第8章『祖国』
巻枝市・巻枝警察署。
オフィスには、異動組のための場所など満足になく、隅のほうに区切られた場所に小さくなっているしかなかった。
それでも与えられた職場に、恵まれていると感謝しなければならない。それぐらいなにもかもが不足していた。
壁際に置かれた長机についた加賀見央武は、両隣の同僚に気を遣いながらパソコンのキーを叩く。パイプいすを腰の座り心地が悪くて、ときどき姿勢を変えて。
まるで、悪い夢でも見ているかのようだった。
半年前――。
すべてはそこから始まった。
それは暑い7月の早朝のことだった。
寮で寝ているところを、ネットがダウンしたという知らせに飛び起きた。それがどういう意味なのか、しばらくわからなかった。
すぐに全員が招集され、警察署に出た。
それで、やっと意味が飲み込めた。
ネットの停止は、インフラの停止だったのだ。すべての活動がコンピュータによる管理にゆだねられた社会では、いったんそれが失われると、生活そのものが成り立たなくなってしまうのだった。
路面電車は動かず、クルマの混み具合によって制御されていた信号機も動かず、たかが署に出るだけでも一苦労だった。
そのような事態になるとは、だれひとり想像していなかった。
ウェアラブルは役に立たず、情報はなにも入ってこない。
復旧作業をしても、復旧した箇所から壊されていった。
状況はそれだけにとどまらなかった。
ネットのダウンと同時に隣国の軍が侵攻を開始したのである。
瞬く間に国防軍の各拠点を押さえられ、首都の政府機関も占拠された。これにより軍は動けなくなった。
国境より遠い町に駐屯する国防軍部隊が独自に反撃に転じ、国土全体の占領はまぬがれたが、国土の約半分は敵国の占領下となってしまった。
警察には住民の避難誘導の命令が下った。占領された地域からの脱出である。非占領地域への移動は、日頃訓練されたとはいえ、緊張感をもっておこなわれた。なにしろ敵軍が町に展開しているなかで、なのである。
戦時国際法では、非戦闘員に対しての攻撃や戦闘はおこなわない、という取り決めがあった。そのため安全を確信して避難を希望しない住民もいた。国境付近の町だと避難先が遠かったり、移動手段がなかったりで、短時間での避難が困難だった。警察としても、すべての住民に避難を徹底させることは、現実問題として不可能だった。
積極的に避難する住民は、戦時国際法がきちんと守られ、非戦闘員の安全が保証されるのかどうか不安がぬぐいされないからだった。避難希望の住民の移動が完了したのち、警察も非占領地域へ移動した。
各県知事と国防軍トップとで臨時暫定政府を掲げてどうにか国家体制を維持しようと勤めた。
両軍による戦闘は、ときどき思い出したかのように始まったがすぐに静まり、膠着状態となった。
そうして半年がすぎた。
季節はすっかり冬になり、また一つ年が明けた。
ネットはどうにか回復し、インフラはようやく復旧しつつあった。だがそれが非常に心許ないのも事実だった。人々は再び起こるかもしれないシステムダウンと隣国の侵攻に不安な日々を送っていた。
それでも毎日の生活はしていかねばならず、国民は、とりわけ占領地域から逃れてきた避難民たちは国が用意した仮設住宅に入り、懸命に日常へと戻ろうとしていた。
遅い正月休みが取れた。
刑事という職業がら、休みは土日祝というわけにはいかない。人が活動している限り、どんなときでも事件は起こるし、だれかがその対応をしなければならない。
加賀見央武が両親の元へ、遅い新年挨拶に出向いたのは、一月がもう終わろうとする頃だった。
竹露市から巻枝市へ避難してきた直後に仮設住宅に住むことができたが、父親は仕事を失い、雷司も行方不明ということもあって、すっかり心労がたたって体調を崩してしまっていた。
警察の寮になんとか入ることができた央武は、両親の住む仮設住宅に2ヵ月ぶりに訪れた。
県の運動場に建てられた仮設住宅街は、駅からも遠く、バスの便もそれほど多くない不便な陸の孤島のような場所だった。だからなのかもしれないが、すごく寒い。
今朝はとくに冷え込んでいた。最低気温は氷点下にまで下がり、太陽が高く昇りはじめたこの時間でも吐く息が白い。
央武は身震いし、舗装されていない運動場敷地に入っていく。
同じ形のプレハブ平屋建てがずらりとならんでいる。央武の両親がどの建屋に住んでいるのか、数回しか訪れていなかったので、いまだに住所がどこか迷ってしまう。
