学校であったこと
階段を上がって、私はそうしていいと教えられている通り、その家のチャイムを鳴らして返事を待たずに中に入った。毎週水曜日に私は学校の帰りにここで書道を習っている。普段は主婦をやっているおばさんが先生で、近所の子供たちが通ってくる。団地の一室で行われる教室なので生徒はそう多くはない。出席も管理されているわけでもないので、学校が長引いたりさぼりだったりで時々来ない子だっている。私も親に半ば無理やり通わされていたので最初はさぼることもあったが、中学生の曜子ちゃんと仲良くなって、教室の帰りにお互いの家に寄るようになってから、曜子ちゃんとお話しして家で遊ぶためにちゃんとここに毎週来るようになったのだ。曜子ちゃんは私の二つ年上で、丸っこい顔がかわいかった。ニキビが出来始めたことを気にしているようだけれど私はそれも含めてかわいらしいと思う。私は近づきつつある中学校の生活について曜子ちゃんからいろんな話を聞かせてもらった。
その日私達は曜子ちゃんちにお泊りに行く約束を前からしていて、私は家で着替えの準備をしてから教室へ向かったのだが、着いた時にはまだ小学校低学年の子が二人いるだけだった。今日は硬筆だから筆や墨汁を用意する必要はない。だけど硬筆というのは要するに鉛筆でひたすら文字を書くことだからとても退屈だ。授業でノートをとっているのと変わらない。加えて私はもともと字がへたくそで、ここに通ってはいるもののあんまりうまくなっていない。曜子ちゃんは毛筆でも硬筆でもすごく綺麗な字を書く。私は曜子ちゃんを待ちわびて、ただ一文字、一文字、用紙に綴った。
曜子ちゃんが来たのはいつもより遅い時間だった。曜子ちゃんは変な格好をしていた。上はいつものセーラー服にカーディガンを羽織っていたのだけど、下半身はスカートではなく体操服姿だった。ソックスも履いてなくてスニーカーを直履きしている。股下から足首まで、曜子ちゃんの白くてほっそりした足をじろじろ見ていたら、先生に挨拶を終えた曜子ちゃんがこっちを見た。
「どうしたの?」
「うん…これね…学校でちょっと汚しちゃって」
その日の曜子ちゃんは無口でほとんど喋らなかった。
やっぱり制服を汚して落ち込んでるのかな、何があったんだろう。
後から来た子に同じように聞かれて、曜子ちゃんは同じように「汚してしまった」と答えていた。
もうそろそろ終わりかという頃はみんなとお喋りはしたけれど、曜子ちゃんは少し恥ずかしそうな、悲しそうな顔をしていた。
曜子ちゃんといつものように盛り上がることもなく教室を出た。このまま曜子ちゃんの家に私も向かっていいのかちょっと迷ったけれど、楽しみにしていたことでもあるし私は曜子ちゃんについていった。
「今日ね」
曜子ちゃんがふいに口を開いた。
「学校で…おもらししちゃった」
「えっ?」
私は何か聞き間違えたかと思った。
「保健室で着替えてきた」
曜子ちゃんは力なく笑って私にビニール袋を見せた。スカートが入っているのか、重そうに見える。
「今日の最後の授業中にね、我慢できなくなっちゃって、それで…」
「もらしちゃった、の?」
「うん…」
曜子ちゃんを見ると目に涙をためて、耳は真っ赤になっていた。
それ以上何も聞けなかった。私は曜子ちゃんの少し後ろを歩いた。体操服から伸びる足。緊張した時みたいに胸がドキドキして、頭がぐらぐらした。
曜子ちゃんが学校でおもらし…。中学生の曜子ちゃんがおもらししちゃったんだ…。
私だって小さい頃に失敗をしてしまったことはある。学校でおもらしをしてしまったクラスメイトだっていたけれど、でもそれはやっぱり低学年の時だ。中学生がおもらしをしてしまうなんて、ほんとにあるんだろうか。曜子ちゃんはいつもより少し早足で歩いている。すれ違う人も時々いて、そのたびに曜子ちゃんはセーラー服の裾をぎゅっと引っ張って、下を向いてさらに早足になった。
