ep.10 月の夜に竜が啼く
伝説が動き出す。
その朝、ヒナギク亭には朗々とした歌声が響きわたっていた。
「ひぃーとぉの、子らよ、ふくつーのーせーんしよー」
やっと十になったばかりの新聞売りの少年は、最後の新聞をヒナギク亭の主人に売り渡すとひとりがけのソファにどっかり座って小休憩を宣言した。脚をぱたぱたさせながら鼻歌を歌い始めてついには熱唱の域に達している。まぶたを閉ざし、いたく気持ち良さそうに歌っていた。
そんなハイメの様子をレオがいとおしそうに見つめている。
兄弟みたいだ、とセージは思った。
「きーよーらなる、みーたーまはこのむーねーのーうーちー」
ハイメが高らかに歌うのは碧い竜の唄と云う。ラズワルドに根付く民謡であり、古の伝承である。ラズワルドの民にとって、碧い竜はかつて討ち滅ぼした異種族の長であり、都を祝福をもたらした尊ぶべき伝説である。数百年の昔から唄われる碧い竜は、竜を屠った戦士は、今や実体のないおとぎの国の住人だ。
彼はまだはるか南の海の水底に、光も届かぬ深海の果てに息づいているというのに。
「ら、ら、ららら、らら……」
ハイメがぱっちり目を開けて歌うのをやめた。琥珀色の目がじろりとセージをにらむ。
「なんでまだいるんだよ、軍人」
「なんでって、まだ仕事の時間じゃないからだよ」
「あン? 軍人なら一時間前行動だろ」
ハイメはセージを目の敵にしている。その理由は、オピウムの軍人だから。だけではなさそうだった。ハイメは不服を目でレオに訴えている。セージの隣でにこにこ笑ってテーブルに頬杖をつくレオに。もどかしそうに口をへの字にして、我慢ならないとばかりに脚をばたばたさせた。窓から差す白い陽光にほこりが舞い上がるのが見えた。
「エティ姉ちゃんだってほかの客だってとっくに出ていくか、部屋に引っ込んで支度してるじゃないか。おまえはなんなんだよ。なんでここに居座るんだよ! 引っ込めクソヤロー、ちょっと顔がいいからってレオに手ェ出したらただじゃおかねえかんな!」
セージははて、と首をひねった。キャスケットのつばの下、ほえるハイメをほほえましく見つめるレオへ顔を向ける。
「レオ。ひとつききたい」
「うん? なにかな」
どう尋ねるべきか迷うための間を置いて、結局、直球で訊いた。
「……男なんだよな?」
「うん。そうだよ」
後光の差しかねない清らかな微笑みで即答され、セージはパン! と手のひらで額を打った。もうどうでもいいか。かわいいものはかわいい。美しいものは美しい。それでいいのだ。
ヒナギク亭に厄介になり始めて一週間が経っていた。
レオはかわらず聖女さまだし、エティはなんでかセージにだけ冷たいし、ちょくちょくヒナギク亭にたむろするハイメ少年には目の敵にされている。昼は皿洗いのバイトに精を出し、夜になればチュイレーンの森でライラの嗜虐趣味に付き合う毎日だ。こればっかりは財布を握られているので避けようがない。
でも、まあ、ひとまずは。
「平和だ……」
手慰みに軍帽を背負い袋に被せ、セージはぼやいた。
こうして小さな世界に完結して生きる限り、救うべき世界なんてどこにも見えやしない。しかし、これこそが健全なんじゃないか。安穏で幸福に満ちているのではなかろうか。そうして保守主義のデモ隊が脳内を席巻しようとすると、遠く南の孤島で息を止めた黒猫の声が聞こえた気がした。
「そうだよな」と、セージは背負い袋に声がけた。
ハイメはまだ不満に騒ぎたて、レオは仄かな切なさを帯びた瞳でその様子をいとしげに見つめている。
☆
銀色の月明かりのもと、レオは海辺に呟いた。
「ぼくは欲深いんだ、セスキ。きみたちと関わって初めて知ったよ」
憂愁と自嘲をないまぜにした声に呼応するように、さざ波は銀色に寄せては返す。レオはキャスケットのつばをぎゅっと掴んで下にひく。ひた隠しにする。ほかの誰より自分のために、それを見ないふりするのだ。
「ぼくはこの世界が好きだ。とても愛しくて、幸せで、けして手放したくないと思っている。汚いものは見ないでいればいい。聞きたくなければ耳を塞いでいればいい。そうしていれば、ぼくの手の届く範囲は、なべて穏やかにでいることができるんだ。人間として幸せを享受することができる。そしてそれがぼくたちの正解だ。でも」
レオは首を横にふった。
「この世界は歪んでいる。気付いてしまったからには引き下がれない。ぼくは歪みを正したい。世界をあるべき姿に戻したい。セスキ、ほかの誰でもないこのぼくがそう思うのは神の意志か?」
ひどい眠気がすっとひいて寝付けない夜がある。日がな子守唄を歌い続ける睡魔がなりをひそめるそのときは、決まってこんな月の冴えわたる真夜中だ。銀色の波を介して彼らと会話のできる碧い夜だ。そんな夜に、レオはベッドを抜け出して誰もいない海沿いに立つ。薄青の竜の涙に飾られた柵にもたれ、伝承の果てに実体をなくした彼らに言葉を紡ぐ。
