第6章『捜査』
反戦グループの活動は、その意義はどうあれ危険である。だから思想警察に狙われている――。
違法であるなら警察が摘発し、雷司を救いだすことができるのだが、そこまでの違法性はないから動けない。警察の代わりに思想警察が動く理由はそこにある。
加賀見央武はひとり苦悩するばかりだった。
頼りにしていた戸野山とはメールも電話も通じない。寮に帰ったプライベート時間に連絡を入れるも、やはり通じなかった。
翌日、憔悴しきって署へ出向いた。
朝礼のときも、心ここにあらず、だった。
雷司の捜索は今日も予定されていた。
昨夜、一部のマスコミが雷司の兄が刑事であることをつきとめ、取材にと署にやって来ていたが、署の広報係が央武へのインタビューを拒絶していた。
央武はそれを知ってますます落ち着かなくなった。
「気にするな」
五條課長はそう言ったが、それで前向きになれるほど央武は大人ではなかった。
「弟さんのこと、心配だろうが、今は「忍」の一文字だ」
果たして、五條課長は雷司のことを知っているのだろうか……。
直接聞くこともできず、央武は聞き込みへと出て行った。
マスコミが警察署付近をうろついているのが鬱陶しかった。
担当しているいくつか事件の聞き込みに向かう。2ヶ月以上前に起きた空き巣事件の現場付近で路面電車を降りた。
今頃、河川敷で大勢の職員が見つかるはずのない雷司の消息を捜しているのだろうな、と思うと央武はやるせなかった。
気持ちを切り替えられないまま、聞き込み捜査をはじめた。
事件の起きた周辺から広げていって、一軒一軒聞いて回る地味な作業である。もうかなり犯行現場から遠いところまで捜査している。それでもなにかないかと聞き回るのが仕事だった。ネットに上がらない、思いがけぬ情報が得られることもあるからだった。
呼び鈴を押して、運良く在宅の場合、出てきた人に警察手帳を見せ、なにか見ませんでしたか、と問う。
「なにも見ていません」
たいがいはそんな返答だ。しかたなく、次の家へ。
日中留守の家が多いので、オフィスや商店を中心に回っていったが、それでもなにかの情報を得ることは希だった。
そして1ヶ月がすぎた。
雷司の捜索は打ち切られ、マスコミが静かになったころ――。
いつものように聞き込みに出ていた央武だったが、夕方になり、今日も成果はなしか、と思っていた矢先――。
一軒の住宅で、思いも寄らないことを聞いた。
いつものように反射的に警察手帳を出し、空き巣事件についての情報を聞こうとしたとき、対応に出てきた高校生が言った。
「あの……加賀見くんのお兄さんですよね……?」
思わず瞠目した。
「ぼくは同級生です。同じクラスでした」
と、高校生が言う。
「教えてもらえないか、雷司の学校で、なにがあったのか?」
央武は刑事であることをいっとき忘れた。肉親の立場に戻っていた。
メールも電話も通じなくなり、ネット上にも書き込みがない。頼みの綱だった戸野山も(五條課長によれば)失踪。なんの手がかりも得られない、そんな八方ふさがりでどうしようもなかった央武は、情報に飢えていた。
「入学式が終わって何日かあとにオリエンテーションがあったんですけど……」
と、雷司のクラスメートは話し始めた。
そして、央武は雷司が行方不明になるまでの出来事を知ることとなった。
無人島でのオリエンテーション、間木田教諭の逮捕、新担任の言葉、クラスメートの突然の退学……。そして、新担任となったばかりの結城アキラがわずか2日後に退職したという。
「ご協力、感謝します」
央武は一礼して、その家をあとにした。
もう担当事件の捜査どころではなかった。
高校へ行って結城アキラについて話を聞こう、と思った。
雷司が通っていた高校は、央武の母校でもあった。場所も勝手もよく知っていた。
本来なら、職務中にこんな探偵じみた私用で動くことは許されないのだが、雷司が事件に巻き込まれた可能性があると警察で見ている以上、たとえ担当外案件であっても行動することはなにも問題ないはずだと判断した。
翌日――。
朝8時半、朝礼を終えると、すぐに署を出た。
雷司の通う南大和田高校へは、警察署から路面電車で揺られること、約30分。そこから歩いて5分ほどである。
登校時間をややすぎていたせいで、路面電車の車内にも駅からの道にも学校へ向かう生徒の姿はない。央武は懐かしい気分で、学校までの道を歩いた。
季節はすっかり初夏で、もうじき衣替えである。太陽の位置がもう高く、気温のわりには強い紫外線を放っていた。
高校時代に毎日通った道は、5年たってもあまり代わり映えせず、真新しかった家がすっかり周囲にとけ込んでいたり、古びた家がいっそう古びていたりするぐらいだった。生徒たちのたまり場になっていたコンビニをついのぞいてみたりした。
忘れていた高校時代の思い出が鮮明に浮かび上がってきた。級友たちの笑顔や、少し痛かった思春期の自分の記憶はたった5年では古びない。
