第4章『捜査願い』
地方の地域警察署の刑事課で扱う事件といえば、空き巣に車上荒らし等の窃盗、傷害や器物損壊、詐欺、違法薬物などなど多岐にわたるが、殺人や誘拐、立てこもりなどの凶悪犯罪は滅多にない。あっても、すぐに県警本部が出張ってくるので、加賀見央武がそれらに対することはなかった。少なくとも、本部への異動がかなわない限り。そしていまのところ、新米刑事である央武が本部異動になるにはまだまだ数年を要するはずだった。
ともかく、そんななかで、今回「思想警察」なる存在が、神が降臨するかのごとく現れたのはまさしく青天の霹靂で、比較的平和だった日常にやってきた台風のようだった。
だが台風なら一晩で通りすぎる。思想警察はそうではない。じっとすぐそばに潜み、突然現れて、反社会的思想者を排除する。まるで獣道に仕掛けられた罠のように。うっかり踏んだら捕まってしまう。
普段はその存在を意識しない。罠にかかって初めてその存在を知るのだ。そして知ったときには手遅れである。
「どうした? 報告書がまとまらないか?」
デスクでパソコンを見る目がぼんやりしていたようだ。央武は先輩刑事の戸野山に声をかけられ、ハッとなる。
「いえ、まぁ……」
央武は気まずくなって、あいまいな返事をした。
「捜査ってのは、地味で地道で、ちっともかっこよくない。ドラマのようにはいかんさ」
戸野山は央武を様子をどう思ったのか、そう言った。
思想警察に容疑者を取り上げられ、今は別の空き巣事件の捜査をしている最中だった。
聞き込みや証拠品集め、それらを組み立て、裏付けていくのはたしかに地味な作業だった。
得られた目撃証言がすべて関連のあるものではない。
もっとも、央武が担当している事件はこれだけではない。現在並行して五件の事件を任されている。むろん、たった一人で捜査をしているわけではなく、数人のチームだ。
央武の勤める南栓田警察署に所属する刑事は全部で二十人。三人から五人のチームに分かれ、それぞれが複数の事件を担当していた。新しい事件であればあるほど活発に捜査するが、時間がたってくると目撃証言も証拠も新たに出ることは少なく、未解決となってしまうことも多々あった。央武のチームでも、二年半前の放火事件の犯人がいまだに検挙できていない。
思想警察によって拘束された容疑者の事件はごく最近のものだったから、事件解決へ向けての動きも活発だっただけになんとも割り切れない思いが消えない。
「聞き込みに出ます」
央武は立ち上がった。上着をとって出て行くが、「いってらっしゃい」と言った戸野山はちらりと一瞥をくれただけだった。
とはいっても――。
央武はどうしても思想警察の存在が頭から離れなかった。
外出も気分転換にはならなかった。
路面電車に乗り、担当の窃盗事件の起きた住宅街近くで下車して数分もしないうちにウェアラブルモバイルが鳴り出した。
表示を見ると、母親からだった。
央武は首をかしげた。母親から勤務中に電話があることなど過去になかった。メールではなく電話というところに、なにかひっかかるものがあった。緊急の用件でもない限りかかってはこないだろうと思ったからだった。
やや緊張しつつ、通話ボタンを押した。
「なんだい、おふくろ?」
「いま、いいかい?」
勤務中なのを気をつかってくれていた。
「いいよ、なんだい?」
「きのう、雷司が帰ってこなかったのよ」
「雷司が……?」
「今朝になって捜索願を出そうかと思って……」
「出したほうがいい」
央武は即答した。なにかの事故か事件に巻き込まれた可能性があった。しばらく会っていないとはいえ、家出をするような理由があるようには思えなかった。きのう受け取った、間木田教諭の退職理由を尋ねるメールにも、そんな兆候を感じなかった。
「わかったわ」
「おれもできれば探してあげたいが、仕事の配分を決めるのはおれじゃないからな。もちろん、状況が変わればおれも捜索に駆り出されるだろうけど」
個人的には動けなかった。
警察の家族である、というだけで社会的に一般人とは違う見方をされてしまう。本人同様に、家族にも警察としての資質を求められてしまうものなのだ。理不尽ではあるが、それが警察というものだった。
警察官の家族が犯罪に巻き込まれた、となればマスコミにも取り上げられるだろう。軽々しく動くわけにはいかなかった。
ともかく、雷司が無事であればよいのだが。
「じゃあ、近くの交番へ行ってくるよ」
と、母は言うと通話は切れた。
央武はしばし呆然とした。
雷司が行方不明……。
「あいつめ、なにをやらかした……」
