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第7章『侵攻』

 ここに収容されて、もう4ヶ月にもなる。

 季節は梅雨を過ぎてすっかり夏になり、セミの声を聞くようになった。

 ここへ連れてこられた当初、加賀見雷司はなにもわからなかった。もっとも、今でもなにかがわかったというわけではないが……。

 ただ、雷司が世間知らずの高校生で、社会で知らないことのほうが多いだろうとはいえ、この施設の異様さが他に例はないだろうとは容易に思えた。

 高い塀に囲まれた広大な施設が、こんな離れ小島の中に存在している……。

 かつて集落があったが今は過疎化のために廃村となった小島に、一般には知られることなく作られた施設――。仙人のように、俗世から隔たったこの場所に一生いなければならないのだろうか。

 最初は、そんな不安が胸に押し寄せてきた。

 いっしょにいた黒村理衣子とは離され、この施設のどこにいるかはわからない。べつの場所に移されているかもしれない。

 まるで刑務所のような場所に収容されている人々は、教官の指導と監視のもと、日夜農作業に駆り出されていた。ここで食べる食料を作っているのである。

 農作業が終わると狭い独房に入れられる。

 ネットには接続できた。タブレットという前時代的なインターフェイスを与えられ、ただし、こちらからのメールや書き込みは一切できないようになっていた。外部からの情報をただ、眺めるのみのネット環境は意外とつらいものがあったが、しばらくすると慣れてしまった。自らなにか意見を発しようとは思わなくなった。

 日々の情報の洪水にさらされ、漫然とそれを受け入れている自分……。

 人との接触のない時間が一日のほぼ7割ほどで、一日だれとも口をきかない、ということも珍しくなかった。食事も部屋に運ばれてくる。

 毎日の朝礼で、なにかといえば繰り返される教育によって、次第に思考しなくなっていった。

「諸君らは、我が国にとって必要な人材である。国の指示に従って正しく生きれば、国がすべての幸福と安定を保証する。社会の一員となって、人々のために働き、不安のない人生を生きよう」

 将来の夢を語ることもなく、おまえにはこれが一番相応しいのだと言われ与えられるものは確かに心地良く、見事なチョイスだった。未来の安泰が保証されている安心感は、たとえようもないほどであった。

 反戦グループが言っていたことはなにかの間違いだろうと、雷司は次第に落ち着いていった。

 今日も雷司は農作業にでる。10人ほどのグループ単位でおこなわれた。

 収容所に入れられたのは雷司のような若者ばかりではない。大人もいたし、老人もいた。年齢もさまざまな彼らといっしょに毎日毎日、所定の作業を指示され、それを黙々とこなす。

 真夏の直射日光が照らす広い畑は、ナスやキュウリなどの夏の野菜が実っていた。雷司の所属する斑の10名が、小さな園芸用ハサミを使って収穫していく。首にかけたタオルで汗を拭きつつ、なんでこんなことをしているのだろうかという疑問を持つことなく、収穫した野菜でカゴがいっぱいになるのを無感動に見つめるのだった。

 そんな日々を送っていたあるとき、雷司は移送されることを聞かされた。

 目的は、国防軍への参加である。

 つまり、兵士となって、国のためにこの戦争で戦うのだった。そのための訓練施設に移送されるのだ。

「諸君らは、国のため国民のために、我が身と我が国を守るために戦うのである。その行為は尊いものであり、国民は諸君らを尊敬し、讃えるであろう!」

 更正施設の教官は感動的な口調でそんなことを言うのだった。

 それに対し、聞いている者はみな魂を揺さぶられることなく、なんとなくうなずいていた。

 ――国のためになる、なんかよくわからんが、それはいいことじゃないか。こんなところで毎日暮らしているよりは、他人のためになにかができる機会があるということは、とてもいいこと……。

 といった気持ちになってしまう。

 明朝の出発の用意をするといっても、個人の持ち物などほとんどない。施設ここでは基本的に物が手に入らない。だからだれもが身軽だった。早くここを出て、まともな市民生活を送りたいと望み、そのために国の方針に従う。国防軍に入隊するのはその一歩だ。



 翌朝――。

 コンクリートの高い塀で囲まれた施設の端につくられた、さして広くもない運動場に、500人もの男たちが集められていた。緑色のTシャツに紺のジャージという、全員が同じ服装。

 時刻は午前6時。独房で配られた食事を食べる時間もわずかで、あわただしい出発だった。

 ここでは夏期はサマータイムを実施しているため、7月の今はタイムスケジュールが1時間早く設定され、5時起床なのである。ちなみに就寝は10時で、実に健康的な生活ともいえる。

 着替えの入ったカバンすらもたない、手ぶらの収容者は、農作業で同じグループどうしで雑談をしながら出発を待っていた。

 早朝とはいえ7月の太陽はすでに高く、強い日差しが容赦なく降り注いでいた。

 雷司は他のグループの様子を見る。

 屋外へ出る農作業のごとに、ここにいるかもしれない、黒村や算田、間木田教諭の姿を探したが、いまだ見つけられていなかった。

 これまで厚生施設側は、収容者どうしのコミュニケーションをなるべくとれないように、農作業のときも運動場の使用も、少人数の班単位を中心にさせてきた。

 今回は、いつも見ることのない500人からの収容者が集められ、雷司は目を見張った。

 ――これならいるかもしれない。

 目を皿のようにして探していると……。

 あれは……算田?

 見覚えのある顔のような気がした。

 4ヶ月も前、しかも数日しか顔を合わせていないし、口をきいたのもオリエンテーションのときにぐらいだったから本人である確信はもてなかった。

 だから近づいてみた。

 が、そこで各所に設置されたスピーカーから声がした。

「諸君! 移動用の船の準備が整った。順番に乗り込みたまえ」

 そして、塀の、これまでついぞ開いたことがなかった頑丈で大きな鉄扉が意外と早いスピードで開いていった。扉が開ききる前に、収容者たちは水が流れるように移動していく。

 その流れに乗りながら、雷司は算田に近づいていった。

「算田……?」

 後ろから声をかけると、振り向いた。

 日焼けしたその顔は雷司よりも表情が乏しかった。雷司を見返す目に生気がない。

 が――、

「おお、加賀見!」

 算田はやっと気づいたらしい。たちまち人間らしい表情が戻ってきた。「おまえもここにいたのか!」

「ああ、4ヶ月前からだよ」

「おれもだ。でも全然、知らなかったよ」

 大勢の収容者とともに二人も肩を並べて門を出た。

 すぐそこは海岸で、外海が広がっていた。海面はぎらつく太陽光を反射してきらきらと輝いていた。

「間木田先生はどうなったか知っているか?」

 雷司は尋ねた。

「先生は先に訓練施設へ移動した」

「そうか……」

「今ごろはもう国防軍の一員として軍務についているかもしれない」

「先生なら、きっと優秀な軍人になれるだろうな……」

 雷司は、国を守るために働いている間木田教諭を想像した。どのような任務かはわからないが、国のために働くのは教師をやるより立派なことだと思った。

 海岸には小さな島には似合わないほどの立派な船着き場があり、国防軍の輸送艦が接岸していた。船尾の軍旗が海風に吹かれてはためいている。灰色の船体には「昇英丸」という文字がくっきりと白くペイントされていた。