校門は閉められていた。校門の外から見える酸性雨で薄汚れた4階建て校舎ではすでに授業が始まっていて、窓には授業を受けている生徒の頭が見えている。
インターホンを押した。
「はい、どちらさまですか?」
とスピーカーから声がでる。
「南栓田警察署の者です。お話しを聞かせていただけますか?」
スピーカーから息を呑む気配。警察、ときいて、何事かと思っているようである。
「はい、少しお待ちください」
待つこと1分、玄関から男性教諭が出てきた。
校門の外にいるスーツ姿の央武に目をとめる。
「お、きみは……加賀見……」
「どうもお久しぶりです、先生。おれ、今、刑事をやっています」
一応、警察手帳を提示した。
「おお、そうか――」
央武も教わったことのある、数学の教師だった。懐かしそうに顔をほころばせ、門の鍵を開けた。
「ま、入ってくれたまえ」
「失礼します」
「きょうは……」
どういう用件で訪ねてきたのか、数学教師はわかっているようだった。
「もちろん、仕事できました。聞き込みですよ」
「加賀見雷司くんのことだね?」
央武はうなずいた。
玄関から入り、スリッパに履き替えると、すぐ横にある、在学中には縁のなかった校長室に通された。
校長は不在だった。
白いカーテンのかかった窓の前に置いてある主のいない執務机には、書類入れや閉じられたノートパソコンがあった。壁際には、装飾のないスチール製の機能的なキャビネットがおかれていて、央武には読めない達筆の額縁がその上にかけられている。
央武は白いレースのかけられた応接用ソファをすすめられた。応接セットの横のサイドボードの上には、見かけ倒しの値打ちのなさそうな派手な壺が置かれてある。
「お茶でもいれようかね」
「いえ、おかまいなく。きょうは刑事として来ましたので」
「加賀見が刑事か……」
数学教師は、低いテーブルをはさんだ向かい側のソファにすわる。「立派なもんだな」
刑事といえど、教え子ということもあって、数学教師はうち解けた気分だった。
「まだまだ新米です。こうやって聞き込みに回る毎日ですよ」
「雷司くんのことは心中察します。我々も手をつくしてあちこち当たってみたんだが……」
数学教師は腕組みをし、思案に暮れている様子。
「それについては捜査記録を読みました。今回は、結城アキラさんについて聞きたいんです」
が、央武のそのひと言で、数学教師の顔に緊張が走った。
「たった2日で退職されたそうですが、住所や連絡先を、お教え願いたいんですが」
「退職というか……」
数学教師はとたんに歯切れが悪い。
「我々も当惑している。いったいどういうことなのか……」
「と、いいますと?」
「着任したのはこの4月で、産休のピンチヒッターとしての補助教員としてだったんだ。それが、間木田先生の退職で、担任をお願いしたわけだったのに――」
「間木田先生の退職理由はなんですか?」
「それは……わからない。ベテラン教師がオリエンテーションを独自におこなって、そのあと、顔を見せないまま退職願いだけが郵送されてくるなんて、ちょっとありえない。が、どういうわけか手続き上、数ヶ月前から退職することが決まっていたように書類がそろってて、まるでキツネにつままれたようなかんじなんだ」
ちょっと待ってくれ、と言って数学教師は立ち上がると、キャビネットからファイルを取り出した。ぱらぱらとめくりながらソファへ戻ると、
「これが、結城先生の履歴書だ」
今時、紙に書いたものを残していた。
央武はメモを取る。
「2人もの教師が相次いで辞めたことで、職員室にへんな噂が立ったりしたけれど、おっと、これ以上は関係ないか……」
男女間の下世話な話になりかけて、数学教師は自制した。
「いえ、どんなことでも貴重な情報です。その他に、なにか変わったことは? その前後に生徒が一人、退学してますでしょ?」
「よく知ってるなぁ」
「それも捜査資料を見ました」
「突然だったが、これも正式な退学だった」
「両親は学校にみえたんですか?」
「さあ、担任の先生が応対したので知らないが、問題はなかったと思う」
「…………」
央武は少し考え、
「ありがとうございました」
手帳を閉じ、上着の内ポケットへ入れると立ち上がった。
「また来るかもしれませんが、よろしくお願いします」
「えっ? もういいのかい?」
「結城先生を訪ねてみます」
「そうか……、まぁ、こちらもできるかぎり協力する。がんばってくれ」
ドアを開けて出て行くと、
「では、失礼します」
玄関を出るとき、チャイムが鳴った。懐かしい音だった。学校生活のすべてがこのチャイムによって始まり終わっていた。
響き渡る音色を聞きながら、央武は高校を後にした。
結城アキラの自宅は、高校から路面電車とバスを乗り継いで1時間ほどの距離の新興住宅地にあった。
5階建ての賃貸マンションである。アイボリーの壁面はタイルで覆われ、屋根はややアーチのかかった意匠を取り入れ、おしゃれな外観を演出していた。
