普遍的なもの
宿角蓮華があの時、どのような目に遭っていたのかということを、当時の千堂京香が具体的に知ることはなかったが、こうして秘書として働き始めてから、園での当直勤務の研修として泊まり込んだ時、交代で風呂に入った際に体の傷痕を見てしまって、
「園長…! それは…!?」
と声を上げてしまったことで、「ああ、これね」と説明を受けたのだった。
それまでは正直、厳しいことを口にする蓮華に対してどこか苦手意識が抜けなかったのは事実だった。
彼女の養親は優しくて穏やかな人達で、あまり感情的に厳しい言葉を吐くということがない人達だった。それでいて人の道に外れるようなことに対しては毅然とした態度を示し、『〇〇だから仕方ない』という甘えを決して許さなかったものの、普段の物言いはとても丁寧な人達だったから、蓮華のような言い方は苦手であった。
しかしそれと同時に、まだまだ人生経験の上で未熟な京香は、『場合によっては体罰も必要なんだ』『効果を発揮する場合だってある筈だ』とついつい考えるような一面も持っていた。自身は養親から体罰を受けたことなど殆どなかったにも拘わらず。
けれど、ここで<躾を盾にした暴力>の現実に何度も触れることで、それがただの思い込みであり、<殴る側・加害者の側の理屈>でしかないことも思い知らされてきたのだった。
過去、体罰が効果を発揮したと思われる事例の殆どは、それを加えた側との間で既に信頼関係が築かれていたり、表向きでは反発していても内心では尊敬していたりということがあったというのが前提になっている筈である。
そう。大切なのは<殴る>ことではない。そこに信頼関係や尊敬する気持ちが既にあるかどうかが重要なのだ。あくまで、信頼に値する者であるか、尊敬に値する者であるかが大切なのであって、その前提がなければすべからく単なる<暴力>に成り果てるのである。
体罰を加えられたことで反発し、それを訴え出るような事例においては、そこには信頼も尊敬もなかったのだろう。いくら第三者が『信頼できる人、尊敬できる人』だと評したところで、当事者間にそれが成立していなければ何の意味もない。そこに目を向けずにただ<愛の鞭>などと唱えたところで、数多のストーカーやDV事案の例を挙げるまでもなく、信頼も尊敬も成立していない状態では<愛の押し付け>でありただの害悪でしかない。
無論、<言葉>も万能ではない。相手を欺く為にも使われるものでもあるからだ。<良い子の仮面>を被る際にも言葉は便利に使われるだろう。だから言葉だけではやはり伝わらない。そこに実態が伴っていなければ。
『お前が言うな』と思われてしまってはいくら言葉を重ねても、やっぱり伝わらないのである。
だから蓮華は、他人にも厳しいことを言うが、それ以上に、自らにも厳しいという面があるのだった。
「だってねえ、『人を殴ってはいけない』と言いながら自分より弱い相手を殴るような奴の言うことなんて、聞きたくないじゃない?
ましてや、自分より強い相手は殴れないような奴の言うことなんてね。
アニメやドラマじゃ、自分より強い相手だって殴れるのがたくさんいるかもだけど、そんなの、現実にはまずいないわよ。口だけなら勇ましいのはたくさんいるけど。
現実でまずいないものなんて、それは<普遍的なもの>の筈ないでしょ?」