自然と毒づいていた。メールの内容が関係するとも思えない。
それより、と央武は気持ちを切り替える。――今はともかく担当事件の捜査をつづけよう。
今の空き巣事件も手がかりがなかった。指紋は採取されたが、犯人に繋がる遺留品はなく、同じ犯人による事件が何度か起これば捜査対象が絞り込めるのだが、今のところは他の事件と犯人が共通であるとの確証は得られていない。
警察官になるまで、世の中にこれほど多くの犯罪が起きているとは知らなかった。だが、これでも昔よりはずいぶん減って治安がよくなったよ、と元刑事で定年間近の警察学校教官が言うのを聞いたことがあった。どういうことかと聞くと、戦争が起きて国民が個々を優先するより国の体制を尊重する風潮になってきたと。
国民が結束して治安がよくなるのに戦争が必要だなんて皮肉なもんだな、とその教官は言うのだった。
そこへ電話が入った。戸野山からだった。
「どうしました?」
通話ボタンを押して、訊ねた。
「事件が起きた。すぐに急行してくれ」
「急行って、おれ、歩きですよ」
「例の空き巣事件の聞き込みだろ? だったら、路面電車の丸田駅の近くにいるんだろ?」
「はい、そうですが……」
「事件現場はそこから近い。パトカーで出動するから、丸田駅で拾ってやる」
「わかりました」
通話を切る。
路面電車・丸田駅へ急いだ。
急ぎながら、どんな事件だろうかと想像し、もしや雷司がからんでいるのではないかと、嫌な予感がした。行方不明者が犯罪に手を染めていた、という話はよくある。まさか高校生の弟が……とも思ったが、どんな人間でも犯罪者になりうることを、まだ警察官になって数年ではあるが、央武は数々の犯罪者を見てきて知っていた。たとえよく知った身内であっても、ありえない、とは言えないのだ。
駅が見えてきたとき、ちょうど路面電車が到着していた。しかし小走りでやってくる央武に気づいた運転手が出発を待ってくれている様子。
乗る意思はないと、ホームにあがった央武は運転手に向かって手をあげて振る。
ちんちん、とベルを鳴らし路面電車が去っていくと、それと入れ替わるようにサイレンを鳴らしたパトカーがやってきた。まわりの一般車両が遠慮して道をあける中、駅の横へと滑り込んだ。
央武は後部座席のドアを開ける。
乗っているのは運転している戸野山だけだった。
それで助手席に乗り込んだ。
「他の人は?」
「おまえたちだけで対処しろ、ということだ。外勤の巡査が先についていると思う」
「事件ってなんですか?」
シートベルトをしながら央武が聞くと、戸野山はパトカーを発進させて、「自動車事故だ」と言った。
「ただし、盗難車のな」
ただの自動車事故なら、交番巡査あるいは交通課による処理で十分だが、刑事課の刑事が出ていくとなれば、ちょっとは厄介なことなのだろう。
刑事が事件現場に行くと、通常、現場の保存を第一におこなう。現場から近い所轄の警察署の刑事が写真を撮ったりしているうちに本部の応援がやってきて、足跡や指紋や証拠になりそうなもの、髪の毛やほこりやら、ゴミのようなものを鑑識担当が集めたりする。
その後、周囲に聞き込みをおこなう。目撃者がいないか、被害者の近しい人や付近の住民などに聞き回る。防犯カメラの映像を提供してもらったりもする。そうやって事件の解決に向かって捜査していくのだ。
ほんの2分ほどで現場に到着した。
すでにパトカーが来て、近くの交番の巡査が事故処理に当たっていたが、パトカーのほかに、見慣れない黒いワゴン車が止まっていた。驚いたことに、そのクルマの後部ドアが開かれ、事故を起こしたと思われる者が担架に乗せられて運び込まれようとしていた。それをやっているのは、巡査でも救急隊員でもない、スーツ姿の男たちだった。
異様な光景だった。
しかも、それを遠巻きに見守る巡査は、あきらかに当惑の表情を浮かべていた。
パトカーを降りると、央武は近くの巡査につめよった。
「いったいどうなってるんですか?」
すると、戸野山が後ろから央武の肩をつかんだ。
「待て、加賀見。あれは思想警察だ」
央武は振り返って戸野山を一瞥すると、驚いて視線を戻す。
「あれが……?」
戸野山は昨日、思想警察による捜査介入の現場に立ち会った。捜査資料の強制提供。署内でこのような超法的な活動が許されるのを目の当たりにして、思想警察がどのような存在であるのかを思い知っていた。
「彼らには逆らえない。指をくわえて見ているしかないんだ」
「しかし……」
央武は口ごもる。頭ではわかっていたが、いざ目の前にすると動揺は隠せない。
黒スーツの男たちは、央武の見ている限り一言も発しない。黙々と作業する。
