第3章『黒いワゴン車』
異常な終わり方をしたオリエンテーションの翌日――。
加賀見雷司はとりあえずその曜日の時間割りをして登校した。
「おはよう」
と、教室に入るときにクラスメートに声をかけても、なんだか様子が暗い。
様子が暗いのは、教室の中全体だった。おしゃべりの声がほとんどしないのだ。入学したばかりでみんながうち解けていないからとおこなわれたオリエンテーションの効果はほとんどなかったかのように。
それはそうだろうと、雷司も思った。
担任の教師が逮捕され、しかもそれをだれにも言ってはならないのである。それら一部始終を目の前で見ていたクラスメートどうしでさえ話題にすることまで許されないなんて、どう考えても異常だ。
だが、間木田教諭を逮捕した刑事の不気味なオーラは、万人を萎縮させるにじゅうぶんな迫力をもってその場にいた全員の心を震わせていた。
今日からどうなるのか……。
生徒たちにはまだなんの知らせも届いていない。
雷司は試しにネット上を見回してみる。腕時計型のウェアラブルモバイルの仮想画面が目に入ってきた。が、なんの情報もなかったし、だれもそのことを話題にしてはいなかった。
チャイムが鳴った。
席に着く生徒たちは、いつになく静かだ。
黒板の横にあるアナログ時計の針が少しずつ回る。今にも戸が開いて、間木田教諭が明るい笑顔で現れるのではないかと思われるようないつもの時間……。
教室の戸が開いた。
生徒たちが緊張して迎えたのは、知らない顔の女性教師だった。
「みなさん、おはようございます」
おはようございます、と遠慮がちに数人の声がこたえる。
三十代半ばだろうか。パンツスタイルのすらっとした体型にショートヘアは、大人の知性を漂わせている。
教壇に立つ。
「初めまして。今日からこのクラスを受け持つ、結城アキラです。教科は英語です」
はきはきとした声で自己紹介すると、黒板に名前を書いた。
「急なことで、みなさん動揺していることと思いますが、今日からよろしく」
「あの、先生……」
一人の男子生徒が手をあげて、結城アキラが振り向く。
加賀見雷司だった。クラス全員が雷司に注目する。だれもが、言いだしにくいことを言うのだろうかと、しんと静まる。
「間木田先生は……?」
雷司の口から間木田の名がでて、全員が緊張した。そして、どんなこたえが返ってくるかと女性教師を見つめるクラスじゅうの目。
結城アキラは一度咳払いすると、
「わたしは前担任を知りません。ひとつはっきりしていることは、前担任は、二度とこの学校へは来ないでしょう」
冷たい物言いだった。
が、急に困った表情を浮かべ、
「先生が言えるのはここまでです。これ以上は、先生にも知らされていないから」
教室が静まりかえった。なにか目に見えない力によって自分たちが支配されていることに気づいて。また、自分たちだけでなく学校側も苦慮しているのだと。
「わかりました」
雷司は着席した。
「では、ホームルームを始めます。とはいっても、わたしはまだみなさんの顔と名前をちゃんと覚えていません。1学期を最初からやり直すみたいで申し訳ないけど、出席をとります。さ、きのうまでのことは忘れて、明るくいきましょう」
忘れられるわけがなかったが、結城アキラの言葉は忌まわしい出来事を封印するかのようにクラス全員に胸に重く残った。
☆
触れてはいけない――。
そう言われれば言われるほど、しゃべりたくなる――。だが、ことこの件に限ってはだれもそんな軽い気持ちにはなれなかった。
間木田教諭のことも、サバイバル・オリエンテーションについても、だれも語ろうとはしなかった。
だが、なんのためにあれをおこなったのか、という思いは、加賀見雷司のなかでずっとくすぶっていた。単純にクラスの仲間意識を高めようというだけなら、思想警察に逮捕されたりしないだろう。
「ねえ、加賀見くん」
一限目の歴史の授業が終わり、担当教諭が出て行くと、黒村理衣子が話しかけてきた。オリエンテーションがきっかけで急に親しくなれたが、雷司はどこかまだうち解けられないよそよそしさを引きずっていた。
「間木田先生が捕まったということは、あのまま担任を続けていたらこのクラスになんらかの影響があるからだということだったら、わたしたちも危ないのかしら?」
雷司は瞠目した。そして、周囲を見回す。
聞かれていないようだ。雷司は胸をなでおろす。必要以上にビクつくことはないだろうが、用心に越したことはない。
――明るくいきましょう。
新担任の結城教諭の言葉に力づけられて、なんとか元の学校生活へ戻ろうと、教室内の生徒たちは必要以上に友だちとからんでいた。それはどこか痛々しくもある光景だった。