どうにかたどりつき、呼び鈴を押した。
「親父、いるかい? 央武です」
すぐにドアが開いた。
飛び出してきたのはミニチュアダックスフントのバニラだった。尻尾を振って、足下にじゃれつき、歓迎してくれる。
央武は、よしよし、と体をなでてやり、
「どう、具合は?」
父親に声をかけた。
「ああ、上がってくれ」
昼間っからネットを見るぐらいしかしていない父親は、どてらにスエットというラフな格好をしていた。
「早かったな」
「もう10時半だよ」
央武は靴をぬぎ、暖房の効いた部屋に入った。
「おふくろは?」
「買い物だよ」
「言ってくれれば、おれが代わりに買い物ぐらい――」
「買い物は女の楽しみなんだから、好きにやらせてやれ。まだ介添えがいる歳でなし」
2DKの間取り。両親が住んでいるとはいえ、数回しか来たことのない仮設住宅は、他人の家のような感じがして落ち着かない。
コートを脱ぎ、紙袋に入った手みやげのカステラをダイニングテーブルに置く。
父親はお茶をいれてくれた。
「仕事のほうはどうだ?」
「忙しいけれど、順調だよ。新しい仕事は見つからない?」
父親は湯気の立つタンブラーを央武の前に置いた。
「まだ見つからん。年齢のこともあるし、銀行員というのは、つぶしがきかんということを、思い知っているところだ」
父親は今年で57歳だった。銀行員として順調に勤め上げて、定年退職を迎えて――という人生設計が隣国の侵攻のために大きく狂ってしまった。ネットの意見を聞いていろいろと試みているようだが、現実はなかなか厳しく、就職先が見つからなかった。
央武は熱いお茶をすする。
「体調はどうなの?」
「体力が落ちてきているのを実感するよ」
父親は苦笑した。
「しかし、国から補助金がでているとはいえ、いつまでもこうやって家に引き込んでいるわけにはいかないからな。なんとかしないと」
仕事をしないと気が紛れない――。父親のその気持ちを、央武は理解した。
雷司はいまだ行方不明なのだ。両親はそう認識している。
思想警察に逮捕されたとは伝えられず、央武は心が痛んだ。
その央武にしても、最新の情報はなかった。
思想警察に捕まって更正施設にいる……はずだが、戸野山から聞いたその場所は、おそらく占領軍の管轄下にあるだろう。そこがどうなってしまっているのか、なんの情報も入ってこないし、想像もつかない。
その後、戸野山から連絡はない。どこでどうしているのかも不明である。
雷司さえ無事とわかれば……と、央武は父親の気持ちを想った。
生死が不明というのが、一番堪えている。
それが前向きに生きようとする気を萎えさせてしまっているのだ。
母親が帰ってきた。
「ただいま。あら、央武、もう来てたんだ」
靴を脱ぎ、膨らんだエコバッグを抱えてダイニングに入った。
あー、寒かったわ、と重そうなエコバックをテーブルに置いて、遠くからも目立ちそうなピンクのダウンジャケットを脱ぐ。
「しばらくいるの?」
央武に訊く。
「いつものとおり、夕方には寮に戻らないと」
明日は勤務がある。泊まっていくわけにはいかないのだ。
「やっぱりそうなの……」
残念そうな母親の声。雷司がいない今、二人だけになってしまった家を寂しく感じているのだろう。
「お仕事があるんじゃ、しょうがないわね」
警察官という職を理解してはいるものの、職業適正があるとネットで診断されたんだしと、無理に納得している様子だった。
「じゃあ、お昼はごちそう、つくるわ」
気持ちを切り換えて、キッチンに立つ。
「今日はどの食材が安いのか調べてみて、央武が帰ってくるからって言うと、ワーテルゾーイがいいって教えてもらったから」
ネットの意見はいつも的確だが、ときに驚くような答えをよこす。それでもそれに従うのが普通だった。
「ワーテルゾーイって、なに?」
「なんでも、ベルギーの料理なんだって。でも、写真を見るとおいしそうよ」
「初めてつくるんだろ?」
「そうよ。でもだいじょうぶよ。ウェアラブルが教えてくれるんだから」
「まだお昼には早いから、休憩してからにしたら?」
父が言う。
「じゃあ、下ごしらえをたのもうかしら。買ってきたネギとセロリと鶏肉を切って、それからタマネギとニンジンは冷蔵庫に入っているからそれも切ってちょうだい」
「はいよ」