敷地内の平面駐車場にはクルマが2台停められており、ベランダのいくつかには布団が干されていた。
正面に回ると、エントランスに入るだけでもロックがかけられていて、住人以外は入れないようになっていた。
管理人室の窓ガラスをこんこんとノックすると、奥から出てきた初老の男がガラス戸を開けてくれた。眼鏡の奥の細い目が訝しそうに央武を見ている。監視カメラの映像を映すモニタ画面がちらりと見えていた。
「はい?」
「警察の者です」
央武が手帳をかざすと、管理人はとたんに目が覚めたように言う。
「どなたにご用ですか?」
「ここに住んでいる結城アキラさんにお会いしたいんです。302号室の」
「…………そうですか。ここから呼び出してみます」
管理人は電話機を操作する。受話器を耳にあてたまま、しばらく待つこと1分。
「どうも留守のようですね」
平日の昼間だから当然だろう。
受話器を置いて、管理人は言った。
「部屋へ入ってみますか?」
家宅捜査の令状はない。だから留守なら出直すのが本当だった。
が、
「いいんですか?」
央武は訊いた。厳密にいえば、ルール違反である。だがそれがあとで問題になることはないだろうと思った。
結城アキラはなにかを知っている――。央武はそう睨んでいたからこそ、ここまで来たのだ。
「警察なら、文句はないでしょう」
管理人は権力に弱いタイプの男だった。ドアを開けて部屋から出るくると、こちらです、と玄関のガラスドアのキーを解除した。
「どうぞお入りください」
エントランスの郵便受けをちらりと見て、302号室に郵便物があふれていないかをさっとチェックする。郵便物がたまっているようなら、長期間の留守ということになる。結城アキラが退職してから1ヶ月になる。それ以来、家に帰っていないおそれもあったからだが、郵便物ははみ出してはいなかった。
奥のエレベーターにいっしょに乗った。
「間取りはどうなってます?」
「2LDKです。単身者が多いですね」
3階に着く。
ワンフロア6戸あり、ドアが一列にならんでいた。廊下から見晴らす景色は、三階建ての住宅がきれいに並んで建っていて、計画的に区画整理されているのがよくわかった。
廊下を進み、302号室の前で止まる。
表札もない、茶色のスチール製ドアは無機質で無愛想だ。
「ここですね……」
管理人は鍵の束から1つを選びだし、ドアノブの鍵穴に差し込んだ。
カチャン、と意外に大きな音が響いた。
「どうぞ……」
管理人はドアを開けてくれたが、中には入ろうとしない。それは当然だろう。
一目でなにか異様なものと知れるものがあるかどうか、という気持ちで央武は部屋の中に踏み込んだ。空き巣事件で容疑者の部屋を家宅捜索したことがあったが、それと同じようで、なんだか緊張する瞬間だった。
廊下がまっすぐのびており、左右に扉。どちかが水回りでどちらかが小部屋なのだろう。廊下の奥にリビングがある構造だ。玄関に靴はなく、きちんとシューズボックスに入れられてあるようだ。
央武はまず玄関に近い小部屋から開けてみた。リビングと違って来客が入らないプライベート空間であるから、なにか手がかりになるようなものがあるとすれば、ここだ。
雷司が行方不明になってからも1ヶ月が経過していたから、その間、なにがこの部屋であったのか――。
「!」
開けてみて、央武は驚いた。
まったくの空き部屋だったのだ。電灯もない、エアコンもない。使っているような形跡すらなかった。
一人暮らしとはいえ、一部屋をまったく使わないというのは奇妙な気がした。
央武は廊下をすすみ、奥のリビングへ来た。
が、そこにもなにもなかった。家具も家電もなければ、カーテンすらなく、日差しがダイレクトにフローリングに落ちていた。
「…………」
まるで空き家のようである。
央武は絶句した。
そして、玄関にとってかえした。
「どうしたんです? なにか見つかったんですか?」
央武の顔を見て異常を感じ取った管理人は、すわ事件か、と思って訊ねる。
「この部屋に間違いないんですか?」
「はい、302号室です」
「最近、引っ越したんですか?」
「いいえ。そんなことはありませんよ。聞いてない」
「じゃあ、これは、どういうことなんですか?」
来てみて下さい、と央武は管理人を部屋へひっぱる。
「あれ……?」
リビングを見て、管理人も目を丸くした。
「これは……どうなってるんだ? いや、そんなばかな」
央武同様、しばし声を失う。
どう見ても〝留守〟という状況ではない。管理人に知られることなく引っ越すなどということはあり得ないだろうから、おそらくこの部屋は、最初からこの状態だったと推測される。
ということは、結城アキラはここには住んでいなかった、と結論できた。しかし家賃を払ってまでそんなことをする理由となると、とたんに思考が行き詰まった。
いったい結城アキラとは何者なんだ?
