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やり直したいことと流産の記憶

流産の話です。ご注意ください。

 はい、夢ではありませんでした!


 タイムスリップしてきてから、今日で6日目。

 さすがの私も、これは現実であると受けとめざるをえなかった。


 今日は土曜日、小学生として学校へ行き、午前授業を終えて先ほど家に帰ってきたところだ。


 余談だが、完全週休2日制が始まったのは私が中学1年生の時。小学5年生の今は、土曜日は隔週で午前授業だ。社会人になってからはともかく、中学、高校時代は完全週休2日制が当たり前だった世代としては、地味につらい。


 話を戻して。このまま元の世界に戻れることなく、また小学5年生から生きていくしかないのなら。これまでの人生を振り返って、後悔していること、やり直したいことは、たくさんある。


 例えば、学生時代は、大学時代を除いた小学校、中学校、高校とずっと交友関係で苦労したから、今度は、友達いっぱいの穏やかな学校生活を送りたい。


 高校も大学も就職も、第一志望には入れなかったから、リベンジしたい。


 小学5年生の頃から英会話教室に通って、高校も大学も語学系の学部に進学したくせに、結局英語を話せるようになれなかったのがコンプレックスだったから、英語を話せるようになりたい。


 家事がろくにできないまま結婚して、苦労したから、家事スキルを上げたい。


 成長するにつれていつのまにか忘れていた、子供の頃の「小説家になる」という夢を追いかけたい。


 などなど。

 過去を変えてしまって良いのだろうか? 未来に多大な影響を与えてしまうことにならないか? という考えが一瞬頭をよぎったが、せっかくやり直せるチャンスがあるのに活かさないなら、タイムスリップしてきた意味がない! と思い、気にしないことにする。


 どっちにしろ、自分の過去の1日1日全てを覚えているわけではないから、全てを完璧に繰り返すなんて不可能だし、私の人生が少し変わったところで、世界全体には大した影響なんて出ないだろう、一般人だもん!

 

 やり直したいことは色々あるけれど、私にとって最大にして最重要なのは、もちろん、流産を回避し無事に子供を産むということだ。


 私と、大好きな旦那さんと、子供。子供はできれば、2人か3人のきょうだい。

 特別な贅沢はできないけど、幸せな家族。

 これが、幼い頃から漠然と持っていた、私の幸せな結婚へのイメージだった。


 もし、私か夫のどちらか、または両方が、子供ができにくい体質だというなら、話は別だ。

 それは、個人の希望ではどうしようもないことだから。

 しかし、身体上はまったく問題がないのに、子供を作らないという考えは、私にはなかった。


 流産を回避するには、一体どうしたら良いのだろう。


 あらゆる臭いで気持ち悪くなり、何も食べられず、食べては吐き、飲み物も吐き、空腹でも吐き、点滴をしてもらって、それでも吐いて。でも、赤ちゃんのためと思えば頑張れた。


 それなのに。お腹の赤ちゃんが亡くなっていることが発覚したのは、そのつわりが少し治まってきて、母子手帳をもらってから初めての健診で浮かれていた、13週の妊婦健診の時だった。


 その時のことを、よく覚えている。


 やっと慣れてきた診察台に上がり、ウキウキでエコー映像を見ていたら、何となく今までより映像が不鮮明だったこと。


 先生が少し慌てた様子で、「あれ、11週でしたっけ?」と聞いてきたこと。


 看護師さんが「13週です」と答え、私も同意すると、診察室の空気が明らかに変わったこと。


「残念ですが、流産です。赤ちゃんは亡くなっています」と先生に宣告された時、私は泣きもわめきもせず、ただ淡々と「そうですか」と答えた。


 全然理解できてなくて、ただ機械的に返事をしただけだったのだけれど、冷静だと判断されたのか、手術のこと、手術代のこと、手続きのこと、火葬のこと、次々に説明された。

「赤ちゃんは、自然に身体から出るほど小さくないので、手術をして取り出す必要があります」

と言われた。また、

「すでに亡くなっている赤ちゃんをお腹にいつまでも入れておくのは、あなたの身体に良くないので、なるべく早く手術してしまいましょう」

とも。


 気がついたら、流産がわかった日の次の日には手術をすることが決定しており、私は言われるままに同意書にサインをした。

 流産そのものすら受け入れられていないというのに、手術代の支払方法だの、赤ちゃんの遺体を火葬しなくてはいけないだの、病院提携の水子供養のお寺のご案内だの、色々いっぺんに言われても、全然頭に入ってこなかった。


