世界の中心
<叱らない育児>というものがある。
よく誤解されているようだが、これは、『子供が悪いことをしても叱らない』という意味では決してない。厳密には『叱らない』のではなくて、『叱る必要がない子供に育てる』と言った方がよりニュアンスは近いかもしれない。
いや、それ以上に、『叱らなくても子供が言うことを聞いてくれる親になる』と言った方が適切だろうか。
そう。これは、親自身がまず人としてどうあるべきかということを示しているのだろう。
自分に当てはめて考えてみればいい。尊敬できる人、信頼できる人の言うことなら、いちいち反発せずに素直に言うことを聞いてもいいと思えるだろう。まさにそれなのだ。自分自身が、人として、子供から見て尊敬し信頼するに足る人間であることを心掛けることによって、結果として『叱る必要がなくなる』と考えれば分かりやすいのではないだろうか。
しかし、健喜の父親は、そうではなかった。
何事においても自分が優先で、自分が世界の中心で、自分の思う通りに周囲が動くことこそが正しいと、そうならないと『他人が悪い、世の中が悪い』と考えるタイプだったのである。
そのようなことが、ある筈がないのに。何もかもが自分の思い通りになるなど、この世には有り得ないというのに。
自分が『他人から見て尊敬も信頼もできない人間』になっているにも拘らず、
『自分を尊敬しない、信頼しない奴が悪い』
などと、口には出さなくても腹の奥底では思ってるのは、他人から見てもバレバレだった。
だから自分の息子にさえ軽蔑されるのだ。
しかも、『軽蔑する方が悪い』と考えているのだから、当然、反省もせず自覚もせず成長もしないのである。人間として停滞していると言えるだろう。
彼にとって自分は正しくなければいけないのだ。そうでなければすべてが終わる。正しいのは自分であって、間違っているのは自分以外であって、上手くいかないのは他人や世間が悪いのだと思い込まなければ自我を保てない。
そういう種類の人間だったと言える。
自信がないのだ。己自身に。芯になる確かなものがないから不安で、自分が間違っていることを認められない。故に虚勢を張る。そうすることでしか自分を維持できない。
いっそ自分が間違っていることを認め、教えを乞うてしまえば楽にもなれるというのに。
これまで実際には上手くいかなかった、上手くいかないことの方が多かった考え方に固執して敵を作り、その一方で味方は増えず、ただただ他人と不毛な諍いを繰り返す。
健喜は、そんな無知蒙昧な父親を、子供ながらに心底軽蔑していたのだった。
いや、むしろ、子供だからこそ親のそういう部分が目についてしまうのだろう。




