進路
蓮華が姿を消すことになる少し前、大学に進学した守縫久人は、もえぎ園の補助職員として働き始めていた。大学では教育課程を取り、いずれは教員免許を取得して、もえぎ園で始まっていた<フリースクール>の教員として働くことを目指していた。
フリースクールは、不登校児の受け皿となるべく用意されたものであるものの、実際には不登校児のうちのごく僅かしかそれを利用していないと言われている。
それは、公立の小中学校では掛からない<授業料>などの費用が掛かることに加え、『フリースクールは学校ではない』という認識が今も根強いからだと推測されていた。
加えて、
『学校にも通えない弱い奴の逃げ場所』
的な先入観があるものと思われる。
けれど、もえぎ園園長、宿角蓮華は言う。
「逃げることの何が悪いの? 学校は勉強しに行くところでしょ? 命を捨てに行くところじゃないでしょ? 命も守ろうとしないようなところから逃げるのは、生き物としては当然の行動よ。
だから、命の危険を感じるなら逃げなさい。それは恥ずかしいことじゃない。誰かの目を気にして評価を気にして命を捨てることの方がよっぽど恥ずかしいことだと私は思う。
誇りのためなら命も捨てる、とか言う人間は、なるほど好きにすればいいわ。でも、その誇りとやらが本当に不変の価値を持つものかどうか考える勇気も持たない人間が強いとは、私は微塵も思わない。
もえぎ園は、命こそを大切にする場所です。
生きたいと願うなら、死を怖いと思うなら、どうぞ逃げてきてください。ここにはその選択を笑う人間はいません。
むしろ、<逃げる勇気>をこそ称えます」
と。
しかし、人間というのはそういう言い方をされるとかえって勘繰ってしまうことがあるのも、彼女は知っていた。だからこれはあくまで対外的なポーズでしかない。
逃げる勇気を持てない子供に対して大上段に構えてそのようなことを言ったりもしない。ただ話を聞くだけだ。
守縫久人は、そんな蓮華の姿を学び、苦しいことを抱えた子供の言葉にただ耳を傾けることができるようになっていた。それは、ベテランの職員でさえ呻るほどの姿勢だった。
トランスジェンダーという、社会から理解されにくい、自分の言葉が他人に届きにくい境遇にある実感からこそ得た、
<届きにくい言葉にこそ耳を傾ける姿勢>
を、彼は体現していた。
そして今日も、まだもえぎ園に保護されて日の浅い虐待事案の被害児童の癇癪に、付き合っている。
「うん、そうか。怒っちゃうんだね」
支離滅裂なことを言うその子の言葉に穏やかに相槌を打つ彼の姿を、小学校高学年か中学に上がったばかりという感じの、目つきの悪い少年がじっと睨み付けている。
同じく両親からの虐待を受けて保護された、徳良泰心であった。
もっとも、見た目こそそれではあるものの彼はすでに高校生で、しかも単にそういう顔付きなだけで、実際にはただ久人が相手をしている子の食事の用意ができたことを告げにきただけで、話し掛けるタイミングを待ってるだけなのだった。