収容を完了すると、全員さっさとワゴン車に乗り込み、その場を去っていった。事故車には見向きもしないし、警察官に対してあいさつのひとつさえない。
取り残された警察官たち。
「どういうことなんですか?」
央武は訊かずにはいられない。
「盗難車が事故をしたというだけじゃないですよね?」
「それは私から説明します」
制服を着た年かさの巡査が央武の前に進み出た。交番勤務の長い、いわゆる町のお巡りさん、といった風貌の男性警察官である。
「クルマを奪われたという通報を受けて、我々が被害者の元で話を聞いているときに、そのクルマが事故を起こしたという通報が入って、現場へ着たんです」
それがこの現場です、と、歩道の街路樹に衝突したクルマを見る。クルマはセダンタイプで、全面部が街路樹にめり込んでいる。フロントガラスは砕け、膨らんだエアバックには血が飛び散っていた。
「被害者の話だと、荷物を下ろしているときに、若い男がいきなり運転席に乗り込んで、クルマを奪っていった、と。まだ寒いからエアコンをかけたままにしたくて、エンジンは切ってなかったため、奪われてしまったようです。ナンバーは覚えていたからすぐに手配しようとした矢先、事故の通報が入った、というわけです」
「普通の事件だな……」
央武はつぶやいた。特に着目するような事件ではない。刑事が出張ってくるような事件でもない。
ただ……と巡査は言を継いだ。
「犯人はだれかに追いかけられていたようだったと、被害者は言ってました」
「追いかけられてたって……それは、犯人はべつのところでひったくりでもしたんでは?」
それで大急ぎで逃げている途中に、クルマを奪った、と央武は想像した。
「いや、ひったくりや強盗の通報はない。それより、その犯人を追ってきたのが、例の、スーツ姿の連中だったそうです」
「えっ……!」
「加賀見」
と、戸野山は声をかけた。
「あとで話がある」
そう言うと、巡査といっしょに事故の処理をし始めた。それ以上、そこでは思想警察についての話題には触れなかった。
☆
南栓田署に帰ると、どっと疲れがのしかかってきた。昼食もなんだか喉を通らず、央武はイスの背に体をあずけ、足を投げ出すようにして天井を仰いだ姿勢で。
帰りのパトカーの中で、戸野山は無言だった。央武も話しかける気力がなかった。
思想警察――。まるで一昔前のギャング映画に出てきそうな出で立ちの彼ら……。
警察という名がついているが、あれは警察ではない。
央武はそう思った。
警察学校で学んだ警察の有るべき姿とは一線を画している。そんな組織がこの世に存在するとは……そして、これまでそれを知らずにいたということが央武にとって衝撃的だった。
市民の生命・財産を守るのが警察だが、思想警察はなにを守ろうとしているのだろうか。警察にさえ一切の手出しをさせない強力な権限など、法治国家として許されるべきものなのか……。
央武はネットに接続する。思想警察について調べてみた。憶測を含め、いくつかの書き込みがアップされていた。だがどれも央武がこの目で見たものとは違っていた。
報告書にはなんて書けばよいのだろうか……。
そこへ戸野山が部屋に入ってきた。パトカーで央武といっしょに帰ってきたが、昼食をとりにいったん署から出て行っていた。央武も誘われたが、そんな気分ではないと断ったのだった。
「話ってなんですか?」
央武はイスから立ち上がり、訊いた。
あとで話がある、と戸野山は言っていた。パトカーの中でも話せたろうに、なにをそんなにあらたまって――。
戸野山は央武の席までやって来ると、
「ここじゃ人目がある」
と小さくつぶやいた。
「別室へ移動しよう」
「?」
さっと室内に視線を走らせた戸野山の仕草を、央武はいぶかった。まるで反社会的な話でもするかのようだ――。
「取調室が開いているから、そこへ行こう」
「はい……」
うながされるまま、央武は部屋を出て行く戸野山についていく。
廊下を歩いて一階の奥に取調室がある。
鍵を開けて中に入ると、小さな部屋だった。
無愛想な机がひとつ、パイプイスが4脚。それで部屋がいっぱいになるほどだった。窓はあったが、逃げられないようにするためか、高いところに小さく開けられてる程度だった。
容疑者を取り調べるときに使う、録画・録音のための古めかしい設備が部屋の端にあって(もちろん今は作動していない)、それが余計に部屋を窮屈に見せていた。
二人は机をはさんで向かい合ってイスにすわった。
「で、なんでしょう?」
と央武は問うた。戸野山の真意が想像できなかった。なにを言おうというのだろう?