ただの高校の臨時教員とは思えない。いや、教師のほうが仮の身分で本業はべつにある、といったほうがしっくりくる。
では、教師ではないべつの顔、とはなにか――。
これだけの偽装をやるには一人の力では無理だろう。背後になにかの組織がついている、と想像できた。それは……。
真っ先に思い至ったのは、戸野山が言っていた、反戦グループだった。ぼんやりとしたイメージしかない集団で、単なる同志の集まった運動家の団体ぐらいにしか思えなかったが、雷司を長期間匿ったり(戸野山の話が事実だとして)、このような偽装をしたりと、意外と大きな組織なのかもしれないと、央武は初めて不気味さを感じた。
もちろん、結城アキラが反戦グループのメンバーであるとの証拠はなにひとつ出ておらず、央武の勝手な想像にすぎないといえば、たしかにそうなのだが、可能性はじゅうぶんにありそうだった。
雷司が行方不明になっただけではなく、その前日に退学したクラスメートがいた。そして結城アキラの退職。それらが連日に起きた、というのが偶然とは思えない。
なにが起きているのだ?
「管理人さん」
「あ、はい」
「この部屋を借りたときの契約書がありますよね? それを見せてもらえませんか?」
「はい、よろしいです」
管理人は素直に承諾した。この異常な事態に、ただ事ではないと感じていた。
いっしょに管理人室に戻った。
「ここにあるのがそうです」
と言って机の引き出しから管理人が出してきたのは、アパートの契約書である。
引っ越す前の住所や電話番号、保証人の名前と連絡先などが記入されている。
「これが虚偽かどうかは、確認するんですか?」
央武は訊いた。
「不動産屋さんからのコピーですので、いちいち確認しません。情報が古くなってしまうでしょうし、保証人が亡くなってもこちらにその知らせがくることはないですし……。入居されてしばらくの間に、なにかあったときのためのもので、通常、これを使うことはないですね」
央武はウェアラブルモバイルにそれらを入力していった。
住所は存在したが、宛名は違っていた。電話番号は存在していなかった。しかしそれは情報が古くなってしまっているからかもしれなかった。最初から虚偽だとは断定できない。もっと詳しく調べてみないとなんともわからない。
「協力、ありがとうございました」
まずは、その住所に当たってみるか――。
もし過去に住んでいたとすれば、近所に知っている人がいて、結城アキラがどんな人間なのかも明らかになってくるだろう。
央武は丁寧に礼を言って頭を下げ、マンションを出る。
住所はかなりの遠方だった。
――どこかで昼ご飯でも食べよう。
そう思って歩き出したとき、意外な人物を見て、その足が止まった。
「五條課長……」
央武は絶句した。まさか、と思った。偶然というには不自然で、央武を追ってきたとしか思えなかった。
「やぁ、精が出るねぇ」
と、右手を上げ、陽気に言った。
「これから昼飯か? どうだ、いっしょに」
「は、はあ……」
まずいな、と央武は思った。
こんなところまでやって来て、担当事件の捜査でないことは明らかだった。部下を監督する立場である五條課長にとって、これは指導すべき事態だ。
気まずい雰囲気を感じつつ、住宅街から近くの商店街にまで移動した。スーパーマーケットを中心に大小さまざまな商店が建ち並ぶ、地元の生活基盤だ。靴屋、クリーニング店、書店、自転車屋、整体、歯医者、薬局、電器屋……。
中華料理屋があった。陽の当たった料理のサンプルは変色してちっともおいしそうに見えなかったが、課長はそこへ入っていった。央武も入る。
十五人も入ればいっぱいになるぐらいのこぢんまりした店内は、壁紙が油で薄汚れていた。客は、労働者風の四人がカウンター席にいて無言で食事をむさぼっている。
二人掛けのテーブルについた。
「日替わりランチ」
と、課長はお冷やを持ってきた女性店員に注文する。
「じゃ、おれも同じのを」
メニューを見るのが面倒なので央武もならった。
「はい、日替わりふたーつ!」
女性店員は、そこまで声を張らずとも聞こえるだろうに、大きな声でそう言った。カウンター席の向こう側の狭くるしい厨房にいる、この店の主人らしいオヤジの女房のようだった。
おしぼりで手を拭くと、なあ、加賀見、と課長。
「そっち方面に首をつっこむのは、控えてくれんかな……」
そう切り出した。
「と、いいますと……」
「わかってるだろう」
じゅわあ! という音が厨房から聞こえ、見ると中華鍋から威勢よく湯気が上がっている。
「雷司くんのことだよ……。気持ちはわかる。だがうすうす感じているだろうけれど、この件はおまえさん一人でどうにかなるもんじゃない」
「あきらめろ、ということですか?」
「おれは、戸野山に続いて、おまえさんまで失いたくないんだ。こんなきつい仕事を三年も辞めずにやってきた、将来有望な若手なんだからな」