昔から家事を手伝っていた父親には、下ごしらえなどなんでもないことだった。やり方はウェアラブルが教えてくれるし。母親と交代してキッチンに立つ。メガネ内蔵型のウェアラブルが作動していた。
ふう、と一息つき、茶を飲む母親。
「歳のせいか、最近、疲れやすくてね。ここへ住めるのはありがたいけれど、買い物が遠くていけないわ」
「いつか竹露の自宅に戻るまでの辛抱だよ。おれだって慣れ親しんだ職場に戻りたいし。早々に国防軍が反撃を開始して、占領軍を追い出してくれるさ」
ネットには具体的な情報はない。しかし軍の作戦が秘匿されるのは当たり前で、だれも疑問に思っていなかった。必ず取り返す、という国の決意だけはあちこちで見られ、それを信じて期待していた。
「そうなれば、なにもかもがもとどおり」
雷司もそのときは帰ってくる。SNSでかき込めば、そんな回答がたくさんよせられて励まされている。
「さあ、用意ができたぞ」
父親が切った食材をざるに入れると、今度は鍋をコンロにかける。まだ火はつけない。
「もう、いつでも作れる」
目に映るウェアラブルからのレシピにしたがって作れば、どんな料理でも簡単である。
「あら、まだご飯を炊いていなかったわ」
母親が立ち上がった。
「時間はあるさ。今日は息子が帰ってきているんだ。のんびりしよう」
「うん……」
でも雷司がいてくれたら。
その言葉を飲み込む母。
それがわかって、父は言った。
「きっとすべてうまくいく。なにもかもな。国を信じよう。だって、信じるしかないだろうが……」
信じるしかない。それがこの国民の一般的な意識なのだった。
曇った窓ガラスを通して雪がちらついているのが見えた。まだ春は遠いな、と央武は思った。
「央武、出動だ」
同僚の声に、央武は振り向く。
「空き巣だ」
「はい」
いすから立ち上がる。
両隣の同僚に「行ってきます」と挨拶し、邪魔にならないよう席を離れた。
こんな状態であっても、央武の刑事としての職務は継続していた。
戦時だろうが、別の警察署に間借りしていようが、犯罪が起きれば対処する。それが警察官だった。
コートを着込み、年かさの警部補といっしょに巻枝警察署を出る。
ネットが元に戻りきっていない今は、以前よりも明らかに犯罪が増えていた。国民が皆不安がって、自らの拠り所を求めているのだ。
国は団結を求めているが、呼びかけだけでは不安は解消されない。
早く日常が戻ることを願わずにはいられない。とはいえ、占領地域を取り戻すことは、今の国防軍では難しく、以前のような生活に戻るのは、そう簡単ではないだろう。
パトカーに乗って現場に向かうのは、央武を含め、4人の刑事だった。もう一台のパトカーには鑑識課の職員が機材を抱えて乗っている。
窓外に流れる巻枝市の風景を、央武は眺める。
軍用車が通りのあちこちにいるのが目についた。小銃を持った兵隊の行進。戦意高揚のためのプロパガンダが賑やかだ。
半年前にはなかった光景である。もともと戦時であったが、最近はよりそれを実感できる。ものものしい限りだ。
かつてはその存在を秘匿して活動していた思想警察も、最近では頻繁に見かけるようになり、国も公式に発表した。より従順になるよう国民に強く求めているのは、それだけ切羽詰まっている証だともいえる。
だが、多くの国民はそれを見て見ぬふりをしていた。国の指示に従っていれば、なにもかもが保証される社会に国民はすっかり慣れてしまっていた。そのため半年前の隣国の侵攻でもそれが政情不安につながることはなく、より強固な思想になってしまっているのだ。破綻するぞと言われ続けている国家財政に対して、国民になにかができるわけではないのと同じように。
央武でさえも、多少はそんな気持ちでいた。
――なぁに、だいじょうぶさ。そのうち国が打開してくれる。
むろん、根拠はない。根拠はないが、信じるしかなく、信じた。
サイレンを鳴らし、急行するパトカー。
途中で、黒いワゴン車とすれ違った。思想警察。最初は嫌悪感しか抱かなかったが、今では鼻持ちならないところは変わりなかったが、その存在を必要悪のような気持ちで諦観していた。
現場に到着した。
閑静な住宅街にある庭付きの一戸建てである。それほど広くはないが築三十年は建ってそうな古いデザインの住宅前にパトカーが停まる。
空き巣に入られた家はそのとき留守で、通報者は隣の家に住んでいる主婦だった。
