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第2章『思想警察』

 容疑者発見の通報がよせられたのは聞き込みをしている最中だった。

 南栓田みなみせんだ警察署刑事課の加賀見かがみ央武おうぶの視界の端に、点滅する信号があった。ウェアラブルモバイルからのアラームである。空中で点滅する信号に指をもっていき、通話スイッチを入れる。

「はい、加賀見です」

 耳に埋め込んだレシーバーに音声。

『すぐに署に帰ってきてくれ。容疑者の潜伏場所がわかった。今から作戦会議だ』

 上司である刑事課課長の冷静な声がした。央武のはるか先輩で、南栓田署の主と言われている。

「えっ……そうですか、わかりました」

 央武は通話を切ると、道ばたでハンカチで汗をふいた。春先だというのに、今日はいやに暑い。スプリングコートなど着てこなければよかったと、手にもつそれが邪魔だった。

 署へと戻るため、竹露たけろ市を昔から走っている路面電車に乗る。駆け出しの刑事で、クルマを使える身分ではなかった。ゆっくりと窓の外を流れる景色を見つつ、央武は緊張していた。

 容疑者の潜伏場所がわかったとなれば、手帳に書き込んだ聞き込みのメモがすべて無駄になったことになる。だが事件が解決するなら良いことだ。

 警察署前で路面電車を降りると、正面にやや薄汚れた白い鉄筋コンクリートの二階建てが、駐車場の奥に無愛想に横たわっていた。

 みなみせんだけいさつ、と平仮名の看板を見上げ、門から駐車場に入る。

「?……」

 央武は、いつもと違う空気を感じ取って、駐車場内を見回す。

 パトカーの他に、おそらく運転免許証の更新手続きなどで来ている一般市民の車両が数台……。いつもとなにもかわらない。だが、なにか雰囲気が違う。

 その正体がわからず、央武は気のせいかと思いながら警察署内に入っていった。

 なんともいえない緊張感が漂う。いつもの空気ではない。

 節電のために照明が間引きされてある薄暗い廊下をすすみ、二階の刑事課のドアを入る。

 デスクの並ぶ学校の教室ほどのやや広めの部屋。低い天井には、かつての先輩たちのタバコの煙による汚れが、禁煙になった今でも黄色く残っていた。五、六人の私服刑事が、各自のデスクでパソコンを操作し、書類の作成にいそしんでいる。

 壁際に置かれた電子黒板の前に立っている二人が、課長と先輩。

「ただいま、戻りました」

 と言ったものの、室内の異様な空気に一瞬、ひるむ。

「加賀見、ちょっと来てくれ」

 課長が手招きした。刑事課課長の五條は、この警察署に配属されて二十五年になる。県警察本部への転属がなかなか実現せず、警部補のままここでくすぶっていたが、本人は意に介せず――というか、長年の労務に、警部補ありながら課長を任されて、それで満足している風があった。

「容疑者の居場所がわかったんですね」

 央武が、手に持っていたコートを壁のハンガーに掛けてから歩み寄ると、

「まあ、そうなんだが……」

 と、どういうわけか歯切れが悪い。

「なにかあったんですか? もしや容疑者に逃げられた、とか」

 央武は冗談を言った。

「当たらずとも遠からず、だ」

 が、課長は否定しなかった。

 実はな……と、先輩刑事の戸野山が、央武の肩をぽん、とたたいた。

「この件に関しての、われわれの仕事は終わった」

「はい?」

 央武は不審な表情で戸野山を見返す。

「あるいは容疑者誤認だったとか?」

 央武は思いつきを口にしたが、これから容疑者を逮捕する段取りを打ち合わせようという矢先、逃げられたといっても、それで仕事が終わるわけではないから、誤認ではないだろう。

