らす為に何処かの文豪の言葉を拝借して、くだらない話をするのです。

「都会かー。」

少女のその何気ない言葉に、私はピクリと、そして怯えるのです。彼女もまた、変わってゆくのでは、と。その、無垢的な美しさもまたあの街によって汚されてしまうのではと。

「都会に、行ってみたいのかい」

「うーん...。」

私が怯えを隠して問い掛けると、彼女はにへらっと笑って言うのです。

「でもやっぱ、ここが良いかな!」


私は、その後も彼女と他愛の無い話をしました。その中で彼女は、「ゆりちゃん」言うのだと知りました。勿論、いわゆる渾名、のようなものですが。ここでは、それで良いでしょう。

彼女は、私の他愛もない、そして嘘や誇張の混じった、聞く人が聞けば、どうしようもないほどつまらない話を、とても楽しそうに聞いてくれました。彼女もまた、この町や家族のことを教えてくれました。

例えば、何処のお蕎麦屋さんが美味しい、だとか、あそこの川のヤマメは美味しいだとか、気が付けば、日が傾き、暮れ始めるまで私は彼女の話を聞いていました。

「ねえお兄さん、いつまでいるの?」

「そうだなぁ...いや、決まってないね」

「ほんと!じゃあじゃあ、あのね、明日もここに来てよ!朝ね!いっぱい色々んなとこ教えてあげるから!」

私は、あまり朝が得意な方ではなかったのですが、しかしまぁ、することもないですし、良いかと思って承諾することにしました。

「分かった、じゃあ、お言葉に甘えてお願いしようかな」

「ほんと!じゃあ約束ね!約束だよ、ゆびきりげんまん...」

私はそうして、ゆりちゃんと指切りをして、彼女と別れました。

私の宿は近くでしたので、彼女の帰る道を、波音を聞きながら小さく手を振って見送りました。

彼女もまた、私の姿が見えなくなるまで時々振り返っては手を振っていました。

私は、どうも、変に懐かれしまったらしいと、ふ、ふ、とまた独り笑いました。

ただ、今度はどうも、悪い気はしませんでした。

ガラガラと、また開きにくい宿の引き戸を開けて帰ってきました。

「ただいま、帰りました。」

「おお、お客さん、おかえんなさい。何処に行ってたんかね。」

「少しばかり、海を。」

「なにかあったかね?」

「ええ、綺麗な白百合が咲いていましたよ。」

私がそう答えて二階の部屋へと上がるのを、宿のご主人はきょとんとした顔で眺めていました。

部屋へと戻り、テラスでまた、夕陽の沈む水平線を眺めながら、ふと思い出すのです。

そう云えば、今日はあまり薬を飲まなかったな、と。

不思議と、彼女と話しているうちは、薬を飲もうという気が起きなかったのです。

これまた、不思議な気持ちでした。

そして私は、また一人、ふ、ふ、と笑いながら、ポケットの薬を取り出して、噛み締めるのです。


翌日、私は約束だけは確りと守る性格でございましたので、朝早く起き、歯を磨き、宿を出ました。まだ、日も登りはじめたところでしたので、ご主人はまだ眠って居るようでした。

