第十三話『枯れゆく月と宵闇』
「まずはこれを」
冬月に、酒を入れた皿を渡す。冬月は戸惑うように辺りを窺いながらも、一口で呑んだ。
酒、アルコールは神聖な飲物としてこういった場ではよく使われるが、魔心導の一環として使うのは、単に感情を表に出し易くするためだ。アルコールは理性を弱めるため、感情が表面化しやすくなる。理性が弱まる事で、しがらみやら色々な都合で押しつぶして押し殺した自我が強まる。思念体の排除や根絶にはうってつけの状態になるわけだ。
俺も同じようにして、馬鹿みたいに苦くて臭いそいつを飲み込んで、少し間を置いた。この作業が久しぶりなせいで、少し緊張しているのかもしれない。念の為、脳内でもう一度、行程を確認しよう。
まず、思念体が身体を乗っ取るという事は、もちろん、ふたつの魂が内部でこんがらがっているという事になる。
そのこんがらがった魂を解して、思念体を追い出す必要がある。
こんがらがった魂を解すには、その思念体がどういうものなのかと、とり憑かれている人間がどういう人間なのか、そして、何故とり憑かれているのかを分析しなければならない。
つまり、まずは質問からという事だ。
「さっそく。……貴女には生霊に近しいものが憑いている。生霊に憑かれるような覚えは? つまり、人に恨まれたりするような記憶は?」
俺の問いに、冬月は首を横に振った。解らないのか、と思い次の質問に移ろうとしたら、
「多すぎて……」
と、冬月は言った。なるほど、それならば解らないのも仕方ない。
「ならその確認をしよう。あなたのプロフィールは?」
そう促すと、冬月は皿を置いて、一度だけ顔を伏せ、そして口を開けた。
「冬月璃燕。二十三歳。高卒で、市井株式会社に就職しました」
市井株式会社。この辺りでは中堅の会社だ。
「家庭環境、趣味、仕事の状況は? 一人暮らしかな」
「いいえ、実家でお世話になっています。母、父共に健康で、弟が一人。弟は今大学生です。私の趣味は漫画を描く事。仕事の状況は……順調、です」
「彼氏、もしくは婚約者は?」
冬月は首を横に振った。
「就職した後に告白された事はあります。……でも、丁重にお断りさせて頂きました」
ふむ、なら、その告白してきた相手が思念体を放っている可能性もあるわけだ。候補一。
「仕事が順調だとも言ってたね。具体的には?」
「実は、その、先月、課長に任命されて……成績を評価されて、会社設立以来初めてのスピード昇格だって……」
それで妬まれる、というのは可能性的には充分有り得る。つまり、
「同期の人達はそれをどう思ってる?」
「同期も部下も、応援してくれました。お祝いって言って、一緒に呑みに行ったり……」
なら候補二は部下になった先輩に限られる、と。追い抜かれたから逆恨み、と思えば充分に有り得る。まぁ、お祝いしてるのは建前で実は恨みまくってる同期、なんてのもよくある話だが。
「家族はそれについては?」
「同じです……。父はプレゼントにちょっと高価なバックを買ってくれたりもしました」
「ふむ……」
環境自体は恵まれているように見える。やはり仕事や恋愛における嫉妬が思念体の正体、という事だろうか。
めんどうだが、多分違う。そんな単純な思念体には、どう考えても見えない。あくまでカンだが。
「最近、仕事で失敗したり、他人から嫌がらせを受けたりは?」
その質問に、冬月は首を横に振った。つまり思念体による被害は、冬月璃燕本人の変化に限られる、と。
そういえば。
「確か、恨まれるような覚えが多すぎて心当たりが解らない、って言ってたが、他に覚えは?」
やばい、一瞬口調が崩れかけた。酒が回ってるからかもしれない。本来なら酔う程の量ではないが、酔わす事を目的とした酒だ。他の酒とは違う。
「実は、漫画を描いてるのが、いけないみたいで……」
冬月は自分の掌を見つめながらそう呟く。