 軍服を来た国防軍の兵士が数人、船着き場に立っており、

「全員、順次乗り込み、甲板乗員の指示に従って船室へと移動せよ」

 そのうちの一人のよく通る声が響いた。

 雷司たちは言われるままに、順番にタラップをわたっていく。

 500人も乗るのに、幅の細いタラップではかなりの時間がかかった。

 乗ってみると大きな船だった。フラットな甲板は広く、おそらくヘリコプターが何機も離着陸できるようになっているのだろう。甲板は太陽に焼かれ、靴を通して熱さが足に伝わる。

 乗員が、甲板上で物珍しそうにきょろきょろ見ている収容者に向かって、さっさと船倉へ入るよう促している。

 雷司たちはぞろぞろと、甲板に開いた開口部から階段を下りていった。

 甲板のすぐ下は格納庫である。ヘリコプターや戦車、装甲車、弾薬その他の軍用物資が納められる広々としたスペースだが、今はいくつかのコンテナと軍用トラック数台とがあるだけで閑散としていた。

「ようこそ、昇英丸に」

 担当の乗員がハンドスピーカーで声を張り上げると、周囲に音が反響した。

「諸君らは到着までの間、ここで待機するように」

 乗り込んだ全員がそこへ留め置かれた。

 軍用輸送艦なので、旅客船とちがって乗務員用の船室には限りがあり、500人もの人間に対して居心地のいい船室が用意されているわけではないのだ。船が出てから到着まで、ここですごすのである。ムッとした暑さが、窓から吹き込む潮風に吹かれていくぶんマシになった。

「到着予定時刻は本日14時」

 と、担当の乗員。「乗員の職務の妨げになるので、各自、ここから出ないように。昼食は12時に配る予定である」

 そして、トイレの場所を告げて、去っていった。

 すると、手持ち無沙汰で各々が私語を始めた。荷物扱いされる不満を訴える者もいた。

 やがて、船体の震動が伝わってきて、船が動き出したことがわかった。小さな窓からは後方へと流れていく海面が見えた。

 雷司と算田は、お互い、これまでのことを語りあっていた。

 いきなり家に思想警察が来たときには驚いたけれど、と算田は当時を振り返り、雷司に話した。

「まさか自分に、国のためにつくすことができるなんて。ただの普通の高校生だと思っていたんだが」

 ここへ連れてこられたのは、特別な教育を施すためであると、さんざん聞かされていた。難しい勉強をすることなく、これで自分の将来が安泰だと思うと、やはりこの国に生まれてよかったとしみじみと幸福を噛みしめるのだった。

 算田の話を聞きながら雷司はうなずいていた。そして、雷司も自分がここに来た経緯いきさつを話しながら、反戦グループから救い出してくれた思想警察には感謝しなければならないだろう、と思う。思想警察は、敵ではないのだ。

 会えなくなってしまったが、黒村もきっと今頃、そう思っているに違いない。

 いつか立派な軍人になって帰郷すれば、家族もきっと喜ぶだろう。

 雷司はそう思うようになっていた。



 輸送艦昇英丸は順調に目的地へと航行中――のはずだったが……。

 昼食に配られた軍用食パンを食べ終わり、意外とおいしかったな、など言い合い、のんびりと昼寝でもしようとしていたとき、唐突に、派手な破裂音とともに船体が大きく揺れた。立っていた者はその衝撃で倒れたしまったほどである。

「なにごとだ?」

「座礁したのか?」

「別の船と衝突したんじゃないのか」

「エンジンの故障かも」

 皆口々に言うが、なにが起きたのかわかるはずもなかった。

 直後、不吉な予感をさせる警報音が船内に鳴り響きだした。

 船内放送が告げる。

「当艦は、敵軍の攻撃を受けた。これより戦闘態勢に移行する。総員、配置につけ」

 そして、

「収容所から乗り組んだ諸君はその場から動かないように!」

 と付け加えた。

 雷司たちは次になにが起きるのだろうと不安になる。

「戦闘態勢って、これは輸送艦だろ? どうやって戦うっていうのさ」

 算田が不安そうな顔で言った。

「でもまったく武装していないことはないだろ?」

 雷司はこたえた。とはいえ、輸送船にどの程度の戦闘能力が備わっているのかはわからない。船に乗り込むときに甲板から見たところ、砲が一門と対空ミサイルポッドらしい設備があったが、それがどの程度有効なのかはてんでわからない。

「ともかく、言うとおりにじっとしておこう」

「そうだな。おれたちは軍人さんの足手まといにならないようにしなくちゃな」

 算田はそう言って、気持ちを落ち着けようとした。

 下層の船倉へつながる階段から駆け上がってきた乗員が、

「全員、救命胴衣を着用しろ!」

 と怒鳴った。

 非常用の救命胴衣が壁に取り付けられた箱に入っている、と言って、壁に駆け寄る。

 たしかに壁にズラリと箱が並んで取り付けられている。乗員は箱のふたを開くと、引っ張り出した救命胴衣を手近な者に手渡した。

「数には余裕があるから、あわてずに順番に取りに来い。着用方法は書いてあるから、その通りにしてくれ。装着に手間取っている人を見たら手伝ってやってくれ」

「この船は沈むんですか!」

 一人が聞いた。敵の攻撃だとなれば、その可能性は当然である。

「そんなこと、わかるか! 自分らはそうならないように戦っている。きみらは沈まないよう祈っていてくれ」

 乗員は吐き捨てるように言う。戦闘中なのだ。沈まないよう必死で戦っている最中なのである。

 べつの一人が、

「もし沈むとなれば、脱出しやすいように甲板へ出たほうがいいんじゃないか?」

「ばかやろう、戦闘中だぞ。敵の弾が飛んできたらどうする!」

「静かに!」

 乗員は制した。

「もしもの退艦時は救命ボートに誘導する。それまでここにいろ! 衝撃に備えて、どこかに捕まっているんだ」

 そして、500人もの不安な顔を残して、船倉への階段を下りていった。

 各自、言われたとおり救命胴衣をつけていく。

 雷司と算田も慣れない救命胴衣に苦労しつつ、着用した。救命ボートへの誘導といって、果たして500人もの人員を乗せられるほどの数がこの艦に搭載されているのかどうか、万が一のときには外洋に身一つで飛び込む事態も覚悟しなくてはならないだろう。