私は、また昨日のようにあの岸壁に座り、ボリボリと薬を噛み締めながら、海を眺めていました。

肌寒い海風が、身を裂きます。

彼女が来るのは当分先だと思いますので、また寝っ転がって、黄昏れておくことにしました。

しかし、どうもこう、なぜ彼女は私にそこまで構うのだろうかと甚だ疑問でした。

思い返せば、昔から、初対面の人にはよく話し掛られたり、道を尋ねられたりしていました。或る意味私は、いや間違いなく、上っ面だけ良かったのでしょう。

しかし、その醜い本性を知れば、人は皆離れてゆくのです。

ふ、ふ、と笑いが出てきました。薬を1粒、前歯で転がし遊びながら、思うのです。

早く死んでしまえばいいのに。と。

別に、死にたい訳では無いのです。

ただ。ただひたすら、生きていたくはないだけなのです。

ですから、色々試してみましたが、その度死にきれず、また人々に迷惑を掛け、またそんな自分が嫌になるのです。

ロクでなし、自分勝手、傍迷惑、自己中心的、そんなことは、だれよりも、私自身が知っているのです。

だから、生きていたくないのです。

しかし、死ぬことも許されないとくると、はて、どうして生きたものかと思うのです。

結果、この薬があるうちだけは、不思議と何も考えず、救われた気持ちになるのです。

その時、突然何だか暖かく、柔らかな感触を頬に感じて、驚いて目を開きました。

そこには小さな子猫が、にゃあ、とこれまた無邪気に鳴いて私に擦り寄ってくるのです。

私は、困惑しながらも起き上がりその子猫を眺めていると私の足の上に乗ってきて、懐に頭を擦り付けるのです。

まぁ、こういう港町では、野良猫はよく居る話です。仕方なく、私はその猫を撫でてぼけっと海を眺める事にしました。

私の懐で、子猫は目を細めて丸くなりました。

どうもこう、ここに住む動物も人も、皆人懐っこいのだなと、ため息を付いて、諦めてこの子猫の暖房として寝床を提供することにしたのです。

陽もすっかり登って、子猫と戯れていた頃、遠くの方から鈴のような声が聞こえてきた。

「お兄さん!お兄さん!あっ!!」

ゆりちゃんは私の懐で転がる子猫を見てこれまたいっそう、黄色い歓声を上げました。

「え〜!可愛い!」

子供らしい、今時らしい言い回しで、しゃがんだ彼女は恐る恐る子猫に手を近づけます。

「猫というものはね、手の平で触れようとすると掴まれると思って吃驚してしまうのだよ、だから手の甲で匂いを嗅がせて慣れさせないと。」

私がそう彼女に教えてあげると、彼女はピタッと手を止め、手の平を裏返しで恐る恐る子猫の鼻先に近付けます。

すると子猫も彼女の指の匂いを嗅いで、小さく鳴くと、彼女の手に擦り寄っていきました。

「わぁ...!」

彼女は嬉しそうに、優しい微笑みを浮かべて子猫を撫でます。私もそれを眺めながら、可愛らしい子猫と、可憐で無垢な少女。

私に絵描きの才能でもあればここで素晴らしい名画の一つでも描けたのだろうなと、改めて自らの才能の無さを恨めしく思いつつ、小さく笑うのです。

ゆりちゃんは、その子猫に「ミケ」という名前を付けました。なぜ「ミケ」かと言えば単純で、毛色が三色であったからです。

因みに、名付けに当たって、私にも名前の案を出せと言うので「漱石」と提案したところ、「かわいくない」と理由であっさり却下されてしまいました。無念である。

ミケは、彼女にも懐いたようで、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、彼女に抱えられて、また私の財布で買った少しばかりの小魚を与えられて満足げにしていました。

その後は、(ミケを置いていくのは名残惜しそうにしていましたが、)ゆりちゃんに連れられて、美味いと云う、これまた随分ご老体の、しかし職人の雰囲気を感じさせる店主の居るお店へ案内されました。

生憎と、私は薬を飲み始めてから、料理の味も分からず、食欲も湧かなくなっていたのですが、彼女のあまりに無垢な笑顔に負け、珍しく、完食(といっても、途中からは無理やり流し込んだのですが、)しました。

ただ、味もよく分からなくなっていた私でも、ちゃんと食べれましたので、間違いなく美味しいお蕎麦だったと思います。お店のご主人も、何やら色々お話してくださいましたが、私には少しばかり方言が強く、聞き取れませんでしたので、ほとんどゆりちゃんが翻訳してくれました。やはり、この町の人々は皆、話すことがお好きなようです。

