第1話 剣と魔法の世界
――転生してから一ヶ月くらいが経っただろうか?
視界がボヤけて使いものにならなかった目は、この一ヶ月の間に発達したのか、徐々に見えるようになってきた。
今までは会話を聞くことでしか情報を得ることができなかった。しかし、視覚からも情報を得ることができるようになったので、これからはより効率よく情報収集が可能になるだろう。
とはいえ、会話を聞くだけでも僅かながら収穫はあった。
この家には、家族以外に使用人が十数名ほど居ることが、日頃の会話から判明した。
実に渋みのある、ダンディでいい声の持ち主、ゲーアハルトもその一人だ。彼はこの家で執事を務めているらしい。
助産師だと思っていたイルマも、この家の使用人だった。彼女は女性使用人達を取り仕切る立場にあるようだ。
どうやら俺が転生した家は、使用人を雇えるほど裕福であるらしい。
◇◆◇◆◇
さらに一ヶ月が経過した。生後一ヶ月くらいから徐々に見えるようになってきた目は、今ではハッキリと見える。
初めて家族の顔をしっかりと見たときのことは、よく覚えている。
俺の父親ベルノルトは、金髪碧眼のイケメンで、身長は180cmを超えており、身体つきは鍛えているのかガッチリとしている。
母親のエルナは、軽くウェーブのかかった栗色の長髪に、琥珀色の瞳の美女で、こちらも背が高く、170cmくらいだろうか。そして何より巨乳だ。
そして何より二人とも若い。まだ二十台前半のように思える。
長男のレオンハルト(愛称レオ)と次男のアルフレート(愛称アル)は、ベルノルトの特徴を受け継いでいる。レオンハルトが八歳くらいで、アルフレートが四歳くらいだ。
皆あきらかに日本人の顔立ちではない。当然、使用人達もだ。とはいえ、名前からして日本人ではないことは分かっていた。
初めは外国に転生したのかと思ったが、会話は日常的に日本語を使っているし、とても流暢な日本語だ。
では、ここは日本なのだろうか?
情報が不足していて判断ができないので、保留にしている。
彼らが着ている服装も妙といえば妙だ。
よくゲームなんかで見るような中世ヨーロッパ的な服装である。家族や使用人達全員でコスプレ? いや……そんな訳ないだろう。
家のほうも同じような感じだ。
最近、母親のエルナは俺を抱っこして家の中や庭を散歩することが多くなってきた。
その際じっくりと見たのだが、この家は庭も含めて広い。屋敷と言ってもいいだろう。だが外観や内装などは中世ヨーロッパの貴族の屋敷みたいだった。
それに電気などはない。明かりはロウソクやランタンを使用しているのを見た。
まるで過去にタイムスリップしたような感覚だ……。
――だがそれよりも今、俺は重要かつ緊急に処理しなければならない事態に陥っている。しかし、赤ん坊の俺ではその事態を処理することができない。
だから俺は――。
「――オギャー、オギャー」
いつものように泣き声を上げる。
「――リヒトちょっと待っててね。今新しいおしめに取り替えるから」
重要かつ緊急に処理しなければならない事態……みなまで言わずとも分かるだろう。まあ、そういうことだ。
それに『泣き声を上げる』といっても、俺自身の意志で泣き声を上げている訳ではない。『空腹を感じる』、『尿や便を排泄をする』などして不快感を感じると、勝手に泣き声を上げるのだ。
泣き止もうと努力するも、あふれ出る不快感を止められず、泣き止むまで泣き続ける。
どうやら泣くことは、生理的な現象のようなもので、止めることはできないらしい。
今は赤ん坊でも転生前は二十六歳の大人だった俺からしてみれば、自身が漏らした排泄物を他人に処理してもらうというのは、とても恥ずかしい。
これはある意味拷問だ。精神的にかなりキツイ……。
「はい、これでいいわよ」
エルナは俺のお尻をキレイに拭いてから、天花粉のようなものを塗布し、新しいおしめに取り替えた。
おしめのことについては、赤ん坊なんだから仕方がないと頭では理解しているが、気持ち的には納得できないものがある。
まあしかし、汚れたおしめを取り替えてもらったんだから、ここは感謝の意を表する。
「あーう」
今のは「ありがとう」と言ったつもりだ。
まだ言葉にして話すことはできないが、「あー」とか「うー」とかそういう声を出すことくらいならできる。
(ああ……早くおしめがとれるようになりたい)
そう切に願う――。
◇◆◇
次の日――といっても、もう太陽が沈み始め、藍色の空が徐々に広がっている。
俺はというと、ベビーベッドで寝ながら窓の外をぼーっと眺めていた。
窓の外を眺めているといっても、窓は小さいし、このベビーベッドの位置的にそれほど外の様子が見える訳でも無い。
(そういえば、この時間に外に出たことがないな)
エルナに抱っこされて、家の中や庭を散歩することはあるが、それは日中のことし、時間にして三十分くらいだ。
俺は情報収集を日中に行って、夜は睡眠をとっている。それは生活リズムの関係もあるが、日中のほうが人がいて、会話や光景などから情報を得やすいからだ。
しかし最近、新しい情報をあまり得られないようになってきた。今日も抱っこされて散歩をしたが、新しい情報は得られなかった。
まあほとんどの時間、この部屋のベビーベッドの中で過ごしているので、情報を得る機会が少ないというのが一番の原因だろう。
また、会話の内容に聞きなれない単語(たぶん固有名詞と思われる)も多くあるため、会話の内容が理解できない時もある。
せめてハイハイができるようになるまで待ってから、情報収集するべきだろうか?
