ep.16 月光夜のたわわ
はっきりしてもらおうか。
「なあ、いま、こいつ笑わなかったか?」
「んなわきゃアねえだろうが。笑いも泣きもしねえよ。……それから口を慎め。物言わぬ抜け殻だろうと、おれらみてぇな下っ端が『こいつ』だなんて言えるお方じゃあねェよ」
巨大な鳥籠は淡い七色の明滅を繰り返し、二人の兵士を幾度となく照らした。地下深くにぽっかりと開いた暗闇の唯一の光源は荘厳に、今にも荒れ狂いそうな気配を隠し切れずに妖しく輝いている。
兵士の一人が青い息を吐いた。
「こんなこと、いつまで続けるんだろうな」
「いつまでも、だよ。人間には象徴が必要なんだ」
「正義の」
「力だ」
二人の兵士は力なく笑いあって顔を見合わせた。
鳥籠の中の象徴は、それを瞳に映すことはなかった。
☆
「だったら助けてくれよ」と、ハイメは言った。
求められたのはセージ自身だ。誰かの代わりに、ではない。
身勝手な欲望のためでもない、代償となるためでもない。切実に、意識の奥の方からあふれる助けを求める声というのは、ダイレクトに脳を揺らす。これは二度目だ。一度目は代わりだった。今度はそうじゃない。
「おれが助けるのか」
ぼそりと呟くと、斜め下から叱咤が飛んだ。
「こらセージ、どこ見てるのですか。報酬の検算をするのです。せっかくこのライラが骨身を惜しんで蜥蜴退治をしましたのに、ピンハネされたらたまったものではないのです」
はっとして声を振り向くと、ライラが微妙に届いていないカウンターの上の貨幣を指して頬を膨らませていた。カウンター越しの「銀粘土鑑定士」がピンハネという単語にあからさまに嫌な顔をした。そりゃそうだろう。セージは申し訳なくなりながら報酬金を数えた。
「あんちゃんら、ホンマに倒したんか? ズルしたんちゃう? 銀だけパクってきたんとちゃうかなあ?」
疑り深い目線を突き刺してくる鑑定士の前で紙幣を数え上げると(相当な金額になった)、早々に踵を返して退散した。ライラはいい気なもので、レオに着せてもらったドレスに上機嫌そうなすまし顔だ。
鑑定所を出てヒナギク亭へ足を向けると、早々にライラに手をひかれた。西日に薄桃色の髪をきらめかせ、セージに向かって万歳のポーズ。
「……はいはい」
いつも通り肩車をしてやると、今日は違和感を感じるほどおとなしかった。景気よく頭を叩いたりだとか、足をばたつかせることもなかった。
「早ければ明日です」と、微睡むような声が呟いた。疲れているのだろうか。ライラが。まさか。
「そうだな」
「楽しみですか?」
「おれ、何が起こるか教えてもらってないんだけど」
「派手な事件です」
「それだけじゃん」
「世界を救う良い機会ではないですか」
「現実に事件が起こるのを楽しみにする人なんていないよ」
「契機がなければ変わらないのです」
「もっと平和なケイキだってあるだろ」
「ふふ。おまえ、数日前に言っていたこととまるで矛盾しているのです」
セージは押し黙った。図星だった。ふてくされて言い返した。
「目の前に起きてみなきゃ思い至らないことだってあるんだよ。人間には」
「おまえは人間ではないでしょう」
「人間だよ」
「では、私は?」
「……それは、まあ……吸血鬼なんじゃないの」
「人間を自称するおまえと変わらない生活をしていても?」
セージは押し黙った。
その言葉の中身よりも、どこか憂いを帯びたライラの声音が気がかりだった。
「セージ。明日、おまえにひとつ頼みをするのです。この世界を救うための頼みです。きいてくれますね?」
「……聞いてから考えるよ」
澄んで橙に染まる空気は張り詰めていた。
ライラは相槌一つ打って、鼻歌をうたいはじめた。
碧い竜の唄だった。
閑散とした夕の広場に、幼いあわいの鬼の子の歌声。
声は寂しく宙に融け、いにしえの伝承は黄昏に発散して消えてゆく。
きっとこれは、このラズワルドの最後の日暮れだ。
真夜中にふと目が覚めた。
「……うわ。丑三つ時」
この世界でも時計は十二進法と六十進法の組み合わせで、壁かけ時計は午前二時を回ってしばらくを指していた。灯りのない赤ヒナギクの部屋に皓皓とした月明かりは冷たくそっけなかった。
「ライラ――あれ、めずらしいな……」
小さな体躯でベッドを広々使い、ライラは気持ちよさそうに寝息を立てていた。いつもと変わったことと言えば、そうだ、夕飯を食べていなかったっけ。あんなにレオの料理を気に入っていたのに。
セージはナイトガウンの裾を正して部屋を出た。いつの間にかレオが用意していたそれは、触り心地からして上質なものだとわかる。