「ねーえ、おにいさん」

お蕎麦屋さんで少し早い昼食を済ませたのち、かき氷屋さんで一服していました。

時折、頭を抑えて苦しそうにしながらかき氷を頬張る彼女と、他愛も無い雑談をしていました。

「なんだい。」

「どうしてここにきたの。」

「...そうだなぁ、宛のない旅を...していたらかな。」

「なんで?」

「そうだなぁ、ゆりちゃんにはまだ難しいかもしれないが、色々、大人も大変なんだよ。」

「ふーん。」

彼女は、そう言うと興味なさげにまたかき氷を頬張り、また頭に来たのか、苦しそうに悶絶していました。

どうもその様子が微笑ましく、私は笑って眺めていました。

その後も、彼女は私を連れて様々なところを案内してくれました。

ここがお社様、あっちが御神木、ここが...あれが...そんな事を言いながら、共に小さな町を歩きました。私はただ、黙って彼女に手を引っ張られながら旅をしました。

それは小さな、小さな旅ではございましたが、何よりも美しい旅でした。

「ねえお兄さん、明日はヤマメを釣りに行こうよ。」

「別に僕は良いけれど、釣れるかね。」

「大丈夫だって!お兄さん、釣りは?」

「昔、手を出しては見たのだけれどね、どうもあの釣り餌の虫が苦手でね。」

「えー!虫ダメなの!お兄さんって、意外に臆病なんだね。」

「いや、僕は昔から臆病さ、隠しているだけでね。」

「んふふ、変なの。お兄さんが虫に怖がるって、なんかへん。」

ゆりちゃんは、そう言ってミケを撫でていました。夕暮れが、私たちを包みます。

「じゃあ、お兄さんの餌は私が付けてあげる!」

「なんだかね、自分が惨めになってくるよ。」

「いいじゃん、お兄さんができないことは、私がやってあげるよ。」

その言葉を聞いた時、私はハッと息を飲みました。そう語る彼女の、夕焼けのキャンパスに描かれた白百合の笑顔は、この世の何よりも美しかったのです。

私は、ただ一言、「ありがとう。」と言いました。

そうして、また一日が終わるのです。


宿へ戻ると、ご主人が豪勢な食事を用意してくれていました。

「昨日は急だったから、用意できなかったけど今日は食ってきな!お兄ちゃん!」

随分とたくさんのお刺身と、お酒が並べられていましたので、ここで断るのも失礼だなと思い、ご主人と晩酌を交わしました。

正直、ご主人が私へのご馳走という名目で晩酌がしたかっただけなのでは?と思うくらいご主人が殆ど一人で食べて飲んで喋っていました。私はその話を聞きながら、しかし何処と無く悪い気もせず、その夜は、久方ぶりに薬を飲むことなく、眠ることが出来ました。

次の日、目が覚めるとゆりちゃんが宿の前に立っていました。どうやらこの近辺で宿と云えば、この辺りしか無いようで、あっさりと特定されたようです。

ゆりちゃんは「遅い!」と釣竿と、麦わら帽子を被って頬を膨らませて仁王立ちしていました。私はその様子に、「御免、御免。」と苦笑しつつ、手を引かれて出かけました。

宿のご主人は、大きないびきをかきながら、へそを出して寝ていました。

ゆりちゃんに連れられて来たのは、これまた美しい渓流でした。彼女は慣れた手つきで釣り餌を付けると笑顔で私に差し出してきました。私は針に刺されたうねうねと動く蛆虫に、どこか同族のような同情を浮かべつつ、岩場を飛び移り、良さげな場所を見つけたので、川面に投げ入れました。あとはじっと、待つだけでした。

