第五話『非力な願いが辿る末路』
放課後、ほの暗い夕日が差し込む教室から、バックライトに照らされたグランドで野球部が片付けをしているのが見えた。
「…………お勤め、はじめますか」
めんどうだ。ひどくめんどうだ。でもお勤めですから。こんな時間に帰って「お勤めはまだしてません」なんて言ったら笑顔の母さんに「今夜の晩ご飯は、サプリメントにする? 下剤にする? それとも、た、わ、し?」という拷問的選択肢を迫られる事だろう。これはもう経験済みだ。たわしが食卓に並ぶ悪夢。
俺は立ち上がり、教室の一番後ろに立った。
実は俺は、超勤勉なこの俺は、五時間目と六時間目の授業をサボってこの学校の思念体を観察していたのだ。俺ってば勤勉過ぎる……。
学校ほど思念体の巣窟となっている場所はそうそう無い。が、学校はその特殊性故に手を出しにくい。というかめんどくさい。本当のアニメみたいにずっと時間を止める結界とかがあれば問題は無いのだが、学校ほど常に人の目がある場所は珍しい。
学校では、誰にも見つからずに思念体を狩る事が出来ないのだ。
誰にも悟られずに弱い思念体を一掃する『命鍾』という術もあるとはいえ、ある程度強くなった思念体には効果が薄い。一応定期的に学校も命鍾でお掃除してはいるが、それでも命鍾は超疲れるから、毎日学校で使うというわけにもいかない。
そういうわけで今日は観察だけに済ませた結果、色々と解った。
愛野なんちゃらに纏わる思念体が末期状態だということだ。
神田川という男子からの捻れた情愛もある。女子達からの嫉妬もある。関係無い男子からの妄執的視線もある。そして愛野自身がそうなるような思念体をばら撒いてしまっているため、また関係無い人間が愛野に対して思念体を放つようになっているのだ。
元がなんだったのかも解らないほど、それこそはしゃぎ過ぎた大学生プロドュースのやりすぎた闇鍋みたいに、ごった返している。どこから手を着けたらいいかも解らない。もはや学級全体が、愛野なんちゃらを思念体で呪うための装置と化している。
嫌がらせされる。故に愛野有り、みたいな。そんな感じ。
「ちょっと失礼するぜ」
筆箱から取り出したカッターで親指を切って血を出し、窓際一番後ろに置かれた机の済みに×印を描き、すぐに消した。
同じ作業を順繰りに全ての机に施していく。
「我が血に宿りしは之を滅する力なり」
固定詠唱のひとつだ。『甲陽流血鎖』たらゆう術で、甲陽たらゆう魔心導師の家系が作り、全ての魔心導師に使えるよう調整したという、割と最近出来た術だとか。
「想念の残滓と立ち向かいて其を排すは義なり」
血による×印を書いては消してを繰り返し、ゆっくりと紡ぐ詠唱と作業は折り返し地点へ。ついでに、血の出が悪くなったからもう一回カッターで切っておいた。
「思念界へと誘われ、理を失するは愚なり」
あ、ちなみに、多分これを一般の人が聞いたらどう聞こえるか、なんて、考えるまでも無いからな。文章がまるっきり中二だ。あと、専門用語入ると途端に分けわかんなくなるよな。
「愚を打ち払いて義を貫かん、力をもって勇を示せ。我らが血鎖は誇なり」
全ての机に血による印を書き終え、消し終えた。教卓にもだ。
これで、この教室の全ての机が俺の武器となった。思念体にダメージを与えられる凶器と化した。
「しっかしこの言葉並びがもう俺っぽく無さすぎて笑えるわ」
とはいえ普通の詠唱では駄目な理由がある。
普通の詠唱に永続的な効果は無い。手を離せば戻ってしまう伸ばしたゴムのように、例えば魔心導師が気絶したり眠ったりしてしまえばすぐ元に戻ってしまう。
その問題点を、血を媒介としてより深く強く接続することで複数日持続させられるようにしたのが血鎖という術だ。だから、今回のように日にちを跨いで思念体と戦おうとする場合、血鎖を使っておいたほうが効率的なのである。
こっ恥ずかしさに自嘲しながら、最後の作業に取り掛かる。
俺は、黒板のチョークをひとつ、乱暴に掴んだ。
「締めの作業は俺らしくいこうか」
────masinndoshi───
翌日の事だ。いつも通り、朝のホームルームが始まるぎりぎりの時間に登校する。
教室の前まで立つと、異変はすぐに見えた。俺の教室の前に人だかりが出来ているのだ。
