第零話『その盲目は悲劇を見る~後』
転校生と約束をした日の放課後、おれは家まで走った。まずは父さんに相談しようと思ったのだ。
なのに、
「あら、走って帰ってきたの?」
と、玄関で膝に手を着いていた俺を見て、母さんが驚く。
「父さんが、境内に、居なかったんだけど……」
息を切らしながら確認すると、ああ、それなんだけど、と、母さんは苦笑した。
「パパね、一週間くらい帰って来れないかもって」
「……は?」
一週間も? その間のお勤めは? 修行は?
「魔心導協会から支援要請があったらしいの」
と、母さんは付け足す。
魔心導協会。おれにはまだ縁が無いけど、一人前の魔心導師が名前を列ねる、国からの支援を受けた組織だ。
「その間のお勤めは?」
思念体は日々、増え続ける。一週間も放置すれば……大変な事には早々ならないけど、それでも何かあったらどうするのだろうか。
「大丈夫よ。光峰さんちが一週間、こっちのほうも見てくれるらしいから」
と、母さんは微笑んで言う。
光峰とは、たまに一緒にお勤めとか修行とかする、一番近所の魔心導師の家名。
「……ふーん」
出来るだけ普通に答えたけど、心の中は今にも暴れだしそうだった。
父さんに相談が出来なくなってしまった。少なくとも一週間は、おれが、転校生とクラスメート達を守らないといけない。
「あ、でも彼方。パパから伝言よ」
と、母さんは楽しそうに、悪戯を思いついた時の俺の友達と同じ表情をした。
「『ちゃんと修行はしておけよ馬鹿息子』だって」
「……わかってるよ」
言われなくてもそのつもりだ。
やってやる。
俺だって魔心導師の人間。まだ子供とはいえ、基本になる術はいくつか覚えたし、実際に思念体だって何回も倒してる。
修行は勿論、教室に生まれたあの嫌な思念体だって、なんとかしてやる。
そう心に決めて、おれは自分の部屋に向かった。
でも、自分の部屋に入ろうと襖を開けたところで、
「あにうえ?」
後ろから小さな声が聞こえて振り向くと、そこには首を傾けた妹が居た。
「なんだよ。おれは今から修行だから、構ってる時間ないぞ」
早口で言うと、妹は「でも」と、近付いてきて、おれの手に触った。
「あにうえ、ふるえてる」
「…………気のせいだよ、ばか」
そう、これは武者震いだ。
初めて父さん無しで、魔心導師として、皆を守る時が来た。父さんの出張は、そう、おれが一人前になるための通過儀礼だ。
出来るはずだ。
そう言い聞かせながら、部屋に入って、棚にある資料を掴む。魔心導における基礎とか、思念体に関する情報が書かれた参考書だ。
開いて、すぐに目当てのページを見つける。というか、最初のほうのページにそれはあった。
『思念体――生物の感情から派生する物質。基本的に、常人には干渉出来ない気体のようなもので、形状や効果はそれぞれ異なる。似たようなものはいくつもあるが全く同じものが殆ど無いため、定義が曖昧』
これは、魔心導師なら皆が知ってる常識。問題はこの次だ。
『型――曖昧である思念体の定義を大雑把に纏め、分類化したもの』
これだ。
この型によって、対処法が大きく変わってくる。
おれはページを捲る。
『能動型――発生源と常に繋がっており、発生源の心境や状況の変化に応じて変化する。主に人が人へ向ける感情が成る事が多いため、自然消滅する場合もある』
思念体の中で一番多いタイプだ。
例えば、嫌いな誰かを恨み続けてたからそいつを不幸にするような思念体が出来たりする。
発生源と繋がってるから、思念体と戦って倒せば問題は解決するし、逆に問題が解決すれば思念体が消える事もある。
『受動型――発生源と時折繋がっており、なんらかの現象を発生源へ呼び込む。思念体という物質としては、形を持たない事が多い』
能動型と似てるけど、基本的に能動型は他人へ送る思念体、受動型は自分に送る思念体だ。自分は不幸だと思い続けると、そういう思念体が発生して、思念体の力で本当に不幸にされてしまう。能動型の思念体を寄せ集める場合もあるらしい。
『自立型――発生源から隔絶されているため、発生源からは干渉出来ない。主に物や事柄に纏わる場合が多く、都市伝説になるような思念体が殆どが自立型である』
例えば、多くの人間が『トイレの花子さん』を信じて、特定の場所へ思念を向けた時、その集まった思念が思念体となり、トイレの花子さんに似た化け物となる。……みたいな感じの事が書かれてるけど、おれもあまり解っていない。
簡単に言えば、思念体によって都市伝説が生まれる、みたいな感じだ。
『独立能動型――発生源と密接に繋がっているが、発生源とは異なる思想を持っている』
