ep.3 青碧の都の子どもたちは伝承を唄う
最後に、その都に伝わる大切な物語に触れておこうと思う。
ラズワルドはサニフェルミア最南端のエベラ王国の海辺の都である。辺境に位置するにもかかわらず、その都はエベラ王国の首都フェレニスよりも栄え、豊かに満ちていた。
「セージとライラちゃん、大丈夫かなあ……」
中心部から少し外れた場所に位置する宿屋、ヒナギク亭の一階でカウンターに突っ伏しレオはぼやいた。少年とも少女ともとれる容姿をしたレオはヒナギク亭の宿の主人である。灰茶の髪を粗雑に後ろにまとめ、室内だというのにキャスケットを目深に被っている。柔和そうに見える目元は眠たいだけだ。昔から睡魔とは仲良しだったが、最近は特にひどい。困ったものだ、とレオは目元をこすった。
「レオ、あいつらのこと気にしてんのか?」
生意気そうなかん高い声が耳に届いた。
ハイメだ。
「おれ、あいつらのことなんか気に食わねェ。怪しいもん。だいたい、旧オピウムの軍人だぜ。いつ発狂するかわかったもんじゃないだろ。あいつら、かわいそうだとは思うけど宿まで貸すことはねェよ」
レオのことが心配なんだ、と付け足す声はしゅんと小さくなって聞き取りづらかった。
「セージは悪い人じゃないよ。目を見たらわかる」
「でも、オピウムの」
「そうやってなんでもいっしょくたにして考えるのはよくないことだよ。ぼくはそういうのキライだな」
なるべく穏やかに言ったつもりだが、ハイメはことさらしゅんと肩を落としてうつむいてしまう。
ハイメはラズワルドの都の中心部にすむ新聞売りの少年だ。つい最近十になったばかりの彼は、生意気ですこし口の悪いところもある。そんなハイメのことを、レオはハイメが生まれたときから知っている。というのも、レオはハイメの父である時計職人の大ファンなのだ。ハイメの父の作る自動巻き時計にはどれも繊細な装飾が凝らしてあって、幼い頃はこっそり宿を抜け出して街中の店へ見に行ったものである。
「ハイメのことがキライってわけじゃないよ。ぼくはハイメのことは好きだ。大好きだ。口が悪いのは元気が良いことの裏返しだし、素直じゃないけど人を思いやる心を持っている。きみよりずっと年上のぼくを心配してくれるみたいにね。それに、将来のために小さいときからずっと自分から働いてお金を貯めているのも偉いと思う。きみならきっと立派な航海士になれる。ハイメはえらいよ。だからこそ、長いものに巻かれてちゃダメだ」
すらすらと言っている途中でハイメが顔をあげた。琥珀色の目をぱちくりさせてしばらく、だんだん顔が赤く染まるのをレオは不思議そうに見ていた。レオはひとの顔を紅潮させるのが特技だ。よくあることだ。だが、それがどうして起こるのかレオはさっぱり理解できない。聖海の都の名にふさわしく、ラズワルドの民は清らに正しく立派であれとはこの都で古来より言い伝えられていることだ。レオはその通りにしている。その通りにすると、目の前のだれかは熱病にでもかかったように真っ赤になる。レオは申しわけないと思う。
ハイメが視線を泳がせながら言った。
「レオが街でなんて呼ばれてるか知ってる? 聖女さまだぜ」
「ああ、不思議なものだよね。ぼくは男なのに」
「……それでもいいけどさ」
レオはくつくつと笑って窓から差す茜色の西日に目を細めた。そろそろ日が沈む。夜になればまた新しい客が入ってくるかもしれない。準備といっても部屋の仕度は暇な昼のうちに終わらせてあるし、灯りをつけるくらいしかないのだがその灯りの数が多い。燐灯石のランプはろうそくよりもずっと明るくて危険もないものの、せっかく新式魔法の技術なのだから、もっと便利に使えるようになればいいのにと思う。
「ハイメ、灯りをつけるのを手伝ってくれないかな。気づいたらこんな時間になってしまった。エレシドは持ってる?」
ハイメはばつの悪そうな顔をして舌を出した。
「持ってるけど、昨日から調子が悪くてよ。家の燐灯石を爆発させて母ちゃんに死ぬほど怒られたぜ」
「そうか。それは……やめておこうか。じゃあ、かわりに歌をうたってくれない? 碧い竜の唄を」
「えーっ。はずかしいよ!」
「いつも鼻唄うたってるじゃないか」
「そ、それとこれとは!」
「ハイメがうたってくれたらぼくはきっと元気になる。燐灯石をエレシド杖で叩いて灯りがつくまでの時間だって半分になる。ぼくは半分の時間で仕事が終わって、あまった時間でハイメとソフィア・ショコラで遅いティータイムをとることができる」
「ソフィア・ショコラ……!」
ハイメの喉が鳴るのが聞こえた。
「いいぜ。うたってやるから、はやく仕事片付けちまえよ」
ハイメがひとり掛けのソファから立ち上がると同時に、レオも気だるいからだを起こして胸元のポケットからエレシド杖を抜いた。杖、といっても銀色をしたペンのようにしか見えないそれは、この世界を劇的に変化させた魔法の金属の細工である。この世界に生まれた人間であれば誰もがお守りのようにひとつずつ持っている魔法の媒体。人の意思の力を現実に具現化させる精神世界と現実世界の媒介金属。エレシド鋼でできた細工を身につけ魔法を使うことこそがこの世界の人間である証とも言える。