戸野山は一呼吸おいてから口を開いた。
「加賀見の弟さんの捜索願が出されているのは知っているのか?」
「うっ……」
そこか――。
央武は苦虫をかみつぶしたような表情をした。
「今朝、母親から電話が入ったんです。ゆうべから帰ってこないから捜索願を出そうかどうか迷ってるって。見たんですか?」
「見た。受け付けたが家出の可能性があるから本格的な捜索活動には入っていない。一応、目撃情報の収集や防犯カメラの映像をあたってはいるが」
「すみません。愚弟がとんだご迷惑を」
央武は頭を下げた。
みっともない話だった。警察官の家族として恥ずかしかった。
「いや、加賀見が謝ることじゃない。それよりも――」
戸野山は、少し声を低くした。
「加賀見雷司くんは、思想警察にマークされているおそれがある」
「えっ!」
央武は声を失った。さっきの事故現場で目撃した黒スーツの男たちが脳裏に浮かんだ。不気味な存在感を発するかれらが弟を狙っている……?
「なんで――」
どうして雷司が思想警察に目をつけられなければならないのか。そして――。
なぜ、戸野山にそれがわかるのか――。
二つの疑問が央武の頭の中でぐるぐると回った。どちらも大きな謎であり、理由の想像すらできなかった。
「思想警察はネットの隅々まで監視している。言動がひっかかれば、たちまち狙われる。おそらく、雷司くんはどこかで思想警察の活動を探ろうとしたのだと思う……」
央武は動揺した。もしかしたら二度と雷司には会えないかもしれない。警察が逮捕しようとした容疑者さえ逮捕し連れ去ってしまうのだから、とてもではないが、思想警察に捕らえられたら最後、再び帰されるという気がしなかった。
央武は両手で頭をかかえた。
「ああ、なんてことだ……」
両親はまだなにも知らない。しかし警察官である自分が、このことを告げるわけにはいかない。思想警察についてのいかなることも、なんびとには漏らしてはいけない。五條課長にそう釘を刺されているし、もしそうでなくても口外できないだろう。思想警察の存在は秘密なのだから。
息子の帰りを信じて待つ両親が哀れであった。
こんなことが、まさが自分の身に起きるなんて――。
ついきのうまでは、思想警察のシの字すら知らなかったのだ。それがにわかに周囲に関わり始めた。なぜこのようなことになってしまったのか央武には理解できず、この急激な変化についていけなかった。
「だが、まだ捕まってはいない」
が、落ち込んでいる央武に、戸野山は言った。
央武は顔をあげた。
「捕まってない……?」
「思想警察にマークされてはいるが、まだ身柄は確保されていない」
「ちょっと待ってください」
央武は最初の疑問を思い出した。
そもそも、なぜ戸野山は、雷司が思想警察に追われているのかを知っているのか? 思想警察の情報はどこからも入ってこないはずなのに。それとも、なにか警察内に情報ルートが存在しているのか?
