フィクションは現実ではない
フィクションのヒーローが悪者を圧倒的な力で打ちのめすのを見てスカッとするのはいいだろう。
<失敗しない復讐劇>を見て溜飲を下げるのもいいだろう。
それらは所詮、ただの<娯楽>なのだから。細かい理屈は抜きで楽しめばいいのだ。
それを現実に当てはめようとするからおかしなことになるだけで。
フィクションがリアルでなければいけないと言うのなら、日本では<復讐>は認められていないのだからそもそも成立しない。
リアルさを求めるのなら、
『復讐は認められてないんだから復讐が実行されるのはリアルじゃない。復讐を実行したら逮捕されて裁きを受けなければリアルじゃない』
という話にならなければおかしいはずである。しかしこれでは<復讐劇というフィクション>はおよそ成立しなくなってしまう。
だから、フィクションがリアルである必要はないのだ。フィクションと現実とは別物なのだから。フィクションと現実を混同してはいけない。
フィクションの中で力を持つ者がその力によって問題を力尽くで解決していくのが爽快だからといってそれを現実でもそうあるべきと考えてはいけない。
問題を力尽くで解決しようとすればそれは別の問題を作り出すだけだ。
人間の歴史がしっかりとそれを示してくれているのだから、それから目を背けてはいけない。
その上で、蓮華は考える。考えて考えて、しかし宿角健雅を救う方法が見付けだせないという現実と向き合う。
フィクションでならここで簡単に、
『殺すしかない』
という結論に至るだろう。フィクションでならなるほどそれでいいかもしれない。フィクションは現実ではないのだから。<リアル>をそこに持ち込んでは、
<面白いフィクション>
にはならないのだから。
フィクションにとって<リアルさ>は、あくまでただの調味料に過ぎない。そして味付けの好みは、人によって異なる。さらに、自分好みの味付けを他人に押し付けようとする行為は疎まれる。ましてや大きな声を上げて力尽くで他人に押し付けようなどとすれば、覿面に。
というのは余談だったが、いずれにせよ、蓮華はそんなフィクションにあるような解決方法も、参考にすることはあってもそのまま現実に当てはめようとはしない。
それで失敗してきた人間も数多く見ている。テレビドラマの熱血指導を現実に当てはめようとして子供に怪我をさせて事件になった教師やスポーツ塾のコーチもいた。
子供に怪我をさせて周りの人間に迷惑を掛けて自分の人生も滅茶苦茶にして、誰一人得をしていない。これでは何をやっているのか分からないではないか。
そんな失敗をしようとは思わないのだ。