「漫画を? もしかして、プロを目指してる?」
冬月は頷いた。
「就職も仕方なくしただけで、本当は、漫画家になりたかったんです。それで今も仕事が終わった後や休みの日に、描いてるんです。何回か賞に出したり、何回か持ち込みしたりも、しました」
「いつから?」
「高校二年の時から」
今が二十三歳だから、六年か七年。よくめげないもんだ。しかもちゃんと仕事をしながらときたもんだ。学校行きながらお勤めする二足のワラジ、という点で俺と同じだが、俺は両立出来ていない。だって両方めんどくさいし。だからと言ってクズたる俺を引け合いに出すのは間違えてるかもしれないが、仕事と努力を両立するのが難しいというのは、よく解っている。
「そのことを周りの人は?」
「一部、知っています」
「主に誰が知ってる?」
「家族は皆。職場の人も一部。友達が数人知ってます。たまに、読んで貰ってるので」
知り合いに読んでもらって評価してもらって、それから応募している、という事だろう。その結果は、今も仕事をしている、という点から、聞く必要の無い事だ。
「それで、その努力について、その人達は何か言ってる?」
「…………」
その質問に返ってきたのは沈黙だった。
うざったいほどに重苦しい沈黙。冬月の唇が僅かに震えた。
「……辞めろ、と」
ほぉ。
「誰が?」
「……皆が」
「それは、皆が貴女には才能が無い、と言ってる、って事か?」
冬月は視線を落として、首を横に振った。そりゃ、本人に向かってそんなストレートには言えんか。
「仕事も成功してるんだし、そっちに集中したらどうだ、と。……あと、私に告白してくれた人も、私は興味無かったのですが、周りから見たら結構良い人だったみたいで……私、漫画描くのに集中したいからって、断らせて貰ったんですが……どこからかそれを聞いた両親に怒られて……『目の前にあった幸せを、掴めもしない夢のために手放すのは馬鹿のする事だ』って……」
冬月の瞳に、薄い水滴が垂れたのが解った。どうやら酒と、この場の空気が効いてきたらしい。感情的になった冬月は、静かに泣いていた。
「現実が上手く行ってるから、夢を見るのは辞めろ。そう周りが言っている、と?」
その確認に、冬月は頷いた。
成る程。なんとなく、思念体の正体が解ってきた。
「それは酷い話だ」
と、俺は笑った。
「何年も追いかけてた夢を諦めろ、なんて、簡単な事じゃないのにね」
そんな建前を言うと、冬月は顔を上げないまま、しかし何度も頷いた。
「そうです。諦められません。仕事だって仕方なくやってるだけで……でも手を抜けなくて、だけど、クビになったりするのが怖くて……。それで必至になってやってたらたまたま上手く行っただけで、これからも成功し続ける自信なんて無いです……っ」
「仕事しながら夢を追うなんて大変だよね。そりゃ、そんな事してたら恋愛なんてしてる余裕は無いし、友達とも殆ど遊べてないんじゃない?」
「……はい。恋愛は勿論ですが、友達とも、どんどん疎遠になってます。最近会っているのは、高校の時に漫画研究部で一緒だった人だけで……」
「友達を失くしてでも叶えたい夢だ、という事でいいのかな?」
冬月は頷いた。返答に言葉は無かった。
「ちなみに、今の仕事は楽しくない?」
「…………」
また応答無しか、と思いかけたところで、冬月はゆっくり答えた。
「成功はしてるので、楽しいとは思います。……でも、こんな気持ちでやって成功するなんて、本気でやってる人達に申し訳ないな、とも、思います」
愛野と同じで、被害妄想というやつだろう。もっと図々しく生きれればラクだろうに。
ふと、境内の出入口を見る。春香は冬月の背中に居る思念体が怖いのか、目を逸らしていた。
次に母さん達のほうを見た。母さんは真剣な眼差しを、しかしどこか哀れむような視線を冬月へ送っている。その隣の愛野は……なんでお前まで泣いてんの?