 ぼんやりしたままひととおり説明を受け、会計待ちをしながら幸翔(ゆきと)にチャットアプリで流産のことを報告し、携帯から視線を上げた時。


 周囲には、妊婦さん、赤ちゃん、幼児ばかり。当たり前だ。産婦人科だもの。


 皆幸せそう。羨ましい羨ましい羨ましい。

 私のお腹の赤ちゃんは、これ以上大きくなることはないのだ。やっと、ほんのすこぉしだけ、お腹が膨らんできたばかりだったのに。まだつわり症状は、残っているのに。


 会計を終え、病院を出たところで、報告を見て心配した幸翔(ゆきと)から電話がかかってきた。それまで我慢していた涙があふれて、とまらなくなった。家までの道を歩きながら、私は泣きながら話した。赤ちゃんがすでに亡くなっていること。明日手術すること。


 行きはつわりで辛かったし、無理したらいけないと思うからか、全然歩けなかったはずなのに、流産していると知った途端、歩けるのが不思議だった。体力は落ちているけど、貧血でふらふらするけど、かまわず歩いた。泣くのに忙しいせいか、気持ち悪さがかなり治まっていた。それに気づいて、また泣けた。


 歩きながら電話しながら、涙も鼻水もたれ流して盛大に泣いている私を、すれ違う人達は奇妙に思ったかもしれないけれど、私にはそんなことを気にしている余裕などなかった。


 徒歩15分の家までたどり着く頃には、だいぶ落ち着いた。幸翔(ゆきと)は仕事中だから邪魔をしてはいけないと思い、大丈夫だと言って電話は切った。いっぱい泣いてたくさん話したから、大丈夫だと思っていた。

 でも、家でひとりでリビングにぽつんと居たら、ふいに隣の部屋の子供の声が聞こえて、耐えきれなくなって、実家の母に電話した。自身のマンション住まいをこれほど恨んだ時はなかった。


 母と電話で話しながら、またわんわん泣いた。きちんとした説明なんて当然できなくて、「赤ちゃんが死んじゃった」、「明日手術だって」、「どうして」をただひたすら繰り返した。


 流産手術の日。

 自分の赤ちゃんは亡くなっているのに、妊婦さんがたくさんいるところ、つまり産婦人科に行かなくてはならないのが、何より辛かった。

 幸翔(ゆきと)が朝、会社に行く前に病院まで付き添ってくれたし、家から1時間ほどかかる隣の県に住む母も朝から来てくれて、ありがたかった。


 病院に行くと、前日夜から何も食べたり飲んだりしていないか確認された。膀胱を空にする必要があるらしく、トイレに行くように指示された。


 その後、エコー検査で赤ちゃんの心拍がないことを改めて確認された。もしかしたらというわずかな期待は、ここで完全に打ち砕かれた。


 続いて、股にひんやりした器具を無理やりぐいっと突っ込まれた。後でインターネットで調べたところによると、子宮頸管を拡張させる処置らしい。数時間かけて徐々に拡張させるため、手術開始の時間まで何時間も、お腹の鈍痛が続くことになった。


 手術室に入ってからは、あっという間だった。

 麻酔があっさり効いて、先生方と一緒に「いち、に、さん」と数えているうちに、私はコロッと眠った。そして、目が覚めたら手術は全て終わっており、ベッドに寝かされていた。

 

