ep.4 ファースト・キスからはじまる、二人の×××
十も数える必要のなさそうな年の頃。肩の上で揺れる髪は桃色。瞳も桃色。白磁の肌に桜の色を秘め、ぷにっとした頬。妖精のように愛らしい幼女の肩にかかる夜空色のケープは、そこだけ幾星霜の時間にさらされたように擦りきれていた。
「人間!」
ぱあっと破顔する幼女に戸惑えば、その隙に勢いよく飛びつかれた。子供らしく爛漫に、水浸しの学生服に濡れることなどお構いなしみたいだ。
「どうやってここに来たのです? どうしてここを見つけることができたのですか? 帝政オピウムの兵士がなぜ南の最果てに流されて――」
矢継ぎ早な問いのどれにも答えることはできそうになかった。帝政。兵士? 馴染みのない単語に首を傾げるばかりだ。
「あの、」
だから、つい。
「どなたさまでしょうか……」
質問を質問で返してしまう。
「…………」
幼女はつぶらな瞳を何度か瞬き、花が咲くように微笑んだ。桜色の唇が言葉を紡ぐ。
「死にゆくお前には特別に教えてやりましょう」
「一応おれ今死んだばっかりなんだけど」
「私こそが歩く天災・炎獄の夜! ライラ・ハルフィリア・エス・マリカ!」
「あれ? 聞いてない?」
「――が、キュートにおしゃまに大☆変☆身ッ! した姿なのです!」
「おお、ほんとに何にもきいてない……」
いまひとつの反応に不満なのか、戦隊ヒーローばりの派手なポーズで名乗りを上げる幼女はぷうっと頬を膨らませた。
「これから死ぬ人間の話など聞いてどうするのです。まあ――譲歩しましょう。名前くらいは聞いてやるのです」
すうっと細められた目が妖しく煌めいた気がした。その瞳の奥。灯る炎の色。
「おまえ、名は?」
「えっ? あ――、っと、呉井誓慈、くれは広島の呉のく」
「クレイ?」
「あー……」
ぐしゃぐしゃに髪をかきまわして息をつく。
「セージだよ。クレイは苗字」
「セージ。……ふーん」
「ふーんて」
「いい名前ですね?」
「そう? ありがとう……?」
ここが西洋準拠のファンタジー世界なら馴染みそうな名前だけども。「セージ」ならば。馴染む。っていうか、埋没? でも、ライラって名前は西洋というよりアラビアっぽい気がする。
「ええっと……ライラ。きいてもいい?」
「ダメです」
腕でばってんを作る桃色の幼女。セージは無視することにした。
「ここ、どういう世界なの?」
×を作ったまま、ライラはじっとりセージを睨んだ。なに言ってんだこいつ。視線でそう訴えていた。まあそうだよな。そういう反応になるよな。こんなこと聞いたらさ。セージが経緯を弁明しようと口を開いたのと、ライラが得心のいった声を発したのは同時だった。
「ああ! おまえ、もう気がふれてしまった兵士ですか。それでは仕方ないのです」
「兵士じゃないよ?」
「おまえたちのことは憐みこそすれ情けをかけようとは思わんのです。恨むならあの女を恨むのです」
「おっ。やっぱ聞いてくれないかあー……」
「しかし! おまえは久しぶりの我が糧となる人間なのです。そこでこのライラ、ほんとのちょびっとだけ容赦を与えるのです。おまえにまだ言語を解する脳があるのなら私の慈悲に感謝感激し咽び泣きなさい」
何一つ話が通じないなあ、と頭を抱えるセージの腕をライラがぎゅっと抱きしめた。言っていることはよくわからないが、なぜか幸せそうなあどけない幼女にほっこりする。ちょっと頭を撫でてやればさらにすり寄ってきた。なんだ、普通に甘えたがりの子供じゃないか。ちょっとませてるだけだ。ピンクだけど。
砂浜を行き、原生林にわけ入り、鬱蒼と茂る緑を進み、体感一時間ほど歩いただろうか。木々の拓けた場所に出た。そこに建つ小さな小屋がピンクの幼女の住み処らしかった。
「おまえに私の話し相手をするほまれを与えるのです」
つぶらな桃色の瞳をきらきら輝かせて楽しそうに言うものだから、セージは頷かざるを得ない。いつの間に沸かしたのか、銀のマグカップには湯気の立つ茶が注がれていた。
真昼の陽光が歪むガラス窓から差し込む中、セージは幼女と向き合っている。
「……驚いたのです。その陰気臭い黒軍服をまた見ることになるとは思わなかったのです」
制服なんだけどなあ、とセージは茶をすすった。濡れて冷えた体に熱い温度が広がっていく。けれども心まで温まるには時間が足りない。
「再び人間の血にありつけるとは思ってもみなかったのです」
「……血にありつける、とは」
なぜって、この不穏だ。よくしゃべるピンクの幼女ことライラの口元に目立つ八重歯を見てしまうとなおさら。ていうかそれ八重歯かな? 牙とかじゃなくて?