「おい、何が起きている。どきなさい」
体育の肉ダルマ教師が、その人だかりの原因を突き詰めようと輪の中に入ろうとしているのが見えた。だが、人だかりは誰もがその中心部を見たい一心で道を開けない。
にも関わらず。
「おい、来たぞ」
誰かが、俺の姿を見るや否や道を開けた。それからぞろぞろと、俺が教室へ入るために道が出来た。さながらどっかの海を分ける神話みたいで、気持ちよかった。
俺はなんも知らん素振りでその道を進む。誰かが俺を笑った。嘲ったのか蔑んだのか、ともかくマイナスの感情でもって笑った事はよく解った。
教室に足を踏み込んだ俺は辟易とした。
何人かのクラスメートが、教室の隅で青ざめていたり、くすくすと笑っていた。晒し者にでもされたかのように、教室の真ん中で愛野が立ち尽くして黒板を見ている。
黒板を見ると、そこには乱雑な落書きがされていた。
『愛野茲奈・大光司彼方、熱愛!?』
揶揄するような刺々しい文字を中心に、『クラスのぼっちととかありえなーい』『校舎裏で二人で居た!』『きも』『喫茶店でデートしてた』『見る目無さすぎ』『どっちがとは言わないけど、病気だよね』『いやまじきも』『近所の精神病院の電話番号載せときます×××―××××』などなど、様々なご意見が掲げられていた。
ホームルーム開始のチャイムが鳴った。人だかりはさらに増えている。この学年の全員に事が知れた頃合じゃないかと思う。
それを証明するように、教室を覆いつくす程の大きさの、巨大なトカゲみたいな姿の思念体が居た。玉虫色の気色悪いその身体は、まさしく、この学年全員分の思念体と言っても過言ではないだろう。
あの思念体は、愛野に嫉妬しているやつらによる「さまぁみろ」という嘲笑と、愛野に想いを寄せているやつらの「なんでそんなやつと」という失望と、そういう愛野へ向けられている思念体の集合体だ。
真ん中の落書きを書いたのは俺だ。俺が熱愛コメントを書いた。俺がしたのはそこまでだ。だが、その後に、俺に便乗した連中が居る。そういうやつらの集合体だ。
「……誰だ」
呟きながら、教室の中へ足を踏み入れる。
「た、大光司、ね、ねぇこれ」
不安そうな表情で、やつれた声で、愛野は俺へ近付こうとする。それを掌で制した。
そのまま黒板の前まで進み、そして黒板を叩きつける。
「……これ書いたの、誰だ」
勿論だが俺である。諸悪の根源は自分自身だ。そのことを棚に上げて、偽物の怒りを顕わにする。
その怒りに身を任せるようにして、まずは眼の前の教卓を蹴り飛ばした。
教卓は吹き飛ばされ、そして教室の中に蔓延っているトカゲの思念体へ命中する。
トカゲが悲鳴を上げた。だが、人には当たらない。
「誰だって聞いてんだよ、答えろ。……てめぇか」
教室の隅で青ざめていた適当な男子生徒に歩み寄りつつ、通りかかりの机の足を掴む。それをトカゲの頭目掛けて振るった。トカゲに命中する。その机を一旦置く。
男子生徒がフルフルと首を横に振った。
俺はさらに詰め寄る。
「ならなんか見てんだろ。誰が書いた」
「おい、大光司、辞めろ!」
ようやく教室の中へ入ってきた体育教師が止めに掛かってきた。同時に、トカゲの思念体も俺へ襲い掛かってくる。
隣の机を蹴り飛ばし、トカゲを吹き飛ばしつつ体育教師に威嚇する。
「辞めんのは俺じゃねぇだろ」
体育教師を睨み、今度は隅っこで怯えている女子生徒に歩み寄った。
「てめぇか? おい」
机を殴りつける。――その過程でトカゲの足を殴りつけた。
トカゲが怒り狂い、俺に噛みつかんとして大口を開けたのと、女子生徒が首を横に振ったのはほぼ同時だ。
「じゃぁ誰だ!」
ぶち切れた素振りで、握った拳を後ろへ振るう。大口を開けたトカゲの横っ面を殴りつけてやった。順調順調。
「なぁおい解ってんだろ。出てこいよ」
次の机を蹴り飛ばしてトカゲに攻撃。勿論トカゲの姿なんて見えていない周りの生徒達からすれば、俺がただご乱心で暴れまわっているようにしか見えないだろう。
「出てこいっつってんだ!」
次の机を蹴り飛ばす。トカゲの図体がでかいおかげで、攻撃が全部当たる当たる。それに、詠唱をかけて対思念体用の武器にしたものは、術者の実力に沿ってある程度の遠隔操作が出来るのだ。だから当たる。当然当たる。