「塀を乗り越えて入っていく高校生ぐらいの少年を見ました。ガラスを割って入っていったので通報しましたが、警察が来る前にまた塀を乗り越えて逃げていきました」
央武たち刑事に向かって、五十代とおぼしき主婦はそう言った。
「容疑者はまだ近くにいるかもしれんな」
と、警部補が言った。
家の者が帰ってくるまで警察であっても現場には踏み込めない。鑑識員は待つことになった。
警部補は連れてきた央武たち刑事3人に、容疑者を捜すよう命じた。
「わかりました」
容疑者の特徴を聞いて、その場を離れる央武たち。
三人はそれぞれ違う方角に散っていった。
央武は土地勘のない住宅街を早足で歩く。
この付近は、住宅街ではあるが、ところどころに個人商店と小さな町工場のある、昔から人が暮らしている地域だった。道は入り組んでおり、袋小路だらけだった。
容疑者はこの近辺に詳しいだろうと見ていた。そうでなければ空き巣に入らない。
平日の昼間の住宅街は閑静だ。紛れてしまうほど人は行き来していない。
央武は注意しながら道を行く。
ネイビーブルーのパーカーを着た、ジーンズをはいた高校生ぐらいの少年。おそらく近くに住む不良のひとりだろうと見当をつけた。
央武はときどき道に迷いながら通行人に聞き込みをし、容疑者の行方を追った。
雪混じりの雨が降り始めた。
傘はもっていなかった。央武は舌打ちし、空を見上げる。
冬の雨は冷たい。気温が急に下がりだした。
雨が降り出すと、いっそう通行人の数が減る。道ばたで目撃者を当たりにくくなる。
「くそ……」
悪態をついた。
また袋小路だった。
きびすを返して道を戻ろうとした。
と――。
前方の辻を横切った人影があった。
ネイビーブルーのパーカーとジーンズの若い男……。
――いた! やつだ!
央武は小雨の中を駆けだした。
辻を曲がると、そこもまた袋小路だった。30メートルほどで道は行き止まっている。
この地域は丘陵を開いて作ったニュータウンで、町中には起伏が残る。今、立っている場所は盛り土で平たくしたところで、袋小路の先は5メートルほどの擁壁の下を道路が通っていた。
逃げ道をふさぐように央武はゆっくりと容疑者に近づく。
「警察なんだが……ちょっと話を聞かせてくれないか?」
コートの内側から手帳を取り出し、提示する。犯人だと決めつけて追い込むような高圧的な態度ではなく、それでも毅然と対する。
こちらを向いたパーカーの内側が見えた。
その顔を確認した央武は我が目を疑った。
「雷司……」
間違えようがなかった。しばらく会わないうちに眼光が鋭くなったようだが、まぎれもなく弟だった。
思想警察に捕まって、糸亀島の更正施設へ収容されているということまでわかっていたが、今、どこでなにをしているのか、まったく情報がなく消息不明だった。その雷司が、目の前にいた――。
唐突な再会に、央武は語りかける言葉すら見つからない。
「久しぶり。にいちゃん」
と、雷司のほうから優しい声で言った。懐かしい声だった。
「今までどこへ行っていたんだ?」
央武はやっとのことで、そう質問した。
「更正施設から移送されるときに占領軍に解放された。それからいろいろあって、戸野山さんに誘われて、いっしょに活動している」
「戸野山……って……」
「にいちゃんの先輩だってね」
「今、どこにいるんだ?」
戸野山と最後に会ったのは、半年以上前だ。電車のなかで言葉を交わした。反戦グループに保護されていた雷司が、思想警察に連行されて更正施設に収容されているということを教えてくれた。
が、あれからなんの連絡もないし、こちらからも連絡がつかなかった。
戸野山も、いったいどこでなにをしているのか、まったくわからない。
「おれたちは今、隣国でいっしょに工作員をやっている」
「工作員……? 空き巣の通報があったんだが、それは……」
工作員として働いているということは、危険で違法な仕事もやらされているのか……。空き巣の犯人が弟だとは思いたくはなかったが――。
「おれはなにもしていない。留守宅に入って、出ただけ。おれにはなにかができるようなスキルはないからね。おれは攪乱役のおとりだよ。同じように、わざと見つかるような〝空き巣〟が周囲2キロ四方に4人はいる。今ごろ、実行役が思想警察の幹部の家のPCにアクセスして細工をしている最中だろうね」
犯人ではなかった。だが不法侵入と犯人幇助の疑いが残る。にしてもなんだって?