もちろんライラはセージの話など聞く気はないらしく、まるで無視を決め込んでいる。話し相手、切り株とかでいいんじゃないか。毎日切り株とおしゃべりするピンクの幼女。メルヘンを超えてシュールだ。
「オピウム兵士を最後に見たのは……うぅむ、単調な生活をしてますと頭がはたらかないのです。血が魔素で濁ってドロドロになっていたのはよく覚えているのですが。――狂王殿下はお元気ですか? 変わらずエレシド動力資源の簒奪に御執心ですか? 帝国は未だ道を踏外し続けているのですか?」
「はあ……殿下?」
「ま、こんなところに流れ着く末端兵が知るはずありませんか」
「流れ着くっていうか死に着いたんだけど」
「そう焦らずともすぐに殺してやるのです。雑個体と違って眩惑して飼育するような下卑た趣味は持っていないのですし」
「そうじゃないんだよなあ」
「サニフェルミア終焉の糧となるがよいのです!」
「…………サニフェルミア?」
つい最近どこかで聞いたような気がした。聞いたそのときの、具体的なことはまるで覚えていないし、どんな意味なのかまるで見当もつかないけれど。
セージのおうむ返しが意外だったのか、ライラがきょとんとして首をひねっている。つぶらな桃色の目を見開いたり、すがめたりしてセージを観察している。
「おまえ――いくら気が触れても悲願の征服対象を忘れはしないでしょう」
「え、征服……って? まさか世界征服でもするつもりかよ。帝国? ってのは」
冗談交じりに返したのに、ライラはひどく真剣な表情でセージに問いかけた。
「まさか、おまえはオピウムの人間ではないのですか? ――いえ、サニフェルミアの人間でもない?」
「今さらだな! だから、そうだって。おれ日本人だし」
「にほんじん?」
「いや、まあ、そりゃ確かに見た目はそれっぽくはないんだけど――って何を」
ライラが胡乱な目付きをセージに向けて椅子を降りた。とてとてとテーブルを回り込む。セージの腕を小さな手で押さえつけて、あとは一瞬だった。
椅子ごと後ろに倒れこむ激突音。後頭部から背中にかけて鈍痛。閉じたまぶたの裏の星がとんでいる。胸部の圧迫感に息が止まりそうになる。じきに止まった。苦しい。声もでない。首にかけられた冷たい双掌。死人の手のような小さなそれがセージの首を締め付けていた。だれが? きまっている。ひとりしかいない。この場にいるのは。
「なるほど。そういうことですか。――最後まで、おまえは、私を」
鈴の音の声は淡々と降り注いだ。
「こうして呼吸を止めてやると」
子供の小さな手だ。それなのに、小指一本たりとも剥がれない。どんな握力だよ。ゴリラか。ゴリラって。目が霞んできた。あばらに馬乗りになったピンクの幼女の視線が、突き刺さっては網膜の奥に融けてゆく。
「少しばかり酸味が増して。私好みの味になるのです。恋をしているような気分になるのです」
恋、ですか。
幼女にしちゃ艶っぽく笑っているように見えるのはそういうことか。いや、なんかもう、暗くてよく見えないんだけど。
「あなたを奪うたまゆらだけ、あなたを愛してさしあげましょう」
なのにその声だけははっきり聞こえたのだ。
と思えば、続く次の感触も不気味なほど生々しい。
ピンク色が揺れて、視界がいっとう暗くなって唇が柔らかいものに触れた。絞めていた手の力が弱まって脳に血液が行き渡る解放感。それを打して余りある冷たい侵略者。
ぞわりとした。
「…………ッ!?」
舌が舌に絡め取られる未知の感覚に、酸素を取り戻したばかりの身体は抵抗もままならない。やがて冷たい小さな口内に誘い出され、何がなんだかわからなくなって、そんなときだった。
脳天を突き抜ける激痛。
何をされた?
鉄臭い液体に窒息しそうだ。血が。血が? 吸われている。舌を介して? そういえば、太い血管があるって、自決するために噛み切る用の。はは。違うか。一周回って冷静になったのはほんのわずかな間だった。意識が遠くなる。貧血性の吐き気で引き戻される。なぜ? ライラは。おれは? 苦しくて痛くて気持ち悪くてひたすらに苦しい。死にそうだ。そんなはずはない。さっき死んだばかりじゃないか。
――どうか、救っておくれよ。
声が聞こえる。
――きみこそが、私の賭した最後の可能性。
知らない景色を見た。
人の絶えた廃都。遠く佇む人影。閃光と業火。岩山を舞う翼竜。地下に燦然と輝く迷宮。忘れられた古い街並みと好奇の瞳。砂漠の夜空に金の月。閃いては消える、これはだれかの記憶の花火だ。
そんな幻風景に溺れて、やがて意識はふつりと途絶えた。