 警報音は鳴りやまない。

 ときどき、機関銃の射撃音らしき音が聞こえてきていた。まだ戦闘は続いているようである。

「どんな様子か窓から見てみよう」

 算田は少し高いところにある窓枠に手をかけてよじ登ろうとした。

 そのとき、船が大きく舵をきって、船体がぐらりと傾いた。

「あぶないぞ!」

 雷司が叫んだ。

 床に尻餅をついた算田に手を貸して立ち上がらせる。

「立っているより、すわっていたほうがいいぞ!」

 だれかが叫んでいる。

 それで雷司と算田は腰を下ろす。

 いつ魚雷かミサイルが命中して船が爆発するかと、緊張状態が続く。一発でも命中したら大爆発を起こして船が真っ二つということもあり得た。そうなったら、救命ボートに乗っての脱出などという悠長なことはしていられないだろう。

 敵がどんな戦力なのかさっぱりわからない。こちらは艦隊を組んでの航行ではない。輸送艦だけの単独航行である。防御力は備わっているとはいえ、貧弱なものだろう。ということは、かなりの高い確率で、こちらの負けだ。沈められるか、拿捕されるか――。

 援軍、たとえば、遊軍艦隊と合流することができたら、形勢逆転もありえるだろうが、そんな都合の良い展開があるだろうか……。

「船の速度が落ちてきたようだぞ……」

 算田がつぶやくように言った。

 加速度が変化したのに雷司も気づいた。

「戦闘が終了したのか?」

「終了って……敵を振り切ったというのか」

 いや。攻撃をかけてきたということは、敵は駆逐艦か、あるいは航空機かもしれない。軍艦とはいえ、輸送用艦船が逃げ切れるとは思えない。

 そこへ放送が入った。

「昇英丸艦長の前田である。乗務員に告げる。当艦は敵軍との戦闘の末、残念ながら投降やむなしと判断した」

 ざわめきが起こった。

「諸君らの勇気ある奮闘と働きに感謝するものである。武装を解除し、敵軍の乗艦を迎える用意をするように。これより、各自に対する指示は敵軍よりあるだろうから、従うように。なお、収容所から乗り込んできた者については、無事に送り届けられなかったことは痛恨の極みであり、心よりお詫び申し上げる」

 軍人らしい、淡々とした口調だった。

 敵に投降――。

 その事実は、この国が戦争中であるということを改めて実感させた。

「おれたちは……どうなるんだ?」

 算田がまたもつぶやいた。

 それにこたえる者はいなかった。

 それはだれもが持つ疑問だったが、同時にだれもがこたえられない質問だった。

「そんなこと……わからないよ……」

 雷司は4ヶ月前、逃避行の末に思想警察に逮捕されたことを思い出した。あのとき……、捕まったら最後という悲壮な思いで山野を逃げていた。思想警察という、警察という名前はついてはいるが、正体不明の組織はまるで悪の秘密結社のようで不気味だった。逃げ切れるかどうかわからないし、反戦グループの救助も心許ない状況で、行く先の不安を抱えていた。

 そして今回も――。

 なにが自分たちの身にふりかかるのか、やはり想像できない。

 せっかく国のために働ける機会を与えられたというのに、こんなことになるとは……。

 雷司は立ち上がり、壁の窓へと歩み寄る。救命胴衣が入っていた箱に足をかけて、小さな窓から外をうかがった。

 間近に艦船が迫っていた。敵の軍艦だ。船体全部が見えないほど近くに接近して、今まさに接舷しようとしているようだった。軍艦甲板上の無骨な構造物が迫ってくる。

 どすん、という振動が伝わってきた。なにか不吉な宣言をする合図のようだった。

 それからしばらくは静かだった。

 だが甲板では敵と味方の双方の乗員たちが忙しく動き回っているに違いない。

 ときどき下層船倉から上がってくる乗員がいたが、雷司たちを無視して甲板への階段を駆け上がっていった。

 最後に艦長からの放送があってから1時間ほどがすぎた。

 数人の武装した兵士が甲板からの階段を下りてきた。軍服が違っていた。隣国軍の軍人である。

 銃身の短い小銃を持った兵士数人が500人の収容者たちを警戒しつつ整列すると、将校らしき軍服の40歳ぐらいの男が前に進み出てきた。

「この船は、今より我が軍の管理下におかれる。もちろんその処遇は国際条約に基づくのでどうか安心してほしい。この船は我が軍が鹵獲ろかくした。このまま基地へと帰投するが、その前に――」

「おれたちは軍人じゃない、民間人だ」

 一人が立ち上がって抗議した。30歳ぐらいの大柄な男だった。「捕虜として扱われるべきではない」

 敵将校がどう言うのか、沈黙が降りた。

 すると、

「我々は、みなさんを救いに来たのです」

 女の声がした。

 いつの間にか階段を下りて船倉に降りてきていた人影があった。

 軍服でなく、スーツ姿だった。

 若い女を見るのは久しぶりの収容所の者たちは、歩み寄ってくるその女を注目する。

「我々はみなさんに〝自由〟をもたらす解放軍です」

 雷司の目が見開いた。

 まさか、と思った。

 結城アキラだった。

「久しぶりね、加賀見くん」

 と、結城は、500人の中から雷司を見つけて声をかけてきた。

 雷司と黒村をクルマでアジトへ運ぶ直前、思想警察の摘発を知って二人を下ろして去っていった。それからは消息不明だった。いったいこれまでの4ヶ月間、どこでどうしていたのか……。

「…………」

 あまりの展開に、雷司は声を失った。

「だれなんだ?」

 算田が横から訊いてきた。

「結城先生だよ。ほら、間木田先生のあと、担任になった……」

「そうか、おれはその翌日更正施設へ連れてこられたからな、顔をよく覚えてない」

 それは無理もないだろう。しかも4ヵ月も前の話なのだ。

「どういうことか、混乱しているようね」

 結城はいたずらっぽい笑みを口の端に見せる。新担任というのは仮の姿、その正体は反戦グループのメンバー……のはずなのだが。

「戦争は終わってる――と言ってましたよね?」

 雷司は真意を探ろうとした。

 結城はあっさりと言った。

「あれは嘘。事実、こうして戦闘があったでしょ。戦争はまだ続いている」

「どうしてそんな嘘を……」

「わたしは、反戦グループに潜入したスパイなの」

 なんでもないことのように言ったそのひとことが衝撃的だった。

「棒野さんが言ってた、反戦グループによる大規模なサイバー攻撃によって、この国のコンピュータの機能を停止させる。その混乱に乗じて軍を侵攻させるのが今回の作戦」

「結城さん、軍の作戦をそう簡単にしゃべってもらっては困ります」

 敵軍将校が顔色を変えた。

「まぁ、これぐらいのこと、いいじゃないの、遠田中尉。もっと深い機密はしゃべらないから」

 遠田中尉と呼ばれた敵軍将校はゴホンと咳払い。

「じゃあ、反戦グループは敵軍に利用された、ということなのか……」

 雷司は愕然として問う。

「その通り」

「黒村や棒野さんは、そのことを……」

「まだ知らないわ。いや、もう知っているかもね。現在進行中の侵攻作戦がどうなっていくかも……。それより、さっきも言ったけど、わたしはみなさんを助けにきた。思想警察によって思想の自由を奪われているこの国から、みなさんを解放する。それこそがわたしたちがこの船にやってきた理由です。我が国は思想弾圧に苦しんだみなさんを歓迎します。ようこそ、自由の国に」

