ep.4 ハリボテ幼女の時を超えた帰還(1/2)
彼らの旅路をはじめから見てみようか。
「あの老いぼれがまだ生きていて助かったのです。途中までとはいえ、エベラ本国まで送ってもらえたのは幸運でした」
小舟の向かいで頬杖をついた幼女がぼうっと呟いた。日が昇っていくぶん時間が経ってからようやく目を覚ました幼女はすべての元凶のような、命の恩人のような――やっぱり諸悪の根源である。
「セージ。おまえ、なにか失礼なことを考えていますね。余計なエネルギーを脳に回す余裕があるのですか。ちゃきちゃき漕いで全速前進するのです。いつまでたっても港に着かないではないですか」
「いや……文句言うならおまえも漕いでくれよ……」
「はァ? なぜ私が。このライラ・ハルフィリア・エス・マリカがそのような雑事をしなければならないのですか? そもそも純然たる吸血鬼がこうして海を渡ることがどれだけ苦痛なことか! 降り注ぐ日差しの冷酷なことか! 想像力を働かせれば私がいかに不調をおしておまえに同行しているかがわかりそうなものなのです」
「そうか。おまえ日が昇ってからめちゃくちゃ気持ちよさそうに寝てたけどな。よだれ垂らして寝てたけどな。船酔いもなく元気そうだしな」
ガンを飛ばす幼女から視線を逸らし、口を一文字に結んで舵に集中することにした。幼女は黙った。周囲に比喩でなくオレンジ色の火花が弾けている。やめてくれ。こんなところで舟を灰にしたくない。
呉井誓治は異世界人である。
この世界の名前はサニフェルミアとかいうらしい。セージのもといた世界はもちろんそんな名前ではなかった。天の川銀河のオリオン腕に位置する太陽系の地球と言う惑星で、火山と活断層だらけの上で栄えに盛った日本という国の田舎の港町に住んでいた。それが、今はどういうわけか現実ばなれしたピンク色の幼女と小舟に乗って絶賛航海中だ。
ライラ・ハルフィリア・エス・マリカとかいう大仰な名前を名乗る幼女は、おとぎばなしに出てくる妖精みたいななりをして吸血鬼なのだという。確証はある。噛まれたのだ。噛まれて血を吸われた。元いた世界では一般的に吸血鬼に血を吸われると吸われた側も吸血鬼になると云われている。この世界でもご多分に漏れずだった。セージは吸血鬼になった。らしい。自覚はない。血液よりも水が飲みたかった。
「のどかわいたなあ……」
「ええ。私ものどがかわいておなかが空いたのです。ちょっとばかし吸わせるのです」
「やめい。これ以上栄養補給もなく血を失ったら貧血で倒れる」
「我が種族がそんなヤワなわけないではないですか」
ライラが鼻で笑った。おおよそ幼女のする顔ではない。こんなムカつく顔がデフォルトな幼女がいてたまるか。
「まあ、丸二日飲まず食わずでよくやってけてると思うけどさ」
「なのです。お前はただの吸血鬼ではなく吸血鬼真祖。次代の君主なのですから。タフネスは抜群なのです」
「そうはいってもねえ……」
セージは舵の手を休めて上着のボタンに手をかけた。日が昇ってきてだいぶ暑くなってい。学ランを上着まできっちり着込む陽気ではない。金ボタンを全部はずして乱雑に上着を脱ぎ捨てた。
この剣と魔法の世界には異種族といういわばファンタジー世界の住人が存在する。そして異種族のそれぞれには真祖という一個体がいる。ありていに言えばそれぞれの種族の長のようなものだ。セージはそれをライラから継いでしまった。真祖なのに継承するものなのか、という突っ込みはさておき、継いでしまったものは仕方がない。真祖とその他有象無象の同族個体がどう違うのか。とにかくべらぼうに強い。強くてしかも死なない。死の概念がない。吸血鬼は異種族の中でも高位に属するらしいから、今のセージはこの世界でほぼ最強の立ち位置にいる。望むならサニフェルミア全土を破滅に導くこともできる力を持っている。以上、ライラ・ハルフィリア・エス・マリカ談。
「強くなったって言っても力が強くなって疲れにくくなったくらいだしなあ。ライラのいう真祖の力っていうのはいまいちピンとこないというか」
「おまえが身の毛もよだつほど力のコントロールが下手クソなのもありますが……真祖の力のすべてを継承するためにはおまえが私を殺さなくてはなりません」
「……それは聞いたよ。聞いても聞かなくてもおれは誰のことも殺すつもりはないよ」
セージは再び舵を取って漕ぎだした。方向を定める必要はない。この小舟には古の加護がかかっている。
「そう言っていられるのも今のうちだけなのです。いずれおまえは立派に真祖となるのですから。私を殺し、人間を殺し、人間の築き上げたすべてを滅ぼし尽くす神の奴隷へと身をやつすのです」
ライラの桃色の髪が肩の上でさらさらと揺れ動いた。潮風が吹き抜けていく。小舟の進路に影響はない。この小舟には古の加護がかかっている。同種の加護は引かれあう。この小舟はいずれ古の加護を授かった都へとたどりつく。
「おまえが人間を自称できる時間はそう長くはありません。そう長くない未来に私を殺し、完全となったあと。人間を殺したくてたまらなくなって、友を手にかけ愛すべき人を縊り殺しその血をすするようになるのです。人間であった記憶はかすれ、自分が何者であるのかも忘れて神隷へと下る。それがこの世界の私たちのさだめ」
ライラはにっこりと笑った。日差しを受けて輝く笑顔は天真爛漫に眩しかった。
「楽しみですね?」
「どこがだ」
