ep.5 碧い竜の都の聖女様
彼らの出会いは運命の出会い。
セージはふらふらと石畳の街を歩いていた。
「か……完ッ全に見失った……」
オォウ、と嘆き顔を覆う。異世界サニフェルミア。大陸最南部の王国が臨海都市、碧い都のラズワルド。土地勘なんてあるわけない。ヨーロッパの伝統ある街を思わせる美しい石造りの街並みだが、右も左も同じに見える。ライラが迷子になってひとりになった自分がどちらから来たのかもわからない。
すなわち、セージもまた迷子なのである。
「くっそ……まだ痛い」
うめいてみぞおちをさすった。キャンディ屋の前で散々泣き喚いたライラときたらふいにぱったり泣き止み、何を思ったかセージに両足でドロップキックをおみまいしたのである。予備動作もほぼゼロの俊敏な飛び蹴りであった。セージは軽く二、三メートル吹っ飛ばされ、呼吸もままならない行動不能に陥った。その隙にライラは雑踏に姿を消した。
「なんで?」
セージは虚空に問いかけた。
「なんでおれが蹴られるの? なんで勝手にどっか行くの……」
幼女の思考はさっぱりわからない。それもただの幼女ではなくガワだけ幼女である。中身は自分でも年を覚えていないくらいの立派なお年の吸血鬼だ。
キャンディ屋のおっさんにライラの消えた方向だけきいてライラを探した。おっさんはセージに不憫そうな目を向けて「がんばれよ」と言った。目礼して市場をやみくもに歩き回って、人ごみで駆け出せないもどかしさに舌を巻いて目立つはずのピンクの頭を探した。全然見当たらなかった。それどころか、ピンク、意外とありふれているのかもしれない。ある一画で急にカラフルな色合いの人種が増えたのだ。人種、というには語弊があるか。人間は背中に羽を生やさないし、耳は頭の横についているはずだ。いただけない雰囲気の市場は幾分人もまばらで、セージはその通りを脱兎のごとく駆け抜けた。間違えて足を踏み入れてしまっただけなんです。こっちを見ないでください。一メートル四方ほどの檻を後ろに並べた商人たちに心の中で言いつくろって走り去った。その結果がこれだ。完全なる迷子だ。
市場からは離れたここは住宅街としては並ぶ建物が大きく仰々しいし、すれ違う人々の格好もきちんとしている。ただ、おおよそこの世界の「きちんと」なので、ロココ朝時代の博物館VRがあればこんな感じ、といったふうだ。そんな様子から察するに、役所関連の施設でも集まっているのかもしれない。
すっかり歩き疲れてしまった。
「おれ、このままずっとひとりなのかなあ……」
ぼやいて適当な段差に腰を下ろした。後ろの柵にもたれかかってうんとのびると正面に鮮やかすぎる海が広がっている。ライラを探し回っているうちに、中心部の市場から海沿いへ戻ってきてしまったようだ。
「世界平和について考えるか」
現実逃避に茫然とひとりごちると、ちょうど目の前を通り過ぎた老紳士がいぶかしげにセージを見た。完全に不審者である。その目に僅かばかりの憐憫が混じっていてなかなかに複雑な気分だ。
「世界平和について考えよう。まず、この世界がどういう状況か。そしておれができることはなにか。状況。世界情勢ね。三十年前に戦争が終わった。仕掛けた国はクーデターでなくなった。今が一六八二年だから、一六五二年、なのかな。それ以来戦争は起きていない。戦後不況もとっくに終わって、この世界は」
口を結んで言葉を区切った。
「平和……なのか?」
もしそうなら、自分がこの世界でできることは――
「きみもそう思う?」
突然だった。
「きみも、この世界の平和を疑っているのかな。ひずみを抱えていると思ってる?」
問いかける声は不思議に澄んで初夏のそよ風のように柔らかかった。
声のした方を見上げると、柵隣の門からちょうど人が出てくるところだ。
声の正体は彼女――否、彼、か。
いかんとも判別しがたい中性的な背格好をしている少女、あるいは少年だ。だぼついたカーキ色のズボンも、オーバーシルエットな前ボタンのシャツも、その人物の情報を教えてくれることはなさそうだった。加えて目深に被ったキャスケット帽で人相もかげり、どことなくミステリアスな雰囲気だが怪しさは感じない。むしろそばにいると安堵して心を許してしまいそうな優しさを醸している。
「こんにちは」
にっこりと笑う口元が見えた。
「こ……こんにちは」
初対面のはずだ。なのに、いたく親しげな口調だった。
「となり、いいかな」