 どこか言いにくそうな、奥歯に物がはさまったような様子の五條課長と戸野山。

 どうにも理解できなくて、ただつっ立っていると、

「まあ、ちょっとすわってくれ」

 五條課長は電子黒板の前に置かれた会議机のイスに腰かける。いつにもましてゆったりとした動作に、つい央武もイスをひいて腰を下ろした。戸野山は立ったままだ。

「加賀見も、新人とはいえ、一応刑事だ。知っておかないといけないだろうが……、今回の件については、いわゆる横やりが入った」

「はあ……」

 五條課長がなにを言うのか想像できず、央武はあいまいにうなずく。

「警察には、警察庁と都道府県警察があって、その組織については、きみも知っていることと思う。が――」

 五條課長は一度天を仰いだ。顔を戻すと、息を吸い込み、言った。

「一般には秘匿されている、それとは独立した警察が存在するんだ」

「えっ?」

 央武には初耳だった。立っている戸野山の顔を思わず見る。いわく言い難い表情だった。

 警察の上部組織で、介入出来るといえば、真っ先に公安があげられる。だが秘匿された独立機関となれば、公安とは違う。

 五條課長はやや間をおいてから言った。

「思想警察だ」

「しそう……」

 大きくうなずく五條課長。

「そこがやってきて、容疑者を連れ去ってしまった」

「そんな……!」

 央武は絶句する。

「そいつらが犯人を逮捕する。ということでわれわれは手をひくことになった」

「なんでそんなことになるんですか?」

 犯人は、凶悪犯罪を犯した容疑者ではなく、窃盗と住居侵入に疑いをかけられてはいるが、殺人はしていない。前科があったから、空き巣の現場に残された指紋から特定できた間抜けな容疑者にすぎない。なぜ身柄を横取りされるのか、納得できる理由が思いつかなかった。

「まあ、いいじゃないか。あとは彼らに任せておけば」

 戸野山が唐突な笑みを浮かべて言った。諦観した口調だった。仕事がひとつ片付いた、というようなすがすがしささえ漂わせて。

「理由は……訊くな、ということですか?」

 五條課長と戸野山の態度から、央武はそういう結論に達した。だが納得したわけではなかった。

 二人は顔を見合わす。

「証拠品も一切合切持って行かれて、もはや手が出せない。だから、この件は終了なんだ」

 戸野山は、わかったか、と念を押すようにそう言う。

 央武は確認した。

「思想警察って言いましたっけ? なんですか、それは? それぐらい教えてくれてもいいでしょう」

 警察学校でも教えられた記憶がなかった。警察庁とは違う独立した機関だというと、公安や皇宮警察のたぐいではない。もっと特殊な組織だと思われた。

 戸野山は五條課長の顔をうかがう。

 五條課長は、こくん、とうなずいた。

「いいだろう……。だが、このことはむろん他言無用の秘匿事項だ。家族にも明かしてはならん。くれぐれも注意してくれ。なにかあっても、われわれ県警ではどうにもならんからな」

 央武はつばを飲み込んだ。なにかあっても――。その言葉が鉄のように重かった。

「この国が現在、戦時体制であることは承知しているだろう? 要するにそこから来ている。つまりは国家を転覆させるような思想やスパイ活動などを取り締まっているのだ。国民主権である法治国家なれば、表向きはそんな組織なんか存在しないことになっている」

「ただの窃盗犯が、そんな大それたことを?」

 信じがたかった。

「おれも冗談かと思ったさ。だが問答無用。一切の質問は許されなかった。やつらは早かったよ。たった三十分そこらで証拠品や作成した書類を全部持っていきやがった。キツネにでも化かされたようだ」

「課長は思想警察の存在を知っていたんですか?」

「課長職だからな。一応、聞いてはいた。だが関わり合うことはないだろうと思っていた。今回、やつらを初めて見た」

 五條課長は、思想警察を「やつら」と言った。悔しい気持ちがにじみ出ていた。

「おれなんか、知らなかったものだから、文句を言ったら逮捕するぞと脅されたよ」

 戸野山が口をはさむ。どんなやりとりが思想警察との間でかわされていたのかは、央武は知るよしもなかったが、割り切れない思いをしたに違いなかった。

「ということで、この話はここまでだ。忘れてくれ」

 忘れてくれ――。

 署に戻ったとき、央武が感じた妙な空気の正体がやっとわかった。

「パソコンに入力した捜査関係の報告書もなにもかも、消しておくんだぞ」

 それっきり、五條課長がこの件について口に出すことはなかった。


   ☆


 翌日は公休だった。三週間ぶりの休日だった。

 刑事課は、どうしても休みが少なくなる。そういう職業なのだ。

 昼過ぎに独身寮を出ると、実家に向かった。一人でいるときのうのことが頭に浮かんで、なんだか気持ちが落ち着かなかった。平日の昼間は母親しかいなかったが、たまに元気にやっている顔を見せるのもいいだろうと、休みが取れると実家へ帰ることにしていた。高校時代の友人や警察学校の同僚は、休みが合わないからいっしょに遊びに行こうなどということにはならない。恋人もいなかった――いたとしても、上記の理由で、会えないだろう。