「でも、相変わらずぼくにはなんの覚悟もないんだ。五年前に君たちと出会ってから、何も変わっちゃいない! なんにもなかったふりをして、変わらないふりをして、ただただ時間を引き伸ばしているだけだ。でも、そうして得る日々がぼくには愛しくて仕方がない! その一方で、日々を構成する世界の歪みに吐き気がする! 憎いとすら思ってしまう! ねえセスキ、どうして選ばないといけない? あるいは、すべてを捨てないといけないの? ――ああそうだよ、言ってるでしょう、ぼくは欲深いんだ。あれもこれも叶えたくて、何かを選ぶなんてできやしないんだよ」
いつだって同じ結論を月光を返す海に吐き捨てる。さざ波は慰めるように月明かりに踊る。波の狭間の奥底に潜む存在の声はこの街の誰にも聞こえない。たったひとり、頭を抱えてうずくまるレオは以外には。
竜が啼く声を聞くのはレオだけだった。
「ねえ、セスキ。セスカルはあとどれくらいもつの?」
銀色の波がちかちかと瞬いた。
「ぼくはあとどれくらい、ぼくのままでいられるの?」
南の彼方から吹く温い潮風がレオの頬を撫でる。それはけして答えを返すものではなく、いたわるためだけの優しい指先だ。
レオは皮肉に口の端を吊り上げた。普段ならだれにも見せない表情だった。
「きみはセスカルをばかだと思ったことはないのかい? あわれに思ったことはない? ――セスカルは後悔に嘆いたことはない? ぼくたちを憎く思ったことはなかった?」
月がたなびく雲に陰る。銀色の光が遮られる。海は夜闇の紺碧と同化してレオの言葉を優しく抱きとめた。それが悔しいほどに腹立たしくて、レオは冷たい柵を殴りつけた。
碧い竜。伝承。伝説。今は遠い悠久の昔、幻に消えた海の王。偉大なる加護とその名だけを人の歴史に遺した彼は、本当に人間に屈したのか。
その答えを、この都でたったひとり、レオだけは知ってしまったのだ。
「聖女様だなんて、お笑い種だよねえ」
本物の聖女はこんなふうに感情を荒立てはしないのだろう。浅ましい人間の葛藤や煩悩とも無縁なのだろう。
向いてないや。
レオは薄く笑って夜の海に背を向けた。
☆
「セージ、おまえ、ぜんっぜん集中できてなかったのです? いつもゴミのようですが、今日は肥溜めに捨てる価値もないゴミのようなのです」
夜半、チュイレーンの森をヒナギク亭へ帰る路にライラが涼しい声で罵倒を放った。毎夜ピンクの幼女にタコ殴りにされ説教され罵倒されていると、いずれ変な趣味に目覚めてしまいそうな気がする。気をしっかりもたないといけない。
「いや、なんかずっと変な音? 声? みたいなの聞こえてて」
「余計な音を拾っているくらいなら私の動きをちゃんと見てください」
「そう言われても、なんかすげー訴えかけてくるっていうか」
「おまえの服の修繕費で稼ぎがとぶなど馬鹿らしいことこの上ないのです」
「うーん……」
セージはわざとらしく考えるポーズをとった。
「ライラが人のからだを切り飛ばさなくなればいいんじゃないかなあ」
ライラは舌打ちを返した。セージの頭の上から。例によってこの幼女は頑なに自分の足で歩こうとしないのである。少なくともセージがいるときはそうだ。セージをセグウェイ的な何かだと思っているのかもしれない。
「減るもんじゃないのです」
ライラが指を鳴らす小気味よい音を響かせた。間を置かずして斜め前方の茂みから火の手が上がる。同時に断末魔。明るい橙は刹那に襲撃者の命を奪って灰に変えた。
「それに、こうやって森の中でおまえの身を守ってやっているではないですか……はあ……なんて優しいのでしょう。こんなに慈悲深い乙女を肩車できるとは、セージは幸せものですね……」
「そうか。早く本当の優しさが身に着くといいな」
意識が飛ぶまで苛烈な暴行を加えるようなやつを優しいとは言わない。
「……まただ」
苦笑いにうつむいた顔を音のした方にむける。潮風の流れてくる方向。海の方から聞こえる咆哮にも似たそれは、意思と感情をのせて嘆いているようだった。だれかに向けられたメッセージのようにも聞こえた。
「ふむ。……これはこれは。ふん……」
「なんだよ、ライラだって聞こえてんじゃんか」
「聴こうと思えば、です」
「ずっる」
「修練なさい」
ライラがセージの頭上で静まり返った。耳を澄ましているのか、何かを考えこんでいるのか、あるいはその両方か。ライラが再び口を開いたのは、それからしばらく経ってのことだった。
「……セージ。起きますよ。おまえの望んでいたことが」
「望んでたこと?」
ライラの声は期待と寂寥が混ざって、恋するような甘さを多分に含んでいた。
「派手な事件です」
次回、11/5までに更新できればと思います。
2018/11/5追記
まことに恐れ入りますが、見直しのため更新延期させていただきます。今週末には更新させていただきますのでしばらくお待ちください。