「いいか、よく聞いてくれ」
戸野山はゆっくりと言い、そしてしばし黙った。言うべきセリフを考え考え、語るように言葉を発した。
「思想警察の目的は、国内の治安の維持だが、我々警察と違うのは、ただ一点、思想している人間をこの世から排除することに限られていることなんだ」
その意味を理解するのに、央武はしばらく時間を要した。
「おれもおまえもウェアラブルを持っているだろ?」
「はい」
うなずき、央武はブレスレット型のウェアラブルモバイルを袖から見せる。
それぞれ、形は違えどだれもが肌身離さずウェアラブルモバイルを持っていた。ネットと常に繋がっているのが普通だった。それを通じて、個々の情報がネットに伝わり巨大なデータベースに管理されフィードバックされる。
「なにか問題が起きても、ネット上のだれかが親切に答えを教えてくれる」
どんな疑問もたちどころに解決される――その利点を国民みんなが享受していた。
個人にあったライフスタイルをオーダーしてもらえる、痒いところに手が届く生活に慣れてしまっていて、いまさら手放せない。
「お互いが助け合う仕組みはこの国の国民に合っているとだれも思っている。だから戦争もみんなで協力して乗り切ろうとしている」
その通りだ。説明されるまでもない。
「だからそんな秩序を疑問に思ったり、ましてや破壊したりするなんて、許されるはずがない」
央武はうなずいた。
「思想警察は、だからそれを取り締まっているんだ。強力な権力を与えられ、この国を守るために……」
「じゃあ、弟は……!」
央武はハッとして、言葉を失った。
ネットによる国民相互扶助の世界を破壊しようとしているのか?
「まぁ、あわてるな。おれたちは、システムに慣れきってしまって自ら考えなくなってしまっているんだ。考えているようで、考えてない。すべての思考はネットのなかに見つけられるからな。国民はもう考えなくてよくなっている。考えると、ろくな事を思いつかない。それを国は恐れているんだ」
「そんなことで?」
「ネットによる相互扶助で支えられていると思いこんでいるけれども、実はそうではない。裏には国がいて、すべてのアクセスを監視して適切なこたえを提供しているんだ。それはつまり、国はそれで国民を操作しているということに他ならない。戦争も継続できなくなる」
「おれたちはネットによって操作されているっていうんですか?」
「そうだ。それで国民は国の思うように動き、豊かに暮らせる。戦争が終わっていることも知らずに」
「戦争が終わってるって?」
央武は叫ばずにはいられなかった。あれだけ戦争の勝利のために団結しようと宣伝しているのに?
そうだ、と戸野山はうなずいた。
「だから国民にはなにも考えてほしくないんだよ。ビッグデータで管理して、ひとりひとりに指定席を用意することで安心して暮らしてもらい、余計なことは考えずにいてほしいのさ。おまえの弟さんは賢明にもそれに気づいてしまった」
衝撃的な事実だった。
頭を整理するのにしばらく時間がかかった。
やがて、あることに気がついた。
「でも、先輩……。先輩はどうしてそんなことを知ってるんですか?」
戸野山は、ふっと小さな笑みを浮かべた。これまで見たこと
「それは、おれが反戦グループのメンバーだからさ。そしておまえの弟は、おれたちの仲間と行動をともにしている」
「…………」
反戦グループ。
国をあげての茶番を終わらせるべく活動していると戸野山は言う。国民に真実を知らせ、みずから考えられる自由への解放を、というスローガンの元に活動している地下組織。
思想警察に目をつけられるのは当然だろうと央武は思う。だからこそ、戸野山はこれまでそれに関わっていることを黙っていたのだ。先日のことも、まるで思想警察などまったく知らなかったかのように振る舞って。
その反戦グループに、雷司は保護されているという。
「会えるんですか?」
「今すぐというのは、むずかしい。思想警察の目を盗んでということになるからな」
と戸野山は言った。
「だからしばし待て」
話はそこまでだった。自分が反戦グループに関係していることは他言無用だと念を押された。
央武を信じて打ち明けたのだから、そこは裏切るつもりはなかった。央武自身、思想警察に肩入れしたいという気持ちもなかったから。その気持ちを見越して、戸野山は、央武に思想警察が介入する現場を見せたのかもしれなかった。
しかし今まで国にだまされていたと憤る気持ちが央武にあるかといえば、そこまで過激な思考には至らなかった。
事実、国は安定しているのだから。流される戦時ニュースがすべて偽りだったとしても、それはそれでいいではないかと、戸野山の主張に同調できなかった。
とはいえ、ここまで聞いた以上、なにか行動しなければならないだろうとも思った。行動しなければ、おそらく雷司には一生会えない、と。
戸野山の衝撃的な告白のあと、解放された央武は一人頭を抱えた。
「どうしたらいいんだ?」
