第5章『逃避行』
加賀見雷司はまる一日、その部屋にいた。
なにもすることはなく、退屈をもてあましていた。ネットへの接続も禁止され、雷司の相手をしてくれる者などいなかった。
部屋には黒村理衣子と棒田千佳がいたが、二人とも忙しそうにあちこちに連絡したり、パソコンを操作したりしていた。
大人である棒野はともかく、高校生で雷司と同じ歳である黒村が、いったいどんな役割を与えられているのか、またはなぜ自らすすんでこの場にいるのか、雷司にはよくわからなかった。
ただ、観察しているうちに、かれらがなにか途方もないことをしようとしている、というのはひしひしと感じられた。
きのう、棒野が話したことはすべて事実なのだろうか――。
そう疑問に思いつつも、雷司にはたしかめる術がない。
その内容があまりにショッキングであったがために、うっかりすべて信じてしまうところだったが、考えてみれば、事実であるという証拠はなにもない。たしかに雷司は何者かに捕まりかけたが、それが思想警察とは限らないし、ただの営利誘拐犯である可能性もあるし、もっとうがった見方をするなら、すべてが棒野らがしくんだ芝居だったかもしれない。
疑い出すとキリがなかった。
とはいえ、だからといって、隙をみてここを抜け出して家に戻るのも躊躇われた。棒野の言うことが本当なら、雷司の身は危ないのだ。思想警察に捕まったら最後、二度と出てはこれない、というのも、ありそうといえばありそうで、否定しきれない。
ともかく、信じる信じないはとりあえずは棚において、しばらくは様子を見ることにした。
時計が進んだ。
やがて、夜になった。
「まだ出ないのか?」
というと、まだだ、というこたえる棒野。
「裏口から出て、民家の間の細い隙間を通ってマンションから離れたところへ出たら、そこでクルマに乗る」
と、脱出プランだけは教えてくれた。正面玄関から出て行かないのも、かれらの警戒心の強さを物語っていた。
「ここのところ、思想警察の動きが激しいんだ」
そう言う棒田たちがなにをやろうとしているのか、具体的にはよくわからない雷司だったが、
「思想警察に対抗しようとしても、そんなことできるの?」
黒村にそっと訊ねてみた。
「できるからやっているのよ」
黒村はそうこたえてくれたが、思想警察の組織力に対抗できるほど反戦グループの勢力が大きいとは雷司には思えない。いくら一般市民を扇動しても革命など起こるとは思えなかった。今の国民は、そんなに国に対する不満を持っていない――そう雷司には思えた。それは雷司自身がそう思っているから。
戦時であるとはいえ、それで国民が苦しんでいるかというと、そうではない。我慢を強いられているかといえば、一部では若干不自由さがあるかもしれないが、おおむね国民は今の社会に満足している。むしろ全面戦争に発展していないことを評価していた。
もちろん、心の中では戦争など早く終わってくれればいいと思ってはいても、それを声高に主張するのは大勢から外れていた。周囲から奇異な目で見られてしまう。そういった浮いた存在になることのほうが嫌だと感じるのが普通だった。
「黒村さんは、なんで反戦グループに同調できるの?」
率直な質問だった。
「思想警察のやり方が許せないからよ」
黒村はこたえた。
たしかに思想警察は過激だった。いくら思想的に危険だといっても、なにも連行することはないと思う。間木田教諭がなにをしたというのだろう――もしかしたら敵国の工作員と間違われているのかもしれない。
時計は午前2時を回ろうとしていた。
「そろそろ出るわ。用意して」
棒野が言う。昨夜も遅くまで起きていて、いったいこの人はいつ眠るのだろうと雷司は不思議がる。
誘拐されるようにここに来ていた雷司は、当然、長く家を空ける予定ではなかったから、なにも私物がなかった。着替えさえない。が、驚いたことにそれがここに用意されていた。
きのうと同じ服ではマズイということで、着替えることに。高校生とは思えない黒いスプリングコートを着せられた。
「おれは、いったいどこへ連れて行かれるんだ?」
それをまだ教えてもらっていなかったから、そろそろ教えてくれてもいいと思って訊いた。
「ちょっとばかり松露市内から離れた場所だ。黒村がいっしょだから、不安がることはないさ」
隣の部屋で着替えていた黒村がドアを開けて入ってきた。雷司と同じように黒いコート。夜に紛れられるという算段なのだろうが、怪しさ満開だった。
「うんうん、なかなか似合ってるじゃないか」
棒野は満足そう言ったが、雷司にはそうは思えない。どことなく着せられている感がぬぐえない。
「じゃあ、二人とも、行っといで」
