ep.5 ブラッディ救世主
波の音が聞こえる。
波は母なる海の心音だ。悠久に長らえる生命の音。恒常の鼓動。
瞼の裏に光を、じんわりとした温かさを体表に感じる。白い光は目蓋を透過して視界を赤く塗り潰した。身体には血が通っていた。息をしていた。水の冷たさを感じていた。水を吸って張り付く衣服の感触が煩わしかった。
うっすらと目を開けた。どんな色を感じるよりも照りつける陽光が網膜を焼いた。反射的に目を瞑って、再び目を開ければ、雲ひとつない深い群青が視界に飛び込んだ。
「…………」
口の中が砂だらけだったので起きがけにゆすぎ、呆然と青い景色を眺める。
「死んだよな?」
きっと二度目だ。少しばかり笑ってしまう。つうか、もう笑うしかねえだろ。こんな自問自答が何度もあってたまるか。
「月代岬。と……ライラ、だっけ」
思い出されるのはピンク色――と目立つ八重歯の体温のない幼女。吸血鬼。ヴァンパイア。グール。キョンシー。血をその身の糧とする異形は世界各地に散見されるが、まさか彼岸にも存在するとは。不死族のくせに生意気だ。ていうか、首筋じゃないのか。普通、吸血って?
「……あれ、治ってる。……死んだからかな」
牙を突き立てられたはずの舌はすっかり元通りで、そういえば海水が染みることもなかった。奇妙だ。夢だった? それにしては明瞭すぎて気持ちが悪い。じゃあ、なんで二回も自分の死を確認しなきゃいけなかったんだろう。青と白の輝かしいコントラストに打ち上げられて、またか、と思うことになったんだ。
「呉井!」
呉井?
パシャパシャと水の跳ねる音とともにこちらに駆け寄るセーラー服姿があった。びしょびしょに濡れているのはお互い様だ。濡れたプリーツスカートが脚に張り付き、あられもない様相を呈している。
「…………白石」
死してなおつきまとわれるのはシャレにならない。幻であってほしい。
「そっかあ、呉井もここに来てたんだね? わたしと同じ世界に来れたんだね! 私が救う世界で、私に救われるためにここにいるんだね?」
白石は息を弾ませセージに迫った。
意味のわからないことをのたまいながら。
「ここはね! わたしが救う世界なの! 異世界だよ、呉井! わたしじゃないとダメなんだって! だから死なずにこうして移り転じてきたの。この世界はわたしたちの世界と違って先がないからね? 枯れて萎びてしまう前にわたしに救ってほしいんだって」
白石は勢いのままセージの手を取った。水に冷えてはいるが血の通う人間の手だ。ここが彼岸此岸かはさておき、少なくとも、セージが現時点で存在するこの世の者のようだった。幻でもない心霊体験特集を組まれそうな白い後光も背負ってはいなかった。
「……なんだそれ」
けれども無性に気味が悪い。
もともと気がふれた女ではあった。狂気じみた目をして、到底他人が理解できない思想のもと、他人の求める理想を演じて自らの理想を叶える救世主妄想の魔女。
そんな女が、世界を救う?
「いい加減にしろよ! おまえは誰も救おうとなんかしないだろ! 全部自分のためだ! 自分が幸せになりたくて偽善者やってるだけだろ!」
「偽善者? わたしが? こんなに、心の底から誰かを救いたいって思っているのに? わたしのどこが偽物なんだろうね?」
「どの口が――!?」
予想外だった。
今まで大衆に慈母のごとくの情けを演出するために手はとっても、こんなふうに抱きしめられたことはなかった。
ゼロ距離で感じる体温は至って平凡な人間の温かさで、鼓動と吐息にふと安堵してしまう。
「ごめんね、呉井」
「…………白石」
殊勝な態度に、こいつにも罪悪感はあったんだな、なんて思ったことは間違いだった。
「わたし、呉井のこと救いきれなかったんだね。ちゃんと終わりにしてあげればよかったね。でも、もっとわたしに救われたいんじゃないかと思ったの。わたしはもっと呉井を救えると思ったんだよ」
「……――ッ」
理解は、できそうにない。
引き離そうと力を込めた。白石は放そうとしなかった。強く、強く、そんなわけあるはずないのに、何かからセージを守ろうとするみたいに。
「麻酔にかけられた世界だもの。きっと前よりずっと悲惨な世界だよ。きっと、呉井もむごい目に遭うんだろうね」
目を見開いた。
白石の言葉に、ではない。セーラー襟の肩越しに覗く風景が。敵意が。殺意が。憎悪の双眸が複数対。嘘だ。さっきまで誰もいなかったじゃないか。まるで風に乗ってきたかのように彼らは現れ、すべての銃口は、剣先は、こちらに向いている。
帝国兵め、と彼らは口にした。
「こんなふうに」
白石はいささか荒くなった熱い吐息に交えて言葉を続ける。その端々に見え隠れする恍惚を。劣情を。昂奮を。助長する狂気を。セージはその細腕の中で聞いている。見えざる神の手に押さえつけられたように、逃れられなかった。
「わたしが呉井を助けてあげる」
嘘だ、とは何に対して言ったのだろう。
誰かが引いた銃の引き金か。振り上げられた剣先から迸る不思議の光条か。突如沸き起こったかまいたちか。白石の台詞に対してか。
それとも、セージの目元を優しく覆った少女の手のひらに?
