ep.20 微睡む世界に祈りは幻想と融ける
彼はまっすぐで、終幕には眩しすぎる。
「こうして葛藤して苦しむことが人間らしさだというのなら、そこから奪い去ってくれたらいいのにね」
岬の先端。
幻想的に碧く輝く大地は神の隷属に侵食されて美しかった。いつからだろう。いつからこの光景を見ているのだろう。いつから自分はこうして、碧い世界を見つめては彼に話しかけて、遠くに街の声を聞いている。痛い、痛い声が心に染みてジクジクする。それもすぐになくなってしまう。碧い光は痛いも哀しいも苦しいも奪い去っては均していく。均した心を声が、頽れる街の景色が抉る。また、均される。繰り返される。終わることのない破壊と創造はまるで神の所業ではないか?
「人間は最後までらしくあれと望まれたって? とんだ嫌がらせだよねえ、セスキ。呪いだよ。――いや、どうかな。セスカルなら祝福だというのかな。最後まで人として故郷に加護を与え続けたセスカルなら。強いよねえ、先代たちは」
彼女の傍らには愛用していたキャスケット帽がひっくり返って揺れている。ひとりの、柔和な笑みの少女が碧い鱗に腰を下ろしている。宝石のような鱗の持ち主は巨大な海竜だ。浅瀬にとぐろを巻き、若い瞳に澄んだ光をきらめかせてゆっくりとまばたきを繰り返す。
「父君は強い。まだ死なぬ。ゆえに、貴君が急ぐことはなかった。――エレオノール」
「ははっ。それは息子であるきみの希望的観測だ。わかるんだよ。わたしたち、同種は。同種の加護は引かれ合う。互いに繋がっている。そういうふうに作られたんだ。終わる世界の集約者として。世界の因子の精製者として」
「かつて」
若い碧竜は重々しい声で切り出した。
「父君も言っていた。集約者、と。神隷のひとりでしかない己にはわからぬ。父君は語らなかった。貴君も左様か」
エレオノールは答えなかった。碧鱗を蹴って飛び出し、碧く輝く地面に降り立つ。海風がふわりと灰茶の髪を巻き上げる。半端に碧い鱗に覆われた首元が晒される。振りかざす左腕はもう原型をとどめていない。肥大化して碧く、燐光を纏って鋭い爪が白銀に閃く。空中に走る紫電。局所に集中した負荷に対する、幻想に微睡む世界の悲鳴。
「セスキ。お客様だよ。ヒナギク亭の主たるぼくを見習って、ちゃんと歓迎してあげようね」
碧い都の街を破壊する堕した女神がぐらりと倒れる。距離はすぐそこなのに、まるでずっと遠くの景色のように紗がかかってほの青い。音も何重にも石壁を重ねたようにくぐもって聞こえる。
「あーあ。神格、やられちゃった。でも、見た? 綺麗な光。夜空の星を全部集めて燃やし尽くしたら、あんな輝きになるのかな?」
たおれて砂塵をまき散らす、巨大な妊婦の異形の者。気の遠くなるほど悠久の昔、人間が描いた空想のなれの果て。
銀色に溶け出す屍を越えてこちらに向かい来る者があった。ひとりだ。やっぱりきみは来た。来ると思っていた。けれど、ごめんね。来てくれたのはこの上なく嬉しくて、涙が出るほどなんだけれどね。
もう、遅い。
☆
「――いた!」
宙を蹴って進む。とうに慣れた浮遊と落下の体感覚。全身にべったりとついた銀色の粘液のようなものが気持ち悪い。先の神格を袈裟懸けに切りつけたときに浴びたものだが、ふと目を落とすと細かい粒子が蠕動しているようで気味が悪いのだ。だが、気にしている場合ではない。エティが待っている。強がっていたが、彼女は限界だ。限界をとっくに超えている。超えるとどうなるか。考えたくない。そんな彼女に、セージは頼みごとをしている。時間はかけられない。
セージの視線の直線上、碧く輝く図体がとぐろを巻いている。そのすぐそばに降り立ったシルエット。彼女だ。エレオノール。感じた通りだ。同種同士は引かれ合う。ただ、彼女しかいない。王者の風格すら醸す宝石のような竜は、彼ではない。
