手本も示さずに
妊婦が気遣われることを妬む人間がこの世にはいる。
本来ならば、<気遣い>や<優しさ>と呼ばれるものは好ましいものであるはずにも拘らず。
それは結局、自分が他人から気遣ってもらえている実感が乏しいのに、自分を差し置いて他人が気遣われることが妬ましくて仕方がないのだろう。
それ以外に何か理由があるだろうか?
『<自分は他人から気遣ってもらえて当然の妊婦様>だっていう態度が許せない』
などと言うかもしれないが、そのようなものは決してすべてに当てはまるわけでもない。それに、もしそういう態度の妊婦が多いのだとしても、それ自体が、
『普段は気遣ってもらえないのに、妊娠した途端に気遣ってもらえる』
ことについ浮かれてしまっているだけではないだろうか?
つまりは、
『<自分は他人から気遣ってもらえて当然の妊婦様>だっていう態度が許せない』
ことも、
『普段は気遣ってもらえないのに、妊娠した途端に気遣ってもらえるのでつい浮かれてしまう』
ことも、結局は同じ、
『普段、自分が気遣ってもらえている実感が乏しい』
のが原因ではないだろうか?
普段から当たり前のように気遣ってもらえていれば、もうちょっと余裕ができるのかもしれない。
もえぎ園ではその点、<他人を気遣う姿勢>そのものを子供達に実際に見てもらってそれを真似てもらうために、手本を示すためにも子供達を気遣う。
そして、職員達は、その<気遣い>が的外れなものになっていないか、単なる自分達の自己満足になっていないか、気遣いの押し付けになっていないかを日々見直すことを心掛けている。
大変だ。
決して楽ではない。
しかし、大人が努力する姿を実際に見せなければ、子供だって納得しない。その当たり前のことを知っているからこそ、もえぎ園の職員達は努力を続ける。そしてそんな職員達の手本となっているのが、園長の宿角蓮華である。
上に立つ自分が手本も示さずに現場の人間に納得のいく指示が出せるはずもないと考えているからだ。
蓮華のそういう気遣いが職員達に精神的な余裕を与えることで職員達は子供達を気遣うことができ、そういう職員達の気遣いを実感できるから子供達も精神的に安定して、他人への気遣いを覚える。
『急がば回れ』という格言があるように、良い結果を望めばこそ手間を掛けるのだ。
そんな大人達の姿を、子供達は見ている。
だからこそ、久人もそんな大人達の姿に憧れて尊敬の念を向ける。
その<当たり前>を、蓮華達は心掛けているのだった。