送りだそうとする棒野は、「お世話になりました」と頭を下げる雷司に、
「これからは、あんたにも働いてもらうよ」
まるでアルバイト先の店長のような笑顔で言うのだった。
マンションの裏口に回った。真夜中に、民家と民家の間の狭いところを、まるで猫のように抜けて道路に出た。
すると、計ったかのように1台のクルマが滑り込んできた。
青のインプレッサ。見たことのあるクルマだった。
昨夜、雷司を乗せた高校の新担任・結城アキラが運転席から顔を出して、
「乗って」
「先生もメンバーなんですか?」
黒村といっしょに後部座席に乗り込み、雷司は訊いた。
「それは聞かないほうがいいわね」
結城はアクセルを踏み込む。ダッシュボードに置いたラッキーストライクの箱が滑り落ちた。
秘密、秘密、秘密……謎、謎、謎。真実がどうなっているのか、わからなくなってきている雷司だった。
「郊外って棒野さんは言ってたけれど、どこへ行くんですか?」
雷司には具体的な場所は教えてもらっていなかった。不安はなかったが、知っておきたかった。
「それは秘密」
雷司はいささかムッとした。
「どういうことですか? 信用ないですよ」
「あんたが思想警察に捕まったって、反戦グループは知ったこっちゃない。でも、わたしは個人的に加賀見くんを助けようとしているの。無理に匿ってもらっているわけだから、反戦グループの意向には従ってちょうだい」
「………」
雷司は黙った。なんだか「組織」というものの性質をかいま見た思いだった。
クルマは闇を切って進んでいく。
時間は午前3時を回り、雷司もさすがに眠ってしまった。
目が覚めたとき、すでに日は高くなっていた。
窓を通して入ってくる日差しが遠慮なく顔に当たって、まぶしさに体を起こした。
「おはよ。よく眠っていたね」
声をかけられた。
「あ……」
黒村に寄りかかって眠っていたらしかった。
気まずく思っていると、黒村はとくに気にもしない様子で、
「もうすぐ到着するわ。到着したら朝ご飯にしましょ」
雷司は窓の外を見てみる。山の緑が目に飛び込んできた。
新緑の木々が山を埋め尽くし、その手前には田植えをひかえた田んぼが広がっていた。山の里の風景だった。
ちょっとばかり郊外、どころの話ではなかった。
「ずいぶん郊外に来たんですね」
フロントウィンドウに視線を向けると、舗装の古いまがりくねった田舎道だった。対向車もいない。山に囲まれたのどかな田舎の風景である。
急ブレーキがかかった。
シートベルトが体に食い込む。
「どうしたの?」
黒村が訊いた。
「やつらよ」
結城は短く言った。
「思想警察?」
雷司は、まさか、と思った。こんな田舎で待ち伏せしているなどとは信じられなかった。
「まずいわ。たぶん、向こうもこっちに気づいている。ここで降りて」
結城が言う早いか黒村はドアを開ける。
「加賀見くんも」
腕を引っ張られた。転がり落ちるようにクルマを降りた。どうにも黒村は加減を知らない。
二人して田んぼの畦にふせた。ちょうど紅葉の木が植わっていて、隠れるには都合がよかった。
「うまく逃げるのよ」
「先生もね」
「まかせて。わたしのドライビングテクニックで逃げ切ってみせるわ」
ドアを閉じる黒村。
「では……」
結城はラッキーストライクを一本くわえ、火をつけて大きく煙を吸い込んだ。
「行きますか……」
と、つぶやく。
インプレッサは弾かれるように発進した。
三〇メートルほど先の辻を左折した。
すると、百メートルほど先の民家の影から黒いワゴン車が飛び出してきた。
猛スピードで、結城のインプレッサを追いかけてゆく。
2台のクルマはあっという間に視界から消えていった。
黒村が紅葉の枝に捕まりながら立ち上がり、畦から道路へ出た。
「行こう」
「行こうって、アジトへ?」
雷司も道路へ出て、問う。
「アジトには行けない。たぶん、思想警察に張り込まれている」
「だろうね……」
雷司は肩をすくめた。「じゃあ、どこへ行くっていうんだい?」
こんななにもない田舎に来て、移動手段もなしに置いていかれて、どうすればいいか途方に暮れてしまう。
「捕まるわけにはいかないわ。捕まったら最後だもん」
「でも……逃げ切れるのかい?」
組織力という点でいえば思想警察のほうが勝っているだろう、たぶん、圧倒的に。結城が逃げられるかどうか……。逃げ切ってほしいとは思うものの、予断を許さない状況だ。
「逃げるしかない。いつか、この国が変わるまで」
黒村は自身に言い聞かせるかのように、そう言った。
「変わるまでって……」
雷司はつぶやく。本当にそれが実現できるのだろうか。彼らが真剣なのはわかった。しかし可能性を考えると、首をかしげざるをえなかった。雷司には、世界を変えるなどというのは夢物語のように感じられて。