さて、思念体の正体は解った。後は解き解すだけだ。
「漫画を描くのは、最近、上手く行ってる?」
その問いに、冬月は首を横に振る。
「殆ど、手が着かなくなっています……アイデアは浮かんでるのに、シーンが思い浮かばなくて、なかなか筆が進まないんです……それでちょっと、机に向かう時間が、最近、減っています」
成る程。思念体の効果で、しっかり日常が変化しちゃってるわけだ。
「それでも無理矢理描こうとしてるから睡眠不足なのかな。目の下、すごい隈だけど」
冬月は「いいえ」と答えた。
「描けないので、でも友達とかも減ってて遊ぶにも遊べないので、すぐに布団に入るようにしてるんです……でも、そうすると、まだ寝付いてもいないのに、夢を見るみたいに、悪夢に魘されるみたいに、皆が『諦めれば』って優しく言って来た場面がフラッシュバックしてきて……頭の中では何度も何度も嫌だって答えてるのに、現実だといっつも、苦笑いして誤魔化してばかりで……」
直接誰かに「諦めない」と断言した事は無い、という事らしい。
「どうして、諦めなたくないって言えなかったのかな」
「失敗を、恐れているんだと、思います。……諦めないってかっこつけたくせに結局叶えられなくて、夢破れて逃げ帰って、それで皆に『言わんこっちゃない』って言われるのが、怖いんだと思います」
よく解る理屈だ。叶えられないかもしれないから、叶えると断言出来ない。そういう事だ。有言実行が出来ない。それだけの事だ。だがそれは、諦めているのとなんら変わらない。内心では「無理だ」と肯定しているのだから。
「ちなみに、諦めろって言われるようになったのはいつから?」
「最初に言われたのは、二年くらい前からです。……その時は気にしなかったのですが、最近、告白されてから少し増えて、昇格してからは、もっと増えて」
おそらく、思念体が憑いたのは最近の事だろう。二年前から憑いていたのならば俺が今まで見逃していたのは流石におかしい。経っていても一ヶ月のはずだ。
つまり、二年前から始まった「諦めろ」という周りの意見は、思念体の正体では無いと言えるだろう。
条件は揃った。
「冬月さん。冬月璃燕さん。本当は解ってるんじゃない? どうするのが正しいのか」
俺はそう尋ねる。
冬月は首を横に振った。
「いいや、貴女は解っている。違うな、そう言ったら語弊がある。解っている貴女を、解っていないフリをしている貴女が黙らせているんだ」
冬月の動きが止まった。表情が固まった。
俺は続ける。
「今、貴女は苦しんでいる。なら、いったい何が貴女を苦しめているのか。そうさせているのは、誰だと思う?」
冬月は俯く。さらに俯く。
耳を塞ぎたいのだろう。その手は震えていた。それでも、膝を引っかく事で、自分の身体に掴みかかる事で、なんとかそれを堪えていた。その態度が既に、現状を理解したことを証明していた。
だから、俺は言い切る。
「他の誰でも無い。貴女を苦しめているのは貴女自身だ」
諦めろ。そう呟いている思念体は、冬月璃燕そのものだ。
視界の隅で、愛野が立ち上がったのが見えた。それを母さんが制している。
「貴女の周りの人達は、貴女の事を心配している。貴女はそれを知っている。貴女のために警告しているのだと貴女は気付いている。それが正しいという事も貴女は解っている。貴女は今、夢を叶えるために頑張ってるんじゃない。今までの努力を無駄にしたくないから抗っているんじゃないか? 本当は、周りの説得に納得してるんじゃないか?」
冬月の事を心配している人間の思いが集まったのだとしたら、あんなに醜い思念体になるはずが無いし、そもそもあの思念体ははっきりと、冬月の首を絞めている。心配している人間が、心配している相手を意図的に苦しめるような事をするはずが無い。なによりも思念体の発生日からしてアリバイがある。
