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過ちと向き合う勇気

『生意気なクソガキは殴って躾けるべきだ!』


などと言う人間がいる。


だが、その考えが何をもたらすのか考えないのなら、それは浅慮と言うしかないだろう。


何しろ、このもえぎ園に保護されている子供達の多くは、まさにその考え方により虐げられてきたのだから。


それによって子供達は何を学んだのか?


多くの場合それは、


『ムカつく相手は殴ればいい』


と、


『自分より弱い相手を殴って従わせればいい』


だった。


泰心(たいしん)のように、


『自分より強い相手にしか殴りかからない』


などという事例はむしろ例外的なものである。


『生意気なクソガキは殴って躾けるべきだ!』


とか考えて子供と接していて、


『弱きを助け強気を挫く』


ような人間に必ず育つなどと考えるのは、もはや、


『異世界に転生さえすればバラ色の人生が待っている』


と考えるのと大差ないくらいに現実離れした妄想だろう。


何しろ、


『生意気なクソガキは殴って躾けるべきだ!』 


というのは、


<弱きを挫く行為>


そのものだからだ。


真っ向から殴り合っては勝負はどちらに転ぶか分からない相手に挑むのであればまだしも、


『素手で殴り合えば百回やっても百回勝てる相手を殴れる』


その神経は、紛れもない<加虐性>に基いたものだと言えないだろうか?


でなければ、自分が負けるはずのない相手を平然と殴れるのはおかしくないか?


ましてや、その行為を詭弁によって正当化できるなど。


人間であれば咄嗟の場合に手が出てしまうことはあるだろう。子供が危険なことをしていたらつい、というのはまだ分かる。しかし、その咄嗟の行為を正当なものと考えるのは危険ではないのか?


『手段としては間違っていたが、反射的に手が出てしまった』


という事実を認め反省するからこそ、


『それほどまでに危険な状況だった』


という裏付けにはならないか?


『殴って危険を教える』


などと考える余裕があるのであれば、そこまで差し迫った危険ではなかったはずである。


『痛みでしか伝わらないことがある』


のは事実かもしれないが、それを逆手にとって加害行為を正当化するのは、卑怯者の理屈でしかない。


『間違った手段を取るより方法がなかった』


そして、


『それしかなかったものの、間違った手段を取ってしまったことについての過ちは認める』


という姿勢こそが、<勇気>というものではないのか?


勇気を示さない大人が、何をどうやって子供に<勇気>を教えるというのか?


『刃物を持った暴漢に敢然と立ち向かう』


など、できる人間の方が珍しいだろう。しかもたとえ実行できたとしてもむしろただの<蛮勇>に終わる事例の方が多いと思われる。


しかし、


『間違った手段を取ってしまったことについての過ちは認める』


という形の勇気であれば、示すことができるのではないか?



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