「――あなたはわたしに救われるの」
銃声。肉が切り裂かれる音。骨がつぶれる音。頬にはねた生温かい滴。振動と衝撃。直に伝わるそれらはそれまでの現実より遠く離れた事象の結実で、いやらしいくらいに体感を引き延ばした。
そうして、はっきりと聞いたのだ。
「あなたはわたしに救われた命に縋って生きてゆくんだよ。あなたの命はわたしの命。あんたが今まで受けてきたすべては、愛は、ぜーーんぶわたしのもの。あんたみたいなやつに何にも残してなんかやらない。はは。あはは。ばーか。はは。縋れ。求めろ。崇めろ! もっともっと苦しめばいい! わたしを誰だと思ってんだよ! わたしが幸せなんだ! わたしが、わたしのほうがずっと幸せで――」
ずるりと視界を覆っていた手のひらが落ちた。セージの体を戒めていた何かもふっと消えた。消えた、というか、倒れていった。彼女が。真っ赤に染まったセーラー服で、真っ赤に広がる血溜まりの中へ。そうか。人を構築する半分以上は水分なんだっけ。白砂が吸収しきれないほどの血液。その中で、白石はピンク色の泡を吹きながらまだケラケラ笑っている。これは何だろう。人のかたちをした。白石。白石って? 死ぬのかな。笑ってるけど。これだけ血が出たら、たぶん死ぬ。あれだけ自分を苦しめた女が。こうもあっけなく。
「あは……ふ……うふ、は――」
目が光を失いかけた頃にぽつり、聞こえた気がした。
「愛されたかったなあ――……」
セージは二、三度瞬いて、血まみれの目元をこすりあたりを見回した。いやに静かで鉄臭い。
それもそのはずだ。
白石をこうした連中は、同じようにこうなっている。めいめいがめいめいの赤い陣地の中、生命活動に終止符を打っていた。
「……」
立ち上がろうとした足にうまく力が入らなかった。前に後ろにひっくり返り、何度目かの右足でようやく直立する。
まだ生温かい、真っ赤なオブジェが数体増えた以外には何も変わらない、鮮やかな青と白の砂浜だ。
「……なんなんだよ」
怒ればいいのか。泣けばいいのか。どっちにしたって、ここに感情の宛てはない。血がにじむくらい固く握りしめた拳を振り下ろし、セージは虚空に叫んだ。
「なんなんだよ! わけわかんねえだろ! こんな――白石おまえ――ふざけんなよ! なに勝手に死んでんだよ説明しろよてめえのせいだろうが! くそッ……そこで死んでる連中も! なんで死んでんだよ殺したのはてめえらだろ! ひっくり返ってんじゃねえよ! 帝国兵ってなんなんだよつうか剣光らせたりとか風起こしたりするし! 近接武器で遠距離攻撃すんなよクソファンタジーが! 責任者出てこい説明し――」
どうして自分はこんなところで泣きわめいているのだろう。不幸だった。運がなかった。生まれたときから。天の采配は不平等だ。なら、死んでしまえ。死ねばよかった。なのに、まだこの意識は続いている。誰もいない、血に濡れた海岸に、たった一人で。
何の意味があるっていうんだ。
「――責任者はもういないけれど、説明なら受けたはず」
いつからそこにいたのだろう。
その少女はほんのり赤く染まる海水に足を浸し、印象的な瞳でこちらを見つめていた。
瑠璃の夜空に星を散りばめた、青金石の瞳。
赤毛を潮を血の臭いの混じる風になびかせ、まだあどけなさの残る顔立ちで少女は言う。ただし、その手には白銀に光る拳銃が握られている。
「ルールはたったひとつだけ。救えばいい」
わずかな感情も表現しない星空の瞳がすっと細められる。笑うでも、怒るでもない。ただ強くこちらを見据えている。
「あなたはまた失敗した。これでは救えない――から」
乾いた破裂音と、少女の声。
どちらが早く聞こえただろう。
「さようなら。また、次の舞台で」
――暗転。
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