 自由の国。

 ざわめきが起きる。

 国が居場所を与え、疑問を差し挟むことなく暮らしていけるように考えられた理想郷のために働くように仕向けられ、そのつもりでいた500人もの収容者たち。一様に戸惑いつつも、とりあえずは命を脅かされるような事態にはならないと、ホッとした空気に包まれていた。というより、まだ事態をよく把握していない、と言ったほうがいいかもしれない。

 雷司たちが、敵軍の侵攻作戦によって首都が陥落したことを知ったのは、それからすぐのことだった。



 昇英丸が曳航されてきたのは、松沢漁港だった。雷司の住む竹露市から電車で1時間半ほどのところにある。小さな港。基地へ行く前に、ここへ寄って、厚生施設から乗せてきた収容者たちを下ろす手はずだった。

 港に入った昇英丸は、ゆっくりと岸壁に接岸する。

 甲板の上に出ていた乗員と雷司たち500人の収容者たちは、陸の様子を見つめていた。

 一見おだやかに見えるが、どこか異常がないかと目を細める。

「なにか違うところがあるか?」

 算田が訊いた。

 市街戦があったような様子、たとえば、建物が崩れていたり、火の手があがっていたりというようなところはなさそうだった。

 一見平和そうに見える。

 岸壁にいるのは港湾作業員と敵国の兵士たちだった。

 接岸して、タラップが下ろされる。

「みなさん、順番に下船してください」

 甲板で敵軍の兵士が指示する。

 だれもが緊張した面持ちでタラップを下りてゆく。

 雷司もほかの人たちにまじって下りていった。

 海岸で下ろされたものの、どうしていいか迷っている大勢の収容者たち。

 港湾作業員と兵士はそれぞれの仕事をしていて、収容者たちには関心がない様子。敵国人どうしであるが、だからといってギスギスした関係ではなく協力して作業にあたっていた。不思議な光景だった。港湾作業員は従順だった。与えられた命令に従って動く癖がついていて、その命令がだれから下されたものであるかというのはどうでもいいのである。

「これからどうする? まっすぐ家に帰るか?」

 算田が訊く。

 家に連絡しようにもウェアラブルはなかった。

「さて、どうするかな……」

 海岸からは鉄道を乗り継いで帰るのが普通である。松沢口駅はすぐそこにある。しかし、交通費を支払おうにもウェアラブルがなければ電子決済ができない。その代わりに敵軍から渡されたのが現金だった。雷司自身、それを見るのはかなり久しぶりだった。最後にそれを使ったのはいつだったか記憶にないぐらい。

「とにかく、一度帰ろうよ」

 算田は歩き出す。ここにいてもしかたがなかったし、駅へと歩く流れができていた。もたもたしていたらいくら日の長い夏とはいえ夜になってしまう。時刻はもう4時になろうとしていた。

 雷司は、

「でも、電車が動いているかな」

 と危惧を口にした。

 大規模なサイバー攻撃によって国内のネットがダウンしたため、軍隊の行動にまで影響してしまったというなら、軍よりもセキュリティの甘い民間のインフラがきちんと動いているのかどうかと心配になった。

 そして、その予想は当たっていた。

 松沢口駅の周囲には、昇英丸を下りた者たちであふれかえっていた。

 ネットのダウンによって、鉄道は運行できなくなっており、朝一番から電車は動いていない。それでなくとも運行本数の少ない末端のローカル線だったから、大勢の客をさばくのは不可能だ。

「信号が動かないんです。ただいま、復旧作業をおこなっておりますが、運転再開の目処はたっていません」

 たった一人の駅員が、突然現れた大勢の客に困り顔で応対していて、可哀想なほどだった。

「となれば、もしウェアラブルを持っていたとしても、通信できなくなっているかもな。たしかに国中が混乱してるようだ」

 と、雷司は肩をすくめる。

「ネットが止まったらこんなことになるなんて思ってもみなかったな。電車だけじゃなく、通信も電気もガスも……水道さえも止まってるかもしれないってことか……」

 算田がそう推測した。「軍隊ですら動けないんだから、これじゃ戦争に負けるよな……」

 そのきっかけを作った反戦グループといっしょにいた雷司にしてみれば心中複雑だった。

 小さな駅舎に入りきれず、駅前広場に後退して、暮れようとする日が作る自分の影を呆然と眺めるしかない収容者たち。どこからも指示がなく、どうしていいのかわからない。

 雷司も電車で帰るのをあきらめ、広場の端にたたずんでいた。

「加賀見くん」

 そこへ声がかかった。

 振り向くと、軍用トラックの窓が開いて結城が顔をのぞかせていた。昇英丸に積まれていた軍用トラックが接収され、陸揚げされたようである。

「トラックの荷台になら、乗せてあげられるよ」

「え? いいんですか?」

 雷司はトラックの後部へ回り込む。

「ほんの一日だけだったとはいえ、教え子だもの。その代わり、狭いよ」

 ドアのないトラック後部の開口部から中を見ると、銃を持った兵士が何人も荷台に座り込んでおり、わずかな隙間がある程度だった。なんとか乗れそうだとはいえ、占領地域に入った兵士たちの緊張感漂う雰囲気が二の足を踏ませる。

