ep.1 最強幼女とエセ少年将校
まずは、彼らの話からはじめましょうか。
夕刻、巨木の立ち並ぶチュイレーンの森。
その中のやや抉れたようにぽっかり拓けた場所で、少年は「修練」と称された死闘を繰り広げていた。
力強く地面を蹴り出すと、半径一メートルほどの地面が陥没した反作用に身体は天高く宙を舞った。
「――いっ」
予想外の高さに悲鳴を上げそうになるも、状況がそれを許してくれない。下方に見える頭と尾ばっかりバカでかい迷彩色の爬虫類の尾が迫っている。何メートルくらいあるだろう。はしご車のはしごの最大長くらいはありそうだ――などと考えていたら、ジャキン! という音がして巨大な尾に刃が生えそろった。マジかよ。聞いてねえ。というか、この状況のなにもかも聞いてない。
「ギャオオオオオオオオオオオオオォォォ」
巨大な頭と尾の爬虫類――反り立つ真贋蜥蜴が小さな一軒家ほどの大きさの頭を持ち上げて咆哮した。悪趣味な金色に輝く刃の尾が目の前を一閃して総毛立つ。ぎりぎり鼻先をかすめていった。地面を蹴り出してからまだ上昇しているから避けられた。やがて減速する。放物線の頂点で感じる浮遊感。こんなふうに空中で停止することは捕食者にとって格好の餌食となる。やっちまったなあ、と嘆くより先にまずは姿勢の制御か。身を縮め、〈盗人の幸運加護〉の祝福儀礼済み将校マントを前に――
「……あ」
間に合わなかった。
刃の尾の二閃目が、マントと一緒に前に出した左腕をかっさらっていった。
「い――あ、うわあああああああああああああ!」
今度こそ半狂乱に悲鳴を上げた。上腕の中ほどから先が切り落とされてすっ飛んでいくのを自分の血しぶきごしに見た。痛いなんて感覚じゃない。灼けるように熱い。燃えている。マグマに浸かっている。こんな感覚、絶対に慣れっこない。慣れてしまったら人間おしまいだ。
錯乱して姿勢を崩した体が頭から自由落下する。死ぬ。死んでしまう。
――決して、死ぬことはないのだが。
弧を描いて血をまき散らす左腕が落ちた先はまだ断面の瑞々しい大きな切り株の側だった。その木の膨れ上がった根に、薄桃色の髪をした花の妖精のごとく愛らしい幼女がちょこんと座っている。
「……主人にティータイムの支度のつもりですか? セージ」
幼女は鈴を転がすような声でため息交じりに呟き、いまだ鮮血のこぼれる腕を拾い上げた。切り株の上に置かれた空のティーカップを片手に持ち、まるで紅茶でも淹れるように腕の断面から滴る血を注ぐ。涼しい顔をして腕を放り投げ、赤黒い液体で満たされたティーカップに口をつけた。幼女の細い喉が嚥下に鳴った。
「うーん、美味しくもマズくもないというか。いちおう、人間の血の味なのですがやはり風味が……」
真贋蜥蜴が動き回る地響きの中、幼女は不満げに口を尖らせた。
「あんな低級神隷に何を手間取っているのですかね。いつまでもうるさいのです」
ジト目で見る先で、真っ逆さまに墜落した将校風の出で立ちの少年が追撃を避けるべく再び飛び上るのを認めた。なるほど動き回れる元気があるなら介入は不要――とばかりに再び木の根に腰を下ろそうとした矢先のことだった。
異様な光を漏らし始めた真贋蜥蜴の巨大な口が少年を向いている。
『ライラ!』
耳元から声がした。正確には片耳につけた魔素結晶石のピアスからだ。
『なんかヤバそうなんだけど! これなに!? すっげえ光ってんだけどなにこれ無理死ぬ絶対死ぬ』
幼女は額をおさえて大きなため息を一つ、呆れたように首を振った。低級神隷は通常物理攻撃以外の手段を持たないが、稀に粗い魔法攻撃を繰り出す個体がいる。どうやらそれに当たってしまったらしい。少年の身体は宙に舞って格好の的。だからあれほどむやみに空中に飛び出すなと言ったのに。さりとて死ぬことはないだろうが、行動不能に陥ったのを引きずって宿まで帰るのも回復するまで待つのも好ましくない。
「……仕方がないのです。まったく情けない」