十中八九、レオの生家が用意したものだった。
「風呂入ろう」
考えなしに部屋を出て、廊下をぐるぐる歩いて出た結論がそれだった。何でも良かった。
落ち着かない。胸騒ぎがする。早ければ明日です、だっけ。早ければ、じゃない。絶対に明日だ。この街が怖れていたことは現実になる。回避はできない。立ち向かうしか方法はなくて、でも、どうやって太刀打ちするのかは全く無計画だ。
「街の人の話はあくまで人間の考えうる可能性であって」
セージは脱衣所のドアを開けた。なんとこのヒナギク亭、風雅に露天風呂がついている。水質に係る衛生問題をとっくに解決して久しい文明世界らしかった。
「人間は碧い竜含む異種族について未だに想像の範疇で考えている。人間をピンポイントに襲う害悪で、人間の使う魔法とは違う魔法を使う――化物」
呟きながら脱いで露店風呂へ続くドアへ向かう。風に当たりたかった。脳が煮詰まりそうだ。
「人間は未だに真祖の存在も、その成り立ちも知らない。だからこそ碧い竜は生贄を欲しがっている……と、考えている。加護の対価をよこせと言っている。……まあ、この伝承で数百年も平和だったなら、ほかの可能性を考えつくはずもないよなあ」
木製の扉を押し開けると、夜風が身体をなぜた。
「でも、祟りはないだろ。祟りは。あいつがそんな――くそ、やっぱライラにちゃんと聞いとけばよかったな……確証さえあれば手の打ちようが」
セージはそこでやっと顔を上げたのだった。
「……………………」
顔を上げた先。
石風呂の縁の、無意味に高くなっているところに腰を掛けているひとり。
視線が釘付けになった。
「…………ひゃえ?」
めちゃくちゃに素っ頓狂な声が出て、その人物と目が合った。
そう、体裁としては個人経営の小さな宿に、男女別の浴場など用意する余裕はないのである。
月明かりの下、たわわに実った双丘が照らし出されていた。これでもかというほどの暴力的な滑らかな肉体美。
月の女神がそこにいた。
「――こんな時間にどうしたの? もしかして、会いに来てくれた?」
女神は一糸まとわぬ姿で屈託なく笑った。セージは叫んだ。叫んだつもりだった。実際には情けない声がすきま風みたいに出ただけだ。次いで慌てて屈んだ。明日にでもひとつの都が終わろうとしているこんなときだって、反応はしてしまうものらしかった。
みっともないやら情けないやら、セージはしおれた声で応えた。
「……偶然です」
「本当に?」
「…………本当だから。その、なんていうか――からだを……隠してくれると助かるんだけど」
「どうかなあ。気配察して来てみたんじゃない? きみ、急に勘が鋭くなったでしょう。隠してるみたいだけど。それに、ぼくのこと好きでしょう? 人の好意には敏感なんだよね」
この街に来て以来、聞き馴染んだ声。それよりか少し悪戯っぽくて、蠱惑的で、倦んだ自棄が混じっている。それだけに別人のようだった。
それもそのはずだ。
彼女は、平時から別人を演じているのだから。
「それにしても、驚かないんだね」
「……女だったってこと? そこは驚かないよ。――レオ」
ちらりと目線を上げて、すぐに顔を伏せた。身体を隠すつもりなど毛頭ないようで、豊かな髪をさっとかき上げる仕草だけが一瞬、見えた。
「ふうん。けっこう複雑な呪術がかかってるらしいんだけどな。この都ごと。さすがだね」
「さすがって」
「深い意味はないよ。あるけど。――あっ、そうだセージ、いいこと思いついたよ。せっかく若い体を持て余したはだかの男女がいるんだし、セックスしない?」
「……――は?」
何をばかげたこと、ていうかどうして今? 興味はあるけどいやそうじゃなくて、なに言って、そもそもそんなこと言う人じゃない、もっと言わないといけないことが、そう、訊かないといけないこと、女神のごとく神秘を感じさせたそれについて、それはセックスじゃなくて、いやいやそこから離れろ、そうじゃなくて、やりたいかやりたくないかで言えばこんなチャンスはおそらくなさそうで、だから違
「ぼくね、処女なんだ。こんな生活してたから、そりゃそうだよね。だから、さいごに」
囁くような甘い声をなるべく意識しないようにして、いま一度、セージは視線を上げてレオを見た。
仄かに青い燐光の散る視界。月の女神を思わせる冷たい光の正体。
「レオ、それ――」
見えているの、気付いていないわけじゃないんだろう。
キャスケット帽で隠れていたレオの額に生えた一本の角は、異端の神秘を形にして青く、碧く輝いていた。
次回、レオとラズワルドの昔のお話です。