客観的にみて、おそらくほとんどの人間がそう感じるに違いないと雷司には思えたし、いつか思想警察に全員が逮捕され、反戦グループは破綻する日を迎えるのではないかという気がしてきて、先を進む黒村の後をついて歩きながら、暗い未来に憂鬱な気分になるのだった。
それはともかく、当面の問題として、これからどうするのか、どこへ行くのか――。
雷司には現金の持ち合わせがなかった。ウェアラブルで決済するのが普通だったから、財布を持っていないのである。しかしここに来て、電子決済は危険だ。一瞬で居所を割り出されてしまうだろう。
黒村はわずかに現金の持ち合わせがあったが、それでは交通機関を利用しての移動には足りなかった。もっとも、バス停すら容易に見つからない田舎である。あったとしても一日に数便しか走っていないでは使えなかった。のんびり待っていたら、たちまち思想警察に見つかってしまうだろう。運よくバスに乗れたとしても、そのバスに思想警察の捜査官が乗り込んでいないとも限らない……そうなると、公共交通機関は危険な気がした。
まだ朝食にもありつけていなかった。都会のようにどこにでもコンビニエンスストアがあるわけではなかったから、おにぎり一つ簡単には手に入らない。もっとも、コンビニの店内にある防犯カメラの映像は十中八九チェックされているだろうから不用意に近づくわけにはいかない。
そんなわけで、二人は空腹を抱えながら歩いていくしかなかった――目的地もなく。
勝ち目のない戦いだ。
そう雷司は思った。まるで落ち武者である。
潔く思想警察に捕まったほうがラクではないか――。いくらなんでも法を犯した犯罪者ではないのだから、地獄のような扱いを受けるわけはないだろう。
が、信念を持っているであろう黒村の後ろ姿を見るにつけ、説得するのはむずかしいだろうと思った。
代わりに声をかける。
「どこまで行くんだ?」
「どこか、人目につかないところよ」
黒村は振り返ることなく、こたえた。
雷司は最悪の事態を想像した。逃げ回っているうちに野垂れ死にである。そんな最期はご免だった。
黒村は歩みを止めた。そして回れ右して雷司を振り返った。
「ごめんなさい。もっと安全に逃げられる算段だったのに」
深々と頭を下げる黒村に、雷司は動揺してしまう。
「そんな! 黒村さんのせいじゃない!」
黒村を責めているつもりはなかった。黒村が一人で罪を被っても、それで心が晴れるわけではないし、思想警察に目をつけられた理由は、黒村のせいではなく雷司自身の行動が原因だと今となっては自覚していた。
「いいえいいえ!」
黒村はかぶりを振った。「もっと学校で、きちんと話をしていればよかった。そうしたら準備もできて、こんなことにはならなかった。へまをしたのはわたし」
雷司は黙った。
黒村をなだめるように訊いた。
「黒村さんはどうして反戦グループに入ったりしてるんだ? そんなものに関わり合う必要があったの?」
黒村は即答しなかった。
こたえられない複雑な事情を想像して、雷司は重ねて言った。
「自首しよう。思想警察だって鬼じゃない。きっとわかってくれる。おれたちは危険な思想なんかもってないって」
「それは無理よ」
「なんでわかるんだ?」
「思想警察に逮捕されて、帰ってきた人はいないもの」
「それは、黒村さんが知らないだけで……」
「わたしの両親は、帰ってこなかった」
「!……」
黒村のセリフが雷司の心に重く響いた。
思想警察の怖さというのを雷司よりもずっと身にしみていて、だからこそこれほどまでに……。
「わかった、黒村さんの言う通りにするよ」
それ以上は言わず、雷司は決意した。
どこにいるかわからない思想警察の手から逃れるには、人の目に届かないところがよい。ありふれた、善良な一般市民のフリをした思想警察だっているだろうし。
山の中に入った。
高齢化により、山に近い側の農地が次第に放置されるようになってきていて、そこなら人目もたしかにないだろう。将来はともかく、当面はそこでなら身を隠していられそうだった。
とはいえ、雨露をしのげる場所が必要だった。
ウェアラブルで地図を呼び出し、どこかないかと検討した。
「ここがいいわね」
黒村が見つけた場所を雷司に伝えた。受けた情報を見て、雷司はうなずく。
廃校になった小学校だった。今は、なにも利用されていない。
「とりあえず、そこに落ち着きましょう」
黒村の提案に意義はなかった。
ここから10キロほどもある。しかし、歩くしかない。
道中は無言だった。いつ黒いワゴン車が現れるかとの不安が常に胸中にあり、周囲を警戒しながらの行軍だった。