トン、と幼女が軽く地面を蹴る。その軽い衝撃とは裏腹に弾丸のように宙へ飛び出し、火花を散らしながら素早く空中を蹴って方向転換を二度三度、風の速さで真贋蜥蜴の上顎の上空に躍り出た。光球の形成されつつある真贋蜥蜴の口を両足を鉄槌に上から蹴り閉じ、その勢いのまま頭を地面に叩きつける。
ただでさえ抉れた地面が派手に陥没するのを少年は見た。衝撃が辺りの木々を揺らし倒すのを爆風に煽られながら見ていた。朦朧とかすむ視界の中、行き場を失くした光球が真贋蜥蜴の身体を内側から爆散させるのを目撃し――やがてふつりと意識を失った。
少年の名はセージ。
幼女の名はライラ。
戦火の絶えないこの世界で、世界平和、あるいは世界征服を目指して旅する人でなしの二人組だ。
☆
どれくらい意識を失っていたのだろう。
横っ面に鋭い衝撃を受けて目を覚ました。
ということは、おそらくそう長い時間は経っていないだろう。
「――起きるのです。あんぽんたんのおたんこなすび」
鈴の音の声が軽やかに罵倒するのを耳鳴りの中で聞いた。紗のかかった視界映る靴底。気の短い幼女――ライラに蹴り起こされたようだ。
「……もうちょっと優しく起こせない?」
血の味のする口を痛みをこらえつつ動かすと、声変りを経てなお高めの嫌いな自分の声がちゃんと出た。意識が戻ると全身の痛みが蘇ってくる。何度もバカでかい蜥蜴の尾に弾き飛ばされた全身の痛みとか、切り飛ばされた左腕だとか、頭から落ちて挫いた頸椎だとか。痛いことは知覚している。発狂するほどの痛みのはずだ。意識が戻った瞬間にもう一度気絶しかねない重傷の痛みは既に鈍く感じる程度に弱まっていた。
「動けますね?」
「……まあ、ひとまずは」
両手をついて上体を起こそうとしたバランスを崩して背中を打ち付けた。左腕。無いんだった。
気を取り直して右に重心を預けて起き上がるとライラが赤黒く得体の知れない何かを投げてよこした。わき立つ異臭に顔を背けるも、その正体がわかるとそうもいかなくなる。
「土の上に放置していたら鼻捻じれ虫がついたのです。臭いのです……はあ。最悪なのです」
「おまえそれ絶対わざとだよな? わかってて放置したよな……?」
鼻捻じれ虫は大きめの蛆がよじれたみたいな恰好をした屍肉食虫だ。食害された肉は漏れなく耐えがたい悪臭を放つ。切り飛ばされたセージの腕もご多分に漏れず、だ。
五臓六腑が揃って沈むような感覚に苛まれながらも断面の鼻捻じれ虫を払い、血管やら神経やらの管が足りない腕を探して蠢く左上腕の切断面に押し当てた。たったそれだけだ。針と糸も包帯もギブスも要らない。痛みも音もなく時間が逆再生するかの如く、腕はもとあった姿を取り戻す。
つくづく気味の悪い身体になったと思う。
「ふふ。順調に人間から遠ざかっているのです」
かがんで様子をうかがうライラが両頬に手を添えて愛らしく微笑んだ。薄桃色の髪を肩の上で揺らして左右には深紅のリボン。まん丸の目も春の日差しに向かい咲く花のようなピンク色。スカートまで似たような色で揃えて、しかし肩にかかるケープだけは裾の擦り切れた夜空色なのが肌の白さを強調している。
見た目だけならおとぎ話に出てくる妖精か天使の可憐さを持つこの幼女は、その実かつて人の世を震撼させた大罪人だ。
「遠ざかってるっていうか、もうとっくに人間じゃないと思うんだけど……」
対してセージはちょっと前まで地球の日本の田舎の港町であか抜けない高校生をやっていただけの少年Dみたいなものだ。Aですらない。
いかんともしがたい事情により、十八までに死ぬか別の世界か次元かに飛ぶ必要があった。
現実的に考えると十八になる前までに死ぬしかなかったわけだが、どういう因果が作用したのか別世界に来てしまった。異世界サニフェルミア。なんとも香ばしいファンタジー臭のするこの世界はドラゴンが亜人がアンデッドが精霊が多種多様な魔獣等々が跳梁跋扈する剣と魔法の異世界だった。