いや、今は現状把握が最優先だ。
ならばここは発想の転換だ。日中に情報を得られなくなってきたのなら、夜に情報収集すればいいじゃない。
何か新たな発見があるかもしれない。
だけど俺は生後二ヶ月の赤ん坊だ。まだハイハイすらできない。しかし外へ出るための作戦はある。
その時――タイミングがいいことに、エルナが俺の様子を見るために部屋に入ってきた。
俺はすぐに作戦を実行する。
「あーあー!」
俺は視線と身体を窓に向けながら、腕を動かして「外に行きたい」と訴える。
これで分かってくれなくても、分かるまでグズればいい。
「リヒトどうしたの? お外に行きたいの?」
さすが母親だ。俺の行動の意図をすぐに理解した。
これがベルノルトだったら分からなかっただろう。何だかそんな気がする……。
「今日はもうお散歩したし、暗くなってきたからまた明日ね」
エルナはそう言って俺をあやそうとする。
しかし、それではダメだ。
「あーあー! あーあー!」
さらに大きな声を上げ、身体を活発に動かして必死に訴えかける。
「……もう、仕方がないわね。少しの間だけよ?」
作戦は成功した。
俺はエルナに抱っこされながら部屋を出る。
外へ行く途中、女性使用人の長であるイルマに「少し庭を散歩してくるわ」と伝えてから庭へ向かう。
イルマはエルナの後ろに付き従っている。これは何時ものことだ。エルナが俺を抱っこして散歩に行くときは、必ず付き従うのだ。
それにしても――。
(やっぱりこの屋敷……デカイッ!)
何度見てもこの屋敷の広さに驚かされる。
日本で同じ規模の屋敷を建てるとしたら、いったい幾らくらいするのだろうか? 十億円はするだろう。
そんなことを考えていたら、いつの間にか玄関ホールに到着していた。イルマが玄関の扉を開けて恭しく一礼をしている。
◆
玄関を出て空を見ると、まだ完全には暗くはなっていなかったが、それでも空には星々が爛々と輝いていた。これほどの星空は前世でも見たことがない。
それに、空に浮かぶ二つの月がとても美しかった。青く輝く月にその三分の二くらいの赤く輝く月が、寄り添うように並んでいる――。
(………………って、え? あれ? 月が……二つ!?)
おかしい……月は一つのはずだ。目がおかしくなったのかな?
俺はごしごしと目を擦ってからもう一度見てみる。しかし、その光景は変わらなかった。
(ああ……そうか。ここは地球じゃないのか……)
俺が転生した世界は地球ではなく異世界だった……。今日その事実にようやく気が付いた。
いや――本当はもっと早い段階で気が付いていた。けれども、その事実を認めたくなくて、無意識の内に考えないようにしてきたのだろう。
ただでさえ、前世の記憶を持ったまま転生するという事態が起きて、俺の許容範囲はギリギリだったのだ。
そのうえ、ここは異世界だったなんて、それこそ俺の許容範囲が確実にオーバーする。
例えば『異世界があったらいいな』と考えた人は多いと思う。実は俺もその一人だ。
しかし、実際に異世界に『転移』あるいは『転生』したとして、その現実を信じられる人はどのくらい居るのだろうか。
俺は今日、目の前の光景を見るまで信じることができなかった。
(はははっ……。前世の記憶を持ったまま異世界に転生したってか……。本当に漫画や小説みたいだな)
本当に頭がおかしくなりそうだ。
だから俺は――開き直って全て許容することにした。
(転生? 異世界? オーケー、オーケー。 もう何でもど~んと来いやっ!)