「ごめんね遅れて」曜子ちゃんの家が近付いて、小さな声で曜子ちゃんが言った。
「後片付けとか、着替えとかしてたから」
「いいよ」私も小さな声でそれだけ言った。
曜子ちゃんのお母さんはキッチンで洗い物をしていた。
「ただいま」「おじゃまします」
私達の声に首だけ振り返った曜子ちゃんのお母さんは「おかえりー」と言った後、曜子ちゃんの格好を見て不思議そうな顔をした。曜子ちゃんはお母さんに近づいていく。肩が震えているのが見えた。
「学校でね…おもらししてね…我慢したんだけど…」
そこまで言うと曜子ちゃんは泣きだしてしまった。
何かを喋ろうとしているのだけど、それは泣き声になってしまって分からなかった。
曜子ちゃんのお母さんはエプロンで手を拭いてから、ゆっくりと曜子ちゃんを抱き締めた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
曜子ちゃんは絞り出すような声でそう言うと、お母さんの胸に顔をうずめて小さな子みたいにワンワンと泣いた。
「あー、恥ずかしいな!あんなに泣いたのほんとちっちゃい頃だよ」
曜子ちゃんが部屋でスカートを干しながら言う。
「赤ちゃんみたいでかわいかったよ」
私がちょっと意地悪に言うと「やめてよ、もう」と頭を軽くはたかれた。
「お風呂からもさ…」
「え?なに?」
曜子ちゃんはあの後、長い時間お風呂に入っていた。
その間に曜子ちゃんのお母さんがスカートと下着とソックスを洗濯したらしい。
「泣いてるのすごい聞こえたよ」
「うそっ、やだもう死んじゃいたい」
曜子ちゃんが赤くした顔を手で覆う。
お風呂から曜子ちゃんの泣き声が聞こえて私はすごく心配した。その後にぴたっと静かになって私はますます心配したのだけど、曜子ちゃんのお母さんは「だいじょうぶよ」とでもいうような表情で私に頬笑みかけた。お風呂から出てきた曜子ちゃんはさっぱりとした顔をしていて、二人で部屋に入ったとたんに今日の事を一気に話し始めたのだ。
「休み時間にトイレに行こうと思ったら部活の先輩に話かけられてさ」
「すごく我慢したんだよ、ほんとお腹いたくなるぐらい」
「やっぱり言えないよね、手をあげてお手洗い行っていいですか、なんて」
「パンツの中に出ちゃって、最初はちょっとだけだったんだけど」
「最後には一気に出てきちゃって、パンツあったかくなって、びちょびちょになって」
「先生が気づくまで十分ぐらいそのままだった」
「もうすごく恥ずかしくて、頭がぼおってなってた」
「保健室で泣いちゃって、保健の先生に脱がしてもらって」
「私だけスカート履いてなくて変な格好で」
曜子ちゃんは今日行った遠足の話を楽しそうにするように、自分の学校でのおもらしについて時には同じことを繰り返し、お芝居みたいな大袈裟な身振り手振りで感情を表して語った。私は同情したり、からかったり、時には無言でうんうんと頷くだけだったり、ずっと話を聞いていた。話も終わってもう寝なさいと言われた時、曜子ちゃんはぼおっと疲れたような、満足したような目をしていた。
曜子ちゃんと布団を並べて電気を消して、次は私の家に泊ろうとかお話しして、そろそろ寝ようかという時に曜子ちゃんが「あーあ」と言った。
「学校、行けるかなあ。がんばらないとなあ」
私は曜子ちゃんの布団に入って、曜子ちゃんのお母さんがそうしたように、曜子ちゃんを抱きしめて頭を撫でた。曜子ちゃんは静かに泣いていた。寝息が聞こえてくるまで、私はずっとそのままでいた。
これは最近書きましたb