別の世界に行きたいとは願ったさ。
でも、人間やめたいとまでは願わなかった。
「ああ、せっかくの軍服が破れてしまったのです。マントは市場で祝福済みを謳っていただけあって無事なのです」
「……学ランね。ラズワルドに戻ったらまたトビアに直してもらうよ」
「そのための金はどこから出るのですか?」
「うっ」
「自分の食い扶持は自分で稼ぐと言ってからおまえはいくら稼いだのでしょう」
「そ、それは」
「今日の討伐依頼だって結局この私が達成したのです」
「……すいませ……――ん? いやちょっと待てよ、この依頼を案内所から取ってきたのってライラだったような」
「はあ! 情けない! こんなか弱い子供にしりぬぐいをさせて!」
「ちょっと大きめのワニみたいなやつだしまあいけるでしょうとか言ってたけど全然ち」
「ふんっ」
「うぐっ」
無防備なみぞおちにかかとを食らった。都合が悪くなるとすぐにこれだ。しかも一撃に容赦がない。
息が止まり悶絶するセージをよそに、ライラは両手の指を組んで祈りの舞でも踊るようにくるくる回っている。はたと止まって小首を傾げ、可愛らしくポーズをきめて切なげに息をついた。
「ラズワルドの都に着いてからというものの、生活にかかる費用はすべてこのライラ任せ……いわばおまえは幼女のヒモなのです。なんと憐れな……次代の吸血鬼真祖がこんなヘタレ男だとは! 高位神隷たる我が種族の存続が危ぶまれるのです」
「吸血鬼、真祖……ねえ……」
ぼそりと呟き、全身の痛みもすっかり引いたセージは首を左右に倒して状態を確認した。折れた頸椎は痛みも可動域も問題なさそうだった。物理攻撃に対する回復は早い。これが不死である真祖の再生力らしいが、魔法を浴びた場合はこうはいかないらしい。
「む。まだ自覚がないですね」
「おれは人間滅ぼしたいとか思わないし殺すのも無理だよ」
「ふん。だからって世界に平和を、ですか? おまえは今や人間から異種族と蔑まれ忌み嫌われる立場なのです。人間でないお前がどれだけ理想に骨を砕いたところでそれは無駄骨に終わるのです」
「――それは、おれが完全に吸血鬼になったらだろ。今はまだ人間だよ。――あの日、おまえに噛まれて血を吸われてから今日までずっと人間のままだ」
たとえ身体が異形に変化しても。
その身に異能を宿したとしても。
まだ、心は人間だ。
口を一文字に結び、不揃いな髪を払って立ち上がる。一度も振れずに落としたエレシド鋼の軍刀をベルトに刺し、黒の将校マントを翻した。
「セージ」
立ち上がってしまえばライラの目線はセージの腰より少し高いくらいだ。少し離れたその位置から、ライラは桃色の瞳を細めて試すように高らかに問いかけた。
「お前の名は」
「……呉井誓治だけど」
「お前の名は?」
ねめつける瞳にたじろいで言い直す。
「――セージ・ハルフィリア・クレイ」
「継いだ力は」
「罪業の焔」
「冠する罪状は」
「炎獄の夜」
「その身は誰がために捧ぐのです」
「……」
少しの間を置いて、セージはニッと笑った。
「この世界と、おれ自身のためだよ。――世界を台無しにする神様なんかのためじゃない。……帰ろう。おれはまた皿洗いでもして食わせてもらうさ」
陽の落ちて迫る夜気の中、そう言ってライラに背を向けて歩き出す。
格好がつく台詞じゃない。
それでも、あの港町にいた頃よりはずっといい。
いつか身も心も人間でなくなってしまうその日まで、神の隷下へと身をやつすそのときまで、ときにはみっともなく、願わくば格好つけて、人間らしく生きていこう。
「セージ」
呼ばれても、振り向かなかった。
「セージ! ――帽子! 忘れてるのです! あと私の荷物を全部持つのです! それからそっちはラズワルドじゃないのですこのとりあたま!」
……振り向いた。
本当、格好つかないなあ。
次回、「嘘つき魔女のイミテーション」
10/7までに更新予定です。