傷痕
<もえぎ園>では、決して園児を叩かない。大声を上げることも殆どない。危険な時にはついということはあっても、感情に任せることはしない。それは、大人としての<敗北>であると考えている。
なぜなら、相手は自分より間違いなく弱い存在だからだ。弱い存在相手に威嚇しなければ優位に立てないなど、それ自体がもう自らの敗北を認めているのと同じである。
体重四十キロの高学年男児と、体重七十キロの男性職員とが本気で喧嘩をしてどちらが勝つか分かるだろうか?
普通は分からないことはないと思う。男性職員が勝てないことの方がおかしいだろう。フィクションでなら小学生が喧嘩で大人に勝つという演出があったりするとしても、現実にはそんなことはまずない。あったとしても例外的な事例である。
だから普通は負けることはない。
負ける筈のない相手を力で抑え付けることを恥ずかしいと思わない人間がもし<プライド>だの<誇り>だのを口にすれば、宿角蓮華はすかさず鼻で笑う。
「プライド? 誇り? 自分より弱い相手にいきがらなきゃ何もできない奴が笑わせないで」
と。
そんな蓮華が当直職員用の風呂に入ろうと服を脱ぐと、その体にはいくつもの傷跡があった。特に腹部の傷は、十五センチ以上にわたって赤く引き攣れていた。
それを見る度に、千堂京香の胸は痛んだ。
蓮華の言動は、時に他人の神経を逆撫でするものではあるが、それ自体が彼女の経験そのものから出る言葉であることを、京香も知っていた。
それは今から十年前。京香が養親の庇護下で高校に通っていた頃、その養親に連れられてここ<もえぎ園>に来た時のことだった。
まだ赤ん坊だった頃にここで一時保護されていた彼女に、養親は世話になったことの挨拶をさせようと連れてきたのだった。しかしその時、<もえぎ園>はそれどころじゃない状況に陥っていた。
当時、まだ蓮華の母が園長だったのだが、園長に対し、『娘を預かった。殺されたくなければ<もえぎ園>解散しろ』という脅迫が寄せられていたのである。そして、<誘拐された園長の娘>こそ、当時、園長の秘書として園で働いていた宿角蓮華だった。
もっとも、蓮華を誘拐した連中は、蓮華が成人であり職員だということは知らなかったのだが。単純に園長の娘ということで誘拐し、脅迫の材料に使ってきたのである。
しかし、蓮華の母である園長はその要求に応じなかった。その代わりに、当時まだ他の探偵事務所で雇われていた戸野上威や、この頃は強行犯係だった斉藤敬三を含む、園にゆかりのある者達に対し、蓮華の救出を要請していたのだった。




