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自分はこいつらとは違う

子供を育てるのは大変だ。


そんなことは本来言うまでもなく分かりきったことだ。なにしろ『人間を育てる』のだから。


常に他人を気遣い、優しくし、聞き分けがよく、品行方正。


自分自身を思い返してみるがいい。そんな人間がどこにいるというのか? 


斜に構えて世の中を見、些細なことに腹を立て、文句を並べ、他人を見下し罵る。


自分がなぜそんな人間に育ってしまったのか考えてみれば、人間を育てることの難しさが少しは分かるということかもしれない。


しかしそれを自覚することができれば、今度は自分を自分で育てることができるようになるかもしれない。


そして自分で自分を育てることができるようになれば、子供との接し方も分かってくるかもしれない。


何しろ相手は自分と同じ人間だ。自分の育て方が分かれば、人間を育てることもできる。


当然の道理じゃないだろうか。


大変ではあっても、決して不可能ではない。


とは言え、現に適性を持たない人間にもいるので、もえぎ園のような施設は必要になる。


もっとも、努力した上で適性がないのか、そもそも『努力する』という行為について適性がないのかの違いはあるかもしれないが。


『努力する』ことについて適性を持たない人間も確かにいる。なのでできない人間に無理してやらせようとして問題を拗れさせるよりも、子供の安全を優先することも多い。


灯安良(てぃあら)阿礼(あれい)の件はまさにそれだった。二人の両親には、この問題に対処する適性がない。展望も手段もない。ひたすら狼狽えて自分の<型>に嵌めようとして、しかしそんな素人の生兵法が上手くいくはずもなく、取り返しのつかない事態を引き起こす可能性が非常に高かった。


なにしろ、自分を省みるということができない人物だったから。


しかも、自分を省みることができない人間なので、いくら両親を責めたところで反省さえせず、故に『責める』ということがそもそも効果を発揮しない。


そんな両親の相手をしている間にも灯安良(てぃあら)の胎の子は大きくなるので、それこそ時間の無駄だった。


両親を責めて責任を取らせようとすること自体、現時点ではただ、


『ムカつくから痛めつけて憂さを晴らそう』


という以上の意味を持たない。


両親を袋叩きにして<見せしめ>にしようとしてもこういうタイプは<他山の石>というものすら学ばないので、同じようなことをしている者達は自分のこととして受け止めることがなく、見せしめとしての効果も発揮しない。


これは、どれだけニュースになって世間が非難しようとも似たような虐待を行う親が次々と現れることでも分かるだろう。


なにしろ、


『自分はこいつらとは違う』


と思っているのだから。



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