4月の日差しは暖かだったが、風が吹くとまだ寒さが残っていた。とくにこんな山間部だと平地よりも気温が低い。
山の間の道路を行くこと、2時間。目的の建物は、道路から外れた坂道の上にあった。広い運動場を確保しにくい山の中にあって、なんとか場所を確保して作った小学校。
もはや通う生徒もいない校門へとつづく舗装された道路は、ひび割れたところから雑草が長く伸びきっていた。雷司と黒村は足を踏みしめながら急な坂道を上っていった。
施錠されていない校門の向こうに広がる小さめの運動場が一面雑草に覆われていた。端のほうには長くのびた蔓が這って、緑が運動場を飲み込もうとしていた。
運動場の端の、山の森を背に建つ木造の平屋建て校舎は、前世紀の佇まいである。
近づいていくと、あちこちが傷み、うち捨てられた建物独特の廃墟感がハンパではなかった。
「こいつは……」
かび臭い校舎内に入った雷司はあまりの荒廃ぶりに声を失った。壁や床の板は割れ、ゴミは散乱し、ガラスはそこかしこで砕けていた。屋根瓦もそうとう割れているようだから、雨漏りもひどいに違いない。
「夜になったら幽霊でも出そうだ」
雷司は冗談のつもりだったが、
「こんなときに、なにを言ってんのよ!」
黒村に一喝された。
教室をひとつひとつ見て回る。
わずかに残されたほこりまみれの机とイスは、この小学校の生徒数の少なさを物語っていた。
黒板いっぱいに色チョークで書かれた「ありがとう さようなら 宇山野小学校中岡分校」という文字が消えずに残っていて、うら寂しかった。日付を見ると、ちょうど6年前である。もともと古い校舎だったためか、6年もの間にこんなにも荒廃してしまうのかと思うほどの荒れぶりだった。
「助けが来るまで、なんとかしのげれば……」
反戦グループが助けがある、と黒村は期待していた。
雷司はしかし、救助があるような気がしない。結城アキラが捕まってしまっていたら、助けが来る可能性はないだろう。
「助けって、いつだよ?」
「そうかからないと思う……」
「どうやって連絡をとったんだ? 電話は盗聴、メールも盗み見られて、思想警察は見逃さないだろう」
「暗号を使ってる」
「暗号……。本格的だな」
「常識よ」
黒村はウェアラブルを確認する。が、連絡はどこらかも来ていなかった。ふっとため息をつき、
「あとは水と食料よね……」
とつぶやいた。
2、3日ならともかく、いつ来るか分からない救助を何日も待たなくてはならないとなれば食料は必要だった。
だがどう考えても食料など手に入りそうになかった。近くにコンビニはないし、あったとしても近寄れないし、当面の食料を持ち出せているわけでもない。この廃校舎のどこを探しても、食料などあるはずもなかった。途方に暮れるしかなかった。
「食料ね……」
雷司はつぶやいた。
買うのが無理なら、自然から調達するほかない。
じっと見つめる黒村の視線を受けて、雷司は苦笑した。なにを期待しているのか、わかった。
「わかったよ。なんとしよう。でも、なにか道具はない?」
無人島でのオリエンテーションのときには、まだいろんな道具を用意してきていた。だが、ほとんど着の身着のままといった今回は、サバイバルを想定していない。
黒村は肩から下げているポシェットを開く。
「ライターと、ナイフがあるわ」
取り出したのは、煙草屋で扱っているような使い捨てのライターと、小さな折りたたみ式の十徳ナイフだった。
「用意がいいことで」
雷司は呆れた。ライターはともかく、およそ女子が持ち歩くようなナイフではない。
「こうなることを予想してた?」
「まさか。でも、なにがあるかわからないから」
なにかあったときのため……なら、スタンガンでも持ってるのではないかと思えた。
「それじゃ、始めるか。まずは飲み水だな。この学校に井戸があるかどうかわからないけれど、それを探してみて、なければ下の道路の側の川の水を使おう」
「食料はどうするの? 心当たりはあるの?」
「ま、なんとかするさ。でも、なにもかも始めからだからな。急がないと夕方になってしまうだろうな。手分けをしよう。黒村さんは井戸を探して。おれは食べられそうな草を集めてくるから」
「草……。わかったわ」
黒村は校舎を出ていく。
雷司は教室を見回し、食材を入れるのにちょうどいいものがないか探した。
職員室へ移動した。
キャビネットには教材がそのままに残されていたり、体育のときに使ったと思われるボールやら跳び箱やらがほこりをかぶっていた。
木製の机が端のほうにあった。
引き出しを抜いてみると、使えそうだった。少し重いがこれでいいだろう。
山菜は基本、ナイフを使わず指で摘んでいくが、球根を掘り出す機会があるかもしれないからと、手頃な大きなの木切れを拾った。
