自分のためにこそ誰かを
泰心に信頼されるために努力を続ける蓮華。
他人を気遣う余裕のない灯安良に、『他人を気遣うとはどういうことか?』というのを実地で示し続ける阿礼と久人。
それぞれの根気強さと覚悟に、千堂京香は舌を巻いていた。
『どうしてそこまでできるんだろう……』
彼女自身、赤ん坊の頃に血縁上の両親が育児放棄をしたことでもえぎ園に保護され、そこで現在の養親と特別養子縁組を行い、実の両親のことはほとんど意識する必要もなく幸せに満たされた人生を送ってきた。
彼女の養親は大変に素晴らしい人達で、京香に人間として大切なものをたくさん教えてきてくれた。その上で京香の出生についてもしっかりと事実を告げ、彼女もその事実に向き合うことができている。
それ自体が、養親に愛されている実感が確実にあることで精神的な余裕をもたらしている結果だろう。
上辺だけの<愛しているフリ>ではない、相手にちゃんと伝わり実感を与えることができる、中身が伴ったそれだからこその帰結だった。
ただ、そんな彼女でさえ、蓮華や阿礼や久人のそれはなかなか理解のできないものだった。
無理もないかもしれない。
なぜなら彼女は、ずっと満たされてきたからだ。すでに必要なものすべてを与えられていて、自ら何かを渇望する必要がなかったからこそ、そこまでする必要がなかったと言える。
しかし、蓮華は、自身の祖先の過ちを贖わなければという信念があり、阿礼は、『小学生にも拘らず妊娠出産する』灯安良を守らなければいけないという想いがあり、久人はトランスジェンダーという他人には理解しがたい存在であるが故に大きなハンデを抱えているという事情がある。
それを乗り越えるのに、それだけの努力が必要なのだ。
だから単なる善意や同情や正義感などではない。本人にとってそれが必要であるという、個人的な理由の上で利己的行動だった。自分のためだからこそ、そこまでできる。
確かに、
『誰かのため』
『他人のため』
『愛のため』
『人として当然の行い』
は尊いだろう。心地好いだろう。だが、全ての人間が同じようにそれを尊いものとして貫き通せるわけじゃない。ましてや人間として扱ってもらえてこなかった者にとっては本質的に唾棄すべき<綺麗事>にしか見えないこともある。
そういうものなのだ。綺麗事好きの人間がどれほど御高説を垂れようとも、その綺麗事の枠から見捨てられて育った人間には届かないのだ。
それでも、そういう人間でも、『自分のため』なら本気になれることがある。『自分のためにこそ誰かを気遣う』という形なら本気になれることがある。
蓮華は愛されて育った者ではあるものの、その成長しない体は異端として蔑視の対象であった。
だから『綺麗事を口にしながら内心では異端を下に見ている』人間は辟易するほど見てきていたのだった。




