5 誰も寝てはならぬ
夜。
頭上に線みたいな三日月が浮かんでいた。
昨日は新月だったので、今日もかなり暗い。
「はい」
「ありがと」
自販機で缶コーヒーを奢ってあげる。
彼女が選んだのはココアだった。
カイロのように手を暖めながら二人で静寂の町を歩く。
やがて目的地である小さな公園に着いた。遊ばれることなく錆ついた遊具が冬の夜気にあてられ寂しそうに佇んでいる。
「この地区は再開発がかかるんで、住人のほとんどが立ち退いたらしいんだ」
「すごいな。ひとっこ一人いない。まるで廃墟だ」
「中学の同級生に教えてもらった場所でね。この時間なら人に見られることはほぼないよ」
「うん。場所も時間も申し分ない。あとは手段だ」
僕はポケットから、小さな紙袋を取り出して彼女に手渡した。街灯に照らされたソレに少女は眉間に皺寄せた。
「なんだこれは」
「薬だよ」
「薬?」
「人を殺すのにナイフや爆弾を使うのはナンセンスだ。人類であるならスムーズに行わないと。つまり、薬殺、というやつだね」
「薬殺……これは毒か? 何て言う名前の毒なんだ」
「……えーと、エチレングリコールだったかな。ともかくいまさっき渡した量を飲み干せば眠るように死ねるらしいよ」
「どうやって手に入れたんだ?」
「僕にもいろんなつてがあるんだ」
「ふーん……」
あからさまに怪しまれている。
「まあ、いい。伽藍は山田を信じることにした。きちんと殺してくれ」
街灯に照らされた力無い笑顔に切ない気持ちになる。
「……最期に言い残すことはない?」
「そうだな」
人のことを言えたもんじゃないが、こんな夜遅くに中学生の女の子が一人で家を出ることは、僕にとっては異常だ。
指を切断してから母親に放置されるようになったと言っていたが、それが幸せといえないことくらい、僕にもわかる。
「最期が山田で良かったと思うよ」
「なんでさ」
「はじめてあったとき、顔を見て、こいつでいいや、と思ったんだ。なんでだろうな。そんな単純じゃないはずなのに」
「やっぱりわからないな」
「む?」
「……君が死ななきゃならない理由が」
ブランコが風に揺れていた。
伽藍は遠くを見るような目でそれを眺めていた。
「ずっと母に、悪いことをすれば罰せられると教わってきたんだ。罪の清算はできるだけ凄惨じゃなきゃならない」
「だから橋の下で犬を殺したのか?」
「あの犬は罪のない子犬を傷付けた。保健所の職員から逃げてる途中車に轢かれてグチャグチャになったんだ。それでも、まだ生きていた。罪の清算が中途半端だったんだ」
「僕には理解できないよ」
「悪いと思っている。巻き込んでしまって。だけど、怖いんだ。一人で死ぬのが。だから、誰かに殺してもらいたかったんだ。……ずっと」
「僕は殺したくないよ。もっと君と仲良くなりたい」
「伽藍も……」
「それなら、遊びにいこうよ。またさ」
「……これ以上楽しませないでくれ」
「僕に君を殺させるなんて卑怯だよ」
「誰かの心で生きたいだけなんだ」
「ズルいぞ」
「……」
伽藍はなにも言わずに缶のココアのプルタブを引き上げた。
「生きたいのなら、生きればいいじゃないか」
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 」
「……草枕?」
「お前でよかったよ。ほんとうにそう思う」
伽藍はカプセルを取り出し、僕が止める間もなく、それをココアで流し込んだ。
「あ、ああ」
ごくり、気持ちのよい嚥下音に僕は言葉を失った。
「……ほんとうに、効くのか?」
「どう、だろうね」
「ふぅん。それなら死ぬまでの間、山田の話を聞かせてくれよ」
「やだよ。恥ずかしい」
「フェアじゃないだろ。被害者だって加害者のことを知る権利がある」
とんだベットサイドストーリーだ。
冬のベンチに座って僕は自分の話を淡々とした。
べつになにも面白い話じゃない。
初恋の話とか朝に川を眺める趣味を持っていることとか、そういう他愛のない話だ。
僕の話に相槌をうっていた伽藍はだんだんと頷く速度が遅くなっていった。
「ああ、すまない。なんだか酷く眠くてて……」
「寝ていいよ。僕の上着を貸してあげるから」
「ありがとう……山田、アイス、おいしかった……」
それが彼女の最後の言葉だった。
「おやすみなさい」
彼女の顔の前で手を何度もゆする。静かな寝息を感じることができたが、起きている気配は一切しなかった。
さて、眠くなるのは当たり前だ。
僕が彼女に渡したのはハルシオン。
つまりは睡眠薬だ。
まずはじめに断っておくとこの薬は医者の処方箋がないと手に入らないし、手に入ったとしても他人に譲渡したら違法だ。