それを持って雷司が校舎の外へと出て行くと、
「加賀見くん」
と黒村が呼びかけてきた。
「井戸はなかったけど、湧き水があったよ」
「どこに!」
「そのまま飲めるかどうかわからないけれど」
「ともかく見てみよう。場所は?」
「あっち」
黒村が指差す方向へ二人して向かう。校舎を回り込んで、裏側へ移動した。
校舎の裏側は山になっていて、竹やぶが鬱蒼と茂っていた。
岩の間に打ち込まれた塩ビ製のパイプからチョロチョロと澄んだ水が漏れ出ており、溝に流れを作っていた。溝はおそらく小学校の下の道路横の小川へとつながっているのだろう。
さわってみると、身を切るような冷たさに思わず手を引いてしまう。雪解け水が混じっているせいだ。
「これはラッキーだよ」
「飲めそう?」
「一応、沸かして飲んだほうがいいと思う。オリエンテーションのときは、真水を得るのが一苦労だったけれど。あとは鍋代わりに使えそうなものを探さなきゃね」
「わかったわ」
「それから、それが見つかったらたき火を起こしてほしい。乾燥した木を集めてきて燃やすんだ」
「乾燥した木なら校舎内にいっぱい見つかりそう。机もイスも木だし、校舎だって木造だから」
「そうだな。それを使おう。生木だったら燃えにくいし、盛大に煙が出て、ここにだれかがいるのを気づかれてしまうからね」
その点、校舎の中にある木材なら乾燥しているだろう。
「でも、たきぎはなるべく小さな木をたのむよ。大きな木はなかなか燃えないから」
「わかったわ」
黒村はきびすを返して、校舎内へと戻っていった。
さて、と――。
雷司は運動場へと出て行った。
山菜集めをしなくては。
まだ4月である。オリエンテーションのときもそうであったが、この時期、木の実は期待できない。採取するとなると春の山菜ばかりになる。
海辺ではないから貝も手に入らない。山菜だけになるがやむを得なかった。
雷司は運動場へ出た。
まずはわかりやすいものから集め始めた。
運動場にはこの季節、まだつくしが残っていた。多くはスギナに成長していたが、残ったツクシだけでもかなりの量があった。
ほかにも、ナズナ、ハコベ、ギシギシ、ナンテンハギなどの葉を摘んでいった。いずれも茹でて水にさらし、おひたしにすれば食べられた。
山菜で空腹を満たすには大量に摘まなければならない。雷司は腰をかがめ、目についた山菜を片っ端から摘んでいった。
あまりゆっくりとしていられない。もたもたしていたら日が暮れる。日が沈む前に食事はすませておきたかった。
空腹にお腹を鳴らしながら、一心不乱に山菜を集めていった。
やがてカゴ代わりの引き出しは山菜でいっぱいになった。
かなりの量を集めたつもりだったが、果たして空腹が満たされるかといえば微妙だった。それに、炭水化物も脂肪もタンパク質も摂取できず、ビタミンと繊維質ばかりの低カロリーの食べ物では、この先何日も、というわけにはいかないだろう。
が、雷司はそれは考えないことにした。
考えてもしかたがない。救助が来ることを期待して、今は堪え忍ぶしかない。
雷司がツクシのはかまをせっせと取っていると、黒村がやって来た。
「これでどうかな?」
と、木切れと陶器製の大きな花瓶を両腕に抱え持って。
「ああ、いいね。使おう。ありがとう」
雷司が立ち上がると、黒村は引き出しに積まれた山菜を見て、
「うわぁ、いっぱいある。これはつくしよね」
「うん。ほんとうは玉子でとじたらおいしいんだけれどね」
「ツクシだけ……」
黒村はくすり、と笑う。
「ツクシ以外もあるけど、この山菜を全部食べても、たぶん、一日に必要なカロリーには足りないと思うよ」
「じゃあ、ダイエットにちょうどいいかな」
雷司は苦笑した。
「やせるんじゃなくて、やつれてしまうよ」
校舎の近くに石を積んでかまどをつくり、ライターで木片に火をつけた。乾燥した板きれはすぐに炎をあげ、それを見るとなんだかホッとした。
よく洗ってから水を張った花瓶を火にかけて、沸騰したところで山菜を投入した。本来なら塩を入れて塩ゆでにしたいところだが。
木の枝で作った箸でかき回し、茹であがった山菜を冷水にさらして、おひたしにする。
こうして食事にありつけたのは、もう夕方近かった。
オリエンテーションのときのように海水で味をつけることもできず、ただ空腹を満たすだけの食事だった。
「こんな草ばっかり食べて、うさぎになった気分ね」
つらい、とは口に出さず、むしろ楽しんでいるふうの黒村だった。こんなことは何日も続かない、きっと救助が来ると信じて。
「醤油でもあればいいんだけれど」
