我慢比べ
暴力によって支配されてきた人間を殴って言うことを聞かせようなど、もはやファンタジーじみた蛮行だと宿角蓮華は考えている。
自分自身が暴力によって良い方向に変わったことなどなかったからだ。他人を殴るようなのは見下げ果てた人間だと感じることはあっても。
そして児童保護施設の園長として数々の事例に触れてきても。
だから彼女は子供を、特に自分よりも体の小さい子供については力で従えようとは考えていなかった。
小便を拭き取り、部屋に備え付けられた流しで雑巾と手を洗う。それから殺菌消臭スプレーをたっぷりと噴き掛けた。
これでもう問題ない。
淡々とそれを終わらせ、雑巾は流しのところに干し、消臭スプレーはロッカーに片付けた。
そして、手近な椅子に座る。
その間、言葉を発することさえなかった。
また黙ってスマホを操作し始める。
泰心にはほとんど意識を向けることさえない。
それは、彼が蓮華にとって、
『そこにいて当たり前の存在』
と言うことなのだ。いて当たり前だから特別扱いもしない。しかし同時に、彼が蓮華に何か関心を持つのであれば拒むこともない。
でも今はとにかく、お互いにそこにいて当たり前の存在になるのが目指されていた。
すると、ドアがコンコンとノックされ、
「食事です」
声が掛けられ、
「ありがとう」
蓮華がドアの前に立ち応えると、外から鍵が開けられドアが少しだけ開けられ、アルミの保冷バッグが差し込まれた。
それを蓮華が受け取り、またすぐドアが閉められ鍵が掛けられる。
けれど蓮華は構うことなく保冷バッグから弁当箱を取り出し、机の上に並べていく。
『食べなさい』
とも何とも言わず、弁当箱の一つを持って椅子に戻り、何も言わずに食べ始めた。
泰心は彼女のそんな一連の行動をじっと睨み付け。やはり警戒を解かなかい。
とは言え、どうやら腹は減っているのだろう。蓮華の様子を窺いながら弁当が置かれた机に近付き、さっと奪い取るようにして手にし、蓮華とは反対側の椅子に座ってやはり様子を窺いながら弁当箱を開けて手掴みで食べ始めた。
弁当の中身はすべておにぎりで、手掴みでも食べられるものだ。
ここに来る以前に保護されていた施設での彼の振る舞い、
「まるで獣です」
というものを聞いて、蓮華が指示したものだった。
確かに学習面にもいくらかの遅れはありそうながらも、彼自身は本当に獣のような振る舞いしかできないほどの学習障害ではなかったはずだった。
『獣のフリをしている』
だけと見做されていた。
大人を困らせるために。
これは、大人を困らせようとして獣のフリをしている泰心と、それが分かっていて受け止めようとする蓮華の、
<我慢比べ>
なのである。




