序章 どうやら俺は前世の記憶を持ったまま転生したようだ
俺――天川光、二十六歳独身は今、自分の身に起きている現象が理解できなかった。
ドンッという音と共に強い衝撃を受けたと思ったら、身体が宙に浮いており、周囲の動きがまるでスローモーション映像のように見える。
地面が徐々に近付いている。たぶん落下しているのだろう。
訳がわからない。俺の身に一体何が起きてるんだ……。
そして少しの間、スローモーション現象を体験していると、身体が地面に接触する。
次の瞬間、再び強い衝撃を受けた。何度も何度も転がり、気づいたら仰向けに倒れていた。
しかし痛みはまったく感じられない。
すると、どこからか悲鳴が上がり周りが騒然となる。
俺は身体を動かそうとしたが力がまったく入らなかった……。
何故か声が出せない。それに頭がクラクラし、視界がボヤけてくる……。
それでも何とか周りの状況を見ようとして目だけ動かしてみると、歩道に乗り上げて街路樹に衝突している車が視界に映り込んだ。
ようやく俺は自分の身に起きたことを理解する事ができた。
(あぁ……俺は車に轢かれたのか)
人は生命の危機に陥った時に、周囲の動きがスローモーションのように見えるというが、あれがそうなのだろうか?
ただ、スローモーションに見えるのは脳の誤作動が原因らしい。
命を守るため、脳がそれ以外の機能を低下させることで、目から入った情報をコマ送りのような映像でしか処理できなくなり、スローモーションのように錯覚するだけなんだとか……。
(確か……タキサイキア現象だったか?)
……どうでもいい無駄な知識である。こんな無駄なことを考えている状況ではない。
意識が徐々に薄れていき、喉に何かが詰まったかのように呼吸がしづらくなった。
ドクン、ドクンと心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。
このまま意識を手放したらどうなるのだろうか?
(そしたら、俺は死ぬかも知れないな……)
しかし、死ぬことに対してあまり恐怖を感じなかった。
別に死にたいというわけではない。
こんな所で死ぬのは嫌だし、遣り残したことが多くあるで、もっと生きていたいというのが正直な気持ちだ。
それでも俺は、不思議なほど落ち着いていた。
これには自分でも驚いているところだ。
目を開いているのも辛くなってきたので、ゆっくりと瞼を閉じる。
すると、これまでの人生が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
中には自分が忘れていた出来事もあり、何だか懐かしい気持ちになる。
暫くの間、思い出に浸っていたが、どうやら限界が来たみたいだ。
心臓が止まったのだろうか?鼓動が聞こえない……。
喉が詰まったのだろうか?呼吸が出来ない……。
もう、何も聞こえない……。
もう、何も感じない……。
そして――俺の意識は完全に途絶えた……。
◇◆◇◆◇◆◇
――最初に感じたのは浮遊感だった。
それは、水の中で力を抜き、ただプカプカと浮かんでいるような感じだ。
とても心地良く、そして温かい。
この温かい感じは何だろうか。まるで、身体を包み込むように抱かれているみたいだ。
真っ暗で何も見えないが、何だか安心感を覚える。
それから、どのくらい時間が経ったのだろうか。
一日? 一週間? 一カ月?
ずっと夢現のような状態だったため、意識がハッキリとせず、時間の感覚が曖昧だったが、突然、光が射したかのように眩しさを感じた。
それに伴い、徐々に意識が覚醒していく――。
「――オギャー、オギャー」
何やら赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。間近で泣いているのだろうか? 頭に泣き声が響く。
(…………って、あれ? 泣いているのは……俺?)
間近で赤ん坊が泣いているというより、俺自身が泣いているような……。
……たぶん気のせいだろう。
どうやら俺は目を閉じているようなので、状況を確認するため、目を開けようとした。しかし、ほとんど力が入らず、ほんの僅か目を開けるので精一杯だった。
それでも、僅かに開いた目で何とか見ようとするが、視界がボヤけていて、さほど見えていないのと変わらない。
まあ、視界はボヤけているが、一応見えているので、目が見えないということはないだろう。
仕方がないので、次に身体の方を動かしてみる。こちらもほとんど力が入らなかったが、なんとか動くことは確認できた。ちゃんと両手両足があり、その指先に至るまで感覚がある。
俺は交通事故に遭った時のことを、しっかりと憶えている。
それにしても、よく生きていたなって思う。
生きているなら、最悪、事故による全身不随や四肢の欠損などを覚悟したが、その心配は要らないようだ。
しかし、身体に少し……いや、かなり違和感を感じる。
(…………何か、身体が縮んでないか?)
もう一度、恐る恐る身体を動かしてみる。
すると、俺の身体があきらかに縮んでいることが分かった。感覚的に半分以下の長さだろうか……。
(ちょっ!? 待て待て待て待てっ! ちょーーーと待てっ!!)
頭が混乱する。何が何だか解らない。
(まさかっ! さっきの赤ん坊の泣き声は、本当に俺なのかっ!?)
