ep.17 かつて碧い都は神に騙った
そのくせ、都は時代に取り残された神様に諮られたのでした。
レオはやわらかく微笑んでいた。しかしそれは昼間に見せる慈愛の天使のようなそれではなくて、すでにあきらめてしまった人のそれだった。
セージは唇を噛んで目を伏せた。
「これ、ね。きみはなんだと思う。ねえ、わかってて聞いているでしょう」
宝石のような煌めき。街のいたるところに散りばめられた青によく似たそれは、もうキャスケット帽をかぶっただけでは隠し切れそうになかった。荘厳で、神秘の化生で、日の光の届かない深海の底を照らし出す光なのだと、直感的に思った。
「レオ――エレオノール・バルデラス」
言い切るか否かのうちに、激しい水音がした。レオが湯の中に飛び込んだ音だった。
「ははっ。そう。バルデラス。セージと初めて会ったのも、バルデラスの屋敷の前だったね。気付いたのはそこから?」
セージは屈んだまま首を振った。レオと初めて会った場所。住宅街としては並ぶ建物が大きく仰々しくて、立派な身なりの人たちの行き交う静かな通り。思いもよらなかった。
たった一つの巨大な商家の屋敷群が、街の一画を占めているだなんてことは。
「あの一帯がバルデラス家の土地だってことを知ったのは、気付く前だ」
「そう。すごいでしょう。バルデラスは。ラズワルドが成立して以来、ずっとこの都の権力者なんだから。バルデラス家なしにはこの都は成り立たない」
ぱしゃぱしゃと水音をさせてレオが言う。彼女をレオと呼ぶのは相応しくないのかもしれない。騙すことをやめてしまったら、レオの意味は失われる。解けた氷は水に戻って、不穏に渦巻く水面を露出させる。
エレオノール・バルデラスは滔々と語った。
「この街に加護をもたらした碧い竜は、加護の媒介をその手に呼び戻すことに決めた。けれども、街はそれを許さなかった。媒介である当人もまた、それを受け容れなかった。そうやってあらがい続けて、この都は明日、終わりを迎える。初めから無理な話だったんだよ。魔の海を聖なる海と呼んだって、その性質が変わるわけじゃない。南の海に満ちていた聖も邪も人間に仇為す異種族だ。そしてそれは今もなお海の底に身を潜めている」
☆
レケヰジ1677年、ラズワルドの都は混迷を極めた。
「エレオノールが呪われた?」
辺境の都であるラズワルドの経済の中心。エベラ王国でも屈指の資産を誇る大富豪。
それがバルデラス家だった。
「碧い竜の呪い? 馬鹿な。碧い竜は我らバルデラス家に祝福を与えた、とうの昔に人間に屈した高位異種族だろう。それがどうして今になって呪いなど」
バルデラス家の当主は愛娘の呪いを告げたエベラ王国きっての王属魔術師に詰問した。なぜ我が娘が呪われるのか。加護はどうなる。|もう未来は見えないのか《・・・・・・・・・・・》。そうなれば、ほかの子女にラズワルドの聖女の力は譲渡されるのか。
「わかりませぬ」
魔術師は眉をひそめてそう繰り返すばかりだった。
ラズワルドで生まれ育てば、いずれは気付く加護の正体。
それが、未来を見通すラズワルドの聖女だった。
知らないのは年端も行かぬ幼子か、奴隷市場に売られる異種族くらいなものだ。
「なんとかしろ」と、当主は言った。
「なんとか、と申されましても」
魔術師は冷汗を拭って唇を震わせた。バルデラスの当主は気が短いことで有名であった。とりわけ、都の外の人間に対しては横暴であることが知られていた。
「魔女を呼べ」
「……エベラ王国に魔女はおりませぬ」
「呼べと言っている」
星屑の魔女の台頭以降、人間に溶け込みつつあった精霊魔女のコミュニティは主にサニフェルミアの北方に位置していた。南の王国に魔女はいない。それでも、呪法については、さりとて理外の徒に係るまじないについては、その半身をひとでなきものに預く精霊魔女の方が人間の魔術師よりは詳しかろう。そう踏んでの当主の発言であった。
ひとつきほどあって、魔女が呼ばれた。そのひと月の間にも入れ代わり立ち代わり識者が呼ばれた。魔術師、呪術師、祈祷師、学者、医者、薬師、武勲褒賞討伐士、海釣りの漁師までもがバルデラスの屋敷を訪れた。内密にせよと緘口令が敷かれたものの、ラズワルドには次第に暗雲が垂れ込めていくようであった。
加護に愛された都がその力を失うこと。それは辺境の都の豊かな営みの衰退を示唆していた。明日の平和が確約されないこと。安寧が保証されないこと。屈伏させたはずの脅威が再び牙を剥こうとしていること。
冷静に対処するには、都はあまりにも長い平穏に浸りすぎていた。
はるか遠く北方、リコリスより召喚された高名な軍属魔術師は話を聞いて黙考した。そうして、もしかすると、と口を開いた。
「我ら精霊魔女が知る、とある言い伝えがございます」
「言い伝え? それに何の関係がある」
「聞けば、エレオノール御令嬢はいたく心の優しく清らかなお方とのこと。人間として正しいお方とのこと。目を付けられたのでございましょう」
「何者にだ」
「神でございます」
当主はあごひげをしごき、小さく唸った。