 が、ここで断ってしまってはいつ帰れることになるかわからない。

「算田、来いよ」

 雷司はためらっている算田を呼んだ。

 のそのそと算田はやってきた。トラックの荷台を見て、

「おれは……」

 屈強な男たちの汗臭さもあって、進んで乗ろうとしない。

 雷司は先に荷台に乗り込む。

「さ、なんとか乗れるよ」

 まだ算田は乗らない。

 すると、一人の若い兵士が銃を置いて立ち上がり、手袋をした手をさしのべる。

「さ、乗ってくれ。遠慮するな」

 と、笑顔を向けた。

 それでやっと乗る気になった。

 算田は引き上げられるようにしてトラックに乗り込んだ。

「おじゃまします」

 二人は頭を下げ、荷台に座り込んだ。

「乗り心地は悪いが、しばらく我慢だな」

 笑顔を見せるさっきの兵士。荷台に乗る際に見えた兵士の胸のバッヂには「佐古田」とあった。

 トラックが走り出す。

 向かう先は隣国の占領地になってしまった竹露市の中心部――。

 雷司は、家族や家や学校がどうなってしまっているのかと心配しながら黙ってトラックに揺られていた。



 2時間ほど走った。

 トラックの後部から見える見慣れた町の風景は、雷司の心に懐かしさと共に染みていった。

 しかし、ところどころに占領軍の戦車や装甲車が走り、住人は屋内にひっこんでいるのか見かけなかった。それは、ひどく非現実的な光景として雷司の目に映った。

 時刻は6時をすぎていた。そろそろ日が傾こうとしていた。

 トラックが停止した。

 そこは、南大和田高校の前だった。雷司と算田が入学し、央武が卒業した高校。そして、間木田教諭が教え、結城アキラが1日だけ勤めた職場。

「着いたようだな」

 佐古田兵士が雷司と算田に向かって言う。

 結城が荷台後部に回り込んできた。

「さ、二人はここで降りて。我々はこの先に行くから」

 そそくさとトラックを降りる二人。

「じゃあ、元気でな、少年」

 そう気さくに声をかけてきた佐古田兵士に、二人は頭を下げた。

「さて、ここからはあなたたちの自由。今はまだ混乱しているでしょうけど、すぐに日常が戻ってくるから」

 自治体にかわって他国の軍隊が行政をおこなうようになるだけで暮らしはなにも変わらない、と結城は安心するよう言い残していったが、去っていくトラックを見送りつつ、雷司は堂々と嘘をついて反戦グループを騙していた結城の態度を思い出して、その言葉を素直に信じる気にはなれなかった。

「校舎に入ってみないか?」

 算田がうながした。「住民が避難しているかもしれないし」

 校門は開かれていた。

 4階建ての校舎が校門のすぐ向こうにそびえ立っている。並ぶどの窓を見てもだれかがいそうな気配はない。普段ならこの時間は授業が終わっていて、クラブ活動の生徒が残っているはずなのだが、この非常時にあっては……。

 二人は久しぶりに校門をくぐった。

 体育館へ行ってみることにした。避難している人がいるとすれば、そこだからだ。だがそれは空襲時の緊急事態の場合だから、今回のような国防軍が機能していない状況となれば、だれもここへは避難していないかもしれない。

 校舎を回り込んで、自転車置き場の横を通って、その向こうに建つ体育館を目指した。自転車置き場には自転車がない。それどころか、人の気配さえない。

 体育館の前まで来た。

 右手側に運動場。校舎の影が落ちているそこにもだれもいなかった。静かなグラウンドには汗を流す運動部員の姿もなくひっそりとしていた。だれかが学校に避難していたら、当然、校庭にはクルマが何台も入って駐車場代わりに使われているはずだ。

 だれもいないとなると、高校ここにいる理由がなかった。

 ウェアラブルがないと本当になにもわからない。電話すらできず、状況が見えなくて途方に暮れるしかない。厚生施設で、ネットに自由にアクセスできない日常に慣れていたとはいえ、ひとたび帰れば元のネット常時接続環境に戻りたくなっていた。

 ――無人を確認したら、家に帰ろう。

 算田がそう言うので、雷司も、そうだな、と同意し、念のために体育館をのぞいてみようとしたときだった。

 人影を認めた。

 だれかいた!

 歩み寄ろうとして、しかし足が止まった。

 体育館の正面でひとりたたずんでいるのは――。

「待っていたわ」

 人影が振り返る。

「黒村さん……!」

 雷司は瞠目し、声を失った。まったく予想していなかった。

 そこにいたのは、黒村理衣子だった。タンクトップにショートパンツという、ラフなスタイル。雷司や算田が支給されて着ているもっさりとしたジャージとはずいぶんと違う。

「どうしてここに……」

 やっとのこと、それだけ口から出た。

「加賀見くんらがここへ来ると聞いていたからよ」

「ええっ……?」

「なんで知っている……? 結城先生に会ったのか……?」

「いいえ、電話だけ」

「先生が反戦グループを騙していたということも聞いているのか? 反戦グループの活動に乗じて敵軍の攻撃を誘導したということも」

 うん、と黒村はうなずく。

「驚いたわ。ずっと信じてたから。戦争はもう終わっていて、反戦グループは国民に真実を知らせるために活動しているのだと信じてた。だから加賀見くんを引き込んだのは決して騙すつもりじゃなかったの」

 戦争は終わっている――。それも巧妙に織り込まれた敵の情報操作なのだろう、おそらく。

「それも結城先生から聞いたよ。黒村さんは悪くない」

 黒村を責めるつもりはなかった。黒村も雷司と同じ騙された側の被害者なのだ。いや、むしろ、雷司より思い入れが強かった分だけより被害は大きいともいえるだろう。その傷にいつまでも触れたくはなかった。

 黒村は、ホッとする表情を見せた。

「黒村さんは、あれからどこでどうしていたんだ?」

 雷司は話題を転じた。

 黒村はふっと笑みを浮かべた。

「厚生施設よ。加賀見くんとは違う場所だけど。今朝、その更正施設が敵軍に攻撃されて、わたしたち解放されたの。敵軍の指揮官が言ってたわ。これまで弾圧されたみなさんを、我々は助けに来ました、みなさんは英雄ですって」

「同じだな……」

 そのわりには服装に差があるが。

学校ここには、だれもいないのか?」

「ここだけじゃなく、この町にはもうほとんど人はいないわ」

「なんだって?」

 算田が声をあげた。「じゃあ、みんなどこへ行っちまったんだ?」

「警察が、占領地域からの脱出を呼びかけていたから、その外側」

 日頃から避難訓練はおこなわれていた。戦争が起きているということは、いつ敵が攻めてくるとも限らない。国境から近いこの地域ではとりわけその意識が強く、地震による土砂災害や大雨による浸水などの自然災害にも警戒していたから、なにかあると住民が総出で避難するという前提で暮らしていたのはたしかだった。

 残っているのはなんらかの事情で脱出できなかったわずかな人々。

「占領地域外って、敵軍は国全体を占領下においたんじゃないのか?」

 雷司は疑問を口にした。

 敵軍が侵攻してきたのはわかった。首都を陥落させ、国防軍を無力化したと聞いた。ということは、国じゅうが敵国の管理下になっているのではないのか……?

「どうもそうじゃないらしいの」

「というと……?」

「国防軍の組織的な反撃が局地的におこなわれていて、占領は首都を中心とした地域だって……」

「中央政府が降伏しても、国防軍が独自に抵抗をしているって?」

 そんなことがありえるのか?