「そのことは……」
「そう、言っちゃいけないんだよね。でも――」
黒村はいたずらっぽく笑う。「そもそも、なぜなのかな?」
なにかを知ってそうな、小悪魔のような含み笑いだった。
雷司は口を開きかけて、閉じる。
思想警察、という語の響きが、すごく危険に思えた。
まるで秘密結社のようである。
国家に都合の悪い人間を秘密裏に排除する――。その非情な行為がこの国にまかり通っていること自体が驚きであった。
少しでもその禁忌に触れようものならたちまちターゲットにされてしまう。もしかしたら間木田教諭はもうこの世にいないかもしれないなどという想像すら荒唐無稽と思えない。
黒村はそういうスリルを楽しんでいるかのように、雷司には見えた。
「そんなもの知るかよ」
雷司は突き放すようにこたえた。あまりかかわってはまずいと思った。
「なんだかんだ言ったって、戦時ってことなんだね」
黒村はそんな雷司の態度を気にすることなく陽気に言った。
そう。今は戦時だ。
この国は戦争状態にある。
敵国からの侵略行為が散発的に起きている。それに対処するために、国はさまざまな制約を国民に課していた。だがそれは仕方のないことだと国民はみな納得していた。全面的な戦争にならないよう軍は懸命になって戦っているからと、多少の不自由は我慢した。
不自由があっても、国民がみなギスギスした生活をしているわけではなく、表面上は穏やかに、普通に暮らしているように見えた。
だからことさら戦時を意識することはない。
が、雷司は思想警察を知ったことで、平穏な生活はいつ壊れるともしれないのだと思い知ることになった。口外してはならない、というプレッシャーがよけいに息苦しい。
チャイムが鳴る。
なにか言い返そうとした雷司だったが、それで気勢がそがれた。二時限目は数学で、数学の教師は他のどの教師よりも早く、チャイムが鳴ると同時に教室へ入ってくるのだった。
生徒もそれがわかっていて、早々に席に着く。
一日が無事にすぎることを願いながら受ける授業は、なんともいえない雰囲気だった。
ぎくしゃくした一日がすぎて、その日の授業が全部終了した。
明日の授業内容を確認して、それぞれが帰宅したり、クラブ活動に向かったりする。
雷司はクラスの仲間たちと別れて、下校する。
ケヤキの並木道、住宅街を流れる川にかかる古い橋、交通量の多い国道……。いつもの光景であるそれらが、急に失いがたい大事なもののように感じられた。
歩きながらネットに接続して、チャットに入った。
よほどのことがない限り自らは書き込まず、読むことだけに徹した。不用意な書き込みは身を滅ぼす。なにかの理由で拡散してしまったら最後、永久に消えることがないのだ。
ネットには匿名がない。すべてがオープンにされてしまう。
アンダーグラウンドがあるにはあったが、そこは危険な世界だったから未成年が近づけばたちまち餌食にされてしまうのがオチだった。
本名が基本のネットは、リアルな関係の延長の世界といえた。ネット内での意見はもちろん、「会話」でさえも、全体の総意としてすべての判断の基準となってしまっていて、人々は互いに支え合いながら個々にまつわる判断を決定していた。
間木田教諭がどうして社会的に抹殺されてしまったのか――。
検索した。
が、「間木田」ではなく、「南大和田高校」「1年1組」「オリエンテーション」という別のキーワードで。
すると、間木田の噂をしている記述を見つける。が、じっくり読んでいる間もなく、次の瞬間にはそれが消えていた。
雷司はログアウトした。
やはりこれ以上、首をつっこむのは危険だ。
そう感じた。
家に帰ると、母親が兄が来ていたと言った。
「もう帰っちゃったの?」
雷司より七つも年上の央武は地元の警察署で刑事をやっている。休みが不規則なうえ寮暮らしなので、ここ数ヶ月は会っていない。
「うん、もうちょっといてくれてもいいのにね……」
母親は残念そうだった。
「間木田先生のこと、兄ちゃんに話した?」
「話したわよ。急に退職したってことね」
それ以上のことを、雷司は家で話していなかった。思想警察に連れて行かれたということは口外してはいけないと釘をさされている。刑事である央武にも雷司はなにも言ってなかった。刑事という立場だから言ってもよさそうだが、メールもしていなかった。
「なにか言ってた?」
「とくに」
と母。
「そうだろうな」
雷司はつぶやいた。
たとえなにか知っていても、警察官という立場で、職務上知り得た情報を身内だろうとしゃべるわけにはいかない。