 警察官になり、こんな生活リズムになって三年、孤独な休日にもすっかり慣れた。

 デパートに寄って、お土産を選ぶ。いつも帰るときにはお土産を買って帰っている。高校を卒業し、警察官となって寮生活を送るようになって、たまに実家へ帰るときはいつのころかそういう習慣になってしまっていた。

 デパートでカステラを買い、さらに電車に乗って一時間。最寄り駅につき、そこから歩いて二十分ほど。

 すっかり桜も散った公園通りを抜けて、のどかな午前の住宅街を歩く。なんの種類わからないが、鳥のさえずりが耳にとどき、央武の気分は穏やかだった。

 へんな幕引きで、いくつかある担当事件のうちの一つが自分の手から離れたことなど、仕事のことは一切忘れて、一日羽根をのばすのもいいものだ。

 やがて自宅についた。

 ドアノブを握ると、ウェアラブルモバイルを通して電子キーが本人認証をして、錠が開く。

 最初に出迎えてくれたのは犬だった。ちぎれるぐらい尻尾を振って歓迎してくれるのは、今年で九歳になるオスのミニチュアダックスだった。

「よお、バニラ。元気だったか?」

 茶色の体をなで回すと、ごろん、と腹をみせた。

 奥から母親が出てきた。五十歳になったばかりで、二十一歳と十六歳の息子を育ててきた苦労が顔に出ていて、見るたびに老けたな、と同居していたときには気づかなかったことが改めてよく見えてしまう。

「おかえり。今回もお休み、一日だけなの?」

 母親としては、泊まっていってほしいのだろう。

「ああ、仕事だからな」

 央武はぶっきらぼうに言った。「これ、お土産」

「いつもありがとう。さっそく仏壇に供えなきゃ。さ、奥へ上がって」

 カステラの入ったデパートの紙袋を受け取り、母親は仏間へと引っ込んでゆく。

 央武は靴をぬぐと、勝手知ったる家のリビングへと移動した。

 高校を卒業して警察官となってもう三年目である。その間はずっと警察の独身寮暮らしで、実家へは年に数回しか帰ってこられない。盆や正月も関係ない職業故、母親は寂しいようだったが、この春高校へ進学した弟の雷司がいることでもあるし、なにかあっても心配はないだろうと央武は思うのだ。

 リビングの隣の仏間に入り、りんをならす。祖父母があいついで亡くなったのはもう六年も前だった。どちらも交通事故だった。それが、央武を警察官への道へと駆り立てた。しばらくしてひき逃げ犯は逮捕されたが、その間の家族のなんとも言えない息苦しさは頭から離れなかった。

 リビングに戻りテーブルにつくと、出されたお茶を飲んで一息つく。央武の帰りをさんざん喜んだ犬のバニラはやっと落ち着いたのか、足下に伏せている。

「お昼の食事はしていくでしょ? きのうメールもらったから、たいしたもの用意できないけど」

「かまわないよ。残り物で」

 母親は仕事のことについては質問しない。職務上、口外できないからである。母もそれを承知していた。

「雷司はどうだ? 高校生活はうまくいってるか?」

「それがね……」

 母親はやや表情を暗くした。

「雷司の担任になった間木田先生、急に学校をやめたんだって」

「え? この時期に?」

 間木田教諭は央武も知っていた。雷司と同じ高校へ通っていた当時、担任だったことがあった。生徒に人気もあったし、新学期早々の四月に辞めてしまうなど、なにか事件でも起きたのだろうか?

「そうなの。で、なんで辞めたのかわからないんだって」

「…………」

「雷司はそうとうショックだったみたい。オリエンテーションから帰ってから元気がなかったもの」

「オリエンテーション……?」

「うん。雷司のクラスだけ、二泊三日の予定で。でも二日目のきのう、帰ってきたから、なにか事故でもあったのかもしれない。でも、雷司はなにも言ってくれないから、ぜんぜんわからないんだけれどね」

「事故?」

 新米とはいえ、一応、刑事である央武はなにかを感じた。

「学校からもなんの説明もなく?」

「そう。一言あってもいいと思うんだけど」

「…………」

 ねっ、と母親は身を乗り出す。

「事件の匂いがする?」

「からかうなよ」

 ははは、と母は笑い、

「ご飯の用意、しなくちゃね」

 と立ち上がり、リビングの隣のキッチンへ立つ。

 だが……と央武は思う。事故にしろ事件にしろ、学校側からなんの説明もないというのは不可解だった。公表したくないなにかがあるのかもしれなかったが、警察が出向くものなのかどうか情報がないから央武が勝手に動くことはできない。南栓田署には少なくともなんの情報も届いていない。あるいは、雷司は口止めをされているのかも……。

