ep.15 きみの物語をはじめよう
だれの意思でもない、きみの衝動が、想いが、願いこそが、きみの物語を紡いでいく。
「いっこ聞きたいんだけど、おまえなんでベッド使わないの?」
「はい?」
ピンクの幼女、もといライラは首をこてんと傾げて目をきゅるんときらめかせた。
セージはその態度に不服そうに頬杖をついた。
「実は毎朝おれがライラをベッドに戻してるんだよね」
「です?」
「なんでベッド使わないの?」
「なのです?」
「なぜおれを敷布団に?」
「です」
なんだこいつは。
セージは憂鬱を吐き出し顔をこすった。なんだかなあ。釈然としない。隠されている。そりゃあセージだって隠しているし、おあいこだ。そういう約束だ。でも、もやもやする。それがひどく身勝手なもやもやだから、余計にもやついて、自己嫌悪で、悄然と肩を落とすのに行き着いてしまう。
思いたくない。
こんなにこいつのためにしてやってるのに、信頼されてないのかな、だとか。
思ってはだめだ。
おれがこんなに努力してるんだから、感謝してほしい、だとか。
そんなの、あいつと一緒じゃないか。
救いとは救いがたく、救う誰がためにはならず、いつだって救う当人しか救わない。どうしたってエゴイズムだ。宗教が神のために在るように、救いは救世主のために在る。
だからこそ、誰より己がために世界を救おうとしている。
そういう手はずだろう。
「あれ? ライラちゃん? 今日は診療所のお手伝いは?」
カウンター向こうの厨房で朝餉の片付けをしていたレオが不思議そうに問いかけた。ライラはふるふる首を横に振って、「ふられたのです」と言った。
「たしかに、今朝のエティは慌ただしかった気がするね。セージ、何か知ってる?」
「いや……とくには」
ライラ、なんかまたやらかしたんかなあ、とのんきに構えていた。それどころじゃない事態が水面下に進行していることなど、セージに知る機会は与えられなかった。今日は無銭飲食のぶんを埋め合わせに働かなくてはいかない。その前に、夢見るアヒル亭にいきさつを話してバイト休むことを伝えないといけないし、真贋蜥蜴の銀粘土が時間に融けないうちに鑑定士に見せにいく必要がある。ライラと夕方に落ち合う場所を決めないと、それからエティに返しそびれていたお金を返して。
たくさん、やることがあった。それがセージには嬉しかった。
セージはこの上なく充実していた。
「あいったたたたた、あー、ガンガンする。こりゃダメだな。おーい軍人あがり、今日はもう店閉めるから帰っていいぞ」
海辺の喫茶店、アタラクシアの料理長は額を爪を立てて押さえ、食器洗浄中のセージに声をかけた。
「……大丈夫ですか?」
顔は血の気がひいて脂汗がにじみ、壁にもたれ掛かって苦しそうな様子に、救急車呼びましょうか、と言おうとしてしまった。思いとどまって言葉を飲みこんだ。救急車。この世界にあるのだろうか。
「これが大丈夫に見えるか。つーか、あんたよく大丈夫だな。ここ一週間くらいでラズワルド中がこんな調子じゃないか。碧い竜の祟りだってよ」
「祟り?」
「生け贄を捧げなかったからだよ」
「……なんですか? それ。ていうか、碧い竜って、祟りじゃなくて、加護を」
「さあね。気が変わったんじゃないのかな。唄にもあるだろう。碧い竜は待ってるんだ。おとなう日のいつかを。この都の人間が差し出されるのをさ。まったく、穏やかじゃないね。数百年は平和だったってのに、なんで今なのかねえ。――そういうわけだから、軍人あがり、そのへん片付けたら帰っていいぞ。ご苦労さん。オルコットの嬢ちゃんによろしく言っといてくれ」
次からはちゃんと金持ってこいよ、と去り際に言われてつい背筋が伸びた。気を付けよう。気を付けようもないんだけど。財布は幼女に握られているわけで。
それにしても祟り、とは。魔法やら架空生物が幅をきかせるこの世界じゃ、そのくらいはありそうだけど。
「あれが、たたり」
碧い竜。
セージとライラに、はるか南の孤島からの脱出の手助けをしてくれた老竜。光の届かぬ深海から厳かな声を響かせ、小舟に古の加護を授けた大海の主。その姿こそ知らねど、かの者の威厳と慈悲深さはセージにも解することができた。見えずとも圧倒的な存在は、ここよりはるか南の海の底に眠っている。
彼は愚かにも人間を想いすぎていた。
まだ日の高いうちに海辺の喫茶店を追い出されたセージは、エティが身を寄せているらしい診療所へと足を運んだ。潮風に外套を翻らせて、軍帽を指先でくるくる回して。道の覚えには自信があるのだ。碧い竜の唄をくちずさみ歩いていくとほら、あった。
「…………静かだ」
休業中だったが。
ぴったり閉じたドアを呆然として眺めていると、聞き覚えのある元気な声に横面を張られた。
「なにさぼってんだよ、軍人」
ハイメだ。
「あたまおかしくなったからランカおばさんに診てもらおうってか? 手遅れだと思うけどな。オピウムの洗脳受けた後じゃアさ」
「……そんなんじゃないよ」
エティに会いにきたんだ、とセージは伝えた。ハイメは琥珀の目を糸みたいに補足してセージを睥睨した。
「なんでエティねーちゃんに? ねーちゃん、昨日から元気ねェんだけどひょっとしておまえがなんかしたのかよ。最低だな! クソヤロー」
「おれはなにも……?」
セージは首を傾げた。
昨夜のあの様子、気付かないうちに何かしてしまったのだろうか。