つまり今日僕は犯罪者になった。
「まあ、殺人よりは軽いからいいか」
「罪に重いも軽いもないよ」
ドーム状の滑り台の影からひょっこり現れた部長は寒さに肩をすくませながらベンチに座る僕の前に立った。
「まあ悪いことしても気にしないで無視しちゃえばいいんだけどね」
「聖職者の言葉とはとは思えない」
「現代社会をうまくいきるコツさ。さて、女史の悪魔を祓えばいいんだろ?」
「よろしくお願いします」
「かわいい後輩の頼みは断れないな」
不眠治療中の部長は眠そうにあくびを噛み殺した。
部長は羽織っていたコートを脱ぎ、ベンチにかけた。
街灯に照らされた部長は巫女服を着ていた。この格好を見るのは随分久しぶりである。
「エロい視線を送るのはやめてくれ」
「べつに送ってませんよ」
「お断りだからね」
「だから送ってませんって」
部長の実家は神社だ。
桜観神社の一人娘として、将来神主になりたいらしい。僕はよく知らないけど、陰ながら応援している。
「それにしても今日は冷えるね。凍えてしまいそうだ」
部長は冷めた視線をベンチで眠る伽藍に送った。
「そうですね。もう冬ですから」
「てりゃあ!」
「血も涙もない……」
お神酒をぶっかける。
なんてエキセントリックなお祓い風景だ。
「どりゃあー!」
紙がついた棒でバサバサと伽藍を叩く部長。あの棒は、大麻とかいてオオヌサと読むらしい。トリップしてるのは確かだが。
「うう……」
安らかな寝息をたてていた伽藍が呻いた。起きたらどうする。
「風情もなにもありませんね」
「当たり前だろ。お祓いなんてしてないんだから」
「え?」
「彼女にはなんにも憑いていない。せっかく祝詞の練習してきたのに」
「あー、まー、かもしれないな、とは思ってましたけど」
「思春期特有の軽いパラノイアだよ。いや虐待を受けた子どもの過覚醒症候群かもしれないね」
「虐待、ですか? 伽藍は別に虐待を受けてはないと思いますけど」
「呆れたね。指を切り落としたの自分自身だなんて本気で信じているのかい?」
「は?」
「例えば私が自分の指を切り落とすなら、左手の方にするよ。私は右利きだからね」
「そんなバカな!」
「なにがあったのか知らないけど、いまはネグレクトの時期に入ったらしいね。まあそういうのはカウンセラーの仕事だからご勝手に、って感じだが」
「部長でも、なんとか、できませんか?」
「私でできるのは分析だけだよ。診断なんて大それたことできない。わかるのは彼女は悪魔じゃなくて病憑きだということ。……いやいや、そんな大それたもんじゃあない。厨二病だ。迷惑極まりないよ」
「そんな言い方しないでくださいよ」
「犬か猫なら犬派なんだ」
「なにか理由があるのかもしれません」
「私には関係ないね。気になるなら自分で聞きなよ」
バサバサ降っていたオオヌサをしまいながら部長はその場で静かに一礼した。
「一応祓っといたよ。カタチだけね」
転がる落ち葉が北風に舞う。
空にはオリオン座がくっきり見えた。星が綺麗な静かな夜だ。
「それより部長、なんで犬の死体は一瞬で消えたかわかりますか」
「知らない」
「そうですか……」
「憶測でよければいくつかあるけど」
「たとえばなんですか?」
「伽藍女史は犬の死体を予めビニールの袋に入れておいてその上からスコップを叩きつけていた」
「いくら僕でもそれだったら見逃しませんよ」
「ほんとうにそう?」
部長は鼻で笑った。
「グロテスクなもの注視できるほど君の心臓は強くないだろうし、明け方で暗かっただろうからね」
「そういわれればたしかにスコップは血に汚れていなかった気がします」
「後処理のしやすさを考えて透明なビニールに死体はいれてたのなら全部が解決する。犬はもとから死にかけてたみたいだし、抵抗も無さそうだからね」
「……」
「君がきびすを返すと同時にビニールの死体を川の茂みに向かって投げたんだ」
「そんなまさか」
「それから間抜けな目撃者にドロップキックを食らわせた。これなら納得がいくだろ。ともかくこの一件に霊や怪異は一切絡んでいないよ」
部長はため息混じりに天を仰いだ。
「年三万人の自殺者のほとんどが男性だ。十代女性のリストカット率は高くても、自殺率は著しく低い。ようはかまってちゃんさ。死ぬ死ぬ詐欺だよ。一つ忠告しておこう。メンヘラの相手をしてると深みにはまるぞ」
「まだ子どもなだけですよ」
「損な性分だなぁ。依存されないように気を付けなさいよ」
「肝に銘じます」
「私は帰るからあとはテキトウにやってくれ」
部長は半ば早口でそう言うとベンチにかけてたコートを再び羽織り、
「はあ。寒い」
と白い息をはいて去っていってしまった。