これは全然解らない。少なくとも俺は出会った事が無いし、父さんに聞いても母さんに聞いても「いつか解る」の一点張りで、教えてくれない。相当特殊な型らしい。
「さて」
予習は済んだ。
あとは、ここから、学校に居たあの思念体がどの型かを考えるんだ。
『受動型』じゃないのは解る。『受動型』には形が無い事が多いらしいけど、あの首無しは形があった。
『独立能動型』でも無いと思う。『独立能動型』は、資料にはっきり『発生源とは異なる思想を持っている』と書かれている。つまり感情があるってことだ。でも、あの首なしからは感情なんて全然感じなかった。漫画とかに出てくる意思の無い化け物。まるっきりそれだ。感情が無いなら、あれは『独立能動型』じゃない。
『能動型』か『自立型』か。この二つのどちらかだ。
もしも『能動型』なら、クラスメート達をなんとかすれば消える。明日から早速、クラスメート達に転校生へのいじめを辞めさせよう。それであの思念体に変化があったら、能動型だって解る。
変化が無かったら自立型だ。そうだとしたら、なにしていいか解らないし、まずはあの思念体が自立型だって決め付けよう。そうしないとなにも出来ない。行動に移せない。
あの思念体がどんな効果を持った思念体なのか、誰が発生源になっているかも解らないけど、それでも、何もしないで指を咥えて待っているよりはずっとマシだと思った。
何も知らない、何も解っていないクラスの連中を、おれが助けてやるんだと、そう意気込んだ。
そのはずだった。
「お前がそんなやつだとは思わなかった」
「俺達に不幸になれって言うのかよ!」
「あの転校生は悪いやつなんだから、退治しないといけないんだ!」
それがクラスメート達の言い分で、いじめはやめろと言い始めてから、日曜日を挟んで三日で、おれはクラスで孤立した。おれの言う通りにしてくれる人は居なかった。
思念体が居てやばいから、やめたほうが良い、と言えたらラクだったかもしれないけど、それは出来ない。思念体の存在は一般人には知られないほうが良いから、極力誰にも言うな、と、ずっと教えられてきたからだ。
思念体については語らず、でも思念体の危機から皆を逃がす、というのが難しいことだと、その時初めて知った。
「あの、ね、彼方くん、もう、いいよ。わたしのために、そんなことしないで」
係の仕事をしながら転校生が言った。頬っぺたにガーゼが張ってある。首元からも、シャツの下から包帯みたいなものがちらりと見えた。
転校生への暴力が酷くなってる。
あの思念体のせいだ、と、おれはここ三日で巨大化してしまった思念体を思い浮かべる。
あの思念体は、変化したんだ。クラスメート達の心境が悪化したことで、さらに悪い思念体になった。変化したということは能動型だ。能動型なら説得し続ければ、いつかなんとかなる。
「大丈夫。絶対に守るから」
そう強く言って、学校のベランダから夕日を睨む。いつかは綺麗だった夕日が、今じゃカラスで飾り立てられて、少し怖いくらいだった。
四日目も説得を試みて、着き返された。俺は修行とかしてるから他のやつらより強いけど、それでも反抗はしないでいた。ここで反抗したら、おれがクラスメート達を守ったと言えなくなる。
五日目も説得しようとしたら、友達に殴られた。二発目からは避けるようにしてたら、最後に、友達から「絶交だ!」と言われた。目に見えて、教室に居る思念体が大きくなった。思念体の身体にあるいくつもの目が、ぎょろりとした瞳が、おれを見ていた。
多分、転校生へのいじめはあの思念体のせいで起きている事だ。あの思念体が全部悪いんだ。だから、おれが皆を守らないといけない。そう自分に言い聞かせた。
そして六日目。
この日におれは、きっと生涯忘れられない出来事に遭遇する。
朝、学校に登校してきたおれの目に見えたのは、赤だった。真っ赤に染まった木の机だった。
「…………へ?」
立ち尽くした。そして、立ち尽くしているのは他のクラスメート達も同じ。皆が驚いて動けないでいた。
真っ赤になったいくつもの机の足元で、数人の男子生徒が倒れている。
それを、すぐ隣で、転校生が見下していた。前髪が垂れて表情は見えないけど、頭の角度からして見下していたんだと思う。その手には、机と同じ色をした鋏が握られている。
「ね、ねぇ……、な、なにやってるの?」
と、一人の女子生徒が怯えながら転校生に近付くと、転校生は鋏を振り上げた。
「きゃぁぁぁあぁああああああ!」
自分を腕で庇いながら、それでも腕を切られながら、女子生徒は後ろに倒れて悲鳴を上げる。