「へ? ああ、まあ、はい……? どうぞ」
キャスケット帽のだれかはありがとう、の代わりに小さく笑みをもらしてセージの隣の段差に腰を下ろした。
ふわり、と花の匂いが香った気がした。
「この国の人じゃないね」
キャスケット帽はセージを一瞥してそう言った。正確には、手に持つのが面倒になって肩に引っかかっている学ランの上着を。
「この国の人ではないです」
嘘は言っていない。
「うん。まだ軍服着てるってことは、最近まで抵抗戦線に残ってた?」
「えっと…………はい」
嘘を吐いた。
なんかもう、否定するのが面倒だったのだ。セージは疲れていた。
「行くあてがなくて、ここへ?」
「ええ。まあ、そんなところで――」
「あっ。ちょっとちょっと。敬語はいいよ。同い年くらいだろ、ぼくら」
ぼく、と言った。男なのだろうか。それにしては声が高いが、その点に関しては自分も人のことがいえないセージである。
「突然ヘンなこときいてごめんね。忘れていいよ」
キャスケット帽はくつくつ笑って帽子のつばを下に引っぱった。
「――いや、別に、おれのほうこそ、ひとりごと言ってて」
「うん。ひとりでオピウムの軍服着て平和がどうとか言ってるから、もう言葉の通じなくなってしまった人かと思った。抵抗戦線帰りなんて、とくにそういう人多いから」
――実は薬と魔術に操られて心がぶっ壊されてたなんてよ。
キャンディ屋の言葉を思い出した。
「ラズワルドはどう? いい街でしょう。この街には古の加護があるから、こんなににぎわって豊かなんだ。きみ、碧い竜の伝承はきいた?」
「いや……昔に碧い竜が加護を授けた、くらいしか」
「唄があるんだ。碧い竜の唄。西の噴水広場に行けばだれかが弾き語りをやっているよ。今日だとアコーディオンのタレラがいる。あとで一緒に聞きにいかない?」
初対面のくせにぐいぐい来るなあ、と思いながらセージは首を横に振った。
「ごめん。実は人を探してて」
「人を?」
声に、そんなわけないだろう、くらいの疑念がこめられていた。なぜだ。こっちだって好きでぼっちやっているわけではないのだ。
「……で、探してたらおれが迷子になっちゃって」
「ああ」
キャスケット帽は拳を手のひらに置いて得心のジェスチャー。
「きみから出ていた悲壮感は迷子の悲壮感だったのか。心が壊れていないなら、どうしてそんな軽々しいのか不思議だったんだ」
「えっ、おれそんな軽いの」
キャスケット帽はこたえの代わりに吐息を多分に含んだ笑い声を返した。
「そっか。君は迷子か。迷子が迷子を捜しているわけだね。よかったらぼくに手伝わせてくれないかな。見たところきみは土地勘もなく、あてもなく、体力もなく途方に暮れている。ちがう?」
セージはゆっくり首を横に振った。違わない。その通りだ。
「――でも、ありがたいけど、どうしてそんなこと」
「きみは困っている」
「そう、だけど……」
「ここはラズワルドだ」
「――それは、そう、だね?」
「それだけでぼくがきみを助ける理由には十分ことたりるよ。ぼくはラズワルドの民だ。ラズワルドの民は聖海の都の名にふさわしく! 清らに正しく立派であれ! むかしから言われてることなんだ」
キャスケット帽がつばを指で少しだけ押し上げてセージを向いた。
心臓が跳ね上がった。
「自己紹介がまだだったね」
変な顔になっていないだろうか。目線を逸らして口元を手で覆った。心臓の早鐘が頭にぐんぐん血を送っている。耳の方まで顔が熱かった。
そのくらい、綺麗な顔立ちをしていたのだ。
「ぼくはレオ。ラズワルドの外れで宿屋を営んでいる。もし、今晩の宿をまだ決めていないならうちはどう? 安くしておくよ」
したり顔でウインクするレオの横を通り過ぎただれかの、「また聖女様は」というつぶやきが聞こえた。聖女様。まさしく聖女様だ。こんな美人で優しい人が聖女でなければ誰がその称号を得られるのだ。セージはこの場でレオを拝み倒したくなった。神聖で崇高な姿に後光が見えた。
しかし、その衝動も幻覚も立ち上って振りきざまのレオの言葉に玉砕されることになる。
「あ。ちなみに、よく誤解されるから先に言っておくんだけど。ぼく、男だよ」
「…………ああ!」
返事は元気よく。
失意の胸を悟られるべからず、男にはカッコつけなきゃならんときがあるのだ。
次回、「迷子の幼女と偉大なる魔女の継承者」
10/16までに更新できればと思います。