とてもではないが、一人でどうにかできるような問題ではなかった。警察学校や職務で学んだことでは対応できそうにない。かといって、だれかに相談などできるわけがなかった。戸野山は央武を信じて秘密を話してくれたのだ。それは裏切れなかった。
当の戸野山はそのあと、別の担当事件の捜査に出てしまって、央武は放置状態だった。
デスクのパソコンに表示された報告書のフォームを見つめ、
「今日はなんて日なんだ……」
とつぶやいた。
雷司に捜索願が出されていても、警察としては、事件性があきらかでない限り、家出人捜索届として普通に処理されてしまう。いや、たとえ事件性があると疑われても、思想警察がからんでいては手が出せない。
つい、くせでネットで探ろうとしたが思いとどまった。
「くそっ」
央武は立ち上がり、廊下へ出る。古いコーヒーサーバーへ紙コップをセットし、脳への糖分の補給も兼ねて砂糖増量ボタンを押した。黒い液体が紙コップに満ちるのを、ため息をつきながら見つめた。
自分ひとりで考える、というのが苦痛だった。
コーヒーの湯気が立ち上るカップを手に取り、やや甘めの熱い液体を香りとともに一口ふくむ。
思い返してみれば、子供時代から警察官になった今まで、ひとりでじっくり考えるなどということがなかった。どこかでネットに頼っていた。
国民全体がその習慣に染まってしまったがために、国が国民をコントロールできやすくなってしまったのだ。ネットに流れる情報ソースは、国民の相互支援の結果だと思いこんで。戦時であるという鞭を振りかざせば、飼い慣らされたヒツジのように純朴な家畜として平和をむさぼる。
だからそれからはずれようとする因子は排除しようとする。思想警察がそれである――。
央武はデスクに戻らず、節電のために薄暗くなっている廊下の壁に背をあずけて、コーヒーをすする。
――国民全員が自ら考え行動することによる自立。それを実現しようとするのが反戦グループだ。戦争はすでに終わっていると国民が知れば、それに同調する風潮が生まれるかもしれない。反戦といえば聞こえがいいから、ある一定の支持を集めるかもしれない。
だが――。
それはマイノリティであるような気がするのだった。
なぜなら、今の生活が不自由だと感じていないから。むしろ、痒いところに手が届く、快適な世界だと感じているから。
央武にしてもそうだった。警察官を志したのも適正があるとネットで判断してもらったからこそ実現したのだと思っている。
もしこの社会から相互扶助(と、思っているもの)がなくなったりしたら、おそらく国民は自分の進むべき道を見失い、混乱するだろう。
ということは、思想警察は必要な機関で、正しいおこないをしているといえる。
だが、安定している世の中を維持するのに、人間を排除してしまうやり方しかないのだろうか?
まるで、社会と隔離されたどこかの場所に政治犯を収容する……という海外の非民主主義国家のようである。
思想犯がそこまで危険な存在なのかどうか、と央武は首をかしげる。
コーヒーを飲み干し、サーバーの横の専用ゴミ箱に、砂糖の溶け残った紙コップを放り込むと、席に戻った。
と、ちょうど五條課長が戻ってきた。
「加賀見」
と、央武の席に大股でやって来る。
「おまえの弟さんのことだが……」
神妙な顔つきになって切り出した。
「捜索願が出ていることは知っているよな? 普通なら家出扱いされてまともに捜索などしないのだが、公開捜査に踏み切ることになった」
央武は思わず立ち上がった。
五條課長はつづけた。
「実は、クルマに連れ込まれるところを見たという目撃証言があったんだ。その場所で自転車も見つかった。事件性があると考えられるとして、大人数での捜索が始まる」
「ありがとうございます」
「おまえも感じたことがあるかもしれないが、警察官に恨みを持つ市民は意外と多い。ほとんど逆恨みなんだが、襲われる警察官が年に何人かは必ずいる」
一度逮捕された者や、威圧的な態度を取られたと感じた者、恨みを持たなくとも、警察官の所持する拳銃を奪いたいと密かに思う者……。警察官は犯罪者を取り締まる立場であるから気づきにくいが、実は襲われる側になりえるという事実もあるのだ。警察官の家族に危険が及ぶことも当然、想定できる事態なのである。
「弟さんのことは心配だろう。我々も協力する」
「よろしく頼みます」
央武は頭を下げた。
だが、この件に思想警察と反戦グループが関わっていることは口に出せない央武だった。おそらく、雷司を連れ去ったというクルマは、思想警察のものではなく、反戦グループのものだろう――戸野山の言葉を信じれば。
思想警察から逃れようと暗躍する彼らを警察が見つけ出すのは不可能のような気がした。
反戦グループは、市民による小さな地下組織ではなく、裏に相当大きな支援者がいるだろう。そうでなければ、ここまで思想警察に狙われないだろうし、革命を起こすような行動もとれないに違いない。
課長は、知っているのだろうか……?
