十九話「疾走」
容赦なく降り注ぐ雨の中、守は全速力でアスファルトの道を駆けていた。
その背中には氷のように冷え切った一人の少女を抱えて。
首筋に優しくあたる背中に乗せた少女の息吹。その暖い・・・と、言うよりは『熱い』と感じてしまうほどの吐息とは別に、少女の体から伝わるのは凍り付くような冷たさだけだった。
少女の体はピクリとも動かず、ただただ苦しそうに息をしている。
「なぁ・・・守・・・」
突然少女が問いかけて来た。
その言葉には、いつものような凛とした力強さは無く、苦しそうに音を上げた鳥の鳴き声のような感じだ。
「はぁはぁ・・・なんだ?」
走りながらも息を上げつつ答える守。
「何故・・・私を心配するのだ・・・?」
「・・・心配だからだ。」
「頼んだ覚えは・・・無いぞ・・・」
「俺がしたいからしている。」
少女の問の答えになっていないことは自分でも理解している。しかし、必死に爆走している最中、都合の良く合理的な返答なんて頭に浮かぶはずもない。もちろん、本音を言えるわけでもない・・・。
少女は会話に少し間を置き、その後さらに小さく弱々しい声で喋りかけてきた。
「・・・私は・・・お前を殺すんだぞ・・・」
まるで自分と少女の関係を再度確認するような、そんな一言。
そんなことは始めから理解していた。とっくに承知の上だ。
だが、その人を好きになってしまったのだ。仕方がないだろう?
「・・・そうだな。」
「ならなんで・・・私を心配する?」
「嫌か?」
「・・・・・」
黙ってしまう少女。
それでも走ることを止めず、持てる力の全てを振り絞って両足を働かせる守。
僅かの間、守の荒々しい息と、地面を蹴り上げる水しぶきの音だけしか聞こえなくなった。
だが、それもつかの間であり、少女がまたも辛そうに、そして擦れた声で喉を振るわせる。
「守・・・何でお前は・・・笑っていられるんだ?」
「・・・?」
「なんで・・・私と笑って話せるんだ・・・?」
「そうしたいから。」
「・・・・・・今まで・・・・・・私と会話をしているときの人間で・・・・・・そんな顔をしていたのはお前くらいだ・・・・・・」
「そうか」
「・・・・・・私はお前を殺す。それは何をしたって変わる事は・・・・・・無い」
「わかってるよ」
「なら何故だ!」
突如、弱弱しかった少女の口から、今まで聞いたことのないような叫びともとれる言葉が飛び出てきた。
それに動揺するも、疾走する足の速度は衰えさせず、慌てて・・・
「好きだからだよ」
つい本音が飛び出てしまった。言い変えるならば勢いでだ。
こんなにも自然に言えたことが自分でも摩訶不思議である。
その数文字の言語を自分が放った瞬間に、焦って次の言葉を並べる。
「ランもレイナさんも加治の奴も俺は好きだ。だから心配になることも有るし、それに笑って話せる。」
嘘。単なる誤魔化し・・・・・・。
別に守はレイナのことや加治のことなんて微塵も考えてはいない。しかし、別に嫌いと言うわけでもない。
今まで他人と深く関わることを否定し続けていたのだから当然である。
だが、今背中にいる人物のことだけは本当だ。思えば、出会ったその日からこの少女のことを考えなかった日は無いだろう。
「・・・・・・・そうか」
それ以上少女は何も語らなかった。
またも守の息と疾走する足音だけが耳に入るようになる。
だが、ようやく後少しで家に到着すると言うところで、首筋にあたる吐息が先ほどよりも荒々しくなっていることに気が付いた。
「もうちょいだ。頑張れ。」
そう言い放った時、守の胸元でクロスされている少女の腕にギュッと力が入る。
彼女なりの反応であろう。
その弱々しくしがみついて来ている両手の上に、守は片手だけをそっと重ね合わせてやる。
「腹減ったろ?家についたら消化のいいもん作ってやるよ。」
少女の意識が失われないように声をかけ続けるようにする。
しかし、すでに言葉を話す力も残っていないのか、少女は首をほんの僅かばかり上下に動かしただけだった。
ここまで自分の家が遠く感じたことがあっただろうか?もっと早く、もっと疾くと気持ちだけが前のめりに先走りする。
「ぐ・・・・・・はぁ・・・はぁ・・・。明日はずっと寝てろよ?」
はき出す二酸化炭素が通常の五倍近くあるだろうか?体も休息を提供しろと脳に訴えている。
それでも喉を震わせ少女へと喋り続けた。
しかし、今回は返答の言葉もなく、そしてそれに対する動作も返って来なかった。
(くそ・・・)
言葉を口にすることを捨て、限界を迎えつつあるであろう二本足に意識を集中する。
ようやく見慣れた自分の家が視界に入り、わずかばかりの安息の息をはき出した。
ガタッ
片手で少女を支え、もう一本の片手で玄関のドアをこじ開ける。
全身ずぶ濡れだったが、今はそんなことを脳の引き出しから出し入れしている場合ではない。
両足を一足ずつブラブラと揺らし、靴を無造作に玄関へと脱ぎ捨てる。
その足で二階に位置する自分の部屋へと急ぎ、転倒しないように上がり込み、豹変した姿の見覚えのある二人が突然部屋に入って来たことにより目を見開いているレイナのことを確認する。
「はぁ・・・はぁ・・・。」
「ど・・・どうしたの守くん!?後ろに抱えてるのって・・・チビ?」
「はぁはぁはぁ・・・」
口から吐き出される息が喋ることを許してくれない。
仕方無くレイナの質問を無回答のまま歩みだし、ベットへランの体を横にしようした。
しかし、ここで重要なことに気が付く。現在のランの装着している衣服のことだ。
さすがに水滴も滴るほどに水が染み込んでいる服を着せたままにはしておけない。
「・・・・・・・」
一度カーペットのひかれた地べたへとランを背中から降ろし、何も言わずにランの学生服のボタンへと指を絡める。
服を脱がされようとしている少女は粗い息をあげ、すでに考える力は無いようでぐったりと体の力が抜け落ちていた。
「ちょ!何やってんの守くん!」
それを見ていたレイナが守の腕を女性の力とは思えないような力で押さえつけて来た。
しかし、まったく動揺を見せることなく、顔をレイナに向けようともしない。
「はぁ・・・はぁ・・・。すみません・・・。着替えさせないと・・・」
レイナに押さえつけられているにも関わらずに上着のボタンを外そうとする。
今、守の脳内タンスには『目の前の少女を着替えさせベットに寝かす』と言う項目だけしか入っていないようだ。つまり、一言で言うと周りが見えなくなっているのである。
「ああもう!わかったから少し落ち着きなさいって!チビは私が着替えさせるから!」
そう叫び、守の片手を両手で掴むと思い切り自分の方向へと引いたレイナ。
それによりようやく動作を一時停止した守は少しばかりの落ち着きを取り戻した。
「あ・・・すみません。慌ててしまっていて・・・」
「あーわかったわかった!チビは私が責任もって着替えさせるから外出てて!」
そう語ると、素早い動きでランと守の間へと体を滑り込ませ、一度守の方向へと顔をやり手首から上だけを前に後にと動かし『出て行っててくれ』というような動作をした。
半ば追い出されるように部屋を後にし、ドアに背を向け自分の心臓の高鳴る鼓動だけを確認した。