 それはあり得た。

 この時間、雷司は学校にいるから話を聞くことはできないが、聞いてみたら口を割るかもしれない。

 あるいは、所轄の警察署に照会すれば、なにかわかるかもしれない。

 そこまで思って、しかし、と考え直す。

 そんなことをしている場合か……。

 央武は新人刑事である。警察学校を卒業して、巡査として交番勤務を経た後、希望して警察署の刑事課へ転属になったばかりの半人前である。日々、犯罪捜査をしつつ勉強の毎日なのだ。担当外の件に首をつっこんでいる場合かと怒鳴る五條課長の顔が思い浮かんだ。

 リビングのテレビでは正午のワイドショー番組が放送されていた。

 なんとはなしにそれを眺めていると、母が皿に盛ったオムライスを運んできた。

「なかみはなーんでしょ?」

「ぎょうざの餡だろ?」

「アタリ」

 きのうの夜は手作りぎょうざだった。ところが餡を包む皮を使い果たしてしまったので余った肉餡をどうしようかと思っていたところへ、央武が帰ってきたのだ。

 それで、それをオムレツにした。ネットで見つけて、それ以来、よく作っていた。母がオムレツを作るときには、かなりの確率で中身はぎょうざの餡だった。

 ケチャップをかけるかポン酢をかけるか迷ったあげく、無難だろうと思ったケチャップにして、賄い食のようなそれを食べる。

「どう? 久しぶりでしょ?」

 と母も食べ始める。

 そんな久しぶりの母の味を堪能した央武。

「ひとりでのご飯よりも二人のほうがおいしいわ」

 と笑顔の母。

「もうすぐオヤジが定年になるだろうから、そうなったらいつでもひとりで食べずにすむだろ」

 銀行に勤める公務員である央武の父は、五十六歳だった。

「なに言ってんの、お父さんと食べるより、央武と食べるからいいんじゃないの」

 央武は苦笑い。

「そんなこと言ったら、オヤジが悲しむぜ」

 昼食のあとは、少し休んでバニラを散歩に連れ出した。

 バニラは央武にリードをつけてもらうと、うれしそうに尻尾をふる。

 久しぶりに央武との散歩に、バニラもご機嫌であった。

 リードを手に持ち、久しぶりにいつものコースを歩く。短い足をちょこちょこと動かして、バニラが歩く。

 夜は冷えるが、昼間は暖かい。太陽の光が雲の間を通って降り注いで、上着を脱いでもよさそうだった。ゴールデンウィークになる頃には、すっかり気候もよくなっていることだろう。

 公園まで来た。

 幼い頃から馴染みのある公園だった。が、古くからある遊具は何度もペンキを塗り替えられ、新しく設置された遊具は大人になっていたせいで遊んだ思い出はなく、月日の流れを感じずにはいられなかった。

 三歳ぐらいの男の子が母親といっしょにボール遊びをしていた。

 ふいに、間木田教諭のことを思い出した。

 央武はネットに接続する。視界に文字が重なって見える。

 膨大な量の蓄積データから検索した。しかし間木田教諭が退職した理由にはたどりつけなかった。それどころか、間木田教諭の記述すら見つからない。

 さらにSNS上で問い合わせてみる。が、それらしい返答はなかった。

 央武はログオフした。

 なにかある……。

 もしかしたら、間木田教諭は行方不明なのかもしれないと思った。学校側が生徒を気遣ってか、事実を伏せている可能性を思った。生徒の前ではとても言えない本当のこととはなんなのか……。借金でもあって夜逃げしたのか――。

 それでもネット上でなんの痕跡も見つけられないというのも不思議な気がした。なんらかの情報があるのが普通なのだ。なにもない、とはちょっと考えられない。まるで意図的にだれかが消してしまったかのようである。

 これはしかし、警察の仕事ではなく、どちらかというと私立探偵の仕事かもしれないと思い直した。

 捜索願いが出されていない以上、警察としては動けないからである。

 央武は、まるで間木田教諭がはじめからこの世に存在しなかったかのような想像をして、寒気に似た気持ちを抱いていると、バニラが「どうしたの?」というような表情で見上げている。

「帰ろうか」

 気にはなりながらも、同時にこれ以上は触れないほうがいいのかもしれないと思った。


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