◆
「――お、どうしたエルナ? それにリヒトも一緒なのか?」
二つの月をじっと見ていたら、誰かに声を掛けられた。
俺はビクッとして声がした方に顔を向けると、皮製の鞘に収められた大剣を肩に担いだベルノルトがいた。
「もう、リヒトがビックリするから、いきなり声を掛けないでよ」
「ははっ、わるいわるい。で、どうしたんだ?」
「散歩よ。リヒトが外に行きたいって」
「そうか……ってまさか自分で意思表示したのか?」
「意思表示というか、身体を窓の外を向けながら声を上げて、腕を動かしていたのよ」
「それだけなら別に外に行きたいとは限らないだろ? このくらいになると一人遊びが増えてくるんだから」
「そこは“母親の感”と言って欲しいわね。でもまあ、それだけじゃ無いんだけど……」
「何かあるのか?」
「『また明日ね』って言ったら、大きな声を上げてグズリ始めたのよ」
「おいおい……まさか、言葉の意味を理解しているのか?」
「それこそまさかよ。生後二ヶ月くらいになると、声の判別くらいはできるようになるらしいけど、さすがに言葉の意味を理解するなんて無理よ」
「まあ、そうだよな……」
しまった……やり過ぎただろうか。
あの時は、外に出たい一身でああしたが、生後二ヶ月の赤ん坊にしては不自然な行動だったような気がする。
……まあ、やってしまったものは仕方がない。
それよりも――。
(大きな剣だな……あんなもの本当に振り回せるのか?)
柄から切先までの長さは、ベルノルトの身長より少し小さいくらいだ。それに剣の幅も広い。
普通は重くて、あんな大剣持てない筈だが、ベルノルトは軽々と持っているように思える。
「あなたは庭で、剣の鍛練をしていたの?」
「ああ、久し振りにしたが、昔と比べるとかなり鈍ったかな」
「それはそうよ」
「まあ、下の剣はまだまだ現役だけどな。はっはっはっ!」
「……………」
「じょ、冗談だ……」
……そういう下ネタは、子供の前で言わないほうがいいと思う。
「――そっ、それよりも、丁度よかった。剣の鍛練が終わったら、エルナを呼びに行こうと思ってたんだ」
「私を?」
「ああ、今日は『双子月』が綺麗だからな。外で久し振りに一杯どうだ?」
ベルノルトはクイッと酒を飲むジェスチャーをする。
「ふふっ、ええ、いいわよ。リヒトも落ち着いたみたいだし」
俺は落ち着いたのではない、呆然としているのだ。
「――それじゃあ、ちょっとリヒトを部屋に寝かしつけてくるわ」
「いや、リヒトも一緒でいいだろう。それにレオとアルも呼ぼう。たまにはそういうのも良いだろ?」
「――ええ、そうね」
「そうと決まれば――ゲーアハルト」
「はっ、ここに」
執事のゲーアハルトがいきなり現れた。一体何処から現れたというのか!?
「聞いての通りだ。準備をしてくれ」
「かしこまりました」
どうやら、近くに控えていたらしい。全然気が付かなかった……。
そしてゲーアハルトは、スーッと闇にまぎれるように消えた。
(…………さ、さすが執事。マジパネェっす)
暫くすると、庭に屋外用のテーブルと人数分のイスが設置された。テーブルの上には酒と肴、そして子供用のジュースが用意されている。
俺はというと、背の高い台の上にのせた籠の中で寝かされている。ご丁寧に籠が落ちないように台にしっかりと固定してあった。
ゲーアハルトとイルマは少し離れた所に控えている。
「よし、後は――」
ベルノルトは、いつの間にか大きめのランタンを持っていた。
それをテーブルの中央に置き、人差し指をランタンに向けると――。
「《小さき火を灯すべし》」
変な言葉を唱えた。
するとベルノルトの指先から小さな火の玉が飛び出して、それがランタンの中に入り、ボッという音と共に火がついた。
(え……? 今のまさか魔法!?)
本日二度目の衝撃である。
手品じゃないかと一瞬疑ったが、ここは異世界なのだ。魔法があったって不思議ではないだろう。
それよりも、前世の常識は綺麗さっぱり忘れたほうがいいのかもしれない。
「いいなー父様は魔法が使えて。僕も使えるようになりたいです」
「ぼくもなりたい!」
二人の兄は羨望の眼差しで父親を見ている。
正直、俺も魔法が使えるようになってみたい。だって魔法なのだ。誰もが一度は使ってみたいと夢みるだろう。
「おう、頑張れ。俺はこれしか使えないけどな」
それしか使えないのかよっ!? と盛大にツッコミたい衝動に駆られる。
俺が立って走れるのなら、ベルノルトにドロップキックをお見舞いしていただろう。
「使えるだけでもすごいわよ。大半の人間は魔法は使えないもの」
どうやらこの世界には魔法は存在するが、使える人間は少ないらしい。
それにしても――。
(魔法か……)
何だかワクワクしてきた。
俺に魔法が使えるかどうかはまだ分からない。それでも――魔法使いを目指してみるのも悪くないかもしれない。
「よしっ! そろそろ始めるか」
そして家族の団欒は夜遅くまで続いた――。