本当に、この幼女が良い顔をするときはろくなことを言わない。性格が悪い。ねじ曲がっている。数百年も生きているとこんな歪んだ人格になってしまうのだろうか。
「あっ」
ライラが声を上げて立ち上がった。ぐらりと小舟が揺れてヒヤッとする。
「セージ! 見えました! 陸です! エベラ王国の海辺の都、ラズワルド……! 帰ってきたのですセージ、私、サニフェルミアの大陸へ……!」
指差し歓声を上げるライラは今度こそ無邪気な眩しい笑顔だった。
前言撤回だ。
この幼女には、良い顔をして、良いことを言うときもある。
セージはふっと笑ってライラの指し示す方向を振り返った。まだ遠くに青く見える陸がたしかに見えていた。ふと小舟のスピードが上がった。漕いでもないのにぐんぐん進んでいく。同種の加護は引かれあう。同じ古の碧い竜の加護を受けたもの同士、近付くほどに引力も増していく。
「しかし、妙ですね……この辺りには昔はもっと島が多かったはずなのですが……一つも見当たらないとは」
「おまえが孤島に引きこもってるうちになんかあったんじゃねえの」
「まさか。たかだか十二年ですよ? 島が抉れるには時間が短すぎます」
「例の戦争とかでエベラ本土決戦があったとか」
「ラズワルドになにかあれば老いぼれが私に伝えないはずありません」
うむむ、としばらく唸ったあとにライラは小さな手を打ち鳴らした。
「まあいいでしょう。行けばわかります。よかったですねセージ、老いぼれのおかげであとは自動操舵なのでラズワルドに着いてからの計画を立てましょう」
「計画」
「ええ。必要でしょう? おまえと私の目的のための計画」
目的。というか、野望に近い。のっぴきならない状況のせいで口を突いて出た壮大な抱負。この幼女を救いがたい自殺願望から掬い上げるために宣言したそれはセージひとりだけのものではない。
「世界平和、ね」
改めて口に出すとなんだか照れくさかった。
戦火と災禍のサニフェルミアで、それが当然のこの世界で、かつて同じように世界の平和を祈った人物がいた。この世界のあらゆる対立を解きほぐそうと志した異端者がいた。
セージは手にした最強の力をもって、その意志を引き継ぐと決めたのだ。
「ふふっ……やっぱり滑稽なのです。我々神隷が人間の手を取ろうなどと! どう考えても世界征服の方がお似合いなのです。やっぱり今からでも世界征服にする気はないですか?」
「しないよ。そんな悪の親玉みたいなことは……魔王じゃあるまいし」
力を手にしてしまった。もう無力を言いわけにして部屋の隅で震えているのは許されない。今までとは違うのだ。今はもう、あの灰色に淀んだ港町にいた呉井誓治ではない。
「やっぱり、世界を救う英雄に憧れるもんだろ。男ってのは。それに、これはライラの昔の――」
言いかけて、口をつぐんだ。
ライラがすさまじい形相でセージを睨みつけていた。
「お互い、過去には言及しない約束です」
刃のように冷然とした声音がセージの胸を刺した。
「……ごめん。うっかりしてた」
ライラがセージとともに旅をするためのルールのひとつ。この小舟に乗り込む以前の互いの過去には干渉しないこと。ふたりはこの小舟の上から、はるか南の孤島で吸血鬼真祖の幼女と、その力を継ぐ異世界人の少年として始まっている。
お互い、過去に痛いところがあるわけだ。
「よし。じゃあ。決めよう。世界を救うために何をするべきか」
気を取り直して、とセージは音頭をとった。
「路銀」
取り直した気がひび入った。
「生計」
「え? これそういう……?」
「身分。国籍。人間の中で暮らすのでしょう? それとも『がおー吸血鬼真祖じゃなかよくしろー』とでも乗り込む気だったのですか? あわれな……」
「うッ」
何も考えてなかった。
「困ったことに、おまえの制服はくしくも帝政オピウムの軍服にそっくりなのです。四方八方に侵略戦争仕掛けまくった略奪趣味帝国の軍人がろくな武装もせずひとりで歩いていれば、ていのいいサンドバッグなのです……おまえはそのタフネスを生かして殴られ屋を開くしかありません。そうして人間への恨みつらみを募らせ早いところ真祖として人間を虐殺」
「ちょちょちょちょっと! まった! 勝手に話を進めるな!」
えらく楽しそうに語る幼女が腹立たしい。「きょうたのしいゆめみたのー」とか言い出しそうな天衣無縫の微笑みでなんてこと口走るんだ。
「なんでおれがそんな痛い目あわなきゃいけないんだよ! 普通に上着脱いでればいいだけだろ!」
「痛いのには慣れているのでしょう?」
うたうようなライラの声にセージは眉をヒクつかせた。
「……過去には言及しない、だろ?」
「あらまあ。そうでした。失礼」
悪びれもせず言うライラにセージは深く嘆息した。痛いのには慣れている。なぜって。無力だったからだ。呉井誓治は港町の小さく閉ざされた世界でひたすら弱者だった。だめだ。思い出してはいけない。ここにはもうあのクソ野郎はいない。セージは現実から逃げ切ったのだ。悪夢のようなあの女だって、はるか南の孤島であっけなく死んだ。忘れよう。全部忘れて世界を救う英雄にだってなってやろう。まだどこかに希望が転がっていると信じていた、あの頃の夢を叶えてやろう。
「……しかし」
セージは頭を抱えた。
「世界平和って、何から始めればいいんだ……?」
小舟はいつしかタービンエンジンでも積んだように海面を滑り進んでいた。
予想外に長くなってしまったので二分割しました。
後編は明日10/11中に更新できればと思います。