悪を宿す
『善良な』
獅子倉は、その言葉も嘲笑っていた。
『善良な一市民など、どこにいるというのか?』
と。
真に善良であるなら、他人の嫌がることなどする筈がない。他人が嫌がることを、生まれてこの方、まったく何一つしたこともない人間がいると言うのなら、自分の前に連れてきてもらいたいものだとさえ思っていた。
それは<自己申告>では意味がない。『自分では嫌なことをしたつもりはない』人間が非常に多いからだ。イジメの加害者などでも、自らの行為が犯罪であると認識していない者は多いだろう。また、ネットなどで他人を不快にさせる文言を並べておいて『自分は悪いことはしていない』と思っている者も多い筈だ。
『他人からそう見える』というだけでも意味がない。外面だけ取り繕って<言い人>のふりをしている人間も非常に多い。
故に、『その人物に嫌なことをされたと感じている人間が一人もいない』というものでなければ駄目だと思われる。
そして、『この人に嫌なことをされた』と申告する者が現れた時に、それに対して「嘘だ!」と激高するようであれば、申告が事実かどうかに関係なく、他人を頭ごなしに『嘘吐き』と罵るような人間が<善良>である筈がない。
にも拘らず、<善良>という言葉が当たり前のように使われる。それを獅子倉は、
『多少の悪行には目を瞑り、『善良な』と他人を称することで、自らも『善良な』と言ってもらいたいだけなのだ』
と睨んでいた。
『他人を善人として扱う自分はこんなに善良な人間だろう?』
とアピールしたいだけなのだ。と。
獅子倉は自らを善良な人間だとは思っていなかった。むしろ<悪辣な人間>だとさえ思っていた。自分に弁護を依頼してきた者を内心では嘲笑するような人間のどこが<善良>だというのか。
しかし、だからといって人間の本質を<悪>だと思っている訳ではない。
『真に善良な人間など、赤ん坊くらいのものだろうな』
とも思う。
人間の本質が悪であるなら、赤ん坊自体が既に悪でなければおかしい筈だが、赤ん坊が悪だとはさすがに思えない。
『人間は、他人の悪性を学び取ることによって悪を宿すのだ』
そんな風にも考えていた。
では、誰が悪性を学ばせるのか?
それこそ、<大人>に外ならない。大人が無自覚に子供の前で晒している悪性を、学び取ってしまうのだ。
『そんなはずあるか!』
と激高する人間は、では、子供が見ている前で、誰かを悪く言ったことすらないと言うのか? 悪態を吐いたことすらないと言うのか? ただの一度もないと言うのなら、そんな<嘘>を抜け抜けと口にできるその性根こそが<悪>ではないのか?
『そんな些細なことを悪とかwwwww』
などと罵るなら、それのどこに<善良な一市民>としての姿があるというのだろうか。