味のないツクシをしがみながら、雷司も救助を信じた。黒村が信じる以上、それにすがるしかなかった。でも、と思う。いよいよとなったら、ここを離れることも考えないと――。
このままでは常に空腹でいる、というより飢えを体験するだろう。
「自分で集めておいてなんだけど、これじゃ食事というよりエサを食べてる気分だ」
「他に集められそうな食べ物って、あるの?」
「昆虫の幼虫とかなら、食べられるのもあるんだけれど、あと、クモとか。唐揚げにしたら、たいがい食べられるらしい」
「食べたことあるの?」
黒村は驚いて訊く。
雷司は破顔した。
「いや、ないよ。さすがにそれは勇気がいる。明日はノビルの球根でも掘るとするか、見つかればの話だけど」
「校舎の裏の竹林でタケノコは採れないかしら?」
「そうか! ――やってみるか」
廃校とはいえ、ここの土地は自治体の持ち物だ。他人の土地に勝手に入って勝手に草木を採取してはいけない。当然、タケノコを掘ってもいけないが、今のこの状況ではそこへ考えが及ばなかった。
すぐに日が暮れた。
暗くなる前に山菜を食べきった。白湯を飲んで、食事は終了。
夜が来ても明かりはない。黒村のポシェットには小さな懐中電灯がひとつきり。
虫の音もしない静かな夜が訪れようとしていた。
「オリエンテーションのときは、みんながいたからいろんなことができたけど、たった二人じゃ、やることも限られるわね」
「でも、テントを張ったり、夜露を集める装置を作らなくていいから、まだラクさ」
校舎に入った。
できるだけ窓ガラスの割れていない教室に入った。それでも風が通り抜けて、温度は屋外とさほど変わらない。
まさか、今夜こんなところで夜を明かさなくてはならなくなるとは、一昨日までは思ってもみなかった。雷司は、そのあまりの激変ぶりに運命を思わずにはいられない。
無人島でのオリエンテーションから1週間もたっていないが、それがもうずっと過去のことのように感じられた。
入試に合格した高校で授業を受けていたのが幻のようだった。これからの高校生活を明るく楽しいものにしたいと期待をふくらませていたのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう――そんな詮無いことを思いつつ、風よけのために机をバリケードのように並べた内側に、残されていた教科書などを床に敷きつめて座り込むと、
「ねぇ、隣にすわってもいい?」
黒村が訊いてきた。
「どうぞ」
「毛布もないし、くっついたら、少しは暖かいかな」
昨夜、マンションを出たときに来ていたコートのままの服装だった。それでも4月の夜、しかも山奥の里となれば朝夕は冷える。
「気休めぐらいだろ」
オリエンテーションのときのテントのほうが寝袋もあって快適といえた。
肩を寄せ合って、
「やっぱり寒いね」
つぶやくように言う黒村は、
「でも救助が来れば……」
その望みがあるかどうかは、結城アキラにかかっていた。
「結城先生のクルマに乗っていれば今頃こんなことに――いや、それは無理かな。二人分の重量でクルマが重くなって、思想警察を振り切れないかも」
雷司は結城のドライビングテクニックを想像した。意外とすごい技術をもっているかもしれない。
「わたし、そんなに重くないわよ」
黒村はむくれた。
「でも、救助されても、思想警察から隠れつづけなくちゃいけない」
「いつか革命が成功したなら、国も社会も大きく変わる」
「そんな日が来るとは思えない」
「来るわ、きっと。加賀見くんにはわからないだろうけれど、棒野さんたちはすごいことをやろうとしているの」
黒村がなにを見てきたのか雷司にはとんとわからなかったが、力強くそういう裏にはなにかとんでもないことが起きるとの確信があるようだった。革命、と黒村は言った。
雷司にはどうにも実感がわかなかったが。
「昼間、どうしてわたしが反戦グループに参加しているのか、聞いたよね」
黒村がふと語りだした。
「両親が思想警察につかっまちゃったって言ったでしょ。そのときわたしは幼かったからよくわからなかったし、育ててくれた親戚からはなにも聞かされなかったんだけれども、あるとき、従兄弟のお兄ちゃんからこっそり本当のことをきかされて」
黒村は、その思いを伝えるかのように、コートの袖から出ている手を握ってきた。
「それで、両親に会おうとするなら、この国を変えるしかないと思った」
雷司には重たい話だった。命がけの目標がある人間の強さをかいま見た気がした。
「冷たい手ね……」
黒村はつぶやいた。
「うん。寒いからね、おれの手も冷たくなっちゃう。黒村さんの手が温かいのは志のせいなんだろうな」
「ちがうわよ。女の子はみんなそうなの」
急に生々しい話になった。