嫌な世界だ、とレオは思う。
ひとつめの燭台に固定された燐灯石に杖先で叩いたとき、ハイメの歌声が聞こえ始めた。
「はるかむかし みなみの海は
魔にみち 邪にあふれ あれくるう
人の子よ いざゆかん 討ちたおせ
涙のまぶたとじ その手に剣をもて」
碧い竜の唄はラズワルドに伝わる民謡だ。
ラズワルドの都は碧い竜の加護により今日まで海辺で栄えている。そのゆえん。ラズワルドにすむ人々のだれもが知っている竜と人の戦士の唄。
「海のそこに ねむれし竜よ
われら問わん なんじこそあるじかと
碧いうろこ うつくしや 神の使徒
なんじを討てば 海は安らぐか」
一階のロビーの燐灯石ランプを点け終えて、レオとハイメは二階へ上がった。はじめは気恥ずかしそうにしていたハイメの調子も上がってきた。
この唄は、かつて南の海を治めた異種族である碧い竜が人に屈し恵みを献上する物語だと言われている。
「碧き竜は 我こそあるじと
力なくし 衰えど たてぬたま
かなしみを 胸に宿す 覚悟はありや
我を救いしば 加護を与えん」
客室のランプを点けながら、レオもハイメの声にあわせて歌いはじめた。
「人の子らよ 不屈の戦士よ
きよらなる みたまは この胸のうち
ラ ラ ラララ ラ ラ ラララ ラララララ
涙のまぶたあけ 心は牙をもつ」
「はるかむかし みなみの海に
碧き竜 魔のあるじ いと深きそこ
いまもなお もとめ待つ きよらなる
まもりし民の おとなういつの日か」
☆
「いったい何回うたわせれれば気がすむんだよ!」
一階に戻ってテーブルについたハイメが顔を赤らめて声を上げた。思った以上に燐灯石ランプの点灯に時間がかかって碧い竜の唄を何周もすることになってしまったのだ。
「ごめんごめん。ぼくもエレシドの調子がよくなかったみたいだ」
レオはソフィア・ショコラを切り分けながら笑って言った。ソフィア・ショコラはラズワルドの銘菓のひとつだ。そんじょそこらのガトーショコラとはわけが違う。ほろほろとろける食感と上品な甘味の理由はこの土地で採取できる水にあるらしい。
「エレシド? 燐灯石のほうじゃなくて?」
「あー……そうだね。燐灯石もかえどきなのかもしれない」
「そうだろ。普通そっちだぜ。オレはまだガキだからエレシドとうまくリンクしないこともあるけど」
口をとがらせるハイメの前にソフィア・ショコラと淹れたての紅茶を並べ、レオもその向かいに座った。キャスケットを目深に直して再び目を上げた頃にはハイメはすっかりご機嫌に目を輝かせていた。女々しいからと口には出さないが、ハイメは大の甘いもの好きなのだ。
「……ねえ、ハイメ」
「ひゃい?」
ハイメが口のまわりをチョコレートだらけにしながら言った。レオは吹き出しそうになるのをこらえて紅茶をすする。
「碧い竜の唄って、本当はどんな意味を持っているんだと思う」
「はあ? なんだよそれ」
「ほら、歌詞がない部分ってあるだろう。あの部分にとんでもない秘密の言葉が入っていたりしたら、唄の意味も大きく変わってくるのかなって」
「ああ……ラララってところか。あの部分に変な歌詞突っ込んで遊ぶのなら街のガキん中じゃ流行ってるぜ」
「……そうか」
犬のフン、ふんずけた……などと歌い出すハイメをよそに、レオは小さく唸ってソフィア・ショコラをほおばった。甘い。ほんの少しほろ苦い。弾けるブランデーの果実香。これが幸せの味。
碧い竜。伝承。伝説。今は遠い悠久の昔、幻に消えた海の王。偉大なる加護とその名だけを人の歴史に遺した彼は本当に人間に屈したのか。
レオはキャスケットのつばを引っ張ってうつむいた。
「レオ? たしかに、悪かったよ。チョコレート目の前に犬のウンコのうたを歌ったのは」
「あ、いや、別にそれは気にしてなくて――」
カランコロン、とドアベルの音がした。
レオとハイメが同時に宿の入り口を見遣った。さっそく今日の客が来たようだった。ランプを点けるのに手間取ったから、本当はお茶をしている時間なんかなかったのだ。しかし、今日いちばんに宿に帰ってきた客はそう気構える必要のない相手だった。
「――おかえりなさい、エティ。ふたりは一緒じゃなかったんだ」
鮮やかな金髪を三つ編みに結った彼女は、ラズワルドの都を拠点に医術師として活動する他国の軍属魔術師だ。
エティは二人に気付くと深い青の瞳を細めて微笑んだ。
「ただいま、レオ。ハイメくん。セージとライラちゃんなら大丈夫そうだったわ。私が行くまでもなく――」
☆
彼らはの出会いはあまりにも運命的で、たどる道筋と行きつく結末は彼らにおける悲劇である。かつ、この世界の喜劇でもある。
碧い竜の都に起こるこれからの物語を綴る前に、彼らがどのようにして出会い、交わうことになったのか、少し時間を遡ってみることにしよう。
これは、世界を救う物語だ。
次回、「ハリボテ幼女の時を超えた帰還」
10/10までに更新出来たらいいなと思います。