入学早々のことで、他のクラスメートは間木田教諭に対しての親しみは薄いかもしれないが、雷司はそうではなかった。雷司と同じ南大和田高校に通っていた央武の担任も間木田教諭だったのだ。
央武は、逮捕された間木田教諭がその後どうなったのか知っているかもしれなかった。
雷司はしかし聞くわけにもいかない。メールで問うのは危険な気がした。
今はあきらめるしかない。
「お土産にカステラを買ってきてもらっているから、手をあらっていただきなさい」
「はーい」
さしてお土産に喜ぶ様子も見せず、雷司はいったん自室へ引っ込んだ。
寒々とした部屋に入り、かばんを起いて部屋着に着替えると、宿題を取り出し確認する。高校受験を乗り切ってやっと合格を勝ち取ったかと思えば、もう大学受験を控えてのカリキュラムが目白押しである。まったくもって息つく暇もない。
そのうえ今回の〝事件〟である。これで充実した高校ライフをエンジョイできるのかどうかと少し心配だった。
クラブ活動もまだ結論を出していなかった。じっくり考えて決めようと思っていた。
宿題を机に積み上げて、ふう、と息をつく。
授業でわからないところがあっても、ネットに接続して調べられるから、宿題が難しくてできないということはない。そういう面からも「自分考える」ということをだんだんしなくなっていた。それも見越して、宿題はやたらと量が多くなっていた。
カステラがあるというのを思い出し、雷司はリビングに戻った。
リビングのテーブルには切ったカステラが皿にのせられていた。つきさっきまでいた兄の気配がするような気持ちになりながら、雷司はカステラを頬張った。しっとりとした生地が口の中で溶けて、甘い香りが広がった。
「間木田先生のこと、驚いていたけれど――」
と、急須に入ったお茶を湯飲みに注ぎながら、まさか思想警察に逮捕されたとは知らない母。
「兄ちゃんも担任だったから。でも、卒業以来会ってなかったし。連絡をとろうなんて思わないんじゃない?」
「かもね……」
雷司はカステラを食べながら肩をすくめる。
警察官である央武とのコネクションを使えば、思想警察の正体に近づけるかもしれなかったが、リスクが高すぎる。そこまでして真相を追究する値打ちはない。下手をすれば自分まで消されてしまいかねない。
思想警察を甘くみないほうがよい――雷司はそう思った。そして、その考えが正しかったことが、翌日、証明された。
雷司がいつものように登校すると、クラスメートの一人が学校に来ていなかった。オリエンテーションで親しくなった算田だった。
ひとり欠席者がいても、クラスはいつもと同じ雰囲気だった。
ところが。
淡々と授業がすすんでいたが、昼休みぐらいになって、どうやらただの病欠ではないらしい、といううわさがネットのコミュニティに流れ出した。当人と連絡が取れないのである。
普通はあり得ない。
なにかあった――。
生徒たちの間にただならぬ空気が漂い始めた頃、新担任の結城教諭がやって来て、こう告げた。
「突然ですが、算田くんは家の事情で退学しました」
衝撃的な知らせだった。
その理由に、だれしも思いつくものがあった。
思想警察。
それを裏付けるものもあった。
昨夜の算田の書き込みに、間木田教諭が逮捕される原因となった、オリエンテーションの中身についての考察があった。すでにそれらは抹消されているが、その情報に接した生徒もいた。
書き込みを抹消したのは、おそらく算田本人ではないだろう。
恐怖が生徒たちの言動に影を落とした。
算田については、学校からはそれ以上の説明はなく、あからさまに接しないような雰囲気で、生徒たちにもそれが伝搬していた。
「この世はどうなってしまったんだ……」
雷司は口の中でつぶやいた。
これまでの日常が、どんどん変異していっているのを感じずにはいられなかった。
「次はだれだと思う?」
黒村理衣子が話しかけてきた。口の端に少し笑みを浮かべて。
「なにを考えてるんだ?」
雷司は上目づかいで黒村を見る。
まだクラスになじめていない時期。生徒たちはお互いをやや牽制しながら人間関係を模索していっている状態だった。一度確立してしまえば、ネットと連動してその関係は強固になっていくが、まだその段階ではなかった。
そんななかで黒村が雷司に近づくのは、とくに不審なこともないのだが、どこか他の生徒とは違うオーラを発していた。
「もちろん、消えてなくなる人のことよ」
教室のなかで、堂々とそんなことを言った。
「その話は――」
「わかっているわよ。気をつけないと、思想警察に消されちゃう」
「だったら……」