 ぺったんこに戻ったお腹を見て、ああ、もう、私のお腹に赤ちゃんはいないんだ、と実感してまた泣いた。


 たとえ赤ちゃんが亡くなっていても、お腹にいた時はまだつわりがあったのに、流産手術をしたらぴたりとつわりが止まったことも、全然嬉しくなかった。


 赤ちゃんが生きていてくれるなら、つわりがいくら続いたって良かったのに。


 手術後は2週間ほど、ぎゅーっと絞られているような腹痛と悪露(おろ)に苦しめられた。


 腹痛は、赤ちゃんを育てるために大きく拡がった子宮を、元の大きさに収縮させる薬によるもの。悪露(おろ)とは、身体が妊娠前に戻る間に子宮内から排出される、生理のような出血のこと。


 つわりの時のように常に船酔いしているような吐き気に悩まされているよりは、重い生理痛のような痛みの方が、身体的にはかなりマシなはずだけれど、自分がもう妊娠していないことを突きつけられているようで、辛かった。


 出産してないのに悪露(おろ)って何なのよ、と誰に対してなのかわからない怒りがわいた。


 腹痛と悪露(おろ)がすっかり治まり、身体が回復すると、すぐに食欲が戻った。


 妊娠前、身長159センチ、体重45キロだった私は、つわりで39キロまで体重が落ちていた。それが、流産手術をして1ヶ月経つ頃には、44キロまで回復していた。ほぼ元通りである。


 家族は喜んでくれたが、私は悲しかった。

 私の赤ちゃんは死んでしまったのに、どうして私はお腹がすくんだろう。どうして、生きようとしているのだろう。そう思って。


 この頃、どうして赤ちゃんは死んじゃったの? とよく考えた。


 妊娠前は、まだ仕事もしていて、ちょうど忙しい時で、栄養バランスも生活リズムもめちゃくちゃだったから?


 つわりで、全然食べられなかったから?


 つわりよ早く終われ、なんて思ってたから?


 つわりがきつくて実家に1ヶ月くらいいたけど、実家の猫達がいけなかった?


 つわりの時期が夏ではなくて、春とか秋だったら、何か変わっていただろうか?


 3月生まれ予定じゃ、ただでさえ学年で一番小さいから心配なのに、私に似たら鈍くさい子になりそうで余計に心配だなあ、なんて思ったから、赤ちゃん、生まれて来ちゃいけないって、気にしちゃったのかな?


 13週での流産だったけど、「13週にしては小さ目だから、11週か12週で亡くなったのかもしれません」と先生に言われた。じゃあ、1週間か2週間早く病院に行っていたら、この子は助かったかもしれないのかな?

 私が、兆候を見逃した?


 妊娠してから初めて病院を調べて、家から近いのとネット予約ができるのだけを理由に、その病院に通うようになったけど、もっと良い病院をきちんと調べていたら、こんなことにはならなかった?


 流産の多くは、妊娠12週未満に起こる早期流産。早期流産の原因の多くは、受精卵の染色体異常で、未然に防ぐことはできないらしい。


 「早期流産」であり「あなたのせいではない」と先生には言われたけれど、13週で流産発覚だと、もしかして早期じゃなくて、母体(私)に問題があったんじゃないか?


 毎日のように泣いていた。


 赤ちゃんに会いたい、でも会えない。もしまた妊娠できたとしても、その時お腹に来てくれた赤ちゃんと、今回流産してしまった赤ちゃんは、別の子だ。再び妊娠できようとできまいと、もう二度と、あの時流産してしまった赤ちゃんには会えないのだ。


 悲しい、悲しい、悲しい。また、妊娠したい。子供がほしい。でも、あの子はもう戻ってこないのに?

 でもでも、このまま子供がいないままなのは嫌だ。


 私はどうしたら良い? どうしたら。


 救いを求めて、1日中スマートフォンとにらめっこして、「流産」のキーワードで検索しまくった。そして、流産経験をした人達のブログを読み漁るようになった。


 人それぞれ原因も時期も様々だったけれど、流産手術の後、赤ちゃんの遺体と対面して写真を撮ったり、お洋服を着せてあげたり、火葬に立ち会ったりしたというエピソードが意外とたくさん出てきて、そういえば私はそういうことを一切していないと気づいた。


