2:大家と店子・2
「サチー」
高校の授業が終わり、慌てて帰宅しようと教室を出たところで友人のメグに呼び止められる。
「今日カラオケ行かない?」
「あー。ごめん。今日新入りさんが来たから早く帰らないといけないんだ」
サチの実家がシェアハウスを営んでいると知っているメグは残念そうな顔をするけれど、引き止めても無理だと理解している。
「そっかー。じゃあ落ち着いたら行こうね。ハルに頼んで森くんも誘ってるからさ」
「え? あ。うん。ありがとう」
それだけ言うと、サチは大急ぎで教室を出る。
森くんという単語を聞いただけで顔が赤くなりそうになり、からかわれるのが嫌だったからだ。
メグの彼氏であるハルくんと森くんは同じ部活で仲が良い。
部活といっても本格的に大会を狙っているようなものではなく、ゆるーい感じなので放課後に部活を休んで出かける事がある。
出かけるといっても所詮は高校生。
お財布事情も厳しく、ファーストフードやカラオケが多い。
シェアハウスの経営をしているものの、サチが普段自由に使えるお金は海外居住中の両親からのお小遣いで、一般的な高校生のお小遣いの額と大差ない。
まだ祖母が元気で下宿を名乗っている頃からサチは祖母と暮らし、祖母が他界した後も学校を変わるのが嫌だからという理由で一人暮らし? をしている。
シャアハウスの家賃収入などは全て親が管理しており、土地や建物の固定資産税なども両親が全て支払っている。
雇われ管理人とサチは皮肉交じりに言うが、それは事実を実に客観的に把握している。
しかし対外的には『大家』を貫き通している。
対外的にというのは、シェアハウスの店子たちに対してだ。
年齢の若さ、というよりは幼さと言っても過言ではない管理人を舐める輩は一人や二人ではない。
出来うる限り店子たちに対しては感情を押し殺し、必要最低限の接触に留めるようにしている。
そうする事によって、店子たちがサチに対して侮った態度を取る事が減る事に気がついたからだ。
祖母が『大家』だった頃には店子と気軽に遊んだりもしたが、祖母亡き現在はそういった事は一切避けている。
気を許せば、戸籍欲しさに卑劣な手に出ようとする者もいなくは無い。
そういう現実を、サチは16にして既に知っていた。
「ただいまー」
ガラガラと所謂日本家屋の引き戸を開けて、誰が答えなくても癖になっている言葉を口にする。
大体返事が帰って来ることは無いので、そのまま土間を抜けて廊下を左へと歩いていく。
一階にある一号室と二号室の前を通り抜け、増築した離れへと向かう。
そこは祖母と暮らした場所であり、かつての祖母の私室だった仏壇を置いた和室とサチの洋室の二室。それから洗面やトイレ、お風呂がある。
離れの入口の扉と自室の扉には鍵が付いているが、サチがそれを閉めることは無い。
祖母から「いつお客さんが来ても気がつけるように」と言われていたからだ。
ポンっと鞄をベッドに投げ捨て、制服のジャケットを脱ぐ。
今日はニーハイの絶対領域がどうこうと言い募る変態が部屋に入ってくる事は無さそうだ。
気配が無い事を確認してから私服に着替え、母屋のリビングへと向かう。
1号室の前を通った時にルイの気配が無かったから、恐らくルイは自室ではなくリビングにいるのだろう。
母屋の廊下を真っ直ぐ歩いていくと、突き当たりがリビングだ。
話し声が聞こえているので、そこにいるのは間違いないだろう。
台所に入り冷蔵庫を開けると、サチの帰宅に気がついたルイが台所へとやってくる。
「おかえり、大家」
「ただいま」
ルイもおっさんも、些細なものでも挨拶を欠かさない。
おっさん曰く、挨拶は全ての始まりなのだそうだ。
冷蔵庫の麦茶を取る事に意識を取られておざなりな挨拶をしたサチの様子が気に入らなかったルイは、冷蔵庫を覗き込んだままのサチを背後からぎゅーっと抱きしめる。
「ちょっと」