「つまり、占領されていない地域に住民たちは逃げ込んでいるっていうのかい?」

 算田が訊いた。

「そう。ここから近いところだと巻枝市だって」

 黒村は、肯定し、その上で、

「どうする? 国道は閉鎖されているから、それを突破してでも家族に会いにいく?」

 巻枝市は、竹露市に隣接する北黄市のさらに向こうで、ここからだと40キロほど離れていた。

「家族に会いに行こうとしても、どこにいるかもわからないし、避難地域までの道の途中では散発的に戦闘があるだろうから危険だわ。非武装の民間人を攻撃してはならないという国際法があっても、流れ弾を食わないという保証はないし」

「ああ、もう! ネットに接続できたら、いろいろわかって動きやすいのに!」

 算田は悔しそうに顔をしかめた。たしかに情報が少なすぎた。ネットに接続できたとしても、サイバー攻撃のために混乱の極みにあるだろう。

 ネットの情報なんかアテにならない。

「黒村さんはどうするつもり?」

「どのみちわたしは行けないわ。売国奴だもの」

「それは騙されただけで、黒村さんの意志じゃない」

 雷司は声を荒げた。

 黒村は静かに言った。

「もうすぐここに迎えが来る。わたしの居場所はそこにしかないもの」

「ってことは……?」

 黒村はポケットから旧型の携帯電話を取り出した。

「棒野さんが来る。このケータイも服も、棒野さんにもらったんだ……ねぇ、二人とも、わたしといっしょに来ない? わたしは、思想警察に強制収容所へ送り込まれるような国を変えたかった。でも変えられないなら、自分の産まれた国を捨てようと思う。二人とも、何ヶ月も窮屈な思いをさせられて理不尽だと思ったでしょう?」

「おれは……」

 算田は戸惑った。

 たしかに黒村の言うように、国のやり方には不満はある。更正施設という名の強制収容所での生活は不自由ではあった。

 だがそれよりも、離れていた両親に無事を伝えたかった。その思いのほうが強かった。一人で家族をさがすのは心細かったが、かといって得体の知れないグループに関わるのはもっと不安だった。

「おれは家に帰りたい……家族が避難していたら、なんとか避難先まで行ってみる」

「そうなの……」

 がっかりした表情で、今度は雷司を見る。

「加賀見くんは?」

「おれも算田と同じだ。国を捨てるほどの根性はない」

 黒村の場合、思想警察に連行された両親の行方もまだ知れない。生きているのかもどうかも。だからそこまでの決意を固められた。

 しかし雷司は違った。

 黒村はまつげを伏せた。

「残念だわ」

 そして携帯電話を操作する。耳に当てて、

「だめだったわ。……うん、わかった」

 短い通話だった。

「じゃあ、行きましょう。ここにいてもしかたがない」

 三人は揃って校門を出た。

 一台の軽自動車が待っていた。運手席には見覚えのある顔。

「棒野さん……」

 思想警察に捕まりそうになったとき、雷司を匿ってくれたマンションにいたが、会ったのはそのとき以来で、いまだに反戦グループでなにをしていた人なのかわからなかった。

「久しぶりだな」

 ハンドルから手を離すと、開けた窓から身を乗り出して棒野はほんの少し口の端を曲げただけの笑顔で言った。以前会ったときより痩せたような気がした。

「ここでお別れね……」

 寂しそうに黒村は告げた。

 黒村と別れてしまうのは名残惜しかったが、やむを得なかった。生き方が違っていた。

「元気でね」

 黒村がクルマに乗り込む。

「黒村さんもね」

 ドアが閉じ、静かに走り始めた。

 無言で見送る雷司と算田。

「いいのか、加賀見……?」

 クルマが見えなくなってから、算田がまだその方向に視線を向けたまま横に立つ雷司に訊いた。

「なにが?」

「彼女と別れて、だよ」

 雷司は苦笑した。

 ――なにを言うかと思ったら。

「へんに勘ぐるなよ。黒村さんとはそんな関係じゃない。それに、おれも算田と同じく、両親が心配しているだろうからな。そっちのほうが大事だ」

 ――黒村は……そう、住む世界が違うのだ。

 雷司は噛みしめるように思った。

 ――おれはもっと平和で安全で波風のない人生を歩きたい。

「行こうぜ。日が暮れる。まずは家に帰ろう。もしかしたら、だれか残っていてくれてるかもしれないしな」

 雷司は歩き出した。



 路面電車はまだ動いていなかった。

 二人して学校から歩いていつも使う路面電車の駅に着いたものの、道路は閑散としていて占領軍の軍用車がときどき通るくらい。

 奇妙な感覚だった。知っているはずの町なのに、隣国の領土となってしまったというだけで、知らない国にでも迷い込んだような。傾きかけた太陽でさえ、あんなに赤かったろうかと、別の国のもののような気がした。

 駅で待っていると、通りかかった占領軍兵士が近づいてきて、電車は止まっていると教えてくれた。

「運転再開する見込みはあるんですか?」

 算田が訊くと、

「自分にはわからんが、当分の間は公共交通が使えないだろう、電車を運行できる職員が確保されない限りは。再開できるよう我々も尽力している。しばらく不便をかけるが申し訳ない」

 と兵士は頭を下げた。

「仕方ない。歩くか」

 雷司はため息まじりに言った。

「加賀見の家は遠いのか?」

「目野二丁目」

「けっこうあるな……」

「算田は?」

「勝ノ織」

「そっちのほうが遠いじゃん」

 歩きながら、ときどきとりとめもない会話をしているうちに夜が来てしまった。

 営業しているコンビニを見つけて、占領軍から支給してもらっていたお金で食べ物を買った。配送トラックが来ないため品物がほとんどなくなっていたが、カップラーメンが残っていたのでそれで腹を満たした。

 ここまでの間、通行人も見かけたので避難せずに残っていた人間もそこそこいることはわかったが、黒村が言っていたように、その人数は比較的少ないように思えた。いや、家にひっこんでいるだけかもしれない。営業している店舗もわずかだった。

 家にたどりついても、家族がいなければ家には入れないだろう。そのときに一人でいるよりは二人でいたほうがなにかと心強いと、途中で別れずに、まずは近い雷司の家に向かうことにした。

 通常なら45分ほどで帰り着ける家にその倍以上の時間をかけてたどり着いた。

 建坪20ほどの3階建ての一軒家。道路の奥まったところに数件まとめてつくられた建て売り物件で、雷司が幼稚園のときに引っ越してきた。築十年ほどだ。

 4ヶ月ぶりに帰ってきた我が家は明かりもなく、外からでも無人であることがわかった。

 玄関ドアは鍵がかかっていて、懐かしいと同時にうら寂しい思いを感じた。ウェアラブルがないから、解錠することもできない。

 両親や犬のバニラ、警察の寮に入っている兄の顔が思い浮かんだ。

 ――今ごろ、どこでどうしているだろう?

