分娩
館の中には分娩室も完備され、看護師と思しき人間の姿も見られた。しかし看護師達は一切口をきこうとはせず、ただ自分の仕事に集中していた。
「さあ、好羽。これからが本番よ。
あなたのことを愛せなかったかもしれないあなたのお母さんも、これを乗り越えたの。だから心配しないで。あなたにもできるわ」
白衣に着替え、好羽の手を握って幸恵はそう言った。
『そうか…、あの人もこうやって私を生んだんだ……。じゃあ、私がここでへこたれたら、あの人に負けるってことになるんだ……!』
そう考えると、不思議と不安や恐怖が和らいでくる気がした。
『あんな人に負けたくない!』
自分のことを、ゴミを見るような目で見た母親にも、そんな女を選んだ父親にも、負けたくないと思った。自分もちゃんと赤ん坊を生んで、それから勉強して見返してやるんだ!と思った。
それが、分娩が始まったが故の興奮状態からくるただのノリだとしても、少なくともその時の彼女はそう思っていた。
『負けるか!、負けるか!、負けるか!、負けるかぁっ!!』
呪文のように何度も何度も心の中でそう唱えて、でも実際に口から洩れるのは、「あーっ!」「んがぁああぁーっっ!!」といった意味不明な雄叫びだったが、全身から汗を拭き出しつつ、涙と鼻水を垂れ流しながら、好羽は力を振り絞った。
『痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いっっ!!』
『負けるか負けるか負けるか負けるか負けるかっっ!!』
複数の思考が同時に頭の中をでたらめに奔り抜け、意識が朦朧となっていく。それなのに何故か自分の下腹部から届く感覚だけは鮮明になっていって、体の中を<何か>がゆっくりと回転しながら降りていくのが分かったのだった。
「っぐああぁああぁぁーっっ!!」
叫んだ好羽に、幸恵が声を掛ける。
「今よ!、いきんで!!。思いっきり!!」
「っだらぁ!、しぃねぇええぇぇっっ!!」
『死ね!』。好羽はこの時、確かにそう叫んだが、果たしてそれが何に向けてのものだったのか、そもそも本当に『死ね』と言いたかったのか、それは好羽自身にも分からなかったと言う。
だがその瞬間に、バツン!と何かが自分の中で弾けるような感覚と同時にずるんっと滑り出す感覚があり、彼女の意識は一瞬、真っ白に途切れたのだった。
けれど、それからしばらくして、好羽は何かの声が聞こえてくるのに気付いた。
『…猫…?。猫が鳴いてる……?』
「にゃあ、にゃあ」という猫の鳴き声が聞こえてきたのだ。でもそれが猫ではないと気付くのに、そう時間はかからなかったのだった。




