辿り着いた場所
栗切得亜はその後も延々と釈埴新三のすばらしさについて語り続け、気付けば約束の時間を大幅に上回って、
「いけない! もうこんな時間!?」
と栗切得亜自身を慌てさせてバタバタと喫茶店を出て行かせた。
喫茶店に一人残された戸野上は苦笑いを浮かべながら禁煙パイプを口にし、コーヒーのお代わりを頼んで自らの思考に時間を費やした。
『表面上は良い教師の姿を保ちながらも一部の人間からは憎悪さえ向けられるほどの二面性をもった両親の下に生まれ、幼少期はその両親の身代わりになる形でイジメを受け、
中学時代は神村井雫と互いに責任も取れない形で愛し合い、
高校時代はつるんでいた遠藤忠尚が押し売りしてきた恩にタダ乗りする形で恨みを買い、
大学時代は釈埴自身はおそらくそんなつもりもなく栗切得亜を救って知らぬ間に崇拝される形になり、
社会人になってからはさらに空気のように誰からも記憶されなくなり、
神村井雫によく似て恐らくその時点では妊娠していた釈埴愛良と結婚し、
そしてまた空気のように誰からも顧みられない存在へと戻っていった男……
釈埴……お前はお前なりに生きているんだな……』
その時、戸野上のスマホに着信があり、彼はそれを手にして内容を確認した。ファイルが添付されたメールだった。その内容を確かめ、コーヒーを飲みほして、会計を済ませ店を出る。
いつの間にか降り出していた雨の中、タクシーを呼び止めて、
「京都駅へ」
と告げた。
そしてそのまま、京都駅から新幹線に乗り、米原で下り、そこからまたタクシーに乗ってあるアパートの前で下りた。
駅のキヨスクで買ったビニール傘を差しながらそのアパートを見上げ、階段を上って二〇二号室の玄関前に立つ。
表札も何もないが、情報通りならここが今の釈埴新三の住居の筈である。
チャイムを押すと、中で人が動く気配がした。誰かがいることは間違いない。静かにその時を待つと、かちゃりと鍵が開けられる音がして、ドアチェーンが掛ったままで、
「……はい…?」
と、顔の半分だけをドアの陰から覗かせる形で男が現れた。それは、若そうでもあり、それなりに歳がいってそうでもあり、陰鬱でありながらどこか特徴が掴み切れない、<恐ろしさを感じない幽霊>とでも言えばいいのだろうかという、実体を意識させない幻のような男だった。
「釈埴新三さんですね?」
戸野上が単刀直入に声を掛けると、男の目が一瞬だけ細められ、しかしすぐに無表情かつ無感情なものに変わって、
「違います……」
とだけ応えた。
それに対して戸野上も、
「そうですか。でも、僕はあなたを訪ねてきたんですよ。釈埴愛良さんからの伝言です。
『私はあなたを恨んでません。ありがとう』
以上です」
と告げただけで、そのアパートを後にしたのだった。