「思想警察……?」
央武は、これまで兄弟に降りかかってきたすべての災厄の根源であるその名をここでも聞き、難病に苦しむ患者のような気持ちになった。――もうこれ以上、関わりたくない。
「この国はもう行き詰まっている。にいちゃんも気づいているんじゃないか? 国民が考えない国は進歩しない」
「おまえ、なにを言ってるんだ?」
「半年前の大規模な侵攻で、おれはわかったんだよ、自分の生きる国はどこかって」
「じゃ、戻ってくるつもりはないのか?」
「戻るさ。この国が変わったらね。また大規模な侵攻作戦が開始される。そうなったら――」
「あのときは不意を突かれたが、もう対策はしてある。今は無理だけど、時期が来れば、きっと国防軍は反撃し占領地を取り返す」
雷司は悲しげにかぶりを振った。
「残念だけど、そうはいかないよ。反撃できる態勢でないのに、国にそんな期待を抱いても、その前に攻め込まれてしまう。ネットの声を信じちゃだめだ。自分の目でたしかめて。この国の姿を」
「雷司……」
以前の雷司ではなくなっていた。なにがあったというのだろう……。
「親父もお袋も心配しているぞ。戻って来い。ちゃんと高校に通って、まともな人生を送ってくれ。まだ間に合う」
手錠をかけてでも雷司を連れ帰りたい衝動にかられた。心配で憔悴している両親を見ているだけに、元気でいる姿を見せてあげたかった。
「それは無理だよ。一度思想警察に捕まった人間が、この国でまともに暮らしていけるわけがない」
それは――と言いかけて、央武は声がのどにつまった。最近の思想警察の動きは、以前に比べてあまりにも活発で、思想犯が検挙されたというニュースが流れない日は珍しいほどだった。
雷司が安心して暮らせるとは到底思えなかった。
「どのみち、おれはこの国にはいられなかった。にいちゃんにも迷惑がかかる。なにしろ刑事だし。刑事の弟が思想犯だなんて知れたら、にいちゃん、もう刑事をやってられないよ」
「…………」
央武は言葉が出ない。
「だいじょうぶだよ。もうすぐ戦争が終わって平和がやって来る。そうしたら、もとのように暮らせるよ」
弟は笑顔を見せた。
「雷司……」
「おれは必ず戻ってくるよ。そのために、今、がんばってるんだ。にいちゃんに会えてよかったよ」
「おれと会えることがわかっていたのか?」
うん、と雷司はうなずいた。
「現場ににいちゃんが来たことがわかったときからね。きっとひとりで犯人を捜そうとするだろうと思ったから、ずっと様子をうかがいながら話ができるチャンスを待ってたんだ」
央武はあきれた。刑事である自分よりも弟のほうが一枚上手だと知って。
「見事にはめられたな」
「これまでさんざんやられてきたからね」
自虐的な雷司の微笑。思想警察から狙われていると教えてくれた反戦グループ。反戦グループのアジトで待ち伏せしていた思想警察。解放された町で国防軍に拘束されそうなところを助けてくれた占領軍の工作員。常にだれかが先回りしていて、雷司は翻弄されてばかりだった。
「ミッション開始から2時間はたった。同時進行でいろんな計画が発動している。もうすぐだよ。じゃあ、元気でな、にいちゃん」
「もうすぐって、なにが――」
そのとき、ウェアラブルが鳴って視界の隅に着信を示すマークが点滅した。通話だ。
雷司は身を翻すと、擁壁の上から飛び降りた。
あわててあとを追う央武。
雷司は擁壁を器用に駆けおり、5メートル下の道路に到達しようとしていた。
そこには1台の青いセダンが止まっており、雷司と同じぐらいの年齢の少女がその側で待っていた。
「行くぞ、黒村」
下へ至った雷司はクルマに乗り込む。
黒村と呼ばれた少女は、擁壁の上の央武を見上げると笑顔でおじきをした。