「雷司くんのお兄さん、刑事なんでしょ?」
「なんで知ってるんだ?」
雷司は瞠目した。
「ネットの書き込みを丁寧に見てまわっていったら、いろんな情報にたどりつけるじゃない」
黒村は、こともなげに言う。
「それはそうかもしれないけれど……」
そうは言っても、現実、そんなことをわざわざする人がいるとは信じられなかった。手間暇をかけて、人のプライバシーを調査する暇人。
「消えた間木田先生や算田くんのこと、なにか知ってると思うんだけど」
「だめだよ。たとえ知っていたとしても、だれにも話せない。身内にもね」
「あら、そうなんだ……」
残念そうに、というより、そんなことは最初から期待していない、といった口調の黒村だった。
でも……と黒村の目が妖しく光った。
「知りたくはない?」
黒村の目が不気味に光った。
「なにが言いたいんだ?」
雷司は警戒した。
「どうして、間木田先生や算田くんは捕まってしまったのか」
算田が捕まったと決まったわけではなかったが、黒村はそう言った。
「それは……」
言いかけて、雷司は思い返す。
オリエンテーションで、間木田教諭は生徒たちになにを求めていたのか……。
それは自分で考え、行動することだった。
ネットがこれだけ普及して、自分で考えることも決めることも、なくなった。すべてのこたえがネットにあった。だからだれもがネットにアクセスし、自身の問題を解決していった。しかし間木田教諭はオリエンテーションでネットへのアクセスができない環境を用意した。ネットを禁止する。それは、つまり、どういうことなのか……。
「国家にとって、国民は、純朴な歯車でなくてはならない、ってことよ」
黒村がぼそりと言った。
「間木田先生と算田くんが今どこでどうしているか、知りたくなった?」
「…………」
雷司は黙った。兄が刑事ということで、なにか情報が得られるかもしれないと黒村は考えているらいしが、なぜ黒村がそれを知りたがっているのか、雷司にはわからなかった。
☆
兄貴に探りをいれてもいいかもしれない……。
思想警察については、ネットでも検索にかからなかった。徹底的にその秘密は守られるようになっているようであった。存在そのものが確認できない。となると、警察関係者であってもその存在を知らないかもしれなかった。
メールだけでもしておこうと雷司は思った。
〈間木田先生が突然、学校をやめたことは知ってると思うけど、理由はおれも聞いてない。学校が発表できないことなのかもしれない。なにか知ってる?〉
おそらくなにも知らない、という返事だろう。
それより日常が忙しかった。
今日は、アルバイトの面接なのだった。
高校に上がってアルバイトが許されるようになったからと、雷司はなにか探していた。学校でのクラブ活動もいいが、どちらかというと実のあるアルバイトのほうがいいかな、とも思っていたのだ。もちろん、クラブ活動をあきらめたわけではない。時間はまだある。あせることはない。
求人情報にアクセスすると、よさそうな仕事が見つかった。配送センターだった。
授業を終え、学校から一度家に帰ると、電話をしてから配送センターへ行った。自転車で20分ぐらいのところだった。
初めてのアルバイトで緊張していたが、責任者が出てきて丁寧に説明をしてくれた。
――高校生? じゃあ、終日は無理だね。時間と曜日を指定して、来てもらえるかい? よろしい。じゃあ、書類に必要事項を書いて。
といった具合に相手も手慣れた様子で話が決まっていった。そして、作業場所の見学と、作業の説明を聞いた――品物の仕分けだった。
もしアルバイトを断るなら早めに連絡してちょうだい、と言われて配送センターを後にしたころには、すっかり夜になっていた。
「早く帰らなきゃ」
雷司は自転車のペダルをこぐ。遅くなるかもしれないと母には言ってあったが、こんな時間になるとは。
お腹もすいていたし、近道をして帰るか――。
コンビニによることも考えたが、晩ご飯前にお腹をふくらますこともないと考え直した。
信号待ちをしているときだった。
交差点にはだれもおらず、目の前をすごいスピードでクルマが通過するのみだった。ふと、なにかの気配を感じて振り返った。
――気のせい?
雷司は首をかしげる。
信号が青に変わった。
自転車の後ろからクルマがびゅんびゅん追い抜いていく。
一台のクルマが、追い越しざまに前方をふさいで停止した。黒塗りのワゴン車。
雷司はブレーキをかけず、停止したワゴン車の右側を回り込もうとした。
すると、ワゴン車の右側のスライドドアが開いて、黒スーツを着た男が飛び出してきた。
――あぶない!