ゆりちゃんは私と背を向かい合わせる様に座ると、私に寄り掛かるように背を合わせてきました。

彼女の軽い、それでいて暖かい体温が背中越しに伝わり、2人とも、黙って釣り糸を垂らしていました。

渓流の川の流れる音と、木々の囁きが、静かに私と彼女を優しく包み込むようでした。

時折吹くそよ風が、森と、彼女の香りを運び、私の鼻腔をくすぐるのです。

ゆっくりと、時間が流れてゆく様な、久方ぶりに、薬に頼らない穏やかな時間でした。

結局、ヤマメは3匹ほどしか釣れませんでした。ゆりちゃんが近くのお家で、チャッカマンと薪をお借りして、塩焼きにして食べました。

ゆりちゃんは女の子ながら中々逞しい子で、手馴れた手つきでヤマメの内臓を取り出し、

串に刺して焼いてくれました。

私は彼女よりも、歳だけは取っておりましたが、てんで料理などは昔からできない不器用な人間でしたので、これまた自分の不器用さにほとほと呆れる次第でした。

「どう?どう?お兄さん美味しい?」

私が彼女から差し出されたヤマメをふぅふぅと冷ましていると、待ちきれないかのように問い掛けてきました。

「まだ、食べていないよ。」

「はやく!はやく!」

あんまり催促されるので、苦笑しながら、「分かった、分かった」と一口、口にしました。

「どう?美味しい?」

彼女が純粋無垢な瞳で尋ねる中、私は呆然としながら、答えました。

「美味しい...。」

するとゆりちゃんは「やった、やった!」と嬉しそうにはしゃぎながら飛び跳ねていました。しかし私はそれよりも、自分自身に驚いていたのです。本当に、美味しいのです。

いや、それでは分かりませんよね。味が、するのです。もう何年も、味などしなかったのに。薄っぺらな「美味しい」だけを口にしていたのに。不思議と、彼女が作ってくれたこの塩焼きだけは、この人生で味わった全ての物よりも、美味しいものに感じれたのです。

帰り道、彼女は鼻歌を歌いながら歩いていました。私は、未だ起きたことが信じれず呆然と彼女を眺めながら、続くように歩いていました。

「ねえお兄さん!」

「あ、あぁ、なんだい?」

「料理上手な、お嫁さんは好き?」

「え?ああ、まぁ、そりゃあ料理上手な方が、良いかな。」

「そ!じゃあ私、良いお嫁さんになれるかな?」

「ゆりちゃんが?ゆりちゃんは良いお嫁さんになるさ、大丈夫。」

そう言うと、彼女は満足そうにしていました。

そう、彼女はきっと、私とは違う、きっと立派な、美しい女性になり、そして良き人と結ばれるのでしょう。きっと、そうに違いないのです。神様がいるのならば、神様は私を愛してはくれませんでしたが、彼女はきっと愛されているでしょう。どうか、彼女の未来が幸多いものであれと、私は心から願ったのです。私の様には、なってはいけないのです。

山を下ったあとは、またミケの所へ行き、他愛もない話をして、彼女を見送り、宿へと帰りました。宿へ帰ると、二日酔いらしきご主人がふらふらとしており、私はその様子に苦笑しつつ、ご主人へお水を手渡しました。

その日から、私が薬を飲むことは日に日に減っていったのです。


結局、その後私は一週間近く滞在しました。

蕎麦屋のご店主ともよく話す仲になり、ゆりちゃんの紹介で町の人々とも話したり、少しばかりお手伝いをする事もありました。

空いた暇な時は、ゆりちゃんと共にミケを撫でながら、小説のお話などをしました。

ゆりちゃんは、その話を聞きながら、だんだん眠たくなるのか、私の肩に寄りかかって眠るのです。

私は膝の上で眠る子猫と、肩に寄りかかって眠る白百合の2つに、困って苦笑しつつ、しかし何処か悪い気もしませでしたので、彼女らが起きるまでいつもそうさせて海を眺めていました。

この時だけは、たしかに私は幸せだったのです。

明くる日、嵐が訪れました。ガタガタと宿の窓が揺れ、海も荒れ果てていました。

高波が堤防を越えるのではないかと言うほど押し付け、風が木々を揺らしていました。

私は、その様子を宿の部屋で眺めつつ、ミケは無事だろうか、と思っていました。

いや、あの子は賢いだから、大丈夫だろう。としかし何処か胸騒ぎがして、久しぶりに、薬を飲みました。明日には、嵐もすぎるであろうと、稲妻が鳴り、波が打ち付ける中、私は意識を手放したのです。

翌日、血相を変えた男性が宿を訪ねてきました。ゆりちゃんのお父様でした。「ゆりは、ゆりは居ませんか。」と私は、意味が分からず、いや、もしくは理解したくなかったのかもしれませんが、頭の中に浮かぶ最悪の妄想を、今までと同じ空想だと、言い聞かせその男性の話を聞きました。