「どっちにしても、ここに来るのは無駄だぜ。ランカおばさんははやり病で倒れたし、エティねーちゃんは採集依頼でチュイレーンの森だし。昨日デカいのが討たれたから、その周りに不遵種がわんさか生えてるんだってよ」
ハイメはいけしゃあしゃあといつもの態度で言い終えると、花がしおれるようにしゅんとなって背中を丸めた。ひとけの少ない静かな通りに、その姿はいたく寂しそうだった。
ハイメは立ち去らなかった。口をつぐんでしばらくそこにいた。迷っているようだった。何度も石畳を蹴りつけて、逡巡と折り合いをつけているようだった。
折り合いがついたのか、不意に口を開いた。
「おまえさ、碧い竜って本当に人間に屈したんだと思う」
初めて聞く、ハイメの弱気な声だった。
「どうして異種族が、人間に加護を与えるようになったんだと思う」
「どうして――って」
それはきっと彼が、
「なあ軍人、数百年前の話だぜ。人間はやっと長ったらしい呪文と複雑な魔法陣で魔法を使い始めるようになった頃で、異種族の方が圧倒的に強くて、きっと碧い竜だって簡単に人間を皆殺しにできて、ラズワルドの街なんか簡単に滅ぼすことができたんだぜ。なのにどうしてたった一人の、魔法も使えない人間の戦士が、名前も残ってないような無名の戦士がさ、碧い竜を倒した、加護を約束させた、なんておかしいと思わねェ? ……なァ、軍人」
しばしの沈黙の間、ハイメは強く唇を噛みすぎたようだった。顎のあたりまで一筋、赤い線が伝っていた。それを強い海風が拭った。
「こんなに静かになっちまってさァ、ラズワルド。なんか、変だ。おかしいんだ。五年前に、レオが選ばれてから。――あれからさ。やっぱりだめだったんだ。おれたち、都のみんなで守ろうとしたのに」
この都には隠された事情がある。
セージも薄々感じないことはなかった。都の人々のレオに対する態度。郊外の宿屋の主人でしかないレオのことを、街の人はよく知りすぎている。誰も彼もが好意的すぎる。レオの人徳のなせるわざなのだろうと都合よく解釈していた。聖女様、という呼称だって、類稀な端正な容姿と柔和な人柄のゆえんなのだろうと。それゆえにレオは愛されているのだと。
ライラによって喉に血を流し込まれてから、ぐんと吸血鬼真祖としての能力が表出しはじめた。制御の効かない、迷惑なほどに聞こえる聴覚だとか、酔いそうなくらいに見える目は、とうとう都が隠している秘密を暴き出した。セージが妄想した設定は奇しくも的を得ていた。補足された内情は気持ちの良いものではなかった。
だから、ずっと妄想のままでよかったのに。
「ごめんな、ハイメ」
ほかにかける言葉が見つからなかった。ハイメは不安を吐露したくて、でも都の誰にも言うことはできなくて、何も事情の知らないセージにぶつけたのだ。
この都の誰しもは、迫りくる現実から逃げ続けなくてはならない。それが五年前から敷かれた、碧い竜の都の掟。
ハイメはセージの意図するところがわからずに目をぱちくりさせた。半開きの口が何かを言おうとうごめいて、しかし言葉は紡がれなかった。
「ごめん。おれ、全部知ってて。レオのこと。ラズワルドのこと。バ、バル……バルデラス家? のこととか。でも、知ってちゃいけないんだろ? 部外者は。だから」
知らないふりをしていた。わからないふりをしていた。その方がこの都のためになるから。そう振る舞うことが求められているから。そうすることで小さな世界の幸せは保たれる。それが望まれているから。
ライラは来たる事件の仔細を語らなかった。
レオ完璧に秘密を守り通した。
都は来たる災厄の可能性を怖れて徹底的に隠蔽した。
だったら、この街にこれから何が起こるのか、おれは知るはずないだろ。能天気に毎日を過ごす亡国の少年将校であり続けるだろうし、うだつのあがらない吸血鬼真祖の半端な後継にすぎないってわけだろうが。
昨日までと同じように、何も知らされないのであれば、何も変わらないのであれば、こんなふうに踏み出しはしなかったけれど、こうして綻びの糸を引いてしまった。
「ハイメ!」
半身になって後ずさるハイメに、セージは声高に叫んだ。
「おまえがおれのことよく思ってないのは知ってる! それでも、おまえがおれに話す気があるなら全力で助けるよ。そんなふうに話すなら、わかってるんだろう。この都は、ラズワルドには、このままじゃ未来がないって」
ハイメは直立不動で固まったままこちらを見ていた。こいつが何を言っているのかわからない。そんな顔をしていた。
「なんで?」と、ハイメは問いかけた。
セージは笑った。きっとここは笑わなきゃいけないところだ。悠然と構えて、安心させてやるところだろう。自分がどれだけ不安で、心細くて、先を覆う黒い霧におびえたとしても。探る指先がいくら茨に裂かれたって、泥沼に足を沈ませたって、選ぶ未来がそんな悪路かもしれないって、いつもの安パイじゃないって、分の悪い賭けだって、何となく察してたってさ。
もう、それらしく言い逃れするのは終わりだ。
口角上げて、堂々としてやらなきゃいけない。
だって、子どもがこんなに泣きそうな顔をしている。
「そりゃあ、おれが世界を救うヒーローだからだよ」
さあ、幸せな夢から目覚めた心地はどうだい。
目覚めたのはほかのだれでもない、きみの意思だ。
きみ自身の衝動がそのからだを突き動かすのなら、今ここに、きみの物語をはじめよう。
準備はできたかい、異界の少年よ。
代役なんているはずがない。
きみが決めた。
台本はたったひとつ、きみの意思だ。
碧い竜の都を救う物語の主人公は、きみだ。
決別の時は近い