非難の声を上げたサチに、ルイは耳元で囁くように問いかける。
「人に挨拶をする時は?」
耳をくすぐる吐息にぞくりとサチの肌が粟立つのを、ルイは楽しげに眺める。
「ちゃんと顔を見る」
「じゃあちゃんと余の顔を見て挨拶しろ」
腕の力を緩めるものの、腕の中からは逃さないという意思を明確にサチを囲い込んだルイをサチが見上げる。
その頬が赤らんでいることに本人は気がついていない。
「ただいま」
「おかえり。大家」
その挨拶に満足したのか、ルイは腕の中からサチを解放する。
冷蔵庫の食材を一通り確認した後、サチがルイに振り返る。
「で、どうするって?」
「何故それを余が答えなくてはならないんだ? それは大家の仕事だろ」
「そうなんだけれど、ルイがバイト行く前に買い物したいから」
「適当に話を混ぜるな。夕食の買い物ならおっさんが帰ってきた後でも間に合うだろ。自分の責任は自分で果たせ」
そう言うとルイは冷蔵庫から三連プリンの一つを取り出し、台所を出て行く。
ふいに台所の時計を見上げると、3時半。
おやつの時間か……とサチは心の中で呟いた。
台所の廊下へ続くほうの扉から出て行ったから、ルイは部屋でプリンを食べてそのままバイトに行くつもりなんだろう。
ふっと溜息を吐き出してから、お盆の上に冷蔵庫から取り出した麦茶の入ったポットとコップを3つ乗せ、リビングへとの境にある暖簾をくぐる。
朝と変わらぬ服装のまま、今のところは客の二人がそこにいる。
相変わらず女性のほうは顔を上げる気配は無い。
「朝はバタバタしていたので、きちんとした説明が足りずすみません」
二人の前に麦茶を入れたコップを置いてから、自分専用の椅子へと腰掛ける。
この椅子にはご丁寧にも手先の器用なおっさんが作った愛らしいクッションが置かれている。
普段はクッションを抱えて座ることのほうが多いが、今は大家然とした対応をする為、クッションを背に座る。
「お二人はどのような経緯でこちらへ?」
話が長くなる可能性があって朝は敢えて触れなかった一番重要な話を、目の前のカップルへと問いかける。
大体ここに来るのはワケありの異世界人だけだ。
本来の自分の世界である『向こう』には帰れない事情を抱える者もいる。一時的に『こちら』に避難してきただけの者もいる。
それを見極めるのも『大家』に必要なことだと祖母から言われている。
あくまでも一時的な避難所を提供しているだけなのだという事を、最初に明言しておきなさいと祖母は何度も言っていた。
下宿の『大家』には、他人の人生そのものを抱え込むのは無理なのだと。
あくまでも『大家』と『店子』であるという事を、互いに忘れてはならないと。
褐色の肌の青年の態度は朝よりかは軟化しており、サチの出した麦茶にも抵抗を見せずにゆっくりとした動作で口元へと運ぶ。
その動作の全てが、青年が上流の人間だとわかるものだ。
子供の頃から何人もの店子を見てきたサチは所作を見れば理解出来る。目の前の相手がどの程度の人間なのかを。
粗野な者がどんなに取り繕っても、積み上げられてきた所作の美しさは体現することは不可能だ。またきちんと躾けられて育った者が意図的に無作法に振舞ったところで、良く見ればそれが演技だという事もわかる。
目の前にいる青年は口数こそは少ないが、態度や服装や雰囲気から上流の人間である事は十二分に伺い知れる。
「わたしは……」
コップから顔を上げて青年が口を開いたが、それだけ言うとまた口を噤んでしまう。
言いにくい事があるのかもしれない。
こういう場合は言いたくなるのを待つのが定石だ。
サチは自分の麦茶を飲み、喉を潤す。
さっきルイにプリン一個貰えば良かったかなと、麦茶を飲んでも収まらない若干の空腹感に思う。
「軽くつまみませんか? お菓子取ってきます」
空腹感には勝てず、サチは自分用に買っておいたクッキーをお皿に盛り付けてダイニングテーブルの上に置いた。