「おれの家に行くか?」

 算田は残念そうに声をかけた。

「ああ、そうだな……」

 雷司は同意した。窓ガラスを割って入ることもできたが、それはしたくなかった。

 恨めしそうに三階の自室を窓を見上げると、雷司は先に歩き出している算田のあとを追った。



 まぶしさで目が覚めた。

 寝ぼけ眼の雷司は、最初ここがどこかわからなかった。しばらくして脳が覚醒して、ああ、ここは算田のマンションの非常階段だと思い出した。

 昨夜、結局算田のマンションへ来たが、結局そこにもだれもいなかったため家には入れず、仕方なく非常階段の雨露のしのげる場所で二人肩を寄せ合って眠ったのだった。

 それは雷司に、4ヶ月前の黒村と過ごした逃避行を思い起こさせたが、あのときのようなせっぱ詰まった状況ではなかったし、あのときのようなどこかロマンチックな思いを抱くこともなかったから、いいのか悪いのか……。

 蚊にさされた腕をぼりぼりと掻きながら、早くも汗ばんでいる体をうっとうしく思い、すぐ横でまだ寝息をたてている算田の肩を揺さぶった。

「そろそろ起きろよ」

「んあ……?」

 顔をしかめ、上半身を起こす算田。

「何時だ……?」

「さぁね」

 時計がなかった。

「ともかく、避難民のあとを追おう。途中のコンビニで情報収集もできるだろう」

 算田はうなずいて、あくびを一つ。

「ああ、行くか」

 二人は立ち上がる。

 遠い旅になりそうだったが希望はあった。乗り切れそうな手応えがあった。それは算田の玄関ドアに貼っていた書き置きである。

「巻枝市に避難します」

 手がかりがあるとないとでは、気持ちにずいぶんと違いがあった。

 避難訓練を思い出しながら歩を運ぶ。

 途中のコンビニで朝ご飯を物色する。お菓子が残っていた程度でカップラーメンさえなく、空腹を満たすことはできなかった。

 できるだけ早く巻枝市に入りたかった。そこへ行けば、多少の混乱はあるかもしれないが、物流も動いていて物が手に入るだろうと思った。

 希望は巻枝市にあった。二人はそれを信じて歩き続けた。

 夏の太陽が照りつけ、紫外線が肌を焼く。途中、何度か自販機で買ったペットボトルの水は飲み干す前に中身が熱くなった。

 運良く途中で自転車を調達できた――というか、無断で拝借したのであるが、この際、罪悪感は胸にしまっておいた。

 二人乗りで交互に運転しながら、熱い風を切って道路を走ってゆく。

 自転車を使ったことで行程がずいぶん早くなった。

 北黄市に入り、巻枝市との境である丘陵地帯に近づくにつれ、占領軍の軍用車の行き交う姿を頻繁に見かけるようになってきた。走り回る装甲車や戦車は、戦闘地域に踏み込んだことを嫌でも認識させられるほど強い存在感を放っていた。

 丘陵地帯に入る。

 道路は登りにさしかかり、二人乗りでは進めなくなった。自転車を押して、徒歩で進む。

 周囲は民家が少なくなり、田畑や林が広がっていた。

 上空を占領軍のヘリコプター編隊が大きな音をたてながら巻枝市方向からやってきた。そのうちの一機が突然火を噴いた。

 燃えながら落下していくヘリコプターの部品が散らばる。

 あっ、と思って見ていると、畑の真ん中に墜落し、爆発した。

「国防軍か反撃か?」

 と、自転車を押している算田が興奮している。

 雷司は唇を噛んだ。

「タイミング悪いな。戦闘になったら、おれたち、巻き込まれるぞ」

 民間人だからと言ってスルーしてもらえると思ったらそうはいかない。誤爆される可能性もある。

「戦闘が小康状態のうちに巻枝市に入りたかったぜ」

「どうする?」

 算田が尋ねる。「どこかに隠れるか?」

「そうだな……」

「加賀見は思想警察から逃げてたんだろ。こういう場合はどうするんだ?」

「状況が違いすぎる」

 ともかく、このまま巻枝市に向かっていくのは危険だった。戦闘が落ち着くまで待つのが賢明だった。

「どこかに隠れたいところだが……」

 だが周囲を見回しても、目に入るのは田畑ばかり。

「いや、それともなまじ隠れないほうがいいかもしれないぞ。建物ごと重火器で攻撃される可能性もあるからな」

「おれにはなにが正しいのか判断できない」

 算田は泣き言を言った。

「ここは加賀見に任せる。それで死んだら運が悪かったとあきらめるよ」

「責任重大だな」

 ヘリコプター編隊が散開した。方向転換するもの、高度をあげていくもの、速度を上げていくもの。

 すると、巻枝市側から、別の攻撃型軍用ヘリがやってくるのが見えた。

 ヘリコプターどうしの戦闘になった。空中で爆発火球。

 どうやら最初に現れたのが逃げてきた隣国軍のヘリコプターで、あとから来たのがそれを追う国防軍のヘリコプター編隊のようである。

「空中戦か! 地上部隊による戦闘ではないようだな。今のうちなら巻枝市へ行けるかもな」

 雷司は算田からハンドルを奪い取ると、自転車にまたがる。

「乗れ、算田」

「お、おう」

 丘陵地帯を抜ければ、なんとかなる!

 道はやや上り坂。雷司は自転車を立ちこぎする。後ろの荷台に乗った算田は振り落とされないよう必死にフレームを握りしめた。

 必死にペダルを回していると、カーブしている道路の向こう側から列を成した兵員輸送用の軍用トラックが現れた。巻枝市側から占領軍に対抗するためやってきた国防軍の車両だった。

「友軍だ」

 雷司はペダルをこぐのをやめ、立ち止まる。

 目の前を通り過ぎてゆく軍用車の列。国防軍の反撃が開始されたのだ。

 国防軍が竹露市を占領している隣国軍を撤退に追い込めば、また元の町に戻れる。二人はそれを期待した。

 軍用車の最後の1台が通過せずに停止した。

「?」

 雷司が不審に思っていると、軍用拳銃を持った兵士が運転席から降りてきた。

「おまえたち、更正施設の者だな?」

 二人が着ている緑色のTシャツとジャージを見て、兵士は詰問した。

「はい……そうですが……」

 算田がこたえると、

「どうしてこんなところにいる?」

 鋭い口調だった。

「いや、船に乗せられて、そしたら――」

「国家反逆因子を見過ごすわけにはいかない。おまえたちを逮捕する」

 兵士は算田の話を最後まで聞かず、一方的に宣言した。拳銃をつきつけ、

「トラックの荷台に乗れ」

 と命令する。

「そんな……横暴な!」

 雷司が抗議した。

「つべこべ言うな。逃亡犯め」

「おれたちはべつに――」

「よせ、加賀見。この人は事情を知らないんだ。申し開きはあとですれば……」

「なにを言ってるんだよ。ここで事情を聞いてくれないのに、あとから聞いてくれるわけがないだろう。国防軍がおれたちを誤解したまま裁判もなしに罪人にしたてようとしてるんだぞ」