 赤ちゃんに一目会いたかったな。


 11週から13週で流産じゃ、まだきちんと身体が形成されていなくて、まだ人間らしい形をしていなかったかもしれないから、そんな胎児を見せたら母親がショックを受けるかもしれないと、先生も気を遣ったのかもしれない。

 考えたくないけれど、出産ではなくて、亡くなった赤ちゃんを母体から掻き出す手術なわけだから、そもそも綺麗な形をしていなかったのかもしれない。


 それでも、私達の子供なのだから、会いたかった。病院も、せめて会うか会わないか私達に選ばせてくれれば良かったのに。もしくは、会えないならその理由を説明してくれるとか。


 だいたい、手術の同意書とか、手術費用に出産一時金を使えますとか、火葬手続きの書類とか、そういうのは訊く前にすぐ出してくるくせに、手術内容の説明もろくになかったし、水子供養のお寺の場所もこっちから訊くまで説明がなかった。それってどうなの?

 ショックを受けてる上に初めての体験で不慣れな患者に対して、不親切じゃないの?


 そう言えばまだ妊婦だった頃、つわりがひどすぎて、食べても飲んでも吐くので脱水症状になってしまい、タクシーで病院まで来たは良いけど入り口でうずくまって動けなくなってしまったことがあった。

 あの時も、「健診でもないのに何で来たの?」とか「点滴はするけど入院できるベッドの余裕ないから終わったら帰ってね」とか「赤ちゃんさえ元気なら大丈夫ですよ」とか言われて、不快な思いをした。

 くっそ、あんな病院二度と行くもんか!


 お腹の中で亡くなってしまった赤ちゃん。

 まだ性別もわからない時だったから、名前も考えてなかった。

 それがいつしか、私は亡くした赤ちゃんのことを、弥生(やよい)ちゃんと呼ぶようになっていた。

 家族には、夫の幸翔(ゆきと)にさえ言ってないけど、1人で勝手に決めて、勝手に呼んでいた。

 3月出産予定日だったから、弥生(やよい)ちゃん。

 女の子っぽい名前だから、男の子だったら怒られちゃうかもしれないけれど。

 男の子だったらちゃんづけなんて、怒られちゃうかもしれないけれど。


 弥生(やよい)ちゃん、産んであげられなくてごめんなさい。  

 

 弥生(やよい)ちゃん。弥生(やよい)ちゃん。弥生(やよい)ちゃん。


 弥生(やよい)ちゃんに会いたかった。いっぱいだっこしてあげたかった。おっぱい飲ませてあげたかった。かわいいお洋服着せてあげたかった。いっぱいいっぱい、大好きって言ってあげたかった。


 弥生(やよい)ちゃん弥生(やよい)ちゃん弥生(やよい)ちゃん。

 

 まだお腹にいた頃よりも、流産した後の方が、弥生(やよい)ちゃんに話しかける回数が多くなっていた。


 初期に流産したために4枚しかないエコー写真を見ては、産んであげられなかったと泣き、1度も使われなかった母子手帳を見ては、弥生(やよい)ちゃんに会いたかったと泣き、買ったばかりだった妊婦向け雑誌を見ては、やっぱり子供がほしいと泣き、でもこんなにすぐ次の子を望んだら弥生(やよい)ちゃんに申し訳ないと泣き、近所の妊婦さんや子連れのお母さんを見ては羨ましくて泣き、おむつのCMを観ては出演する赤ちゃんの可愛さに泣いた。




 もうあんな思いはしたくない。


 私は流産してから知ったけど、人には妊娠しやすい体質と、妊娠しにくい体質というものがあるらしい。

 妊娠しやすいイコール絶対に流産しないというわけではないのはわかっている。

 ましてや、受精卵の染色体異常なんて、どうすれば防げるのかわからない。

 でも、父母の体質が赤ちゃんに影響することくらいは、想像がつくわけで。


 今のうちから、妊娠しやすい身体作りをしておこう、と思うのだった。

 まあ、小学5年生の春じゃ、妊娠どころか、初潮すらまだ来ていないけどね。

読んでくださっている方々、ブックマークや評価、感想をくださった方々、本当にありがとうございます。

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