警察官は激務だ。数年で辞めていく者があとを絶たない。
「五條課長……」
央武は思い切って訊いた。
「課長は、どっちの味方なんですか? 警察や一般市民ですか、それとも思想警察ですか?」
五條課長はスーツの内ポケットからマルボロの箱を取り出した。一本抜いて、ライターでゆっくりと火をつけた。煙を深く吸って、吐く。煙草を吸いたかったからこの店を選んだのかもしれなかった。
「それにはこたえられない。それがおれのこたえだ。だが――おれも刑事として長年やってきた。仕事には誇りをもっている。それだけは間違いない」
「弟は、いつか、帰ってくるんですか? その可能性はあるんですか」
「なんともいえない。すまん」
「…………」
央武は、はっきり言ってくれない五條課長の態度が歯がゆかった。
「おまちどうさま」
日替わりランチが運ばれてきた。トレーの上には天津飯と回鍋肉が載っていた。
「これはうまそうだ。さぁ、食おうぜ」
五條課長は煙草を灰皿に押しつけ、レンゲをとると、湯気のたつ天津飯をかきこむように食べ始めた。
央武はまだ話し足りなかったが、割り箸をとり回鍋肉をついばんだ。やたらと辛かった。
中華料理屋を出ると、五條課長は、じゃあな、と去っていった。べつの捜査があるということだった。
一方の央武は、一度署に帰ることにした。
あからさまに、関わることを釘を刺されてしまい、思考停止状態に陥っていた。
ここまで調べたことで、わかったことはなにもない。結城アキラに話を聞くに至っていないし、その手がかりもない。
これから旧住所や出身校等、たどっていくところはいくつかあったが、それをしてはいけないとなると、央武は肩を落とすしかなかった。
刑事という職業柄、他の人にはできない特別な権限を与えてもらっているというのは幻想にすぎなかった。こうなったら、私立探偵に大金をわたして調査してもらうしかないかもしれないが、それをしようとするとまた横槍が入る可能性があった。
戸野山は反戦グループ
五條課長は思想警察
日常の生活を送りながら、それぞれの組織につながりある。それがどの程度深いのかは知るよしもないが、央武にとってそれは目から鱗の事実だった。
身近な人間が関わっているとなると、おそらく一般市民のなかにも相当な人数の関係者がそれと知られず活動しているということになるだろう。
双方の組織は思っていたよりもよほど巨大だということだ。
そんな事実をこれまでまったく知らなかった。そのことに央武は驚くとともに、国の裏の姿を垣間見た思いだった。しかもその正体には近づけないとくる。
路面電車を乗り継ぎ、南栓田署に帰ってきた。ブルーな気分だった。
刑事課の部屋には入り、席に戻ると、散らかった央武の机の上に一通の郵便物が届けられていた。手に取って見る。宛名はない。ダイレクトメールのようにどこかの企業名が印刷されている定形型封筒である。
「なんだろ?」
ここに来て郵便物など受け取ったことなどない央武は不審に思いながらもハサミで封をあけた。
「なにっ」
便箋をひろげ、央武は思わず声をあげた。
それは戸野山からの手紙だった。ネットを使うと間違いなくモニタされるところから、こんなアナログな手段を用いて連絡してきたのだ。近くから投函されて担当局内で配られる郵便物までいちいち開いて閲覧する人材を確保するのは、いくら思想警察をもってしても無理に違いない。しかもダイレクトメールに偽装までしている。
たった一枚の便箋に文面は短く、
「5月23日、砂田線鬼ヶ坂駅・午後4時ちょうど発の松沢口行きの快速電車の先頭車両内で待つ。そこで話をしよう。もちろん、加賀見ひとりで来てくれ」
とあった。間違いなく戸野山の字だった。なにかの罠である可能性はないとみた。
5月23日といえば今日である。このタイミングで送ってきたのだから、ずいぶんと計画的だ。
央武は壁の時計を見る。午後3時前。今から出かければ、鬼ヶ坂駅に行くには間に合うだろう。
コーヒーの一杯でも飲みたかったが、のんびり休憩している暇はなくなった。
いましがた帰ってきたばかりの央武がまた外へ出て行こうとするのを、同僚が「えっ?」という顔で見送る。
竹露市内のメイン道路を通る路面電車は、市の中心地の砂田線鬼ヶ坂駅を中心に広がっていた。鬼ヶ坂からは線路が近隣の市へと伸びていた。鬼ヶ坂駅のある砂田線は県庁へも通じているが、戸野山が乗れと指示する松沢口はそれとは反対方向だった。郊外へと向かう電車だ。
警察署を出た央武は路面電車の駅に行く。
待つこと10分、鬼ヶ坂駅行きの路面電車が来た。
つり革につかまりながら、もしかすると帰りは夜……あるいは今日は帰れないかもしれないな、と思った。
25分ほど乗って、鬼ヶ坂駅についた。駅前のロータリにはバスが数台止まっており、そろそろ学校帰りの生徒がちらほらと見受けられる。
30年以上前に建てられた古びた駅舎は、傷んだ場所の補修跡があちこに見受けられて雨漏りでもしそうだった。