進む先は紗が掛かったようにぼんやりしていた。それが指向性を持って動き出す。靄は凝集して形になる。霧が晴れる代わりに無数の異種族がお出迎えだ。海の魔物のくせして空を飛んで一直線にこちらに飛び込んでくる。セージを中心に扇状の異種族の陣形。ちょうどいい。今ならやれる。一掃できる。押し寄せる波を灼き払え。意思を持て。神の領域の世界線すら超える強い意思が必要だ。今はもう、先のことなど考えるな。剣を振り上げろ。ありったけの意思を込めて、描く事象を具現化させろ。
「いっ」
振り上げた軍刀の切っ先から拡大する灼熱。纏う業火。
「――けええええええええええぇぇぇぇぇ!」
風を唸らせて振り抜いた。次の瞬間には視界が橙一色に染まる。純粋な炎の色。燃える色。刀身から迸る火炎が柄を握る両手を焼く。焼けてただれて、すぐに元通りになる。痛いけど、痛がってる場合でもない。急がないといけない。約束を果たさなくてはいけない。この都を救う、という。
炎波が引いて視界が開ける。命を燃やし尽くされた異種族たちが灰に変わって墜落するのが見えた。もう遮るものはない。あとはそこまで一直線に墜ちるだけだ。
着地した両足に感じる衝撃は、拍子抜けするほど小さなものだった。
「――エレオノール」
どんな表情を浮かべるにも失敗したような彼女がそこに佇んでいる。
「きみと話をしにきたよ」
彼女は笑おうとして、やっぱり失敗している。
「なんの話をするつもりできたのさ」
「きみがずっとこの街にいられるようにする話」
「それは素敵な話だね。素敵で、むちゃくちゃだ」
「そうでもないよ」
セージは軍刀を鞘に納めてニッと笑った。ちゃんと笑えていたらいいな、と思う。歪んだ視界に見えるきみを安心させられるように。真っ直ぐ立てていたらいい。ちゃんと目が合っていたらいい。
意識よ。まだそちらがわに呑まれないでくれ。
「セスカル・ルシュトージ・ジェイ・ラズワルドは碧い竜の――いや、高位神隷の海神龍の真祖、だろう。そして君は継承者だ」
海神龍。
悠久の昔に語られた、海の女神の名を持つ竜の真祖。
それがセスカル・ルシュトージ・ジェイ・ラズワルドの正体だ。
人を滅亡へ導く使命持つ神隷の中で、高位の種族の真祖。彼はこの世界の神の意思に従い、南の果てよりサニフェルミアを廃滅させるはずだった。しかしながら、彼はそうしなかった。彼は人間を愛しすぎていた。偏執していた。愚かな老いぼれなのです、とライラは語った。つまらなそうに、寂しそうに口ずさんだ。
人間を滅ぼす使命を持つ種族の長は、いずれも人間だった者たちだ。
「きみはいつ気付いたの?」
彼女の目元が光るのは、浮き出た鱗か、あるいは。
「気付いた、ってより考えついたって感じかな。気付けなかったんだ。もっと大きな魔力の塊がずっと近くにいたからさ」
エレオノールは何も言わない。彼女は今、どんな顔をしているのだろう。急速に明瞭度を失う碧い世界で、きみは何を思っている?
「きみが神の意思に従ってこの世界を壊してしまうのなら、おれはきみを説得したいんだ。たしかに、この世界の仕組みは間違っていると思うよ。歪んでいると思う。だから、できることがあるんじゃないかって思うんだ」
かつて偉大なる魔女がそうしたように、セージは言葉を紡ぐ。
「逆らってやろう。神に目にもの見せてやるんだ。神の力で神に叛逆するんだ」
「無理だよ。現に、私は――」
「無理じゃない!」
あきらめたような彼女に、セージは声を張り上げて食らいつく。
無理じゃない、全然、できないことじゃない。なぜって。かつてあいつができたんだから。人間に歩く天災と忌避され、炎獄の夜と畏怖された災厄の女王だったあいつが。それに、
「おれだって、吸血鬼の真祖なんだぜ」
声はちゃんと出ているのだろうか。真っ直ぐ立てているのだろうか。平衡感覚が、もう。災禍の街の方から甘い香りが漂ってくる。今すぐそっちに駆け出したい。意識が真っ赤に染まる。頼むから、もう少し。
「それが世界平和を目指すって言ってるんだ。きみが手伝ってくれるのなら、ことさら現実味を帯びてくると思わないか? ――なあ、レオ、セスカルがしたことは、きっと無駄なんかじゃなかったって、証明してやろう」
そうして、忘れ去られた都の昔話を呼び戻すんだ。
次話、「忘れ去られた都の昔話」をお送りします。
しかし、世界を救うって難しいですね。