あるいは……とも思ったが、央武は余計なことは言わなかった。
☆
捜索隊が組織され、夕方から20人体制での大規模な付近の捜索が始まった。川の中や、川沿いの藪の中などを重点的に捜索することになった。事件性があるとしても、川でおぼれた可能性が高いとの判断だった。
マスコミも事件として報道し、央武は刑事としての立場から気まずかった。行方不明の兄が警察官だなどと、マスコミにとってはかっこうのゴシップだ。もちろん、警察としてはそれを隠していたが、隣近所へインタビューをすればすぐに明らかになってしまう。
職務上のこととして、警察は央武への取材にとりあわなかったが、央武は心苦しかった。
雷司はどこへ行ってしまったのか――。
メールすらくれないことに、央武は歯がゆかった。
そして、「付近を探しても見つからない」と言い出せないことが心苦しかった。川に入ってまで捜索してくれている捜索隊の大勢の同僚たちに無駄な仕事をさせている罪悪感で押しつぶされそうだった。
刑事として付近での聞き込みに回されている央武自身も、有力な情報が得られる可能性はないと、心ここにあらずといった状態だった。
自動販売機で買った缶コーヒーで手を温め、どうしたらよいものかと思案した。
反戦グループ。
思想警察同様、そのような結社があるということも、央武は知らなかった。もちろん、ネット上にもそんな情報はなかった。
ネットにないものは、存在しないも同じ――それが世間の常識だった。
思えば、ネットのおかげで犯罪は取り締まりやすくなったと言えるだろう。犯人がどこに潜もうともネットに接続する限り、なんらかの足跡は必ず残った。昔ながらの聞き込みや証拠集めも重要だが、それに近づくためのツールとして、ネットは非常に便利だった。
しかし逆にいえば、ネットに情報がなければ、見つけるのは困難を極めるということになる。
やはり、戸野山に頼る以外にない。
だが――。
戸野山が反戦グループの一員だとすると、当然、思想警察のマークするターゲットとなる。簡単に尻尾を出すようなマネはしないだろう。戸野山がなにを画策しているのかきちんと把握しなければ、雷司と会うことはかなわない……。
缶コーヒーのプルトップに指をかけて引き起こし、一口すすった。苦みが体にしみ通るようだった。
ともかく、戸野山になんとかしてもわなければ、どうにもならない。
しかし、もしその過程で反戦グループへの参加を求められたら……と央武は得体の知れないものへの不気味さを感じた。
思想警察が国家のために必要な職務をおこなっているのなら、警察官として戸野山を摘発しなければならないのではないか。しかし容疑は? それは警察にはない権限だ。
それに、そもそも「存在しないことになっている組織に先輩を売る」という行為が倫理的に正しいとは思えなかった。
思想警察のやり方そのものへの反発もあった。感情的に判断するのは刑事としてはよくないことであるが、ひとことで言えば、央武は思想警察が気に入らなかった。
なんの容疑があって弟を逮捕しようとするのだ、という理不尽な思いがあった。
戸野山が言うように、『反戦グループの活動によって世の中が変わる』というのが本当に実現するとは思えないが、もしも本格的な活動を始めた場合、戸野山は自身はなにをするつもりだろう……。
雷司との再会を戸野山に任せるしかない――そこにすがるしかない。
ウェアラブルが鳴った。五條課長からだった。
「署に戻ってきてくれないか?」
「弟が見つかったんですか?」
「いや……、悪いがそうじゃない。少し聞きたいことがあるんだ」
「はい……わかりました」
央武は通話を切る。
なにごとだろう……と思った。
ただ、よい知らせではないだろう、となんとなく思った。これまでもそうだった。呼び戻されるときはいつもよくない知らせが待っていた。
まさか思想警察にかかわることでは……と思ったが、想像してもはじまらないので、とりあえず南栓田署へ帰ることにした。
☆