自動改札機を通ると、ホームにでる。
松沢口行きは跨線橋をわたって線路をはさんだ向こう側である。
時刻表によれば、この時間は15分に一本のダイヤである。快速と普通が交互にやってくるから、タイミングが悪いと30分も待たなければならなくなる。当駅16時発・松沢口行きの快速電車を確認した。15分前。
央武は待った。
ホームにはちらほらと電車を待つ利用客の姿。それぞれがウェアラブルモバイルを動かしている。各自、ゲームやら動画やらニュースやらSNSやらで暇をつぶしていた。
やがて、白いボディに赤いラインの入った2両連結の車両がよたよたと駅に入ってきた。
ホームの停止位置にピタリと止まった。ドアが開く。
電車の乗客が降りるのももどかしく、車内へと飛び込んだ。左右に視線を走らせて、戸野山を捜した。2両しかないし、満員でもない。すぐに見つかるはずだった。
央武は、動き出した車内を移動しながら血走った目で捜す。
「よお、加賀見」
ふいに声をかけられた。
振り向くと、ヤンキースの帽子をかぶったヒッピーのようなひげ面の男が、ドアの側に立っていた。
「戸野山さん……?」
まったく気がつかなかった。それほど違っていた。服装も、5月とはいえまだ肌寒いときもあるのに、半袖Tシャツに短パンである。
声を失っていると、
「まだまだ甘いな。そんなことじゃ、容疑者を取り逃がすぞ」
当然ながらわかりやすい格好はしていないだろうとは予想していたが、これほどまでとは……。央武は舌を巻いた。
「よく来てくれたな。間に合わないかと思ったが」
戸野山は帽子を取り、長く伸びた髪をかき上げる。
「戸野山さん、この1ヶ月、どこでなにをしていたんですか!」
「まぁ、そう大声を出すな。車内は静かにしようぜ」
「…………」
央武は周囲の視線を集めていることに気まずくなり、押し黙る。
戸野山は窓の外を流れる町並みを眺める。ゴトンゴトン、とレールの継ぎ目を通過する規則的な音が車内に響いている。
こんな変装をしなければならないとは、相当危険な立場にあるだろうとの想像に難くなかった。どんな危ない橋をわたってきたのか、反戦グループの活動がいまひとつわからない央武には想像もできなかった。
いったいどこでなにをしてきたのか――そのこたえを待つ央武だったが、戸野山はなかなか口を開かなかった。
やがてぽつりと言った。
「加賀見の弟さんの居場所がわかった」
「!……」
央武の目が見開かれる。
「会ったんですか?」
勢い込んで訊いた。
「いや、会ってはいない。残念ながら思想警察に逮捕された。そして、収監されている場所がわかった」
央武は唇を噛みしめた。
「詳しくはここに書いてある」
戸野山は一通の封筒を差し出した。央武の机に置かれていたものと同じ企業名の入った封筒だった。
「すまん。こんな報告しかできず。我々で保護していると言っておきながら、護れなかった」
央武はそれを受け取り、額にいただいた。
「ありがとうございます……」
わざわざ調べてくれたのだ。しかもこんなことまでして央武に知らせてくれた。それがありがたかった。
「弟さんがそこでどんな生活をしているかまではわからない。無事であるかどうかも。場所がわかったところで、会いに行けるわけでもない。言うまでもないが、その場所は思想警察にとって極秘の施設だ。おれとしては不用意に接触すべきではないと思っている」
「忠告、痛み入ります」
だが、それがわかっていながら、場所を教えてくれたのだ。
央武は封書をその場で開けた。
じっくりと読む。
「ここは……」
意外な場所だった。
「それと、話はほかにもあるんだ」
戸野山は再び窓の外に視線を送る。住宅の多い郊外から、いつしか田園風景が広がっていた。田植えを終えたばかりの田んぼが緑に光っていた。
「反戦グループは、今年中に、大規模な活動をおこなう。それによって一時的だが世の中は混乱する。だが、人々は目覚めるだろう。国にいいように操られていたと気づき、価値観が崩壊するかもしれない」
「革命が起きるというんですか?」
戸野山は小さく、だが力強くうなずいた。
「世迷い言だと思うな。その準備は慎重にすすめられてきた。おれたちの仲間は意外と多い」
「しかしそれはテロ行為では?」
「おれを逮捕するか? 今の法律ではおれを裁けない。今のうちに言っておく。自ら考え、行動できるようにしておけ。ネットに頼らず、自分で判断できるようにな」
「…………」
「おれの話はここまでだ、この次の駅で降りる。加賀見はどうする?」
快速電車のスピードが落ちてきた。まもなく駅に到着すると、車内アナウンス。
「おれは、終点まで乗っていきます」
「そうか。そう言うだろうと思ったよ」
電車が駅に滑り込み、島状のホームに停車した。
ホームの向こうに折り返しの電車が停まっていた。同じ型の2両連結。
ドアが開く。
「じゃあな。もう、会うこともないだろうけど、元気でな」