央武は思わず一礼を返した。
少女が乗り込み、ドアが閉じると、クルマは急発進。
それを見つつ、央武は通話ボタンをオンにした。
警部補の声が言う。
「撤収だ。思想警察から連絡があった。捜査権が委譲される。署に帰るぞ」
そうだろうな、と央武は思う。なにせ、思想警察の幹部宅に潜入されたとあっては、通常の警察に任せるわけにはいかない。どんな被害があったかは知らないが、さぞや重要な機密事項に関することなのだろう。
かなり高度なセキュリティがかけられていたにもかかわらず、入られてしまったということは、入念な準備をしてきたに違いない。捜査攪乱までして。バックに軍がついているとなれば、それもうなずけた。
「わかりました、現場に戻ります」
央武はこたえた。
黒いワゴン車がすごい勢いで下の道路を通過していった。きっと、雷司が乗った青いセダンを追っていったのだ。
央武はワゴン車を目で追いながら、うまく逃げてくれよ、と心でつぶやいて通話を切った。
いつの間にか雨はやんでいた。
轟音がして見上げると、上空を、竹露市方向から接近してくる軍用機の大編隊があった。
にもかかわらず、町には警報も鳴らないし、迎撃ミサイルの一発さえ飛ばない。
空いっぱいに埋め尽くすほどの隣国軍の総進撃を目の当たりにし、央武は声を失った。
――これが、雷司の言っていた、『ミッション』の正体だったのか。同時進行で、と雷司は言っていた。あちこちで、央武の想像もつかないなにかがおこなわれたのだ。雷司も関わっていたミッションが。国防軍の無力化に、またも成功した……。
上空を低く通り過ぎていく大編隊は、圧倒的な光景だった。
央武は凍りついたようにその場で空を見上げていた。
それが祖国の「終わり」の始まりだった。
そして――。
戦争は終結した。
ふたつの国は統合された。
というより、一方が吸収された、という表現が正しい。組織的な抵抗はほとんどみられず、一方時に全土が占領されてしまった。その手際は見事なもので、まさしくあっという間の出来事だった。半年前のこともあって、国防軍は対策を施していたはずなのだが、それも筒抜けで効果はなかった。
こうして、ひとつの国が消滅した。
有史以来から今日まで、この瞬間にも、世界のどこかで政権が転覆したり新たな独立国が産まれたりして忙しい。
国が滅びるときは、体制が内部から瓦解していくときなのだろう。そこを他国につけ込まれる。その兆しはあったのだ。国民がそれに気づけないだけで――。この国の未来は、遅かれ早かれ、なかったのかもしれない。
だが、そこに暮らす人々は、国が消滅しようとも、今日も明日も生きていかなくてはならない。
復旧したはずのビッグデータも再び消失し、ネットからの支援を受けられなくなった人々は、最初のうちは混乱していたが、それもしばらくしたのちに徐々に終息していった。
祖国消滅から半月後――。
加賀見家は仮設住宅を引き払い、竹露市の自宅へと戻ることになった。
その日、引っ越しの手伝いに、特別に休暇をもらった央武も来ていた。
一時的な仮住まいのため荷物はあまり多くないから引っ越し業者を頼むこともなく、家族だけでできそうだった。
クルマに荷物を満載し、向かうのは半年ぶりの自宅である。
晴れてはいたが、まだまだ寒い冬の空だった。
道中、町の様子は、敗戦にもかかわらずそれほど沈んだ雰囲気ではなかった。というより、なにをどうしたらよいか、を判断できなくてもてあましているのだ。なにかをやろうという意思がある人だけがかろうじて前を向いて動いていた。
央武の両親にしろ、なにかをしたいという願望はそれほど強くない。これからの人生、日々時間を消費していくだけだろう。
