第十五話『無意識との相対~前』
誰かが布団に入れてくれたらしい、目覚めたら布団にくるまっていた。しかも袴でも無くなっていた。いつものスウェットだ。俺ってば何時の間に着替えたのよ。違うよね、この歳になって眠りこくった挙句母さんに介抱されたとか、そんなんじゃないよね。
枕元にラッピングされたご飯が置いてある。惣菜のようだが、ちゃんと皿に移し変えられていた。その手前に置手紙『黒毛和牛よ!』まじで奮発したなあのばばぁ。つーかまじで介抱したのは母さんだったらしい。せめて春香なら可愛げがあったのに。
陽が上る手前の、まだ早過ぎる時間。皿を持って居間へ移動し、レンジで温めて、部屋に戻った。今日は金曜。学校行く前に、予約録画しておいたアニメを見ようと思ったのだ。金曜は俺の好きなアニメが豊富で大変よろしい。
「……美味いな」
アニメを見ながらの黒毛和牛とか豪華過ぎる。高級肉だけあって普通のステーキとは一味違う。幸せですなー。人生のらりくらりが一番ですよ。ほんと。
三本のアニメを連続して見た。ほら、早起きは三文の徳って言うだろ? だから三本見るんだよ。これくらいなら朝飯前である。一日で二十四話ぶっ通して見た事もある俺だ。楽勝楽勝。
そして朝食の時間が来る。さっきばっか重たい物を食ったせいでちょっと気持ち悪い。食卓に顔を出したはいいが、箸が進まなかった。
「あら、今日はあんまり食べないのね」
と母さんが言った。
「まぁな。黒毛和牛食ったばっかだったし」
適当に言いながら、ハムスターのようにちまちまと卵焼きを食べる。
「黒毛和牛?」
俺の隣でもしゃもしゃと元気にご飯を食べてる春香が、ふと小首を傾げた。そして母さんが口に手を当てて笑う。
「昨日のステーキ、彼方の部屋に置く時に『黒毛和牛よ!』って嘘のメモを置いてきちゃったのよ」
「死ねよ」
嘘だったんかい。高級肉は一味違う、とか知ったふうな口利いちゃったじゃねぇか。恥ずかしくて俺が死にたい。
「晩ご飯のつもりで置いといたのに、さっき食べたの?」
「ああ。アニメ見ながら食った」
母さんの質問に答えつつ、口の中のものをお茶で無理矢理流す。
「もう、彼方ってほんとにアニメ好きよねー。ちなみに今日はどんなのを見たの?」
普段はそんな事を聞かないのに、何故か今日は聞かれてしまった。
「あ? あー」
俺は考えて、はたと思い直す。
俺、さっき何見てたんだっけ。
「……なんだっけ」
「ふふ、寝起きで見るから頭に入らないのよ」
そうだろうか。俺、よくやってるんだけどな、寝起き早々アニメ。
まぁしかし、頭に入っていないという事は、後で見直せばもう一度楽しめるという事だ。一回で二度美味しい。おお、ど忘れ最高じゃねぇか。
今日行けば土日となり学校は休みだ。気合を入れて授業中に眠ろうとしたが、流石に寝すぎたのか、眠れなかった。仕方ないから授業を耽って保健室に行こうとしたら、体育教師に掴まる。「事情が事情とはいえ停学処分を喰らった直後なのだから、自重しろ」との事。教室へ戻された。
国語の授業で、普段は指名されないのに珍しく指名される。「夏目漱石の妹が言ったと言われている『あめうじとてちて~』の下りを訳せ」との事。これは停学処分中にやった内容だったためしっかり覚えている。俺は答えた。「アミューズメント千葉」失笑された。
昼休み。校舎裏で飯を食おうとしたら、なんという事か、俺の個人スペースであるはずのそこが他の不良に占領されていた。仕方なく中庭に移動した。人が多くて鬱陶しいが、致し方あるまい。この風の強さなら、もしかしたら女子のスカートがめくれるというラッキーイベントがあるかもしれない。食事を終えても、勿論そんなラッキーは無かった。
放課後はお勤めだ。サボろうとすればとやかく言ってくる春香が最近口を利いてくれないという事実を実感したくなくて、とやかく言われる時間になる前に家を出た。駅前に向かおうと思ってたのに、気付いたらデパート前に来てた。なにやってんの俺。方向逆だけど。どこのドジっ子? 俺、もしかして萌え要員だったの? 需要ねぇよ。
土日になった。そして終わった。気付けば、いつも予約録画しているはずのアニメを撮り逃していた。なんたる凡ミス。悔しさのあまりマジックリンリンを見直そうとした。なんか変な深夜番組で上書き録画しちゃってマジックリンリンが消えてた。もう死にたい。
そんな具合で、一週間と半分が終わった。