立ちふさがった男ののばした腕をかいくぐるように、体を傾けた雷司の自転車は通過した。かろうじてそれをかわしたが、男は明らかに雷司を捕まえようとしていた。
と、直後、黒スーツの男は無言でクルマに戻った。
停止したワゴン車のヘッドライトに照らされて明るくなった車道の先を、雷司は急ぎながら混乱する。
今のはなんだったのか?
考えている暇はない。
雷司は路地へと飛び込んだ。
しかし、そこへ発進したさっきのワゴン車が入ってきた。
――追いかけられている!
雷司は恐怖した。
なにがどうなっているのかわからないが、ここはとにかく逃げなければ――。
その思いで頭がいっぱいになった。
幼い頃から住んでいる町の地理は熟知していた。どこにどんな通りがあって、どこにクルマが入って来られるか来られないか。
雷司はますます狭い道路へと入っていき、ついには遊歩道に入った。道幅が狭い上に入口にポールが立っており、ここにはクルマは入ってこられない。
しかし安心できない雷司だった。
今の追跡で、遠回りしてしまった。早く家に帰らなければ。
だが……このまま家に帰ってもだいじょうぶか? という疑問が頭に浮かんだ。
あれがもし思想警察だとしたら……。
雷司は衝撃を覚えた。身に覚えがなかった。
思想警察に目をつけられる理由がわからない。間木田教諭のことを嗅ぎ回っていたり、算田ととくに交友が深かったわけでもない。
では思想警察ではないのか?
だったらますますわからない。
謎の組織に狙われるヒーローなどというのはまっぴらごめんである。
ともかく、この後どうするか……。
遊歩道の出口で一度自転車を止めた。
信用できる人間や、窮地を救ってくれそうな頼りになる人間を思い浮かべようとした。
雷司は浅くため息をつく。
そんな人間はいなかった。友人は、いるにはいたが、ただの遊び友達であって、それ以上のものではない。些事な相談なら乗ってくれるだろうが、拉致されそうになったなどと、冗談ではすまないことにはとても力になりそうにもないし、そもそも巻き込むわけにもいかないだろう。
とはいえ、このまま夜の町をさまよってばかりもいられない。早晩、発見されてしまうだろう。
では、どこへ行けばいいのだろう。
雷司は思案した。
目の前に一台のクルマが滑り込んできた。
雷司の前で停止する。しかしそれは、さっきの追いかけてきたワゴン車ではなかった。
青いインプレッサ。
突然、後部席のドアが開いた。
「乗って!」
顔を出して唐突な一言を発したのは、なんと、黒村理衣子だった。私服を見たのは初めてだったが、今日も顔を合わせたせいですぐにわかった。他のクラスメートだったら、だれだかわからなかったかもしれない。
しかし雷司は驚き、混乱した。
疑問が次々とわき出てきて、なにから訊ねればよいかさえわからなかった。口をぱくぱくさせて、脳の整理しようとした。とっさに状況が理解できなかった。
「早く。時間がない」
と、せかされる。
「でも、自転車が……」
この状況で乗ってきた自転車の心配をしてしまう。それどころではないのに。
「そこへ置いておきな! 捕まったら、消されるよ」
その声は運転席からだった。
開いている助手席の窓を腰をかがめて見ると、運転席にいたのは、なんと、結城アキラだった。昼間見た印象とはずいぶんと違う、高校の教師とは思えない雰囲気があった。
「先生……」
と言ったきり、雷司は絶句した。
そのせつな、クルマをおりた黒村に腕を引っ張られた。
あれあれと思っているうちに後部座席へ押し込まれた。
車内にかすかに漂う煙草の匂いに気づく間もなく黒村がドアを閉める。と同時に、インプレッサは発進する。出足の鋭い加速にシートに体が沈み込んだ。
「どこへ行くんですか?」
雷司は、運転席でステアリングを握る結城に訊いた。不可解なことはたくさんあったが、まずその質問をした。
「隠れ家よ」
結城は短く返答した。
「か……」
冗談かどうか判断がつかねる雷司だった。ともかく、今は追っ手から逃れることが先決だった。説明はそのあとでいいだろう。
結城の運転は慎重かつ大胆だった。
最初、雷司にとって見知った町内を走っていたが、次第に遠くなっていき、いつしかどこを走っているのかわからなくなってきた。
「どこまで行くのさ」
さすがに不安になって、雷司は訊いた。
「黙ってて」
隣にすわる黒村がぴしゃりと言う。
……いったい、黒村は何者なのだろう?
雷司は思った。
思い返せば、オリエンテーションの最中から、黒村は雷司に接近していた。顔見知りもいないクラスで、間木田教諭の指導の下のオリエンテーションは友人を作るいい機会であったから、黒村が声をかけてきたのもさして気にしなかった。
だが、それが偶然ではなかったとしたら――。なにかの目的をもって雷司に接近してきたとしたら。
いま、ここでこうしてクルマに乗せられているのも最初から予定されていたことなのかもしれない。
しかしだとしたら、その目的は?