 雷司は必死だった。

 このまま逮捕されてしまっては、せっかくここまで来たのがムダになる。更正施設に収容されるより、ずっと悪くなる予感が強くした。

「抵抗するなら射殺するぞ」

 国防軍の兵士は危険な目をしていた。戦闘が始まって、普通の精神状態ではないのだ。

 唇を噛みしめた雷司の額に脂汗がにじんだ。

 そこへ、乾いた音がアスファルトをならした。

 次の瞬間、真っ白い煙が一気に辺り一面に広がった。煙幕用の発煙筒だった。息を吸うと刺激臭がした。

「今のうちに、早く!」

 煙の中から、兵士のとは違う、若い男の声がした。

 煙が視界を奪うなか、雷司と算田は反射的に声のするほうへ走った。

 白い煙にまぎれるような白いクルマが止まっていた。煙だらけで車種もわからない。後部座席のドアが開いている。

「乗って!」

 わけもわからず、二人はそこへ乗り込んだ。

 雷司がドアを閉める前にクルマは発進した。

 煙を突破。猛スピードでその場を離れる。

 どこへ向かっているのかわからない。道路をいっぱいに使ったコースをとってカーブを通過していく。サーキットを疾走するレーシングカーのよう。

 加速によってシートに体を押さえつけられて、雷司たちは身を起こして窓の外を見ることもできない。結城アキラのインプレッサでも、これほど過激な運転ではない。だが追ってくる軍の車両をまくには、これぐらいの運転でないと振り切れないだろう。

 車内にまだ残っていた煙の刺激臭を感じつつ、いつか停止するときがあるだろうと思い、おとなしくシートに沈み込んでいるしかなかった。

 数分が経過した。

 暴れ馬が落ち着いたかのようにクルマがさっと停止した。

「だいじょうぶかい?」

 運転している男が振り返った。見たことのない顔だった。手入れされてなさそうな長い髭がのび放題で、ひとめで「普通の職業の人」ではないと思わせる風貌だった。

「危ないところだったな」

 気さくな口調で話しかけてくるが、算田は未体験の絶叫マシンさながらのドライビングテクニックにまだ青い顔をしていて応対どころではない。

「ア……アリガトウゴザイマシタ……」

 雷司はかろうじて返事をした。またなにかややこしいことに巻き込まれたのではないかという感がぬぐえず、助かったにもかかわらず警戒心が消えなかった。

「あの……おれたちのことを、知ってるんですか?」

「そんな目立つ服を着ていたら目をつけられるに決まっている、雷司くん」

 名前を呼ばれて驚いていると、

「おれは戸野山という。元刑事で、加賀見くんのお兄さんの元先輩だ」

「えっ!」

「さらに、反戦グループのメンバーでもある」

 雷司は絶句した。頭の中で思考が渦巻いた。聞きたいことが山ほど湧いてきて、なにから聞いたものか整理できない。

「質問がありそうな顔だね? でも、まぁ、少し待ってくれ。着いてから説明するよ」

「兄はどこにいるんですか?」

「せっかちだな……。ま、わからんでもないけど」

 戸野山は前を向き、クルマを発進させる。

 運転しながら、断片的に語った。

 無事に巻枝市に入っても、収容所の服装のままでは思想犯として捕まってしまうかもしれないと結城アキラから頼まれて、雷司と算田をずっとマークしていたのだと戸野山は打ち明けた。黒村の服装が違っていた理由がわかって、手のひらで踊らされていたことを憤るよりも、如何に自分がなにも知らないかを思い知った雷司だった。

「きみたちが母国でどんな扱いを受ける身なのか、もうわかったろう? きみたちの居場所は母国にはないんだ」

「でも国防軍への参加を呼びかけられた」

 算田が、それでもなにかにしがみつくような口調で反論する。

「だが、なにをやらされるかは聞いていなかったろ? 国のためにと称して、消耗品のような扱いがまっているだけだ。ネットのなかで、どんな理不尽な生き方に誘導されてしまっても抵抗できるかい? 死ぬほどつらい労働を笑って受け入れさせるのが、この国のやり方だと気づいてからでは遅い」

 戸野山は意地悪く言った。

「そんな……!」

 算田はショックを受けたようだった。信じていたものに裏切られ、なにもかも失ってしまう――。それはあまりにも無慈悲な仕打ちだった。

「覚悟を決めて、おれたちに賛同しないか?」

「おれたち……とは?」

 雷司は真意がつかめない。

「国籍を取得して、正式に我々の国の国民になるんだ。そして……きみの祖国が併合されれば、万事解決さ」

「そんなことが……!」

 雷司は目をむいた。そんなことが現実に起こりえるのか……?

 戦争が終わる――。それはいいことだ。しかし、それは互いの国が武力紛争を停止することだと思っていた。一方の国がもう一方の国を併合する結末など、現実的に想像することさえなかった。

 だが、あり得るのか……?

「戦争を終わらせるのは政治的な決断であって武力ではない。だが戦争を早く終わらせるためには武力的勝利が必要だ。その勝利のために、おれたちといっしょに働いてみないか?」

 統一国家になれば、もはや不安はない。思想警察も消滅する。このまま祖国へ戻っても、再び思想警察に逮捕されてしまうかもしれない。

「時間はある。じっくり考えな」

 戸野山は上空を見上げた。

「見なよ」

 隣国軍のヘリコプター編隊が態勢を立て直して反撃に転じてきたのが見えた。駆逐されていく国防軍ヘリコプター。

 さきほど巻枝市からやって来た地上部隊も攻撃を受けているかもしれない。

 各地で小競り合いが頻発するかもしれないが、戦争は国力の戦いでもある。コンピュータがダウンしたままでは後方支援や武器の生産にまで影響する。

 戸野山の言うことは、あながち荒唐無稽でもないのかもしれない。

 いずれにせよ、雷司は、もはや選択の余地がないことを知る。

「わかったよ」

「加賀見……」

 算田が戸惑いつつ雷司をうかがう。まだ状況を受け入れがたかった。

「おれになにかができるなら、やってみるよ」

 雷司はうつむいていた顔をあげた。

 利用されるなら、とことん利用されてやろうじゃないか。

「その決意に礼を言うよ」

 クルマを運転しながら戸野山は、胸ポケットからラッキーストライクの箱を取り出し器用に一本引き抜くと、慣れた手つきで火をつけた。

「ようこそ。歓迎するぜ」


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