ただ、なにか困難な場面に出会ったとき、ネットに頼れない不安が頭をもたげる。央武はそう思う。そして、両親はそれを思わないようにした。
竹露市に入った。
占領軍の車両が行き交っているが、それ以外は半年前となにも変わらない町だった。
いや、見た目は変わっていないが、それを見る自身の感じかたが以前とは違っているかもしれないと、央武は思った。
「ほんとうに帰ってこれたんだな……」
クルマを運転する父親が感慨深げにつぶやいた。
見慣れた町が窓外を流れる。
いくつもの交差点をすぎ、自宅が近づく。
同乗しているミニチュアダックスフントのバニラもそれがわかって身を乗り出していた。
そして、最後のかどを曲がって、無事到着。
「さあ、着いたぞ」
自宅の前にクルマを止め、父親がクルマを下りる。自宅を見上げた。
冬の日暮れは早く、赤くなった夕陽が沈もうとしており、白い自宅の壁面を朱に染めていた。
約半年ぶりに戻ってきた我が家。薄汚れたエアコンの室外機、塗装のはげかけている門扉、施錠された二台の自転車。なにもかもが家を出たときと同じで、時間の経過を感じさせるものは、サボテン以外は全滅していた鉢植えの草花だけだった。
つい習慣で玄関ドアにウェアラブルをかざして解錠しようとしたが、ネットの解錠システムが反応せず、ああ、そうだったな、とスペアの金属製鍵を取り出したとき、クルマを降りた母親の叫び声がした。
「どうしたんだ?」
振り返る父親。
「あ、あれよ……」
後部座席から荷物で大きく膨らんだボストンバッグを下ろした央武も、母親が指さす方向を見た。
鮮やかな夕焼けと太陽を背に、こちらに向かってくる人影があった。
ジーンズにダウンジャケットは見慣れない服装で、夕陽の逆光で顔も見えにくかったが、背格好だけでそれがだれだかわかった。
一瞬、信じられなかった。
驚きに見開いた母親の目から涙がこぼれ落ちた。
バニラが短い足を懸命に動かして、そのシルエットに向かって走り出した。
そのあとを追うように、目を射るような日差しのまぶしさに向かって、家族三人も駆け出す。
一足先に足下にたどり着いて尻尾を振りまくるバニラを抱き上げて、
「そろそろみんなが戻ってくる時間だと思っていたよ」
雷司はニヤリと笑みを浮かべた。
「ただいま」
帰ってきた息子を泣きながら迎える両親の背後で、央武は小さく笑みを送った。
「よっ、おかえり。おれも、そろそろおまえが帰ってくる頃だと思っていたよ」
「さすが刑事」
雷司は晴れやかに返した。
冬の陽が山の向こう側へと没し、薄暗い残照が徐々に暗くなろうとしていた。
そんな中、ひとつの家族が元の暮らしに戻ろうとしていた――。
その様子を、少し離れた場所から見守ってているハイティーンの少女がいた。口元に笑みを浮かべると、旧式の携帯電話を取り出し、コールする。
「あ、もしもし、棒野さん。加賀見くんは無事に帰りましたよ。わたしもこれから帰ります」
そして通話を終えると、近くに止まっていた青のインプレッサに乗り込んだ。
「あのまま加賀見くんを帰しちゃってよかったの?」
運転席の女が聞いた。
「べつに――」それに対して、少女はすました表情でこたえる。
「だって、近いうちに学校で会えるだろうし」
「じゃあ、わたしも――学校に戻ろうかしら」
含み笑いして、煙草の火を灰皿に押し付けると、エンジンをかける。
【完】
参考図書
「サバイバル読本」工藤章興著:主婦と生活社
「山菜採りの教科書」大海淳著:大泉書店
「潮干狩り」原田知篤著:文葉社
「山菜と木の実の図鑑:おくやまひさし著:ポプラ社
「警察官の仕事と資格」イーメディア編:三修社
「警察官の犯罪捜査マニュアル」田中一京:青年書館
「なる本 警察官」公務員採用試験研究会:週刊住宅新聞社