刑事課の五條課長はこの南栓田署に赴任してから20年にもなるベテラン刑事だった。ただ、キャリアアップにはあまり興味がないようで、県警本部に移って警部や警視への試験を受けようとはしなかった。
階級が上がれば当然、給料も上がる。警察官という激務に足る報酬を得るチャンスに見向きもしない、同期の者からは「変わり者」呼ばわりされていた。
課長職になっているのも、たまたまそこに空きがあって、歳の順でそうなったにすぎないと本人は言っていた。階級も警部補である。
央武はしかし、そんな五條課長を尊敬すべき大先輩と見ていた。現場で働く警官に近い場所にいて、自らも額に汗して働く姿は頼もしくあった。
署に帰ると、その五條課長が玄関に出て待ってくれていた。
央武は驚いた。わざわざ出てくるのは五條課長の人柄だろうか。
「すみません、遅くなりました」
急いで帰ってきたのだが、それでも30分ほどかかってしまっていた。
「いや、なに、気にするな。とにかく中へ入ろう」
課長について廊下を歩く央武。
てっきり課のある部屋へ戻るのだと思っていたら、取調室に入っていった。
まあ、すわってくれと課長。
どういうことか飲み込めない央武は、不審に思いながらもテーブルの向こう側にすわった。
声を潜め、五條課長は切り出した。
「実は……戸野山が失踪した」
「えっ?」
耳をやられたかと央武は思った。それとも聞き違い?
「なんですって?」
「戸野山刑事が行方不明なのだ。我々は失踪したとみている」
「そんな……ウェアラブルはつながらないんですか?」
「連絡不能だ」
「でもそれだけで失踪って……」
そう決めつけてしまえるのが不思議だった。午前中、央武は戸野山といっしょにいたのである。たった半日、所在がつかめないからといって、失踪とは大袈裟ではないかと思った。
「我々としても放置するわけにはいかない。で、心当たりはあるかね?」
「心当たりって、失踪する理由も行き先にも心当たりはありません。だいたいなぜ戸野山さんは失踪しなければならないんですか」
「…………」
五條課長は数瞬、押し黙った。
「ともかく、我々はそう判断したのだ。見つけなければならない」
「きっと帰ってきますよ」
央武は言って、ハッと思い出した。戸野山が反戦グループのメンバーである、ということだ。
それは秘密にしている以上、戸野山は軽はずみな行動は控えるよう細心の注意を払っているだろう。警察官であるという立場故、それこそ尻尾を出すわけがない。
にもかかわらず、たった半日所在が不明というだけで失踪扱いされてしまうことに、央武は違和感を覚えずにはいられなかった。
もしや五條課長はなにかに気づいているのかもしれないと、央武は勘ぐった。
「戸野山さんの捜索願でも出ているんですか?」
「いいか、加賀見――」
と、五條課長は諭すような口調で言った。
「不審に思うのは理解る。おれも加賀見の立場なら、なぜこんな極端な話に発展するのだと、上司の言動を不審がるだろう。なんの疑問も持たずに言うとおりにせよといわれても戸惑うばかりだ。しかしあえてそう言うのには理由がある。その理由は言えない。おまえにも未来があるからな。必要以上の情報を知るのは身を滅ぼす」
「課長……」
と言ったきり、央武は絶句した。
そこまで言われると、もはやこたえは一つしかなかった。
――思想警察。
五條課長は、戸野山の正体を知っているのだ。だから、これ以上知るな、と言っているのだ。
とうとう戸野山も思想警察に狙われるようになってしまった。
いや――それとも――。
戸野山は、雷司と接触しているのかもしれない。なんとか央武のために、雷司と会えるように工作してくれているのかもしれない。
だとしたら……。
五條課長は、雷司がどうして行方不明になっているのかも、知っているのかもしれない。知っていてなお、こんな捜索活動を黙認している……。
どこか自分ひとりだけが蚊帳の外に置かれているような居心地の悪さを感じた。五條課長も戸野山も、もっと深く知っていながら央武にはなにも伝えず動いている……。
央武は不信感を抱きつつも、
「わかりました」
と、うなずいた。
そうするしかなかった。