運転している新任教諭の結城アキラが、黒村と深いつながりがあるのはどういうことなのだろうと、雷司はわけがわからなかった。
カーオーディオもなく静かな車内。夜の町が窓の外を通り過ぎていく。街灯の光がときどき車内を照らすが、それ以外は暗くて息がつまりそうな妙な緊張感。
いつ追っ手が現れるかと思うと気が気でなかった。追っ手……思想警察。それ以外に思いつかない。だが逮捕される理由がわからない。あるいは逮捕するわけではなかったのか? 誘拐?
雷司は苦笑する。誘拐というなら、この状況も誘拐である。
クルマが停止する。
「着いたわ」
結城が後部座席を振り向いた。
「降りて」
黒村がすかさずドアを開けて降りる。雷司もそれにならった。
クルマは路上に止められており、まだエンジンはかかっている。
雷司がきょろきょろしていると、
「こっちへ来て」
黒村がクルマの寄せてある建物のほうを指す。それは三階建ての集合住宅だった。街灯に建物の一部だけが照らされて、光の届かない部分に、なにかがいるような感じがした。
建物に入ろうとすると、クルマの窓を開けて、結城が言った。
「加賀見くん、こんなことになるなんて、わたしも迂闊だったわ。でも教師として、ぜったい助けてあげるから、今は我慢して」
それを聞いて、雷司はギョッとする。自分の知らない世界に連れてこられた、と。自分の身になにが降りかかってきたのだろうと、追っ手を振り切ってとりあえずは助かったというのに不安はぬぐい去れなかった。
黒村さん、あとはまかせたから――そう言い残して結城の結城のクルマが去ってゆく。
雷司が赤いテールランプを見送っていると、
「早く入って」
黒村がうながした。
雷司は黒村の後を追って建物の玄関へと入った。
階段で二階にあがり、狭い廊下を奥へと進んでいく。廊下の照明は心細く、闇だまりになにかが潜んでそうだった。コンクリートの壁から冷気が伝わる。
「ここよ」
表札のない扉の前で、黒村は立ち止まった。薄汚れた金属製の扉はどこか訪問者を拒絶するような威圧感があった。
黒村は鍵を取り出す。キーホルダーひとつ付いていない、作ったばかりのような合い鍵だった。
ドアを開けると意外にも中は明るかった。だれかがいるようである。
「入って」
黒村が靴も脱がずにさっと中へ入る。雷司も続いて入った。
「おじゃまします……」
タイルカーペットが敷かれた部屋は、いちおう住居用の間取りではあったもののひどく生活感がなかった。
リビングルームの真ん中には会議机が置かれ、壁際にはパソコンの載った事務デスク。まるで事務所のようだった。
そこにひとりの女がいた。三十歳ぐらいで、短い髪が活動的な印象を与え、結城とだぶった。
パソコンに向かっていたが、イスをくるりと回し、
「おかえり」
と一言。
「その少年が、加賀見くん?」
雷司が来ることを知っていた。
イスから立ち上がると、部屋の入口で遠慮がちにたたずんでいる雷司の前へ移動する。意外と上背があった。身長は170センチ以上はある。
「初めまして。わたしは棒野千佳。ここの連絡係だ」
「連絡係……」
「加賀見くんには理衣子から説明があったと思うが、今は重要な時期にきている。くれぐれも慎重に行動してほしい」
雷司は驚いた。なにも聞かされてはいないのに、勝手に話が進んでいるようだった。
雷司は黒村を振り返る。
「黒村さん、これはどういう……?」
「ごめんなさい。全然、説明していなかったから――」
「なにぃ?」
棒野の細い眉がつり上がった。
「まだ説明してなかったのか? じゃ、なにも知らずにここへ連れてきちまったってか」
蓮っ葉な口調で言って、天を見上げる。
「はい。ちょっと余裕がなくて」
「やれやれ」
棒野は天を仰いだ。「今からこんな調子じゃ、先が思いやられるわ」
「あの……」
「加賀見くん。きみはもう元の生活には戻れないだろう」
雷司が口をはさもうとすると、棒野がすかさずかぶせてきた。しかもそれは衝撃的な発言だった。
「なにしろ思想警察がきみを指名手配しているからな」
「!…………」
指名手配と聞いて呆然とする雷司。口をひらけたまま固まってしまった。
「ま、すわりたまえ」
会議机の下から丸いイスを引っ張り出し、棒野は腰を下ろす。
黒村もその近くのイスにすわり、
「加賀見くん」
と、袖を引っ張った。
雷司は自動的にすわった。ショックが長引いていた。
会議机に三人がついた。
「まずは我々が何者かということから説明しないとね……」