「そうなんだ……」
雷司は知らなかった。女子の手なんかさわったこともなかった。
「手が温かい人は心も温かい。おれの心は思っているよりずっと冷たいのかもしれない」
黒村の過去を聞いて同情はしても、それほど本気にはなれない心を雷司は自己分析した。
「そんなことないよ」
黒村は、雷司の手を両手で包み込んだ。温かさが手を覆う。
「黒村さんの手が冷たくなるよ」
「だいじょうぶ。わたしが加賀見くんの手を温めるから」
雷司はなにか言いかけて口を閉じた。じっと手の温もりを感じ、そして握り返した。
正面の窓を通して満月が見えていた。月明かりが冷たく教室内を照らしていた。
☆
翌日――。
目が覚めたのは空腹のためだった。
よりかかる体重を感じて、雷司はそちらを見る。すぐ横に黒村の顔があった。
すでに夜は明けており、低い位置から差し込む太陽が目を射るようだった。姿勢を変えると、ひんやりとした空気が雷司の頬をなでた。
急に立ち上がると黒村を起こしてしまいそうで、雷司は慎重に体勢を保ちながら、その場から移動した。
机に背を預けて寝息を立てている黒村を一瞥すると、教室の外へと出て行った。
いつもならすぐにネットに接続したいところだが、廊下へ出てから電源を入れてみたウェアラブルの表示は「圏外」を示していた。廃校になる前は電気もきていてネットインフラも整備されていたのだろうが、いまや通じなくなっていた。
ネットに繋がらないようになって今日で三日目である。
今ごろ友人や両親はどうしているだろう、自分がいなくなってどう思っているだろうと、ネットに接続できる間は考えることがなかったことを思い、不安になる。しかし情報不足ではあったが、今は接続していることによるリスクのほうが高く、不用意に接続できないほうが安心かもしれなかった。
黒村に注意されてはかなわないと、雷司はウェアラブルの電源を切る。
朝ご飯を食べなくては――と思ってグッと背筋を伸ばしたとき、
「おはよ」
背後から声がかかり、雷司は振り向く。
「や、よく眠れた?」
「寒くて、何度か目が覚めちゃった。――今日も、いい天気ね」
「うん、タケノコ掘りには絶好の天候だ」
雷司はおどけた。
「見つかるかしら?」
「なんとしてでも見つけるさ。土を掘る道具がいる」
「引っこ抜くんじゃないの?」
「引っこ抜けるほど育ったら、もう食べられないよ。土から少し顔を出した程度のタケノコがねらい目なんだ。土の下に埋まったタケノコでもかなり大きい」
「スコップなら、きのう、花瓶を見つけたときに見たわ。花壇を作ったりで使うことがあって、それが残されていたんだと思う」
「オッケー。じゃあ、それを拝借しよう」
校舎の端の、物置代わりに使われている教室には、持ち出されなかった備品が残されており、小さな園芸用のスコップもそこにあった。二つをとり、それぞれ持って校舎の裏山へ移動した。
急な斜面にびっしりと竹が密集していた。手入れがされていないので、荒れ放題である。
竹をつかみながら、竹林に分け入っていった。足下が悪い。枯れ落ちた葉が朽ちて積もって歩きにくいうえに、朝露のせいでスニーカーが水たまりにでも入ったかのようにずぶ濡れになった。
これではタケノコを探すのに骨が折れそうである。50センチほど成長して、竹になりかけているタケノコなら簡単に見つかるが、地面からちょっとだけ顔を出しているタケノコなど、ざっと見ただけではわからない。
さらに奥へと進んでいく。足が滑ってなんども竹につかまった。
「あったぞ」
雷司が言った。
後ろから必死の表情でついてきた黒村が顔をあげる。
「どこ?」
「ほら、あれ」
雷司が指さす方向にはほじくり返されたタケノコが落ちていた。
「イノシシの食べ残しだよ」
「イノシシが出るの!」
黒村が驚く。
「竹林にイノシシがいても不思議じゃない。タケノコはイノシシにとってもご馳走だからね」
「食べ残しって?」
「こっちへ来てみなよ」
雷司が足下を見ている。
黒村が行くと、そこには穴が掘られていて、かじられたタケノコが落ちていた。
「イノシシはタケノコの根元の部分が好きで、他は食べ残すんだ」
雷司はタケノコを拾い上げる。
「人間はタケノコの先っぽの柔らかい部分を食べるけど、イノシシは食べない」
「そうなんだ……」
黒村は不安そうにキョロキョロと竹林を見る。
「イノシシがこの辺りに潜んでるの?」
「おそらく……ああ、でもだいじょうぶだよ。野生のイノシシは警戒心が強いから、やたらと人を襲わない。とくに、こちらは二人もいる。安心していいよ。さ、おれたちも探そう。イノシシにほじくり返されないタケノコもきっと見つかるよ」