そう言い残して、戸野山は電車を降りる。
もう会うこともない――。
「戸野山さん……」
今生の別れになるとは思っていなかった央武はあわてて、
「また、いつかきっと戻ってきてくださいよ!」
向かい側の電車へと乗り込む背中へと呼びかけた。
戸野山は振り返らず、右手を上げて応える。
電車のドアが同時に閉まり、それぞれ、反対方向へと動き始めた。
☆
終点、松沢口駅。
海岸にある漁港の駅である。ここから先には線路はない。
日の長いこの時期でも、もう夕方になっており、電車の影が落ちるホームに央武は降り立つ。西日がまぶしい。
央武がここへ来た理由は――。
戸野山にもらった封筒から1枚の便箋を引っ張り出した。そこに書いてある、雷司の居場所は――。
思想警察の思想犯収容所がこの海の向こうにある小島にあった。糸亀島――という名の無人島であったその小島に収容所が極秘に建設されたが、表向きは防衛省の機密施設としていたため、無断で近づくことは許されていなかった。特に今は戦時であるということから、余計に警戒が厳重になっていた。
そこに雷司がいると、戸野山は書いていた。もちろん、今日ここで雷司に会うことは不可能だ。小島に近づくことさえできないだろう。だがそれでも……。
央武は小さな木造の駅舎を出る。
駅前だというのに商店のひとつもなく、漁港へ続く道が一本、伸びているだけだった。
人通りは皆無だった。まだ夕方だというのにうら寂しい。
歩いていくと、足元からのびる長い影がついてくる。
2分ほどで漁港についた。水揚げされた魚を集積する古びた建屋は崩れてしまいそうだった。早朝なら魚を買い付けにくる仲買人たちの声が賑やかに聞こえてくるのかもしれなかったが、今はひっそりとしている。
コンクリートで整備された海岸には何隻もの小型漁船が停泊していた。だが船上にも岸辺にも人影はない。
漁師たちの仕事は未明に始まり、昼すぎに終わる。この時間は活動していないのだ。
タイミングがよければ船に乗せてもらい、島の近くまで行けたかもしれないが、今日のところは無理のようである。
それならだれかに話でも聞ければと見回すものの、だれもいない。
央武はいくつかの島影が浮かぶ水平線を見つめる。
傾き掛けた太陽が赤く色づき始めており、海面がぎらぎらとまぶしい。
この海の向こうのどこかに雷司がいる――。
狭い監獄に閉じこめられて過酷な暮らしを送っている様を想像すると、早く助け出したい気持ちが胸の奥からこみ上げてきた。そして、それができない自分が歯がゆかった。
漁船に乗せてもらって島に近づいたとしても、それ以上はなにもできないから、どのみちここへ来る意味もないのだが、それでも央武は来てみたかった。雷司の気配すら感じられなくても、央武が来ていることを知らせる術がなくとも、せめて同じ海の匂いぐらいはたしかめてみたかった。
「あの……ここで、なにをしてるんですか?」
ふいに声がかかって、央武は振り向いた。
数人の日焼けした顔の男たちがいた。皆、漁師のようだった。防水性の上下のつなぎに、ゴム長を履いて。
央武が一人で岸壁に立っているのを不審に思い、徒党を組んでやって来たようである。もしや敵国の工作員かもしれない、と。警戒心が顔に表れていた。いまにも飛びかかってきそうで、いくらトレーニングを積んだ央武といえども、屈強な漁師数人でかかれば取り押さえられてしまうだろう。
央武はスーツの内ポケットから警察手帳を取り出す。
「警察の者ですが……糸亀島はここから近いですか?」
刑事と知って驚く漁師たち。そして、糸亀島と聞いて、互いに顔を見合わせる。
「ああ、知っているとも」
ややあって、あご髭を生やした青年がこたえた。「でもあそこは、防衛省の管轄で、周囲3キロ以内には近寄ってはいけないことになっています。そこで……なにかあったんですか?」
「捜査中ですので、詳しくはおこたえできませんが……その、防衛省の管轄は、いつからなんですか?」
「15年ほど前です。戦争が始まってすぐのことです」
「あそこで働いている人とか、知っていますか?」
漁師たちはまたも顔を見合わせた。言っていいのかどうか躊躇っているようだった。
「ここからはあそこに通う人なんかいやしません」
「あの……刑事さん、我々がなにか言ったということは……」
年配の禿頭が不安を口にした。口止めされているのかもしれない。
「それは安心してください。捜査上の秘密は守ります」
央武は請け負った。
「あの島に接岸するのは昼間の、おれたちが漁をしていない時間ばかりで、よくは知らねぇさ。ただ、小型のワークボートが多いよな」
うなずく漁師たち。
「そうですか……」
手帳にペンで書く央武。ウェアラブルで会話を録音するのが普通だったが、今はそれをしなかった。クラウド領域に保存された録音内容をだれかに聞かれていないとも限らない。
「たいへん参考になりました」
手帳を閉じ、礼を言う央武。