ただの一度も、愛野とは目を合わせていない。
水曜日。マジックリンリンの最新話がブルーレイの中に入っている日だ。俺はうきうき気分でお勤めを果そうとした。
駅前、人通りの多い場所で、いつもの戦法である「絶してる間に路地裏へ連れ込む」をやろうとしたら、途中で時間切れになって時間が動き出して、俺がどこからともなく現れて暴れまわっていた、という変質者だと思われてしまった。手痛い失敗である。
鉛でも張り付いてるのか、もしくは皮膚そのものが鉛になったみたいな重たい足を引き摺って、家へ帰る。陽が伸びてきたのとお勤めを早めに切り上げたのもあって、まだ浅い夕方。オレンジに染まった真っ赤な鳥居を潜って階段を昇り、そして参道を歩こうとした時だ。
賽銭箱の前に、ふたつの人影があった。ひとつは母さんだ。もうひとつは、少なくとも春香のものではない。誰だ、と思い、しかしスルーするつもりでその人影に近付く。だって、あっちが家への入り口なんですもの。
そして近付いて、俺は立ち止まった。
母さんと話していたのが、冬月璃燕だったからだ。スーツ姿じゃなかったため、気付くのが遅れた。
立ち止まった俺に、二人が気付いた。
「あら、お勤めご苦労さま」
と母さんが言う。
「こんにちわ。その節は大変、お世話になりました」
デニムパンツに薄手のダウンベストを着た、若干季節外れでぶっちゃけダサい格好をしたその女性は、先週あんな顔色が悪かったのが嘘のように小奇麗な表情をしていた。こっちが素なのだろう。彼女は綺麗に腰を折って頭を下げた。
「あー、まぁ、どうも」
なんで居るの、と思いかけたが、すぐに思い至る。そして思い至った事を頭の中で整理するより先に、冬月は言った。
「あの後、ゆっくり考えてみて、急ですがちょっと長めの有休を貰ったんです。今まで殆ど使った事なかったから、お休みがたんまりです。今日はその初日で、さっき画材とか纏め買いしてきたので、これから有休全部使って漫画一作書き上げて、それを最後にしようと思ったんです。それを賞に間に合わせて、それで終わりに」
ほら、と冬月は大きな買い物袋を見せ付けてきた。ほんとに大量に買ったな。あれからまだ二週間も経ってないのに、大した行動力だ。いや、行動力があったから、漫画家なんて夢を見て、追い続ける事が出来ていたのかもしれない。
「大光司さんに諦めなさいってはっきり言って貰えて、踏ん切りはついたのですが、そういえば最近、自分のための漫画を書いてないなって思い出して。自分が、書いてて楽しいなって思える漫画を、自分のために書こうと思ったんです。悪あがきとかじゃなくて、正真正銘の自己満足として」
だから、と頬を掻いて、冬月は続ける。
「ここに来れば、自分の書きたいもの、見つかると思いまして」
「?」
俺は首を傾げる。なんでここに来ればそんなものが見つかると思ったのだろうか。全く解らん。
冬月はオレンジの太陽を睨むようにして見つめた。
「なんといいますか、この間お祓いしてくれた時、しがらみとか全部吹っ飛んでちゃったような気がして、とてもすっきりしたので。そりゃ、夢を諦めるために、ちゃんと諦めて仕事と向き合うために、二日は泣き崩れたんですよ? でも、だから今回みたいな思い切った事が出来たんだと思うんです。なんとなく、ここにはそういうご利益があるのかなーって思って。なんといいますか、こう、自分が変われるご利益、とか……」
御守りも買っちゃいましたと、俺にとっては見慣れて見飽きたそれを見せ付けられた。隣の母さんが俺にだけ見えるように親指を立てている。母さんめ、こんな状況でも商売か。クズだな。つーか、そんなご利益はここには無い。あるのは母さんの力である思念体が寄りつきにくくなる効果だけだ。
しかし、変わる、か。変わりたくてここに来たのだとしたら、それは取り越し苦労だと思う。俺が見ただけで、特に他人への興味が無い俺が一見しただけで、先週とは別人かと思う程に、彼女は既に変わっていたのだから。
「まぁまぁ、立ち話もなんですし、そろそろ帰りましょうか。送っていきますよ」
そう提案したのは母さんだ。
「そんな、悪いですよ、また送ってもらうなんて」
「ふふ、私ももう少し、冬月さんとお話がしたいだけです。尼さんは暇なので、お付き合い頂けます?」
「あ、それなら是非。お言葉に甘えて」
見事に論破される冬月。なに、あんたチョロインなの?