その悲鳴が波紋を立てるみたいにして教室中に響いた。教室から逃げ出す生徒も居る。動けずその場で泣き叫ぶ生徒も居た。
おれは呆然と立ち尽くしていた。ただ呆然と、教室を埋め尽くすほどの大きさになった、身体中に沢山の目を植え込み、その目で笑っている思念体を眺めていた。
転校生のすぐ後ろで、天井に頭を着けて狭そうにしながらも、肩を揺らして笑っている。想像だにしてなかった光景に、頭がついてきてくれなかった。
気付けば、殆どのクラスメート達が逃げ出していた。腕を切られた女子生徒ももう逃げている。
ただ、鋏で刺されたのか切られたのか、ともかく怪我をしていた男子生徒達と、おれと転校生だけが残されていた。
「ねぇ、大光司くん」
と、震えた声で転校生に呼ばれ、おれは思わず浮き足立ってから、何歩か後ずさった。
廊下側の壁に背中を預けて、それから転校生の顔を見た。
一瞬、転校生は笑っているんだと思った。
でも違った。
笑っているのは、転校生の身体に貼り付いた、思念体の身体にあるのと同じ目達だけだ。本物の、本当の転校生の目は、その瞳は、大粒の涙を流していた。
手に握られていた鋏が落ちる。
「わたし、こんな、こんなこと、したく、なかったのに……」
しゃっくりと一緒に転校生は言う。
「こんなことしたくなかったのに、ね、手が、身体が、勝手に、動くの!」
悲鳴みたいな主張だった。
普通の人が聞いたら、そんなのはただの、我慢出来なくなったいじめられっ子が、感情を抑えられなくなったようにしか思えないだろう。
でも、おれには解った。
これは、思念体のせいだ。
「いやだ、いやだよ。どうして、こんなこと……っ!」
鋏を落として、両手で顔を隠して、転校生はその場に膝を着く。後ろで思念体が声も無く笑っている。
あの思念体は、いくつもの目を持った思念体は、自立型の思念体だったんだ。
正体は、何故かすぐに思いついた。
『転校生は人を不幸にする』
誰がどうしてそんな事を言い出したのかは解らない。でも、沢山の人がそれを信じることで、そう思い込む事で思念体になって、『転校生が人を不幸にする』という小さな都市伝説となった。
クラスメート達が生み出した思念体はその都市伝説を実行するため転校生を使い、クラスメート達を不幸な目に遭わせた。
被害者こそが加害者で、加害者が一番の被害者。これは、そういう悲劇なのだ。
「ふざ、けん、な……」
倒れている男子生徒の一人、この間おれと絶交したクラスメートが、おれのほうを睨みながら、苦しそうにこう言った。
「おま、えのせい、だ」
おれを見ながら、そう言ったのだ。
「おまえ、こいつが、こうなるって、解ってた、だろ。お前、共犯、だ」
その言葉が、その声が、その視線が、おれの中にあった何かを崩していった。
なに言ってんだよ、と、呟こうとして、でも声は出なかった。
「なんで、どうして、なんで……」
狂ったように同じ言葉を吐き出し続ける転校生と、
「呪ってやる……呪ってやる」
そう何度も言ってから気絶したクラスメート。
おれは何も言えず、何も考えられずに居た。
逃げたやつらが呼びに行った教師が、今更駆けつけてきた。
クラスメート達は保健室に運ばれる。救急車も呼ばれたらしい。
意識を手放していたせいで、おれがどこに連れて行かれたかは解らない。
翌日から、生活環境は大きく変わった。
表向きは被害者の一人でありながら、影で加害者扱いされているおれには、誰も近付かなくなった。
事件を起こした張本人は、事件の翌日からどこかへ消えた。どうなったのかは先生からも聞かされていない。聞く勇気もおれには無かった。でも、その転校生と一緒に思念体もどこかへ消えたから、どこか安心している自分が居た。
事件の被害者達は――いじめに堪えて我慢し続ける事で、いつか報われると信じた少女から思念体を通じて強制的にその願いを奪った加害者達は、いつしか「不幸を撒き散らす女と戦った勇者」のような扱いを受けるようになっていた。
1人きりで花壇に水をやりながら、ふと空を見て、激しい寒気に襲われて、ジョウロを落とした。夕日の赤が、教室を染めた赤と同じに見えた。黒ずんだ太陽が、雲が、俺を睨む瞳に見えた。
「……ばかじゃないの……」
俺はいつだか、あんなものを、美しいと思ったんだ。
「おれは……何を守ろうとしてたんだっけ……?」
そんなことさえも解らなくなっていた。いや、もしかしたら、最初から無かったのかもしれない。
何も見えていなかった。何も解っていなかった。
それは、自分自身のことでもあったのだ。