状況的に、もはや疑いようが無かった。
赤ん坊のように泣いている自分に、縮んだ身体。これだけ状況証拠が揃っていれば、バカでも理解できるだろう。
俺は赤ん坊になっているようだ――。
すでに赤ん坊――俺は、泣き止んでいたが、そんなことはどうでも良い。
一体全体どうなっているんだっ!? と大声で叫びたい。叫びたいが、喋ることができず言葉がうまく出てこない。
どうしてこうなったのだろうと考えていると、脳裏に“転生”という言葉が浮かんだ。
そんな馬鹿な!? まして前世の記憶を持ったまま産まれてくるなんて、漫画や小説じゃないんだし、そんなことは起こるはずがない。
しかし、転生以外にこの状況を説明することは、俺にはできない。
(ははは……そうだ、これは夢だ。そうに違いない)
そう現実逃避をしていると――。
「よく頑張ったな」
「奥様、元気な男の子でございます」
知らない声が聞こえてきた。声からして最初の声が男性で、その次が女性だろうか。
俺は少しでも情報を得ようと聞き耳を立てる。
「ハァ……ハァ……。よく、顔を見せて」
先ほどとは違う女性の声だ。かなり疲労している感じがする。
会話からして、この女性が俺を産んだ人――つまり母親なのだろう。とすれば、男性が父親で、もう一人の女性は助産師か何かだと思う。
そこで初めて気が付いたが、俺は毛布のようなもので包まれ、抱っこされているようだ。
「ふふっ、やっぱり可愛い」
「そうだな。目元や口元、それに髪の色なんかは、エルナにそっくりだ。なあ、イルマ、お前もそう思うだろ?」
「はい、旦那様のおっしゃるとおり、奥様にとてもよく似ておいでですよ」
どうやら俺は母親似のようだ。
それに、母親の名前は“エルナ”、助産師だと思われる女性の名前は“イルマ”と言うらしい。
外国人なのだろうか? それにしては日本語がとても流暢である。
「あら、そうかしら? なら、あなたは残念なんじゃない? 上の子二人は男の子であなた似だったから、今度こそ私に似た女の子が欲しいって言って、意気込んでいたわよね」
「確かにそう言ったけどな。だが俺たちの子供だ、元気に産まれて来てくれるなら、男の子でも女の子でも良いさ」
俺には兄が二人いるらしい。つまり、俺は三男ということになる。
「でも、無駄になっちゃったわね」
「ん? 何が?」
「あなたが考えた女の子の名前を、隙間無くびっしりと書いた何十枚もの紙の束」
「なっ!? 何で知っているんだっ!? あれは引き出しの奥に隠していたのに!?」
慌てふためく父親。
(そんなもの用意していたのか。どんだけ女の子が欲しかったんだよ……)
というか、今は産まれてくる前に性別は判るはずだ。医師に聴かなかったのだろうか?
「よくもまあ、あれだけの名前を思いつくものだわ。…………昔の女“達”の名前かしらね?」
「いっ、いや、そんなことないぞっ!」
「………………」
「さ、三十人……」
「………………」
「いえ……五十人ほど名前が入っております……」
「……まあ、それは追々追求していくことにしましょう」
「お、お手柔らかにお願いします……」
威厳ないな、おい。
それにしてもこの父親、かなりの女たらしのようだ。
「それで、この子の名前は?」
「えっ…………?」
「……当然、考えてあるんでしょ?」
「あっ、ああ、勿論だとも。この子の名前は……」
「名前は?」
「名前は……………リ……リヒト……。そう! リヒトだっ!」
何だその“今考えました”的なノリは……。
女の子の名前を考えることに集中し過ぎて、男の子の名前を考えていなかったのか……。
「リヒト……いい名前ね」
どうやら母親は、その名前を気に入ったようだ。
「いい名前だろ?」
開き直ったのだろうか? 何だか得意げな父親。コイツ、今絶対ドヤ顔をしていると思う。
それにしても“リヒト”か……。リヒトはドイツ語で“光”を意味する。前世の名前が天川光だった俺には、ある意味ピッタリな名前だ。
そんな事を考えていると――ギィとドアが開いたような音がした。
「かあさま~」
「あっ! こらアル、母様はお疲れなんだから、休ませてあげないと」
二人分の幼い声と共に、パタパタと駆け寄って来る足音が聞こえる。
どうやら、この二人の幼い声の持ち主は、俺の兄達らしい。
「ふふっ、別にいいのよレオ。それで、どうしたのアル?」
「ゲーアが、ぼくたちのおとうとがうまれたっておしえてくれたので、みにきました」
「そう、それじゃあ、二人に紹介するわね。あなた達の弟、リヒトよ。可愛いでしょ」
「はい、とても可愛いです。アルもそう思うよね?」
「う~ん。なんか、おサルさんみたい」
(……何だと、このガキ! もういっぺん言ってみろ! 泣かすぞ、コラッ!)
とはいえ、今の状態ではどうすることもできない……。
……まあいいだろう、いつか今の発言を後悔させてやる。
そう静かに怒りを燃やしていると――。
「ほう、リヒト様ですか。良いお名前です」
父親とは違う、男性の声がした。実に渋みのある、ダンディでいい声だ。
「ベルノルト様は、女の子のお名前を考えるのに夢中なようで、男の子のお名前は、お考えでないご様子だったため、とても心配しておりました」
「い、いやっ! ちゃんと考えていたからなっ!」
自分の子供達の前で、嘘をつくな嘘を……。
「しかし……無駄になってしまわれましたね」
「……ゲーアハルト、お前までそれを言うか」
拗ねる父親。まるで子供みたいだ。まあ、俺はそういう人、嫌いじゃないけどな。
「……四人目こそは――」
…………父親のそんな呟きを聞いたような気がした。
もしかしたら、四人目ができるのは時間の問題なのかもしれない……。
――と、そんなことよりも、いい加減この現実を認めよう。
どうやら俺は前世の記憶を持ったまま転生したようだ……。
執筆速度は遅めですが、頑張って完結を目指したいと思います。