そして歩き出す冬月と母さん。
母さんは俺とすれ違う時、静かに、小さく、こう言った。
「切り捨てられて初めて拾われる。そういう救いもあるものよ」
力強く、そう言ったのだ。
しばしの間、賽銭箱前に立ち尽くす。いつの間にか母さん達は居なくなっていた。
そうか、そんなものがあったのか、と呆然と思った。お勤めの時はいつも持っていく木刀の入ったバットケースが、するりと、掛けていた肩から落ちた。そんなものがあるから、冬月はこれほどまでに明らかに、変わってみせたのか。こうやって変わる事も出来るというのか。
いつも通りで居る事が正しいと思っていた。だからいつも通りで居ようとして、けれど失敗しまくった。なんなら、いつも出来ていた事が、この一週間は全く出来なかったとも言える。
もしかしたらそれは、俺が、俺の心のどこかが、変化しているからかもしれない。
今まで特に感じなかった感情が、この一週間、心臓に張り付いているのだ。それの名前は、おそらく罪悪感。
「……ああ、いやだなぁ」
俺はクズだ。クズのままだ。それは変わらない。変えるつもりは無い。
例えば、ちょっと顔が良くて、スタイルが良くて、人当たりが良くて、俺のやってる事とか思想を理解してくれる都合の良い女がある日突然目の前に現れて、都合良くそいつと縁が出来て、都合良くその縁が少しばかり続いたところで、俺がクズである事は絶対的に不動だ。
けれど。
「あれは流石に、言い過ぎだった」
たった一回謝罪するくらいなら、別に、クズでなくなるわけではないはずだ。
反省しているつもりはない。俺が悪かったとも思わない。無関係であるはずのあいつが無神経に言いたい事言ってきやがったんだから、向こうだって悪い。それでも、目障りは言い過ぎだった。言う必要の無い中傷だった。
もう俺と関わるな。その意思だって変わらないけれど、それでも、謝るくらいなら別に良いだろうと思った。今までまともに他人への謝罪なんてした事は無いが、それくらいの変化なら、『謝罪した事が無かった俺』が『謝罪した事のある俺』に変わる程度なら、別に、大した変化では無いはずだ。
あいつの家はどこだっただろう。
そう漠然と考えながら、振り向いた。
そして。
「「あ」」
声が重なった。
俺が謝りに行こうと思っていたその張本人が、今、俺の視線の先に居た。
愛野茲奈が、すぐそこで立っていた。
しかし、俺の顔を見るや否や、愛野は逃げるように来た道を引き返し、階段を降りて姿を消した。
今更気まずさが込み上げて、なかなか前に進めない。それでもなんとか階段の前まで進むと、愛野は既に階段を降りきって、道を曲がっていた。
逃げられた。それははっきり解る。
だが、逃げたのだとしたら何故、愛野はわざわざここへ来た?
聞かなければと思った。ここへ来た理由を聞きたいと思った。
そのためにはまず、追いかけなければ。
まだそんなに遠くへは行ってないはずだ。今から追いかければ間に合う。そう思って足を前へ踏み出そうとした、その時。
こつん、と足元に砂利が落ちた。参道脇に山ほどある砂利だ。風は吹いていない。そもそも風に運ばれるほど小さな砂利ではなかった。
誰かが投げたのだ。参道脇から、俺に向かって。
俺は立ち止まる。
『おいおい、血相変えてどこに向かおうとしてんだ?』
砂利が飛んできた方向から、そんな声が聞こえた。嫌味ったらしく嘲笑を秘めた声音で、頭の中に直接ぶち込まれたかのようによく響く声だ。
『まさかとは思うが、素敵な謝罪会見なんてもんを開くつもりじゃねぇだろうなぁ』
その声は笑う。
俺はゆっくりと顔を上げた。そいつの姿を確かに捉えた。
『おーっと……ああ、趣味の悪いイケメンが居ると思ったら、違った。俺だった』
人を小ばかにしたように笑うそいつは、白い袴を着ていた。その手には縁太刀が握られている。
「……趣味の良いブサイクが居ると思ったら、なんだ、俺か」
動揺は無かった。別に、現れたところでなんら不自然ではない。ただ、今の俺には、そう返すのがやっとだった。
参道脇に立ったそいつは、紛れもなく俺で、どこからどう見ても俺自身で、何をなんと考えようと否定出来ない程、確かに、俺だった。
俺自身の、思念体だった。