会議机に両肘をついて、組み合わせた指であごの下を支えると、棒野は語り始めた。
雷司の身になにが起きようとしているのか。
そして――。
この国で、今、なにが起ころうとしているのか。
今は、戦時である。開戦から十五年がたっていたが、戦争の終結はいまだに見えない。
戦争とはいっても国境付近で小競り合いが続いているだけで、国家の総力をあげての全面戦争ではない。互いに相手の出方をうかがっているうちに十五年が経過してしまい、今に至っていた。一般国民が戦火に巻き込まれてしまうことは希だったし、暮らしが大きく変わるほどのこともなかった。
が、それでも戦時は戦時である。戦死する兵士もいたし、戦時用の国家予算編成により一部の公共事業は凍結されていた。
国民への戦時協力も呼びかけられていた。
――勝利のために団結しよう。
国民のベクトルは、ほぼ同じ方角を向いていた。
それを実現するツールがあった。
ネットだった。
ネットの情報により情報の共有化が図られ、国民はトレンドに乗りやすくなった。
そしてそれは、個人個人の思想や適性にまで拡大し、今やあらゆる決定がネットによってされるようになった。それにより人々は互いに協調し、迷わなくなり、結果、治安もよくなった。
戦争があるおかけで、この国は安定している、ともいえた。
が――。
反戦を訴える人々が少数ながらいた。最初、彼らは単に自己の意見を述べるだけにとどまっていたが、個人の意思決定がネットの意見やシステムに頼ることによる危険まで主張するようになり、組織的な活動へと変化していくにつれ、国も黙認しなくなった。
このまま彼らの活動が活発になり、国民の一致団結が破壊されてしまえば、戦争の継続が不可能となってしまう。個人の思想の自由は、国にとっては不要な考え方だった。
思想警察は元々敵国の工作員を取り締まるために組織された。その性質のため、国民はもとより政府の要人にさえその存在は秘匿されていた。
その思想警察が反戦組織の摘発に乗り出したのである。彼らはネットのなかを探り、国民の私生活をモニタし、少しでも危険な思想を見つけたらマークした。
そのやり方は徹底していた。反戦組織になんら関わり合いのない間木田教諭もその網にかかって社会的に抹殺された。いまは、どこかの離れ小島にある収容所にいるはずだった。まさに「島流し」である。
そして、同様に、加賀見雷司もひっかかってしまった。
その情報をつかんで身柄を保護しようとした矢先、すでに思想警察が動き出していた。危ういところで雷司を逮捕されずにすんだが、きわどいところだった。
「そういうわけだ。算田くんまでが思想警察に捕らわれた以上、クラス全員が目をつけられているのは間違いない」
雷司は絶句した。
「今の話は……本当なんですか?」
矛盾はしていない。しかしあまりにも突拍子もない気がして、にわかには信じ難かった。
「強い弾圧を受けてなお我々がそうまでして反戦運動をするには、もちろんわけがある。重要なわけが――」
棒野はもったいぶった。雷司はごくりと唾を飲み込む。
「戦争は、すでに終わっている」
「えっ……!」
「ネット上に流される戦いのムービーも、戦死者の名前も、今や架空のものだ。国が捏造しているのだ」
「でも、それじゃ、なぜ……」
雷司の疑問はもっともだった。
「戦時中、この国の犯罪率は著しく低く、安定していた。それは戦争中だという緊張感があったからだと。国民に一体感があったからだというのだ。だから国には戦争は必要だ、戦争は続いてなくてはならないという理屈なんだ。矛盾しているようだが、安寧のための戦争状態をこの国はつづけている。おそらく、特別な事情がない限り、戦時体制は変わらないだろう。今後、50年も60年も。もしかしたら、100年以上戦争状態がつづくかもしれない。戦争なんかしていないのにもかかわらず」
「そんなばかな……」
雷司には非現実的すぎて、なにもかも信じられない。妄想ではないか、という気さえした。だが思想警察に追われたことはまぎれもない事実であるし、とすれば、棒野の話もどんなに荒唐無稽であっても現実なのかもしれない。
理衣子、と棒野は黒村に声をかけた。
「加賀見少年をここに匿うわけにはいかないから、別の拠点へ連れて行ってくれ」
「はい」
黒村は素直にうなずく。
棒野は雷司の意見は聞こうともしない。
「ちょっ、ちょっと待って」
このままよく事情も理解できずに、状況に流されてはたまらなかった。
「なに?」