だから、犯人はもう、冬月しか居ない。
数秒の沈黙の後、俺は続けた。
「それが間違えている事も、もう理解している。だから貴女は、諦めたくないと言っている自分を押し殺すため、諦めろと言う自分を作り出した。それが貴女にとり憑いたものの正体だ」
そういう思念体を生み出して、思念体に乗っ取られる形でラクになろうとした。
だが思念体はそんなに便利なものではない。万能ではない。そもそも人に使いこなせるものじゃない。
だから冬月璃燕は苦しんだ。『諦める』ために作り出した思念体は『諦められない』本心とぶつかりあう事で捻じ曲がって、『迷い続ける』思念体と化したのだ。
「……そうかも、しれません」
冬月は、掠れた声でそう言った。
「諦めるのが怖かったんです……ずっと、ずっとその事しか考えてませんでした……。今辞めたら、今までの七年間が無駄になるんだぞって、そう言い聞かせて漫画を描き続けていました……。そんな惰性で描いた話が、面白いわけが、ないですよね……。他の人は、漫画家になるためっていう、一途な思いで描いてるのに。こんな、自分を守る事しか考えられなくなった私に、面白い話なんて、描けるわけが、ないですよね」
そうではないだろう。冬月のその言葉は間違えている。何を思いながら描いたかなんて関係無いのだ。どんな感情を乗せようと、その感情は漫画やアニメや小説やライトノベルには写らない。純粋に面白いか面白くないか、もしくは絵が綺麗かどうか。それらだけが判断される。
結果が得られないという事は、そういう事だ。
「なら、どうすればラクになるかは、もう解るな?」
冬月は、静かに、ゆっくり、頷いた。
俺は縁太刀を手に取り、鞘を抜いた。
同時に、思念体がうめき声を上げた。
あの思念体と冬月璃燕は、夢を諦めるか諦めないかの境目でこんがらがっていた。しかしその答えが今出た。故に解き解す事には成功した。
彼女は確かに、俺の言葉で、夢を諦めたのだ。
『迷い続ける』事を辞めた事で、思念体と冬月は切り離された。
「失われた月と亡き王に報いを。冬の月さえ消えた夜、飛べなくなった瑠璃の燕に道を示せ」
即興の詠唱。
そして立ち上がり、引き抜いたその太刀で、冬月の後ろに居る思念体を貫いた。
「失われた月と亡き王に報いを。雪に埋もれて眠ろうと、春泥を踏むまでの苦痛は免れぬだろう」
突き刺した縁太刀を捻る。
大きく一歩踏み出し、冬月を跨いで、思念体を押し倒す。
思念体はあがいた。だが、冬月と分離された今なら、あとはいつも通り倒せば全てが終わる。
「故にこそ、失われた月と亡き王に明確な終わりを。その終焉を以って報いとしよう」
突き刺していた縁太刀を引き上げ、縦一線に、思念体を切り裂いた。
思念体が絶叫する。思念共鳴していた春香が浮き足立って耳を塞いだのが見えた。
思念体は光の粒となり、飛散し、霧散し、そして消えた。
俺は体勢を立て直し、縁太刀を鞘に収めて振り向いた。そこには、身を埋めて、自分の身体を抱きしめながら泣いている冬月璃燕が居た。
「ふぅ……」
やっと終わった。面倒事は片付いた。
母さんのほうを見た。母さんは正座のまま、微笑んでいる。その隣で、思念体が視えていないはずの愛野が唇を噛んでいた。
俺は母さんのほうへ歩み寄る。
「良い詠唱ね」
と、母さんは軽く笑う。
「うっせぇ黙れ。良いもんかよ」
俺は悪態を返しながら、縁太刀を母さんに渡す。
「あの人に毛布と温かいお茶を」
「はいはい」
事前に用意しておいたらしい。母さんは受け取った縁太刀を横に置き、後ろに置いてあった湯呑みにポットでお湯を注いで愛野に持たせ、自分は毛布を持って、二人一緒に、冬月のほうへ向かっていく。
「春香。祭壇の片付けを」
最後にそれだけ言って、春香のほうは見ずに、俺は境内を後にした。