「どうされたのですか。」

「ゆりが、ゆりが昨日から帰ってこないのです。もしかしたら、こちらにお世話になってるかと思って...」

「昨日って、お父様、だって、昨日は...」

「そうです、そうです、でも、でも、猫が、ミケという猫が心配だからと、聞く耳も持たず、家を飛び出して...必死に探したのですが、必死に...」

その言葉は、私にとっての死刑宣告と同じでした。私は衝撃を受け、頭が真っ白になりました。いや、そんな馬鹿な。そんなハズはない。きっと何処かで雨宿りでもして、帰り道が分からなくなっただけだろう、大丈夫、探せば見つかると。私は自分にそう言い聞かせながら、しかし次の瞬間には、靴も履かずに宿を飛び出していました。

私は、走りました。走って、走りました。

昨日の嵐で折れた枝を踏んで、血が流れても、貝殻をどれほど踏みつけようと、必死で、死に物狂いで、探したのです。

神様に祈りました、私などという矮小な人間は、こんな醜い人間の命であれば、幾らでも差し出しましょう。腕でも足でも、内蔵でも、お好きなところを持って行って下さい。

ですから、どうか、どうかあの子だけは。と。

ミケと、そして、彼女に出会った岸壁へ行きました。

そこには、何も、ありませんでした。

ただの何も、無かったのです──。


数時間後、彼女は見付かりました。

その可憐で、暖かな笑顔は、二度と見れなくなって。

あの岸壁の、しばらく行った海岸で、見つかったそうです。

一匹のずぶ濡れで、冷たくなった子猫と共に──。

彼女は、最後まで守ったのでしょう。最後まで抱き締めていたそうです。

私は、後悔しました。あの日、私が薬を飲んで眠らなければ、ここに来なければ、あの子に出会わなければ、ミケに出会わなければ、いや、私という人間が、生まれ来なければ──。

きっと、あの子は、料理上手で、たくさんの人に愛される、可愛らしいお嫁さんになっていたのです。

私が、私が、全てを壊したのです。

これが、悪い夢ではないかと思いました。

寝て、起きれば、またあの子が、宿の前でその可愛らしい顔で、頬を膨らませて待っているのでは、と。

しかし、何度目が覚めても、この悪魔は覚めなかったのです。

いや、きっと、これは悪い夢なのです。

だから、私は起きなければならないのです。

早く、早く起きて、あの子の元に行かなければ、また、あのお蕎麦屋さんに行くのです。ヤマメを釣りに行こう。今度はミケにも食べさせてやらないと。大丈夫、大丈夫さ。

だから、また一緒に、話をしよう。

3人で、話をしよう。肩でも、膝でも貸すよ。たくさん、話をしよう。まだ、教えてない小説が、あっただろう。

もうすぐ、目を覚ますから。

目が覚めたら、また、また──。


「それで、この著者はどうなったのですか。」

私は、この手記を閉じながら、旅の途中で泊まったゲストハウスのオーナーに尋ねた。

「死んじまったよ。睡眠薬をたくさん飲んで、海に行っちまった。」

「入水ですか。」

「不思議なことに、次の日発見されたんだがね、その場所はあの子が...この中で云う、ゆりちゃんが見つかった場所と一緒だったんだ。」

「...。」

「でもきっと、最後は幸せだったんじゃないか、いやそうであってほしいと今でも願ってるんだ。」

「...きっと、あちらで2人でまた、子猫を撫でながら話してるんじゃないでしょうか。」

浅黒い肌の、大柄な主人は目頭を抑えながら、嗚咽の混じった声で絞り出すように呟いた。

「そうだなぁ、そうだといいなぁ、真面目すぎたんだよ、アイツは、優しすぎたんだ。」

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― 新着の感想 ―
[良い点] すごくきれいな小説でした。 [一言] ゆりちゃんとミケと「私」が過ごしたたった数日の話なのに、きれいで、すこしの現実みの無い悲しみが 上手く言えませんがとてもきれいだと思いました。 「私…
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