黒村は、まるで雷司が質問するのを意外に感じているような表情だった。
「おれは、これからどうなるんだ? おれになにをさせようってんだ? 反戦組織って言ってたけど、おれにはそんな主義主張はないし、それに学校や家族や……」
「思想警察に指名手配されていて、一人でなんとかできると思ってるの? もう、きみは我々と行動を共にする以外に道はないんだよ。もちろん、これまでの生活をすべて棄てることになる。家族との連絡も。甘ったれてはいられない」
冷徹なセリフは棒野である。
とはいえ、雷司もすぐに受け入れられるほど大人ではなかった。
混乱していた。つい数日の間の急激な変化に対応できない。
自身、身に覚えがないのだから当然である。思想警察にマークされるほど、その言動が危険であるとは、どうしても思えなかった。
要するに誤解だ。
誤解なら、それを解くこともできるだろう。思想警察も人間なのだから、話し合えるだろうという希望があった。
雷司はそれを主張した。
「ムダだね。思想警察に話し合いは通じない」
だが棒野はにべもない。そんなことより、と雷司に重ねて言う。
「明日の夜、脱出だ。それまでの間に覚悟をかためておきなよ」
「え……それまではじゃあ……」
「脱出するまでこの部屋から出てはいけない。当たり前だろ。迂闊に出て行ったら逮捕される。わかっていると思うけど、逮捕されたら最後、釈放される見込みはないからな。心配するな、悪いようにはしない。我々はきみを歓迎する」
「…………」
雷司は二の句が継げなかった。
日常が、音を立てて崩れていった。これまで暮らしてきた平穏な日常がいともあっさりと失われてしまった。悪い夢でも見ているようだった。
「今日は、もう遅い。隣の部屋で寝てな」
時刻はいつの間にか11時になろうとしていた。そういえば、まだ晩飯にありついていなかった。しかし食欲はなかった。
「こっちへ」
黒村が隣の部屋へと手招きする。「食べる物ならあるから」
隣の部屋の照明がともる。
分厚いカーテンが閉じられた部屋には家具らしいものはなにもなく、空き室に入ったかのような印象を与える。黒村が、白い壁に作られたクローゼットのドアをスライドすると、中には半透明の樹脂製チェストがあり、うっすらとカップ麺らしきものが入っているのが見えた。
雷司はため息をついた。
「こんなものしかないけど、辛抱して」
黒村はチェストの引き出しからカップ焼きそばを取り出す。
「いや、今は食欲がない」
こんな境遇にあって、平然と空腹を満たせる気にはなれなかった。
「そう……じゃあ、もう眠る(やすむ)?」
黒村は無理に食べさせようとはしなかった。雷司の気持ちを理解したようだった。
「え……ベッドもなしに?」
黒村は、クローゼットの反対側のドアをスライドさせると毛布を取り出す。
「加賀見くんの部屋のようにはいかないわ。これで我慢して」
雷司に一枚手渡した。
まるで体育館に避難してきたようである。テレビニュースで見る「災害発生によって避難指示が出された住民たち」の図。
なにもかもが〝まさか〟であった。
黒村は毛布にくるまり、部屋の隅で壁に背中を預けている。慣れた動作だった。
「なぜおれは思想警察に目をつけられてしまったんだろう……」
雷司はつぶやいた。つぶやかずにはいられなかった。
すると、黒村は訳知り顔で言った。
「そうやって自分で考え込むでしょ? それがいけないの。すべてはネットが導いてくれるのに」
「じゃあ、黒村さんもそうなの? 黒村さんは……いつからここいるんだ? 結城先生もそうなのか?」
「その話は明日にしましょ。もう寝ましょう。わたしも疲れた」
聞きたかったが、しかし雷司はうなずき、黒村と同じようにフローリングにすわった。手渡された毛布をかぶるやいなや、黒村が手にしたリモコンを操作して、消灯。
闇の中で、雷司はウェアブルモバイルを操作しようとして、やめる。
ネットをのぞくのが急に怖くなった。自分のアクセス履歴がすべて思想警察にモニタされているのだと思うと気味が悪かった。――いや、そうじゃない。これまで意識していなかっただけだ。
個人の動向はつねにネットに収集されている。それは自身の記憶を外部に持っているようなもので、自己の脳の拡大でもある。同時にそれは共有され、フィードバックされる。それを受け入れて、その環境に頼ってだれもが生きてきた。
それが崩れていく。
雷司は、自分の足下が急になくなってしまったような気がして落ち着かなかった。