クラスメートに不自然に思われないようさり気無く、蹴った机を遠隔操作して思念体に攻撃している、ただそれだけのトリックだ。
「何がきもいだ病気だよ。そもそもが付き合ってねぇっつうの、馬鹿じゃねぇのか。見る目ねぇのはどっちだ、何をどうすりゃ付き合ってるように見えたんだおい。精神病院紹介する前にてめぇが眼科行けよ」
適当な文句を言いながら机を振り回す。勿論、これもトカゲへの攻撃である。
「落ち着け、冷静になるんだ大光司!」
教師が俺を羽交い絞めにすれば、俺は手を振り足を振り暴れまわるふりをしてトカゲに攻撃しまくった。これなら不自然ではないだろう。ただ皆に「あいつ頭のネジぶっとんでるなー」と思われるだけである。あながち間違いではないためなんら問題はない。
「てめぇはなんでなんもしねぇ!」
教師に羽交い絞めにされたまま、暴れながら、俺は教室の端へ移動して震えていた愛野に向けて叫んだ。
「てめぇだって被害者だろうが! てめぇこそが被害者だろうが! なんでなんの文句も言わねぇ!? なんで抗わねぇ否定しねぇ拒絶しねぇ!?」
狂ったように腕を、足を振り回す。その全てが、トカゲへの攻撃を擬態させたものだ。
「傷付けられたのはてめぇだろうが! 傷付けられようとしてるのもてめぇだろうが! てめぇがてめぇを守らねぇで、誰がてめぇを守るんだよ!」
ああ、なんて美しい言葉だろう。弱った心には響きそうな綺麗な理屈だ。
「てめぇまでてめぇを敵に回してんじゃねぇよ! 誰のためのてめぇだ!」
だが俺は知っている。経験則でもって理解している。美しさを美しいと信じてはいけない。いつかどこかで見た夕日のように、感情を揺らす何かには、必ず醜い裏がある。
「嫌なら抗え、それが出来なくても、心だけはそれを許すな!」
吐き気がするような綺麗事だ。しかし、お勤めのために必要な説得だった。
そこで担任と体育教師の二人掛かりで俺を取り押さえてきた。ぶっちゃけやろうと思えば振り切る事も出来たが、思念体であるトカゲはもう消えた。これ以上暴れる必要は無くなったため、わざと捕まる。
自作自演。全てはお勤めのためだ。
人目を引く大事を起こして、同級生達の愛野に対する思念をひとつに纏めさせた。そしてそれと戦うには、時間停止出来る十秒では足りない。時間が動いているうちに戦い、倒さなければならなかった。さらに何十人もの思念体を掻き集めるためには目立たなければならない。人目がある中で、人目には映らない化け物と戦う必要があった。
故にこそ、事前に机を武器にして、大事を起こすための下準備をした。それだけの事である。
結果はご覧の通りだ。成功も成功、大成功。これで、同級生達が抱いている愛野に対するいくつもの思念体は一掃完了。非常識な扱いは、もう受けなくなるだろう。
あとは、愛野が思念体を引き寄せる事をやめれば、やめる事が出来れば、全てが解決する。
睨んだ先に居る愛野の表情が、俺の脳内に住み着いて出て行ってくれない褐色の少女と重なった。
しかし、愛野の瞳から涙は零れなかった。
「なんで……」
愛野は捕まった俺を見て、そしてすぐ、廊下の向こうの人だかりを睨み付けて息を吸い込む。
どこにそんな空気が入ったんだと思うほどでかい声で、愛野は叫んだ。
「なんで私がこんな目に遭わないといけないのよ! ふざけんな、馬鹿っ!」
沈黙が走る。叫んだ後の愛野は赤面している。涙目になりながらもそれを堪えて、真っ直ぐに群衆を睨んでいる。敵意をむき出しにして、抗う事を決意した目で、真っ直ぐに睨んでいる。
「……なんで私が説教されるのよ、ばか……」
そりゃ、どこの馬の骨とも知らないクズに説教されるなんて、人生最大の恥辱だろう。
それでもだ、きっかけは与えた。道は開けた。あとは愛野が好き勝手やればいい。
これで俺みたいに狂人じみた行動をする人間とはもう関わりたくないと思うだろうし、つまり俺の孤高ライフも貫き通せる。愛野はほら、なんか、俺を勘違いしてたみたいだから。俺ってばこんな惨事を起こしておきながら内心ではなんとも思ってないクズだし。反省とか皆無。むしろ達成感があったりするくらい。こんな人間には孤高がお似合いなんですよ。
その達成感の代償として俺は、二週間の停学処分を受ける事になった。