「混濁の神は今もなお人間を疎ましく思っております。人間の繁栄を厭わしくお思いです。それゆえ正しい人間を、清らで愛される人間を間引くのです。ある日突然姿を消す人間には、そのような、大衆を導くような何かを持っていることが往々にございます。御令嬢は特別この都で必要とされ、もっとも愛されているのでしょう。忌まわしき神は見せしめとして呪いをかけたのです。神の尖兵たる碧い竜を介し、この都にもっとも皮肉となるように」
平時なら、ばかげた話だ、と一蹴するところだっただろう。星屑の魔女をはじめとする宗教国家の学者どもによって、ようやく異種族が魔術解析され始めた時代に言い伝えだとは。
しかし、ことは急を要していた。
「嘘をついてみましょう」
魔女は厳かに進言した。
「この都中を巻き込んで偽りましょう。絵空事でも語り継げば騙られるもの。忌まわしき神に、この世界に騙りましょう。御令嬢を殺してしまいましょう。――ああ、そんなおそろしい顔をなさらぬよう。我ら人間の怨敵が興味を失くすそのときまで、エレオノール・バルデラス嬢の存在を隠匿してしまえばよいだけのこと。我々にできることは災いが去るのを待つことだけでございます。よいですか、バルデラス殿。待つことだけ。待つのです。それが人間に許されたたったひとつの行いなのですから」
当主は魔女の言葉を飲み下した。
彼は気付かなかった。
白髪に褐色の肌の老いた魔女の口元が微かに弧を描いていたこと。
うろたえる都を、その権力者を嗤っていたこと。
☆
「呪いだ、祟りだ、なんて、人間の主観でしかない。その本質はこの世界の規則だ。ぼくはそれを知っていた。ぜんぶ教えてもらったからね。かつてこの都に起きた、歪められる前の碧い竜の都の物語。その発端となった絶対原理。発展した技術によって平和を得た人間にとって都合の悪い真実」
エレオノールは肩をすくめた。だれが信じると思う? そう目で言われたようだった。セージはレオのすぐとなりで碧い燐光を反射する水面に視線を落とした。少したってから言葉を継いだ。
「とっくに、ほんとうのことは認められなくなってたってこと」
強要されて、美少女と互いに一糸まとわぬ姿で入浴剤も何も入っていない透明の湯に浸かっている。置かれている状況が状況なら羨望期待のシチュエーションなのに、話を聞くほどに心はしぼんで密度を増して、鉛のように重く下方へ沈んでいった。断片的に把握していた話とはいえ、まったく真実として語られる救いようのない物語は感傷的な真夜中の脳に堪えた。ぼうっとして、心なしか目眩がするようだった。
濡れそぼったエレオノールの灰茶の髪が白い肌に張りついている。そこにはたしかに生者の艶めかしさがあった。しかしてレオの声音はそれと釣り合わず、亡霊のささやきの妖しさを孕んで耳孔をくすぐった。
「ぼくはなにも選べなかった。ぼくのことを愛してくれるこの都を、ぼくは深く愛していた。失いたくなかった。守りたかった。意思さえあれば守ることができた。そうしなかった。この都と同じくらい、自分のことが大事だったんだ……」
ぎゅっと膝を抱えて三角座りをしていたセージの肩に、不意に重みを感じた。視線だけ寄越すと、やっぱりエレオノールが頭を預けているのだった。美しい横顔を異形たらしめる碧い硝子質の角。燐光は互いの肌をほの碧く照らしていた。
「ちょっ――、レオ?」
「エレオノールって、呼んで」
「なっ……っあ……えッ、――エレオノール?」
困惑した声で名前を呼ぶと、レオの横顔は柔らかく微笑んだ。
綺麗だ、と思った。
視界がちかちかと明滅した。
「そう、わたしはエレオノール。十七歳の女の子。――あのね、セージ。わたし、もっと愛されたかった。碧い竜の加護なんて、聖女なんて関係なく、ね? わたしを見てほしかった。エレオノールは恋をして、愛をして、ときには嫉妬して、ひとりの女としてこの都で人の営みを紡ぐの。幸せをうたうの」
でもね、とレオが続ける。
「それはぼくが許さない。この世界は歪んでいる。あるべき姿に戻さないといけない。割れた卵を戻さなくては」
「は――卵? なんで卵?」
ぴゅう、と夜風が吹き抜けた。
レオはセージの問いには答えず、耐え切れないように目蓋を閉じた。
少し掠れた柔らかい声が、ごめんね、と告げた。
「さっきまで平気だったんだけど。……とても眠いんだ。――それに」
それは睡魔によって朦朧とした意識の、脈絡のないたわごとだったのだろうか。
「呼ばれもしないでこの世界にやってきて、とうとう卵を割ったのはきみだろう? ――セージ」
すう、と寝息を立て始めたレオの表情はひどく穏やかだ。
「…………」
不気味なほどの静寂が煩わしくて、半透明の蒸気の上る水面を指先で叩いた。
「……言ってないし」
違う世界から来た、とか。
「なんで知ってんだよ」
考えるほどに頭が茹だりそうになる。鈍化する思考。焦点の合わないぼやけた視界は幾度となく明滅する。もはやなんだか回っている気がする。鼓動が早い。ていうか――
深夜の温泉で、スタイル抜群の美少女とゼロ距離の密会。
たとえ角が一本や二本額に光っていようと、明日都がひとつ滅びようとも、女性経験のない思春期盛りの少年にとってはいささか刺激の強すぎる空間であった。
要するに。
「ぎもぢわる……」
のぼせないわけがなかった。
人間も異種族も神様もそれぞれ独立した意思を持って一つの結末に向かっていきます。
でも、そんな予定調和は許せないのです。