なにか情報を探りにきたわけではなかったのに、つい聞き込みをしてしまった。こんなことを聞いても、どうにかなるわけでもないのに――。
なんとなく気まずい思いで漁師たちと別れ、駅へと戻る。
夕映えに浮かぶ駅舎に電車はなかった。
駅舎内で空白の目立つ時刻表を見ると、次の電車は1時間後に出ることがわかった。しかもこの時間なのに最終である。
ホームのベンチに腰を下ろす。日は水平線の向こう側に沈み、残照が薄暗くホームから見える漁師町を浮かび上がらせていた。思想警察のきな臭い活動とは縁のなさそうな町の風景がそこにあった。すぐ目と鼻の先に思想犯を隔離しておく牢獄があるとは思えないほど落ち着いた景色。
央武はため息をついた。
寮に帰り着くころには、深夜になっているに違いなかった。
いつか元の生活に戻れる日がくるのだろうか……。
そう、いつか戦争が終われば……。
いや、いつまでも終わらないかもしれない。
戦争によって保たれる秩序――。
さっきの漁師の男たちを思い出しながら、平和な町の暮れゆく風景を眺めた。
戦争が継続しているからこそ国民の意識が折り目正しく維持される……。戸野山の台詞が思い出された。
――自分が死ぬ頃になっても、戦争は終わらないかもしれない。
2両連結の電車がやってきた。それが最終電車として発車するのは、40分後だ。
央武はベンチから立ち上がり、到着したばかりの電車から乗客が降りるのと入れ替わりに乗り込んだ。
自分ひとりでは雷司に会うこともできそうにない。戸野山と連絡をとり、反戦グループとともに活動するしか手はなさそうだが、それをすれば央武自身、すべてを失いかねない。刑事としての実績も職も。それに、救出したとしてもそのあとが厄介だった。
思想警察から狙われないように元の生活に戻るにはどうすべきかをあらかじめ考えておかなければならない。逃げ隠れする生活なぞ御免である。
とはいえ、なんの後ろ盾もない央武に、そんな都合のよい手があるわけもなく、月日は無情に流れていった。
そして、とうとう事件が起きた。
7月――。
夏の日差しにすっかり慣れっこになり、梅雨の終わりと同時に鳴き出したセミの声を、早い朝っぱらから聞かされるようになって。
その日、いつものように央武は寮の部屋で朝を迎えた。4人部屋で、二段ベッドが狭い部屋に窮屈そうに収まっていた。
上の段に寝ていた同僚が大きな声を出したので、それで目が覚めたのだった。
まだ起床時間前である。
ほかの二人もその声で起こされ、
「なんだよ、朝っぱらから」
と不満そうな口調で文句をたれる。
「たいへんだ、ネットが壊れている!」
「?」
それで、各自、ウェアラブルモバイルを作動させる。
ほとんどのサイトで情報が抜け落ちていた。ニュースも、SNSも、空っぽといっていいぐらいだった。
「どうなっているんだ?」
央武は不審がる。が、次の瞬間、思い当たることがあって寝床から飛び起きた。
戸野山が言っていた、「ネットの情報は国が都合のいいように作ったものだ」という言葉だった。
これは反戦グループによる大規模なサイバーテロなのか!
突然、部屋のドアが強いノックと同時に開いた。
「おい、みんな起きろ!」
別の部屋の同僚が飛び込んできた。
「たいへんだ、食堂へ集まれ!」
央武たちはてきぱきと着替え、食堂へと集まった。
寮生長の先輩警察官が待っていた。ものの2分ほどで寮生全員がそろった。
それを目で確認して、寮生長は口を開いた。
「みんな聞いてくれ。たった今、敵国の軍が大規模な侵攻作戦を開始したらしい、という情報が入った。国境を越えて進軍している」
どよめきがもれた。
最も衝撃を受けたのは央武かもしれない。
――戦争は終わっているのではなかったのか?
戸野山は確かにそう言った。あれは嘘だったというのだろうか――。だとすると……。
戸野山の言ったことの一から十まで疑わなければならなくなった。央武を騙していたとして、ではなぜ……。
ショックのあと、怒濤のように押し寄せる疑問を吟味している暇はなかった。
寮生長の言葉は続いている。
「しかも何者かによるサイバー攻撃によってネットが一部システムダウンしているため、情報の収集は混乱を極めている。そのため戒厳令が出されると思われる。各自、直ちに所属の署へ出頭し、指示を待て」
「はい!」
全員、気合いの入った返事。
――サイバー攻撃だと?
おそらく、それは反戦グループだろう、と央武は見当をつけた。
しかし、それと時を同じくして敵軍の侵攻だって……? ネットがダウンしているということは国防軍の行動にも大きな影響が及んでいるかもしれない。
「おい、加賀見、なにをやってるんだ、行くぞ!」
考え事をしている央武を同僚が注意した。
「ああ、わかってる」
だがこのとき、だれも事態の深刻さをわかってはいなかった。
この国の歴史に大きな1ページが加わる、その瞬間が始まろうとしていることに――。