雷司の言ったとおり、あちこち見ていると、小さなタケノコが地面から顔を出しているのが見つかった。
二人で協力しながらスコップで慎重に掘り出した。持ってきていた、鞠を入れる網に詰め込んでゆくと、ほんの二時間ほどでいっぱいになった。
「できるだけ早くゆがいて灰汁をとる」
「でも、米ぬかがいると聞いたことがあるんだけれど、どうする? ないよ、そんなもん」
「皮のまま茹でればいいよ。完全には無理だけど、ある程度なら灰汁は抜ける」
「ほんとに、なんでも詳しいわね」
黒村は呆れるような浅いため息をもらした。
「オリエンテーションのときも思ったけど、どうしてそんなことに詳しいの?」
「キャンプに行ったときかな。ネットで調べたりして、どんな野草があるのか実際に採って食べてみたんだ。それが興味を持った最初で、その後いろいろ本を読んだりして、実際に採ったりしてたんだ。でも、こんな知識が役に立つとは思わなかったよ」
「みんなはそこまで深く知ろうとしないわ。ネットに聞けばわかるから『モノを知っている』ということ自体に価値がなくなって、多くの人が知識をためようなんて思わなくなったからね」
「それが、おれが思想警察に狙われる理由だなんて、納得いかないな」
足下に気をつけながら斜面を降りていく。
竹林を抜けると、校舎の裏から運動場へと出た。きのう作ったかまどで、さっそくタケノコを茹でようと――して、足が止まった。
運動場の端、坂道にかかる校門を通ってきたと思わしき一台の黒いワゴン車……。
二人の顔が緊張にひき歪んだ。
ワゴン車が動き出した。校舎の二人に気づいたようだった。まっすぐこちらへ向かってくる。
「逃げよう」
雷司が黒村の手をとった。
さっきまでいた竹林をつっきって行くしかない。
二人とも、採ってきたばかりのタケノコを放り出すと、校舎の裏へと駆け込んだ。
再び斜面を登り出す。
必死だった。
どうしてここが突き止められたのかを考えている余裕はなかった。結城が捕まってしまって、暗号が解読されてしまったのかもしれないし、なにか黒村が知り得ない手段を使って居場所を割り出したのかもしれない。が、そんなことで思考を巡らせている場合ではなかった。
できるだけ遠くへ――。
竹林を抜けると、林道に出た。
そこを歩いていく。
危険は承知していたが、森の中はとてもではないが歩けなかった。下生えの木々が無秩序に茂り、猿や鹿でもない限り、まともに移動できそうにない。
コートも汚れ、引っ掛けてあちこち破れてきた。
空腹だということもあって、なにかを考えるということが億劫だった。脳が糖分不足になっているのだろう。
「まだ歩けるか?」
雷司はときどき黒村に声をかける。
そのたびに黒村は「だいじょうぶ」と返事した。それでも足がもつれて倒れそうになっていた。
どこへ逃げるというアテがあるわけではない。ともかく遠くへ行くということしかなかった。
両側に森が広がる林道はアップダウンが激しく体力を消耗したが立ち止まるわけにはいかなかった。
GPSは電波が届かないことで使えなかった。が、現在位置がわかったところで、林道なんかが表示されずはずはなく、このまま進んでもどこへ通じているやらわからないだろう。
もはや闇雲にすすんでいた。どう追っ手を振り切れるかという考える余裕もなく、ただ、動物的な感覚でもって歩を運んでいた。
疲労も蓄積していた。昨日からのサバイバルで、ろくなものを食べず、暖かく眠ることもできず、いつ終わるとも知れない逃避行は本人も気づかないうちに体力を奪っていた。
足がふらついた。
「いたっ」
黒村がしゃがみこんだ。
雷司は振り返り、手を差し出す。
「立てるか? 歩けないようなら、少し休憩しよう」
黒村は大きく息を吐く。
「……わたしの足が遅くて速く行けないようなら、加賀見くんだけでも先に逃げて」
「なに言ってんだよ! そんなセリフはマンガのなかだけにしてくれ。黒村さんを置いていったら寝覚めが悪いじゃないか」
それに、と雷司は微笑む。
「おれ一人じゃ、救助を呼べないだろ」
黒村の手をつかんで引き起こした。
「ともかく、どこか安全な、隠れる場所を探そう」
「そうね……」
二人は歩みを再開するが、引きずるような足取りでスピードが落ちていた。
いつ終わるかと思える林道が、突然、開けた。
木々がとぎれ、中天にさしかかっていた太陽の明るい日差しがまぶしかった。
道路が走っていた。
どの道路だろうかとウェアラブルのGPSを見ようとしたとき――。
息が止まった。
ほんの30メートルほど離れた道路際に一台のエンジンをかけているワゴン車が停まっていた。
「くそ……」
雷司は、食いしばった歯の隙間からつぶやいた。
万事休すだった。